第七章:陽太と凜
1
学校を抜け出した陽太は、立ち漕ぎの姿勢で自転車を走らせていた。授業中、LINEで凜からのメッセージが届いたからだ。
│昨日、病院に来てくれてたんだっ│
│てね? 先生が言ってた。 │
│ごめん、お薬で眠ってて気付かな│
│かったよ~。 │
│いいんだよ、そんなこと。 │
│それより、体は大丈夫なのか?│
│全然平気! │
│でも、少し入院が長引きそうなん│
│だ。検査入院だって。 │
│ショック・・・ │
│ごめん。今、授業中だよね? │
│お母さんは来てるの?│
│ううん、いないよ。 │
│入院の準備するとかっ言って、さ│
│っき家に戻ってった。 │
│今から行くから!│
│えっ? 今から来るの?│
│学校は? │
凜からの最後のメッセージが「既読」になることは無かった。授業中にもかかわらず、教室を飛び出して来たためだ。陽太の駆る自転車は街を疾走し、風景が風となって後ろに流れる。凜と共に歩いた道のそこかしこに残る想い出を貫いて、ただ我武者羅にペダルを蹴る。
あの後、陽太は身内ではないという理由から、山崎の部屋から追い出されてしまったのだ。久美子と山崎が、陽太のいない席でどのような話をしたのかは判らない。しかし、それがどのような内容にしろ、凜にとって有益な話であったとは到底思えない。
山崎は中立的な立場から、或いは医師としての良心に基づいた意見を持っていてくれそうな気がするが、久美子に関して言えば、凜に対してあからさまな敵意を抱いていることは明白だ。いくら医者とはいえ、親族の意思を無視してまで己の意見を押し通すことは出来ない。そう考えた場合、凜を一人の人間として扱うべきか否かという、曖昧模糊として如何様にでも解釈可能な ──あるいは解釈不可能な── 倫理上の問題にすり替えることで、結論を親族に丸投げしてしまう可能性も否定できない。陽太は山崎に対し、そのような
そんな予感に似た憂苦に圧し潰されそうな陽太は、心臓が口から飛び出るのではないと思える程の勢いで自転車を漕ぎ続け、そして同時に、そのペダルを蹴る脚の力を弱めることがどうしても出来ないのだった。
中央にタクシー乗り場を備えたロータリーを迂回し、大学病院の外来者用駐輪場に自転車を放り込んだ陽太は、自分の自転車が起点となって将棋倒しが始まったことを認めた。しかし彼はそれを無視して正面玄関へと駆け出した。モタモタと動きの遅い自動ドアにイライラしながら足踏みを繰り返し、そして遂に開き始めたドアの隙間を強引に抜けて受付ロビーへと駆け込んだ。
ところが、カウンターの前を走り過ぎた所で警備員らしき男にジロリと睨まれてしまった。病院内を走ってもよいのは、急患に対応する医者と医療スタッフだけだ。慌てて歩調を緩める陽太。お行儀良く、ただし急ぎ足でスタスタと警備員の前を通り過ぎ、そのままエレベーターの角を曲がって死角に入るや否や、再び全力で走り出した。
汗だくになりながら、階段を二段飛びで駆け上る。乳酸の溜まり過ぎた太腿に鞭を打つ。陽太の必死の形相を見た者たちが怪訝そうな視線を送るのも気にせず、彼は一気に四階の一般入院患者用フロアまで登り切った。お陰で息が上がり過ぎ、階段の手摺に左手を添えたまま、暫くその場から動けなかった程だ。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げていた。彼の心臓は過剰な負荷に喘ぎ、脚の筋肉はもう彼の思い通りには動いてくれそうにもない。体育の授業の徒競走ですら、ここまで自分を葵込んだことは無かった。
しかし、自分の身体を意識したことが引き金となって、内臓すら持たないと言われた凜に想いが至る。彼の身体にしつこく纏わり付いていた筈の熱が、潮が引くように霧散した。身体は熱いのに、頭から氷水をかけられた気分だ。
(生まれて初めて
清掃の行き届いたリノリウムの清潔な廊下を進む。すれ違う看護師が軽く会釈をするので、陽太も会釈を返す。呼吸を整えるためにわざとゆっくりと足を運んだのに、凜の病室にはあっという間に着いてしまった。まだ膝がガクガクしている。陽太は一つ大きな深呼吸をすると、静かにドアをノックした。
コンコン・・・。
「はい」
くぐもった声がドア越しに聞こえた。聞き慣れた凜の声だ。他の誰でもない。それは紛れもなく凜の声だった。
陽太がゆっくりと病室の引き戸を開けると、ベッドの上で身体を起こした凜がこちらを見ていた。隙間から顔を覗かせた陽太を確認すると、凜の顔はパッと花が咲いたように輝いた。
「来たな、サボりの常習犯」
おどけた言葉で笑う凜を見た途端、陽太は抑えようのない衝動にかられ、部屋の中に飛び込んだ。そしてベッドに駆け寄ると、目を丸くする凜の身体をギュっと抱きしめるのだった。
(今、この腕の中に居るのは凜だ。この細くて柔らかい身体は葵のものじゃなく、凜の身体なんだ。こうして抱き締められた時の感覚も、感触も、匂いも音も、俺の背後に広がる風景も、その全てを見て聞いて感じているのは凜なんだ)
そう考えると、彼女と共に過ごす一瞬一瞬がとてつもなく貴重に思えた。自分にとっては何でもないことでも、凜にとってはかけがえの無い時間なのだ。陽太は自分の全身全霊をかけて、あらゆる刺激を凜の身体に分け与えてあげたいという衝動に駆られるのだった。
しかし、胸の中でモゴモゴと話す凜の声によって、陽太は現実に引き戻された。
「痛いよ、陽太・・・ どうしたの?」
ベッドで身体を起こした姿勢のまま無理やり抱き締めたために、凜の身体は捻じれる様な感じになって痛がったのだった。陽太は彼女の身体を抱き寄せていた両腕を解き、自由にしてやりながら言う。
「逃げよう!」
「えっ、逃げる? どうして? 何処へ? 何から逃げるの?」
陽太は両腕を凜の肩に添え、思い切って言った。
「お母さんは君を殺す気だ!」
「・・・・・・」
凜は陽太の顔をじっと見つめた。その間、彼女の瞳には様々なものが浮かび上がっては、瞬く間に消えてゆくのが陽太には判った。その様子を見た陽太は、凜が全てを知っていることを確信したのだった。自分という存在も、自分の置かれている状況も、彼女は全部飲み下したうえでここに居るのだ。
「出来ないよ。やっぱりお母さんだもん」
「殺されてもいいのか!? まるで悪性腫瘍か何かのように切り取られて、医療廃棄物として処分されるんだぞ!」
「陽太・・・」
「俺はそんなことは認めない。絶対に許さない!」
熱くなって我を忘れた陽太の気を引くために、凜は彼の両腕に手を添えて大きな声を出した。
「陽太! 聞いて!」
「・・・」
彼女の口調は、再び物静かな様子に戻っていた。
「それより陽太、大事な話が有るんだ。私には判るんだよ」
「何が? 何が判るんだ?」
「もう直ぐ、葵が帰って来るよ」
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