最初に病室に雪崩れ込んだのは陽太だった。そして少し遅れて久美子が駆け込んで来た。

 大学病院からの電話を受けた久美子はどうしたらよいのか判らず、呆然自失の彼女を焚き付けて車を出させたのは陽太だった。凛の発作を、葵の復活の兆しと歓迎していたにもかかわらず、実際に我が子が倒れたと知らされ、彼女は動揺し切っていた。

 ベッドで眠る凛の傍に駆け寄った陽太が声を掛けようとした瞬間、遅れてきた久美子が陽太の身体を弾き飛ばすようにしてベッドに縋り付く。

 「葵! 葵! お母さんよ! 大丈夫!?」

 凛のことを我が子じゃないと言いながらも、その心中ではそこまで割り切れる筈もなく、理性や恐怖を超えた一線で、久美子はまだ娘を想う母親だった。

 「先生っ! 葵はどうしたんですか? 今まで異常は無かった筈じゃ・・・」

 久美子はベッド脇に控えていた山崎に食って掛かる。

 「渡部さん・・・」山崎は沈痛な面持ちのまま続ける。「申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる山崎を前にして、久美子のみならず陽太までが言葉を失った。

 「ど・・・ どういうことですか、先生・・・」

 震える声で尋ねる久美子と目を合わせられないのか、山崎は床を見つめたまま言葉を繋いだ。

 「葵さんは・・・ 脳死状態です」

 「・・・・・・」

 想像もしていなかった言葉に久美子は目を剥いて固まった。あまりに急な話の展開に付いてゆけず、堪りかねた陽太が問い質す。

 「そんな馬鹿な話、有るもんかっ! 今日だって普通に学校に来てたんだ! そ、そりゃ、途中で気分が悪くなって保健室には行ったけど・・・ でも、人がそんな急激に脳死になるなんて!」

 「ずっとだったんだ!」

 声を荒げる陽太よりも、更に大きな声で山崎が叫んだ。

 「ず、ずっと?」

 「私は・・・ 私は・・・」山崎は唇をかむような表情で語り出す。「彼女が退院する時の精密検査で、この事実を知った・・・ それを病院内でも、ちゃんと報告したんだ! 学会誌にも寄稿しようとした! それなのに・・・ それなのに・・・」

 顔を歪める山崎に陽太が聞く。

 「何を知ったんですか、先生・・・?」

 その声が聞こえているのかどうかも判らない様子で、山崎は独り言のように続ける。

 「そりゃ最初は信じられなかったさ。だってそんな事、有り得ないじゃないか。みんな私が狂ってしまったと思ったんだ。私だって、自分の頭がおかしくなったんじゃないかと思ったくらいさ」

 じれったくなった陽太が、遂に山崎に掴みかかった。

 「先生! 話して下さいっ! 彼女に何が有ったんですかっ!」

 身体を揺さぶられた山崎は、夢から覚めたような顔でボンヤリと陽太を見返した。

 「脳が活動していないんだ・・・」

 「ひっ・・・」久美子が引き攣った声を上げた。

 「か、活動していないって、どういう意味ですかっ!?」

 なおもしつこく食い下がる陽太の腕を、山崎が乱暴に振り払った。

 「だから、そのままの意味さっ! 彼女の脳は死んでいるんだ! あの二年間の昏睡から目覚めた時も、そして今も! 医学的に見れば彼女は、ずっと脳死状態なのさっ!」

 今度は陽太が固まった。この医者は何を言っているんだろう? そんな馬鹿な話が有るものか。やはりこいつは頭がおかしいに違いない。その想いを、陽太はそのまま口にした。

 「そんなこと、有るわけないだろ・・・ だって彼女は普通に会話もしてたし、普通に笑ってたし、普通に歌だって歌ってたんだ。脳死の人間が、そんなこと出来るわけ無いじゃないか・・・ あんた・・・ やっぱり頭がおかしいんだ・・・」

 「本当に私が狂っているんだったら、どんなにか楽だったろう・・・ でもそうじゃないから、私は・・・」

 「嘘だっ!」

 陽太が山崎の言葉を遮った。それに山崎も感情的に反論する。

 「嘘じゃないっ! 君たちが到着するまでの間に、さっきもMRIで確認したんだ! 二年前のあの時と同様、彼女の脳は動いていない! 死んでいるんだよっ!」

 「じゃぁ彼女はまた、ずっとこのまま寝たきりになるって言うんですかっ!?」

 「そうじゃない、そうじゃない」山崎は纏わり付くモヤモヤを振り払うかのように頭を振る。「何度言ったら解かるんだ。彼女の身体はいたって健康なんだ。走ることだって、飛び跳ねることだって出来る。普通に生活できるんだ。だけど脳だけが死んでいるんだよ! 今は鎮静剤で眠っているだけなんだ!」

 「そんな馬鹿なこと、有るわけないじゃないかっ!」

 「だから私もさっきからそう言っているっ!」

 これでは出口の無い堂々巡りだ。二人は睨み合うような格好で押し黙る。その時、そのやり取りを黙って聞いていた久美子が、ようやく口を開いた。

 「凛よ」

 「えっ?」山崎は目をしばたいた。

 「お、お母さん。その話は・・・」慌てて取り繕おうとする陽太にもお構い無しに、久美子は断言する。

 「凛が葵の身体を乗っ取っているのよ」

 「そんな非科学的な話を、今持ち出しても・・・」

 キッとした表情で陽太を睨み、久美子が叫ぶ。

 「何が非科学的よ! 事実、脳が活動していないのに、葵は普通に生きてるんでしょ? 今更、科学もへったくれも無いじゃない!」

 「そ、それはそうですが・・・」陽太には返す言葉が無い。

 「きっと葵が復活するのを、凛が邪魔しているのよ。だから葵が戻って来られないんだわ」

 「落ち着いて下さい、お母さん。僕もその凛さんについては、詳しく聞かされていないんです。双子だったってこと以外は。良かったら、説明してくれませんか?」

 話が妙な方向に流れ始め、あっけにとられていた山崎も口を挟んだ。

 「双子だって? 渡部さん。この彼が・・・」そう言って山崎が視線をめぐらすと、陽太は「水野陽太、葵さんのクラスメイトです」と手短に答えた。

 「この水野君の言う通りです。その凛って人のことを教えて頂けませんか? 今の葵さんの症状に関し、何か心当たりが有るんですね?」

 久美子は険しい顔を背けた。思い出すのも悍ましいといった様子だ。怒りにも似た表情を顔に張り付けたまま、彼女は視線を床に落とす。しかし山崎は、なおも食い下がった。

 「渡部さん、お願いします! 葵さんを助けることが出来るかもしれないんですよ! 彼女の症状の根本原因が隠されているかもしれないんです!」

 陽太も山崎に加勢する。

 「お母さん、教えて下さい! 彼女にはどんな秘密が隠されてるんですか!? 凛って誰なんですか!?」

 二人に挟まれるように問い詰められた久美子は、ついに観念したかのように表情を緩めると、小さな溜息と共に静かに語り始めた。葵が生まれる前の話だった。

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