3
ピンポーーーン・・・
「はい・・・」
インターフォンを通して、聞き覚えのある生気に欠けた声が聞こえた。その重苦しい雰囲気に飲まれないよう、陽太は努めて明るい声で応答する。
「葵さんのクラスメイトの水野陽太という者です」
「はい・・・」
普通、ここまで告げれば「あっ、はいはい。葵のお友達ね」とかなんとか言って玄関を開けてくれるものだが、彼女の母親はそうするつもりは無いようだ。何かが普通ではないと感じた第一印象は、やはり間違いではなかったらしい。それが母親個人の問題なのか、或いは家庭の問題なのかは判らないが ──少なくとも、凛の問題とは思えない── 予期した通りの反応を目の当たりにした陽太は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
ほんの少しの沈黙の後に、再び声を上げる。意識的に、先ほどよりもハキハキとした声で。
「葵さんのことで、チョッとお話ししたいことが有りまして。今日も学校で気分が悪くなって。その件に関して、少しお聞き願えませんか?」
「葵は、今日は病院ですが」
「知ってます。だから来たんです」
「・・・・・・ボツッ」
良いでもなく悪いでもなく、無言のうちにインターフォンは閉じられた。陽太には自分の来訪が受け入れられたのか、そうではないのか判らず、ただ玄関先でモジモジしていると、チェーンを外す音が聞こえてホッと胸を撫でおろす。
隙間から顔を覗かせた女性は怪訝そうな表情を陽太に向けたが、直ぐにドアを大きく開いて、小さな声で「どうぞ」と言った。妙な感じになるのが嫌なので、陽太はそんな母親の態度に気付かない振りで「こんにちは。お邪魔しま~す!」と、場違いに陽気な声で玄関を跨いだのだった。
玄関で話をさせられると踏んでいた陽太であったが、予想に反して久美子は彼をリビングにまで招き入れた。そして彼をダイニングテーブルに就かせると、キッチンの方に向かいながらこう言った。
「冷たい物でも飲む?」
相変わらず打ち沈んだような声だが、客人に対する最低限の礼儀は心得ているようだ。意外に思う心の内を悟られないように、陽太は元気よく応える。
「有難うございます! あっ、でも俺・・・ 僕、炭酸は苦手なんで、そうでない物をお願いします」
それを聞いた久美子は少し目を丸くして、小さくクスリと笑った。
「いいわね、男の子ははっきりしてて」
ほんの僅かではあったが、久美子の人間らしい側面を垣間見ることが出来て、陽太は安堵を覚えるのであった。さっきまでとは異なり、ほんの少し明るさを混ぜ込んだ声でそう言い残した彼女は、キッチンへと消えていった。
(しまった! ここは「どうぞお構いなく」とか言うべき状況だったか!? 何が「炭酸は苦手」だ、馬鹿者!)
しかし言ってしまったものはしょうがない。ダイニングに就いたまま陽太は、久美子が炭酸飲料以外の物を持って戻ってくるまでの間、手持無沙汰で室内をキョロキョロと見回すのだった。
室内は綺麗に整理整頓されており、家人の几帳面な性格が伺い知れた。乱雑さは微塵も感じられず、必要以上に物で溢れた空間とは対極の、必要最低限の機能美を感じさせる空間だ。壁には陽太も見たことが有るような、イルカと海をカラフルに描いた著名な画家の絵が一枚 ──それが本物なのかどうかまでは判らなかったが── 額縁に入れて飾られている。確か・・・ テッセンだっけ? 鉄線? 陽太は自分の頭に浮かんだ間の抜けた答えに、一人笑った。
反対側に体をひねると、黒い金属のフレームと無垢材が組み合わされたチェストラックが目に入る。棚には良く判らない植物の小さな鉢植えが置かれていて、その横には小学生高学年くらいの凛を挟むようにして撮られた、家族三人の写真がフォトフレームに収められていた。幸せな家族の一コマ、といった印象だ。何処かの高原にでも行った際に撮られたと思しきその写真の中の凛は、恥ずかしそうにはにかみながら、こちらを見つめ返すのだった。
物が少ないのにもかかわらず、それでいて富裕層と言えそうな雰囲気が漂っているのは、ちょっとした小物類も部屋全体の調和を乱すことなく、統一感に溢れたテイストで選別されているからだろう。陽太は、我が家のリビングに場違いなモナ・リザの絵 ──もちろんコピーだが── を飾ってしまう自分の両親とは、随分と違った人種なのだろうと思うのだった。
茶色い液体で満たされたコップを一つ、お盆の上に乗せた久美子がリビングに戻って来た。氷の浮かぶ麦茶だった。それを「どうぞ」と言って陽太の前に置くと、彼女はテーブルを挟んだ向かい側の椅子に腰かけた。
「有難うございます」そう言ってコップを手に取った陽太は、早速、半分程を飲み干した。
その様子を、少し楽し気に見つめていた久美子が言う。
「で? 水野君・・・ だっけ? 葵のことで話したいことが有るって? 葵が居ない時を見計らって来たってことは、あの娘には聞かせたくないってことかしら?」
「はい。彼女が学校での出来事を、どう話しているのかは判らないんですが・・・」
「何も話さないわよ、あの娘」放り出すような口調で久美子は言った。
「えっ?」
「何も話さないの。私も聞かないし」
どうして? と喉まで出かかった言葉を陽太は飲み込んだ。親子で会話らしい会話は無いということなのだろうか? そんな様子は、普段の凛からは想像も出来ないのだが、やはり家庭内の人間関係が崩壊しているのかもしれない。その件に関しては後程聞いてみることにして、とりあえずここに来た目的を達しよう。
「今日も授業中に気分が悪くなったみたいで。保健室に連れて行って、暫く横にさせていたら持ち直したんですけど・・・」
「今日も?」
「はい。その発作の回数が、最近だんだん増えて来てるように思うんです」
「そうなの?」
「はい。家で発作が起きる頻度が増しているような感じは有りませんか?」
「ううん、私が聞いたのは、あの娘にそんな発作の症状が有るの? ってことよ」
「えっ? ご存じなかったんですか?」
「知らないわ。あの娘、帰宅したら自室に閉じ籠っちゃって、食事の時くらいしか降りてこないから」
本当だろうか? それが久美子の話を聞いた時に、最初に思ったことだった。あの明るくて積極的で、屈託のない凛が、家では自室に閉じ籠った切り出てこないなんて。どう考えても本当のこととは思えない。
(じゃぁ、母親が嘘を付いているということか?)
それも考えにくいような気がするのだった。母親と話してみた感じでは、第一印象程には異様な印象は受けないし、むしろ普通の良識ある女性といった雰囲気だ。それでは、この家庭の歯車を狂わせているものとは、いったい何なのだろう?
「そうだったんですか・・・ とにかく最近、り・・・ 葵さんの発作頻度が増しているような気がして。今日も医者に精密検査してもらったら? って言ったんです」
「精密検査ねぇ・・・ それで治ればいいんだけれど・・・」
(それで治ればいい? ってことは、やはり凛が何らかの問題を抱えていることは承知しているのか? でも発作のことは知らないって、どういうことなんだろう? 発作以外に、別な問題を抱えているということか?)
「その回数も気になるんですが、発作が起きている時の彼女の様子が、どうも変で・・・」
「変? どういうことかしら?」
「はい。何だか別人みたいなんです」
「えっ・・・?」
「なんか、僕のことを覚えていないみたいな様子で。僕だけじゃなく、クラスのみんなとかにも。まるで『なんで私がここに居るの?』みたいな感じなんです。このまま発作が増えてゆくと、そのうち彼女が別の人間になってしまうような気がして・・・ だ、大丈夫ですか?」
話を聞きながら、久美子の顔がどんどんと色を失ってゆくのが判った。その急激な変貌ぶりに、陽太は思わず話を止めた。
陽太の窺うような視線に、久美子は消え入りそうな声で応えた。
「多分・・・ それが本当の葵よ」
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