「か・・・ 帰って来るって・・・ どういう意味だ?」

 「私、山崎先生には感謝してるんだぁ。私のこと、見て見ぬ振りしてくれてたでしょ? だから学校にも行けたし、友達もできた。こうして陽太ともいっぱいお話しできたし、ギュゥって抱き締めても貰えたし・・・ それからキスも・・・ クスクス。やだぁ、想い出しただけで赤面しちゃう。アハハハ」

 陽太は両腕に力を込めて、少し乱暴に凜の身体を揺すった。

 「そんなことはどうでもいいんだよ! 葵が帰ってくるって、どういう意味なんだよっ!?」

 凜は陽太を見つめ返しながら、肩を掴む彼の手に自分の手を添えた。その目はどこか寂しげだ。

 「そんなことだなんて言わないで。私にはすっごく大切なことなんだから」

 そんな風に言われたら、引き下がるしかないじゃないか。視線を落とす凜に、陽太は気まずそうに「ゴメン」と漏らした。

 「ねぇ。夏休みに見に行った映画、覚えてる?」

 また直ぐに、瞳をキラキラさせる凜。猫のように表情をコロコロと変える。彼女の感情表現が、じっと一か所にとどまり続けることは無いのだ。

 「???」

 何故、今更そんな話を持ち出すのか? 陽太には凜の真意が測りかねたが、きっと彼女にとって、今その話をすることが何よりも大事なことなのだろう。そう思った陽太は、一旦、心の中のモヤモヤを横に置いて、凜の話に付き合ってやることにしたのだった。

 今までだってそうだった。いつだって主導権は凜が握っている。むしろ彼女に振り回されている自分を、どこかで快く感じていたのだ。ベッド脇に立っていた陽太は、今度は凜の足元のスペースに腰を下ろした。

 「もちろん覚えてるよ。凜が見たいって言ったやつだろ?」

 「えへへ~。あれ、つまんなかったね。ゴメンね」

 陽太は思わずクスリと笑った。

 「ううん、全然大丈夫だよ。だって俺、後半は寝てたからさ」

 「あぁーっ! 酷ーいっ!」

 凜は陽太の右肩にパンチをお見舞いした。

 「あははは。ごめんごめん。だって俺、ミュージカルとかって苦手なんだよ」

 「クスクス・・・」凜も可笑しそうに笑いを堪える。「でも重要なのは、あの後なんだ」

 「あの後?」

 陽太にはそれが何を意味するものか解かっていたが、あえて気付かない振りをする。

 「あの後、帰る時に陽太が私を路地に連れ込んだでしょ?」

 「そうだっけ?」

 陽太がとぼけていることは凜も承知しているようだ。

 「そこで陽太が私を壁に押し付けて・・・」

 「あぁ~。あれね」

 「無理矢理・・・」

 「無理矢理ってことはないだろ? お互い、合意の上じゃないか」

 陽太が唇を尖らせると、凜が笑い出した。

 「アハハハ・・・ あのキス、素敵だった」

 照れて頭をかく陽太に、凜が言う。

 「ねぇ。あんな風にもう一度キスして」

 じっと見つめてくる凜に、陽太は少しぎこちなく近づくと、ベッドに腰かけたまま彼女を抱き寄せ、そして優しく唇を重ねた。陽太の背中に回った凜の両腕に力が籠るのを感じ、陽太も強く彼女を抱き締めた。


 そっと唇を離した凜が、間近で陽太を見上げながら言う。

 「あの時はもっと乱暴だったよ」

 「馬鹿。入院してる奴に、あんな風に出来るわけないだろ」

 「クスクス・・・」

 陽太の胸に頭を預けながら凜が言った。

 「お姉ちゃんの脳が活動を再開しそうなの」

 「・・・」陽太は息を飲んだ。

 「私が代わりに動いて、色んな刺激を与えたからかな? お姉ちゃんの脳が徐々に覚醒してきてるんだ。だから時々、支配脳が入れ替わって発作みたいな症状が現れてるの」


 (だから発作時は、記憶喪失のような症状だったのか? 葵の脳は退院後の成り行きを、いや交通事故後のことは、まだ何も知らないんだ)


 凜の両肩に腕を添え、身体を引き離しながら陽太が聞き返す。

 「もしそうなったら・・・ 葵が戻ってきたら、凜はどうなるんだ?」

 「私はきっと・・・」悲しそうな顔だ。「また葵の意識に覆い隠されて、今迄みたいにお話したりすることは出来なくなっちゃうと思う」

 予想された最悪のシナリオだった。凜が自分の手の届かない所へ行ってしまう。だがそれが最悪たる所以ではない。最大の悲劇は、再び凜が脳だけの存在となってしまうことだ。そしてそのまま生き続けねばならないことなのだ。陽太は凜の肩に添えていた腕を落とし、悔しそうに床を見つめた。

 葵を通して見ることも聞くこともできるのに、自分の意志で話すことも行動することもできないのだ。そんな日々を重ね、十七年越しに自分の身体を獲得した凜が再び身体を失い、意識だけの存在となってしまう。それ以上の苦痛など、有る筈がない。どうして凜だけが、そんな想いをしなければならないのか? それを拷問と言わずして何と言うのだ?

 しかし、陽太のそんな想いを感じ取ったのか、凜は慰めるように言うのだった。

 「でも決して眠るわけじゃないんだよ。葵が見ている物は私にも見えるよ。葵が感じることは、私も感じることが出来るよ。陽太がずっと葵の傍に居てくれれば・・・ 私はずっと貴方を感じていられるんだよ」


 (だからそれが辛いんだよ、俺にとっては!)


 「そ、それじゃ・・・ それじゃぁ俺が凛を感じることが出来ないじゃないかっ! そんなの有りかよっ! そんなことって・・・」

 もう思考が停止しそうで、陽太の口からは幼稚な言葉しか出てこない。思慮や分別の欠片も無い、感情だけの放出だ。その、こみ上げる感情によって言葉を失う陽太に、凜は言う。

 「私、こうなることは予期してたんだ」

 零れそうになる涙を見せたくなくて、陽太は顔を背けた。

 「元々、陽太のことを好きなのは、葵だったの」

 意外な告白を聞かされ、陽太は目に溜まる涙を拭うことも忘れて凜を見た。

 「葵の気持ちを知っていた私は、姉に代わって陽太に近付いたの。って言っても、葵は自分の中に私が居ることに気付いていないんだけどね。だから発作で一時的に目覚めた時、いきなり陽太が目の前にいて葵は混乱したんだと思う」

 「じゃぁ凜は・・・ 俺のことなんか好きじゃなかったってこと?」

 とにかく彼女の言う話を受け入れたくなくて、こんな稚拙な会話しか出来なくなっているのだ。

 「そんなわけないじゃないっ! 馬鹿っ!」

 今は凜の瞳も溢れ出さんばかりの涙で一杯だ。陽太は激しく波打つ自分の感情を御し切れなくて、どうしたら良いのか判らず、再び凜の身体を抱き締めた。

 「俺は・・・ 子供みたいって言われても構わないっ! 俺は凛と一緒に居たいんだ! 俺が好きなのは凜なんだ。お姉さんじゃない!」

 もう凜の頬を伝う涙は止まらない。陽太の背中に両腕を回し、彼の胸に顔を埋めながら言う。

 「私はもう直ぐ、陽太の手の届かない所に行っちゃうの。でも葵を通して、私はいつだって貴方に触れられる。陽太が葵をこうして抱いてくれれば、私も陽太に抱かれている。陽太のキスを私も受け止める」

 「・・・・・・」陽太は歪めた顔を、凜の頭に押し付けた。

 「私からキスを返すことは出来ないけれど、全身全霊であなたのキスを受け止めるから。だから私が消えても、いっぱいキスをして。いっぱいいっぱいキスをして・・・ お願い」

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