その後、彼女は再び昏睡状態に陥った。約一年前の昏睡から覚める以前の状態に逆戻りしてしまったのだ。陽太は足繫く病院に通ったが、久美子の強固な態度を溶解させることは叶わず、今では病室に入れて貰えもることも無い。


 ─ うちの娘には二度と逢わないで。

 ─ これ以上、私たちを苦しめないで。

 ─ 貴方さえいなければ。

 ─ 全部、貴方のせい。


 陽太に投げ付けられるそれら言葉の暴力は全て、再び娘を失いつつあるという恐怖の裏返しとして、久美子の口から発せられていることは感じていた。誰かを悪者にしなければ、彼女は正気を保っていられないのだ。実の娘に対し、何もしてあげることの出来ない自分に苛立ち、その矛先を陽太に向けるしかないのだろう。こうやって陽太の足は徐々に病院から遠ざかり、病室の前で門前払いを受けることも無く半年が過ぎようとしていた。


 凜のいない教室。後ろの席から聞こえた彼女の息遣い。ゴシゴシと消しゴムを擦り付ける音も、教科書のページをめくる音も聞こえない。シャーペンの裏で背中を突いてくることも無い。それらを全部、ただの想い出として片付けてしまえだって? 冗談じゃない。そんなこと出来るわけがない。そんなことをしたら、きっと自分は半身を失った躯のようになってしまうに違いない。寒くて寒くて凍えてしまうに決まっているんだ。

 でも、今の自分に何が出来ると言うのだ? 何も出来やしないじゃないか。結局、久美子が葵に対して何もしてあげられないのと同様に、自分が凜に対してしてあげられることなんて、何一つ無いのだから。

 陽太はそんな自問自答を繰り返しながら、凜を忘れてしまうことに一人抗っているのだった。彼女を忘れ去ってしまう社会を、人々を、そして自分を受け入れることを、頑なに拒んでいるのだった。


 そんな苦悶に苛まれながら、生気を失った学校生活を惰性的に続けていたある日の昼休み。陽太の胸ポケットでスマホが震えた。気怠そうにそれを取り出し、ディスプレイの表示を見た陽太は息を飲む。凛からだった。

 慌てて通話アプリを立ち上げる。

 「凜! 凜なのかっ!?」

 電話の相手は、少しの躊躇の後に静かに話し始めた。

 「水野君?」久美子だった。

 「・・・・・・」

 「お久し振りね、水野君」

 落胆に言葉を失いそうになりながらも、陽太はようやく返事をした。

 「は、はい・・・ ご無沙汰してます」

 「・・・」

 久美子は言い淀んだ。陽太がご無沙汰している理由は他でもない、久美子自身なのだから。陽太に向けて放った罵声の数々を思い出しているのかもしれない。今更電話など掛けられる立場ではないと、自分自身の行いを恥じているに違いない。陽太は仕方なく、自分から話を進めた。

 「何でしょうか? 僕はもう彼女には半年以上も逢っていませんが。今更何か?」

 そんなつもりは無いのに、どうしても辛辣な口調になってしまうのを、陽太は抑えることが出来なかった。久美子も、こういった反応を予期していたのだろう。彼女が困って押し黙るような様子が、スマホを通して伝わってくる。

 そんな自分を、なんて心の狭い男なのだろうと思い、自己嫌悪に陥った。一つ息を吐いて、自分を落ち着かせる。

 「あのぉ、何か御用でしょうか? これ、彼女のスマホからですよね?」

 一転して陽太から柔和な言葉が聞けてホッとしたのか、久美子は慌てて話し出す。

 「あっ、えぇ。そうなの。あの娘のスマホなの」

 「・・・」

 陽太は沈黙によって話の先を促した。それは久美子にも伝わったようだ。

 「あ、あの・・・ もし良かったらなんだけど・・・ 一度、病院に来て貰えないかしら?」



 病院のロビーで陽太を出迎えた久美子は「久し振りね」と恥ずかしそうに声をかけると、そのまま彼の先を歩き出した。陽太は黙ってそれに付き従う。久美子は陽太をエレベーターに誘い、最上階のボタンを押した。


 (病室じゃない? やっぱり凜には逢わせてくれないのか。だったら何故呼びつけたりしたのだろう?)


 陽太がそんなことを考えているうちに、エレベーターは「ポーン」という電子音と共に停止し、その扉が開いた。そこは、職員や患者、或いはお見舞いの人たちが食事を採るカフェテリアだ。


 その窓際の席に陽太を座らせた久美子は、自分は座りもせず「飲み物、取ってくるわ」と言って直ぐに立ち去った。その間、最上階からの展望をぼんやりと眺めていた陽太は、いつしか凜と一緒に行った映画館や公園を探している自分に気付くのだった。やはり想い出の箱に詰め込んで、押し入れに仕舞い込むなんて無理なのだ。陽太はそう痛感した。

 「ごめんなさい、遅くなって。炭酸は苦手だったわね?」

 トレイにコーヒーカップを二つ乗せた久美子が戻ってきて、その一つを陽太の前に置いた。そして残りの一つを向かいの席に置くと、トレイは隣の椅子の背もたれに立てかけて、自分は陽太の正面の席に着く。確か、初めて凜の家に招き入れて貰った時も、同じような感じだったことを思い出した。

 「ありがとうございます」ペコリと頭を下げて、陽太はカップを手に取った。

 その仕草を見て、微かな笑いを湛えた表情で久美子は話し出した。自分はコーヒーに手を付けるつもりは無いようだ。

 「ありがとう、来てくれて。今更、どの面下げて言ってるんだって思ってるでしょうけど」

 「い、いえ」視線をテーブルに落としたまま、陽太はそう返した。


 そして沈黙が流れた。陽太がテーブルを見つめ続けている間、久美子は窓の外の景色に見入っているようだった。

 しかし本当は、彼女の目に景色など入り込んではいなかった。陽太にどう話すべきなのか、どう話したらいいのか、そして話してもいいものだろうか。その決心が付きかねて、迷っていたのだった。その小さな決断を下すために、久美子にはほんの少しの時間が必要だったのだ。

 「私は母親として・・・」そして彼女は遂に、その重い口を開いた。「凜に何もしてあげられなかった」

 陽太が視線を上げて久美子を見た。でも彼女は、相変わらず窓の外に視線を投げかけたままだ。

 「あの時も・・・ そして今度も」

 ほんの少し、久美子の表情が歪んだように見えた。陽太は黙って彼女の横顔を見つめる。

 「でも貴方だけは凜を受け止めてくれた・・・ 何も無かったあの娘の人生に、喜びを分け与えてくれたのは貴方だけ・・・ ありがとう。本当にありがとう」

 窓から視線を戻し、陽太を見据えた彼女の瞳には涙が溢れていた。

 「私は凜が憎かったわけでも、気味悪かったわけでもないの。ただ、葵を失うことが怖かった。だから凜を受け入れることが出来なかった・・・ どうしても出来なかった・・・」

 片手で口許を押さえ、嗚咽を噛み殺しながら頭を下げる久美子に陽太が言う。

 「お母さん、凜の人生に何も無かったなんて言わないで下さい。彼女は葵さんの陰に隠れながらも、ずっと共に生きてきたんです。葵さんと同じだけ笑ったり泣いたり、怒ったり悩んだりしてきたんです。葵さんが見聞きし、感じたことは全て、凜も共有してきたんです。彼女が生きてきた月日は、葵さんと同じくらい輝いていたに違いないんです」

 陽太はグッと歯を食いしばった。そうしないと、自分まで泣き出してしまいそうだったからだ。

 「だから・・・ 凜を哀れんだりしないで下さい」

 「そうね。そうだったわね、ごめんなさい」

 久美子はハンカチで目頭を押さえながら、何度も頷きながら言った。


 そして一しきり泣いて赤くなった目で陽太を見ると、洟を啜り上げるようにしながら言った。

 「もしよかったら、娘に逢ってやってくれるかしら?」

 「えっ、いいんですか?」

 「えぇ、お願いします」そう言って久美子は、再び頭を下げた。「あの娘、ずっと昏睡してたけど、三日前にやっと目覚めたのよ」

 「本当ですかっ!?」

 陽太が体を乗り出した拍子に、飲みかけのコーヒーカップの中に茶色い波が立った。

 しかし陽太は直ぐに思案顔に戻り、乗り出した身体を引く。

 「目覚めたのは・・・ 凜ですか? それとも葵さん?」

 「葵よ」久美子は決意の籠った表情で答えた。

 「じゃぁ、僕に逢わせたいのは、葵さんなんですね?」

 「いいえ、凜に逢ってあげて。凛を貴方に逢わせてあげたいの。せめてもの罪滅ぼしね・・・」

 久美子の表情は、再び打ち沈む。

 「もう一度、確認させて貰ってもいいですか?」

 「?」

 「お母さんは・・・」陽太の表情が歪んだ。叱られて泣き出す寸前の子供のように。「凜のことを自分の娘だと認めてくれますか?」

 久美子は力の籠った目で陽太を見つめた。

 「えぇ、あの娘も私の大切な娘よ」

 今度は陽太の目から涙が溢れ出した。

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