久美子の言葉を理解し切れず、陽太は聞き返す。

 「えっ?」

 「貴方のことを知らない彼女。それが本来の葵なんだわ」久美子の口調から、優しさのようなものが消えた。

 「それ・・・ ど、どういう意味ですか?」陽太は恐る恐る聞き返す。

 「意味もくそも無いわ。言葉通りの意味よ。葵は貴方のことを覚えていないんじゃないの。そもそも貴方のことを知らないの。そうよ、きっとそうよ!」

 「わ、判りません。言ってる意味が僕には判りません」

 「あーーーっはっは! そうなのね!? あの娘なのね!? 葵が戻って来るのね!?」

 突然笑い出した久美子に狼狽える陽太。やはり彼女は、精神的な脆さでも抱えているのか? 久美子の変貌振りを目の当たりにし、背中に冷たい物が走るのを抑えられない。

 「お、お母さん。落ち着いて下さい。僕にも判るように話して貰えませんか? 葵さんが戻って来るって、どういう意味なんですか? 僕は葵さんの話をしているんですよ」

 すると突然、久美子の表情が一変した。それはまるで憎しみに心を蝕まれ、常軌を逸してしまった者のそれのようだ。陽太はその顔に狂人の色を見てたじろいだ。

 「あの娘は葵なんかじゃないわ!」

 落ち着いた雰囲気のリビングに沈黙が降りて来た。こんなに密度の濃い空気を、陽太はこれまでに感じたことが有っただろうか。


 ─ お母さんはね、私のこと実の娘だとは思ってないんだ ─


 確かに凜はそう言っていた。四肢の全てを抑え込む程に重い空気を掻き分けるようにして、陽太が辛うじて口を開く。

 「葵さんが、葵さんじゃない?」

 「えぇ、あれは本当の葵じゃない。葵は・・・ 私の娘はもっとおしとやかで繊細で、あんな阿婆擦れじゃないのよ」

 「そ、そんな・・・」

 「それが交通事故の後の昏睡状態から覚めてみたらどう? 全く違う人間に変わってるじゃない。何がどうなったのかは判らないわ。主治医の山崎先生も判らないって言ってる。ただ一つ確かなことは、あれは葵じゃない別の誰かなの。自分のお腹を痛めて産んだ子ですもの。間違えたりするもんですか」

 「信じられません・・・ そんな話」

 陽太は弱弱しい声で反論した。しかしその言葉は、久美子に何の変化ももたらすことは出来なかった。

 「ごめんなさいね、水野君。貴方が知っているあの娘は、葵でもなければ私の娘でもない、誰も知らない別の誰かなのよ。葵から身体を奪い取って、それを思いのままに操っている何かなの」

 「・・・・・・」

 「貴方がその娘のことをどう思っているかは知らないし、興味も無いわ。だけどね、水野君。そんな不気味なものに好意を抱くのは止めなさい」

 「た、多重人格とか、そういったことを言ってるんでしょうか?」

 やっとの思いで繰り出した質問だった。しかしその問いに対する答えは、陽太が想像したものよりも、何倍も辛辣なものだった。

 「多重人格? そんな生易しいものじゃないわよ、あれ・・は。あれ・・はきっと人間じゃないわ。もっと身の毛もよだつような、ドロドロした何かよ。そもそも葵は・・・


 もう久美子の言葉は耳に入ってこなかった。彼女が凛のことを酷い言葉で罵る度に、陽太は自分の身体を切り刻まれているかのような痛みを覚え、心の中に湛えられた凛との柔らかな記憶の中に逃げ込むのだった。その鋭利なナイフの如き言葉の刃が振り下ろされる度、陽太は頭を抱えて蹲り、凛の笑顔を、声を、匂いを、そして身体を抱きしめた。そうしていなければ気が狂ってしまうそうだ。


 (やめろ! やめてくれ! どうして母親のあんたがそんなことを言うんだ!?)


 記憶の中の凛が言う。優し気な顔で。


 ─ 私が葵じゃないから ─


 まさか! 凛はこの状況を飲み下しているのか? 母親の言う理解不能な話を、共通認識として共有しているとでも言うのか? いや、そうではない。確か彼女はこう言った。「あれは葵じゃない別の誰かなの」と。つまり彼女は、今の凛を別の誰かと・・・ 凛を・・・?


 (凛!!!)


 彼女の口から放たれた言葉がありありと蘇る。あの時はただの冗談として聞き流していたあの言葉。


 ─ 私は渡部葵じゃなく、渡部凛なの ─


 まさか、久美子の支離滅裂な話の答えがそれだと言うのか!? この馬鹿々々しい事の顛末に用意された結末が凛だと? それを凜も承知していると?

 久美子の独り言のような話は続いていた。


 ・・・そうだわ、水野君。貴方の言う発作って、きっと葵が戻ってこようとしているんじゃないかしら? 自分の身体を取り戻すために、葵が戦っているんだわ。そう思わない?」

 「凛・・・」

 「えっ?」

 「凛って・・・ 誰なんですか?」

 「ひっ・・・・・・」

 突然、久美子が眼を剥いて固まった。口許に持ってこられた手は、小刻みに震えている。葵の話で生気を取り戻していた筈の彼女の顔は再び蒼白となり、驚愕の表情で歪んだ。

 「今、何て・・・?」

 「凛です。彼女、自分のことを、本当は葵じゃなく凛だと言うんです。葵さんは自分の姉なんだと。勿論、そんな冗談を言うのは僕の前でだけなんですが・・・ お母さん。凛って誰なんです? 実在する誰かなんですか? 彼女は誰のことを言っているんですか?」

 久美子は驚愕の表情を変えずに視線を落とし、陽太の話を黙って聞いていた。口許からテーブルに降ろされた手は、今でもブルブルと震えている。そしてその震えを抑え込むように、拳をギュっと握り締めて消え入りそうな声で言う。

 「凛は・・・」

 「・・・」

 「凛は葵と姉妹になるはずだった、一卵性双生児の娘よ」

 「双子?」

 「えぇ、そうよ。私が妊娠していた頃・・・」

 その時、チェストラックの上の電話が、場違いなディズニーソングの電子音を奏で始めた。話の続きをゴクリと飲み込んだ久美子は立上り、テーブルをぐるりと回り込んで陽太の後ろの受話器を取る。

 「はい、渡部でございます」

 『・・・ ・・・』

 「はい・・・。はい・・・」

 『・・・・・・。・・・・・・、・・・』

 「えっ!?」

 『・・・・・・・・・、・・・』

 「は、はい・・・。直ぐに参ります。はい。はい。失礼いたします」

 久美子はそっと受話器を置くと、ゆっくりとした動作で後ろを振り返った。そして気遣わし気に見上げる陽太と目が合うと、その表情に僅かな混乱を混ぜ込んだまま、小さな声で言った。

 「葵が病院で倒れたって・・・」

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