第六章:葵と凛

 約一時間前・・・


 それは予期した通りの結果だった。定期的に病院を訪れる葵の検査は山崎が自ら行っていて ──本来であれば看護師が行うべきところを、特例的な患者であるという理由から彼自身がかって出ていた── 彼の操る脳波計は、今日もまたいつも通りの結果を示していた。

 山崎の前には、眠るようにして両手を組み、ベッドの上で横たわる葵が居る。両目を閉じて微動だにしない彼女は、一見すると本当に眠っているようだ。退院した頃は、まだ少しあどけなさの残る少女であったの筈なのに、静かな呼吸に伴い上下する胸の膨らみは、この一年間で彼女が着々と大人への階段を登っていることを示している。その少女から女性への過渡期を体現する姿を目の当たりにしながら、山崎は複雑な思いに駆られるのだった。


 脳波測定とは、人の脳内で生じる電気的な変動を頭皮に設置した電極で記録するものだ。人の大脳皮質の表層には多数の樹状突起が存在し、その脳の活動如何によって多種多様な電位変動が生じている。これらを電極で拾い上げ、増幅して記録するのが脳波計であり、脳に外科的なダメージを与えること無く、その活動状態をモニターする有効な手段だ。

 そして葵の脳は、あの凄惨な交通事故以降、奇跡的な覚醒を果たした後ですら、一度たりとも脳波計の針を動かすことは無かったのだった。


 全く平らな直線状の脳波を確認した彼は、打ち沈んだ様子でこう言った。

 「今日もお変わり有りませんね、葵さん。前回と同じです」

 無精ひげを伸ばし、髪の手入れも行き届いていない頭を掻きながら山崎は言った。彼女が退院した頃に比べると随分と痩せて顔色も悪く、具合も良くはなさそうだ。あの当時の覇気は、今は微塵も感じられない。眼鏡の奥に見える、その落ち窪んだ目を覗き込みながら葵は言う。

 「先生? 具合が悪いんですか? 前よりお痩せになって、これじゃぁどっちが患者だか判りませんよ」

 診察室に備え付けられたベッドで横になりながら悪戯っぽく見上げる葵に、山崎は困った風に返す。

 「そ、そうですか? ちょっと疲れてるんですかね。あはは・・・。はい、終わりました。体起こしても構いませんよ」

 言われて体を起こし、ベッドの端にチョコンと座る葵。彼女の頭部に被せられていた電極を取り外しながら、山崎は取って付けたように、引きつった笑いを添えた。


 それは医者として、当たり前の反応だった。何故ならば、葵の脳は全く活動していないのだから。あの日、交通事故で担ぎ込まれてきた時以来、彼女の脳は一度たりともその機能を取り戻してなどいなかったのだ。なのに目の前の葵は何事も無いかのように、普通に会話をしている。明るく笑い、冗談も飛ばす。その身体は健全に、大人の女性へと成長しつつある。本来であれば脳死判定が下って然るべき状態だと言うのに。


 (いったい私は、誰と会話をしているんだ? この娘は何者なんだ?)


 山崎に憑りついたこの疑問は、医師としての彼をさいなみ続けてきたのだった。約一年前、二年の長きに渡る昏睡から目覚めた葵の退院を決める精密検査によって、この異様な状態を見出した山崎は、病院内でその報告を行ったことは言うまでもない。しかし、同僚や上司からは「機材の故障だろ?」とか「そんな馬鹿なこと、有るわけ無い」などと一笑に付されたのだった。

 それは、一旦は珍しい症例として受け入れたものの、医学的には大した成果に結びつくことも無く、長い間、大学病院の経済的な負担となっていた葵に対して、「もう、これ以上は勘弁してくれ」という台所事情によるものだった。つまり「さっさと退院させて、綺麗さっぱり縁を切れ」という、経営陣からの意思表示だ。

 しかし、それでもしつこく ──そりゃそうだ。現代の医学の常識を覆しかねない大発見なのだから── 葵の特異な症状を訴え続けた山崎は、遂には皆から疎まれるようになっていった。誰からも煙たがられるような存在にまで成り下がり、「脳が活動停止してるのは奴の方なんじゃないか?」などと陰口を叩かれる始末。親しかった友人たちも、次第に彼とは距離を取りはじめ、いつしか一人きりの片隅に追いやられていった。

 彼の言葉に耳を傾けてくれる者が学内には居ないことを悟った山崎は、仕方なく学会誌に論文を寄稿することで、この奇跡的な症例を白日の下に晒そうとしたのだった。しかしそれに待ったをかけたのは、他でもない大学側だ。常識的に見れば、まったくもって馬鹿馬鹿しい内容だからだ。頭のおかしくなった医者を飼っている・・・・・大学病院など、いい笑い者にしかならない。

 かつては次期外科部長の声まで聞こえていた山崎ではあったが、この一連の不始末(?)によってその将来は閉ざされ、今ではこの病院のお荷物医師となって久しかった。いつだって好きな時に辞職して頂いて結構ですという、いわゆる飼い殺し状態だ。

 従って今の山崎にとって医療とは、希望も理想も見出すことが叶わぬものでしかなく、その行為に意義も責任も感じることは無い。医師とは一つの職業を指し示す言葉であって、自然科学に根差した真理の探究者を指し示す言葉でも、倫理に裏打ちされた清い志の具現者を指し示す言葉でもなくなっていた。

 医者を志していた頃に叩き込まれたヒポクラテスの誓いも、今となっては空虚にしか響かない。


 ─ 己の能力と判断に従い患者に利する治療法を選択し、害となる治療法は決して選択しません。

 ─ いかなる家を訪れる時も自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行います。

 ─ この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術を享受し、全ての人から尊敬されるでしょう。

 ─ しかし万が一、この誓いを破るならば、私はその反対の運命を賜ることになるでしょう。


 そんな不遇な立場に追いやられた後ですら、葵は毎月、山崎の元を訪れ、そして全く針の振れることの無い脳波を残してゆく。しかし、ただの惰性で医師を続けているだけの山崎には、もうこの件を口にする気概など有ろうはずもなく、漫然と業務をこなすだけの抜け殻だった。事を荒立てるのも面倒臭く、看護師経由で話が漏れることすら嫌った山崎は、葵の脳波検査だけは自らの手で行ってきたのだ。そしてカルテには「脳波に特異点は認められず」と記するのみで、その真実を誰にも告げること無く、自分の胸に仕舞い続けてきたのだった。


 しかし、もうそろそろ頃合いだと山崎は考えていた。自分の出来ることは十分にやったじゃないか。だから本当に縁を切ろうと。さもなくば、自分はこのままズルズルと泥沼にはまり込んで、本当に抜け出せなくなってしまうだろう。まだいくらかの向上心が残っているうちに、社会への復帰を諦め切ってしまわないうちに、葵から手を引かねば正真正銘の落伍者になってしまうに違いない。競争の激しい、学内の出世レースに戻るつもりなど毛頭無かったが、このまま転落人生を歩み続けることは、どうしても納得がいかない。

 もう、珍しい症例などどうだっていい。自分には関係無い。最初から見なかったことにすれば良いだけの話だ。そもそも、脳が死んでいるのに身体がピンピンしているなんてあり得ないじゃないか。そうだ。皆の言う通りだ。こんなこと、絶対にあり得ないんだ。自分は出来の悪い夢でも見ていたということにすればよい。それで全ては元通りになる筈なのだ。

 引き返すなら今しか無い。そう思った山崎は、話を切り出した。

 「葵さん。退院以降、ずっと脳の検査を続けてきましたが、もう貴方の脳に変化の兆しは・・・ どうしました、葵さん? 気分でも・・・」

 言い終わらぬうちに、丸椅子に腰かけていた葵がドサリと山崎の膝の上に崩れ落ちた。頭から床に突っ込みそうになる葵の身体を、寸でのところで支えた山崎は大声を張り上げた。

 「ナースは居るか!? 誰でもいい! 手を貸してくれっ!」

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