十七年前・・・


 妊娠初期の久美子は、経過観察のために産婦人科を訪れていた。長い間、子宝に恵まれることが無かった久美子と夫が病院の門をくぐったのは一年前のことだ。精密検査の結果、二人の生殖機能に問題は見当たらず、不妊治療というよりもむしろ、妊娠指導といった形での通院を続けた結果、ついに懐妊が発覚したのが二か月前だ。

 超音波でお腹の子の成長を確認しながら、産科の医師が言う。

 「おぉ、これは双子ですね。小さな胚が二つ、ハッキリと見えますよ、渡部さん」

 「まぁ、双子ですって? 何処ですか、先生?」

 医師はエコー画像の映し出されたモニターを、マウスのポインタで指し示しながら言った。

 「ほら、ここに一つ。そしてもう一つがここ」

 「はぁ・・・ なんて可愛らしいのかしら・・・」

 その小さな命の影を見ながら、久美子は感動のあまり喉を詰まらせたのだった。


 なかなか妊娠できなかった久美子は、双子と聞いて至福の時を過ごしていた。出産準に備え、事前に揃えるべきあらゆる物が、双子となれば話が変わってくる。ベビーショップで買うウェアも然り。ベビーカーやベビーベッドだってそうだ。なんでも二人分、もしくは二人用が必要となる。それらを買い揃えたり、あるいは買い替えたりすることは、ある意味、想定を超えた慌ただしさと気苦労をもたらしたが、待ち焦がれていた妊娠という幸福を享受していた久美子にとっては、そういった苦労はむしろ喜びの対象であった。双子なので、その喜びも二倍だ。

 「まだ性別までは判らないだろ?」とは、夫である雅人の言い草である。

 久美子が持ち帰ってきた、エコー画像のハードコピーを見ながら雅人は言った。そこに映る影もまだあやふやな時期なのに、女の子用のベビー服を二着買いこんできた久美子に苦言を呈した形だ。しかし久美子は、夫の小言など意に介す様子も無い。

 「いいえ、可愛らしい女の子の双子に決まってます。もう名前も考えてあるのよ」

 まぁ、ベビー服など男物も女物も有って無いようなものだから、目くじらを立てる程のことでもないか。そう考えた雅人は、それ以上の文句を封印した。それよりも、久美子の幸せそうな笑顔を見ている方が、こちらも楽しくていい。彼にとっても、苦労の末に授かった初めての子供が双子と聞いて、顔に出さずとも内心はワクワク、ドキドキが止まらなかったのだから。彼も久美子と同様、可愛い女の子ならいいのにと思っていたが、それを態度に表すことはしていなかった。

 「随分と気が早いな。で、なんて名前なんだい?」

 雅人にとってもそうだが、ずっと子供を欲しがっていた久美子にとっては待望の子供と言える。従って、その命名権は久美子に譲ろう。実家の両親が、やれ画数が良いだの悪いだのと下らないことを言ってきそうだが、そんな外野の声は俺が跳ね返してやる。だからそのお腹の中の子は、お前が名付ければいい。そう考えていた雅人が平静さを装って尋ねると、久美子がすかさず答えた。

 「葵と凛よ」



 しかし、久美子を包み込んでいた幸せは、あっけなく潰えてしまった。その後の経過観察の折に、双子のうちの片方が消えてしまっていることが確認されたのだ。産科医は「稀に有ることなんです」と、肩を落とす久美子を慰めた。雅人も彼女の肩を抱きながら言った。自分も一緒になって落ち込んでいたら、救いが無いからだ。

 「一人は元気に育っているじゃないか。その子に二人分の愛情を注ごう。母親がそんなに落ち込んでいたら、お腹の子にも良くないぞ」

 雅人の言うことは理解できる。しかしどうしても割り切ることが出来ず、久美子は買い揃えてしまった双子用のグッズを前に涙を流すのだった。

 この生命を司る冷酷な摂理を目の当たりにし、彼女は随分と長い間、落ち込んだものだったが、自然界の確率的な淘汰としてそれを受け入れることで気持ちを切り替え、そしてそれを乗り越えた。時が経つに従い一時の悲しみも次第に癒え、いつしか久美子は、再び出産を待ちわびる幸せに身を任せるようになっていった。


 こうして正常に発育して生まれた子は、当初の予定通り葵と名付けられ、凛は生まれてくることが出来なかったのだ。凛と名付けられるべき小さな命が ──たとえ短命であったとしても── この世に存在したという事実すら、誰の記憶からも抹消されていた筈だった。

 葵が昏睡から目覚めるまでは。


---------------


 「まさかっ! 渡部さん、もう一度だけ葵さんのCTを撮らせて頂けませんか?」

 それまで、覇気らしきものは全て失っていたかに思えた山崎が、突然、力の籠った眼差しで久美子を見据えた。その変貌の意味が彼女には解からず、思わず口ごもる。

 「えっ、CTだったら、これまでにも何度か・・・」

 「今までは頭部しか見ていませんでした。今度は全身です」

 ガシリと久美子の肩に腕を置く山崎に、今度は陽太が聞いた。

 「先生。全身を調べて何が解かるんですか?」

 そのままの姿勢で、顔だけを陽太に向けた山崎が言った。その言葉には若干の戸惑いのようなものが感じられたが、その背後には決意のようなものが垣間見れる口調だった。

 「分からない。何かが見つかるかもしれないし、何も見つからないかもしれない。ただ、もし今、この検査をしなかったら、私はもう医師を続けてゆくことは出来ないに違いない」


 鎮静剤で眠る葵を台に横たえ、CTスキャンが始まった。陽太と久美子、そして山崎は隣室のモニターを食い入るように覗き込みながら、装置から送られてくる葵の断層画像を見つめていた。と言っても医師の山崎以外は、その画像の意味するところを理解できるはずもなく、難解な抽象画のような濃淡画像をただ黙って見つめるだけだ。

 CTのオペレーターの男に細かな指示を出す山崎。彼が「そう、そこ。もう少し」などと小声で言うと、男は「こうですか?」などと陽太たちには解からない会話を繰り広げた。

 しかしある時、ボールペンの後ろを神経質に齧りながら見入っていた山崎の緊張感が一気に上昇した。それが陽太たちにもビリビリと伝わってくる。オペレーターの男も「先生。これは・・・」と言葉を濁した。山崎たちが何かを見つけ出したことは明白だった。

 「先生、どうかしましたか?」

 気遣わし気な久美子を制して、山崎は言った。

 「ちょっと待って下さい。一応、全身をスキャンしますから。全て終わってからお話しします」

 お預け・・・を食らった陽太と久美子は、互いに顔を見合わせて押し黙った。



 検査の終わった葵を再び病室のベッドに寝かせると、山崎は彼女の腕をとって脈を採った。そして問題無いことを確認すると、眠った葵をそこに残し、陽太と久美子を自身の診察室へと誘った。葵の前では話し難いことなのかもしれない。二人は黙って山崎に付き従った。


 机のパソコンを操作して、山崎は撮ったばかりのCT画像を映し出す。マウスでスライドバーをドラッグすると、身体を輪切りにする位置が刻々と移動し、ディスプレイ上の彼女の断面画像が目まぐるし変化した。そしてある地点で手を止めた山崎は、再び見入り始めたのだった。

 黙りこくる山崎に、久美子が恐る恐る声をかける。

 「先生?」

 彼女の声によって現実に引き戻された山崎は、バツが悪そうに応える。

 「あぁ、申し訳ありません。つい・・・」

 そう言ってスライドバーの位置を微調整する。そして言った。

 「居ました」

 「???」

 「居ました?」

 陽太と久美子は、山崎の言う意味が解からない。そんな二人の方を振り返り、山崎はゆっくりと言った。その表情には、先ほどまでの負け犬の色は微塵も感じられないのだった。

 「十七年前に生まれることが出来なかった、もう一人の娘さんがここにいます」

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