葵という名の女の子がこの病院に搬送されてきたのは、彼女が中学二年に上がる前の春休みだ。酷い交通事故に遭い、頭を強く打って担ぎ込まれた時には既に意識は無く、脳内の出血を止める緊急手術が施された。一時は諦めムードすら漂った重体ではあったが、救命医と救命スタッフの献身的な尽力が報われたのは、彼女が運ばれてきてから日を跨いだ後。それは八時間以上にも及ぶ大手術となった。そう。手術は成功したのだ。一命を取り留めたという意味においては。

 しかし、懸命の救命が功を奏したにも拘らず、彼女がその聡明そうな目を再び光で満たす時は訪れなかった。おしとやかで内気な性格ながら、明晰で利発な言葉がその口から発せられることは、二度と無かったのだった。

 彼女の脳は活動を停止していた。


 脳死には六つの判断基準が有る。


 ① 深睡眠

 ② 瞳孔両側散大

 ③ 脳幹反射の消失

 ④ 平坦脳波

 ⑤ 自発呼吸の消失

 ⑥ 六時間後の再観察にて変化なし


 この中の②、③、⑤に関して、葵は該当していなかった。たとえ五つの項目に該当していたとしても、たった一つの判定基準を満たさないだけで、脳幹を含む全脳機能の不可逆的な停止状態、つまり脳死とは判定されないのが、この国の医療システムだ。従って葵は、医学的に言えば脳死には程遠く、ただの睡眠とすら判定され得る稀有な症例患者として、この病院で過ごしてきたのだった。

 その医学的な特異性は、全脳が全く機能消失していることが確認されているにも拘らず、瞳孔反応や脳幹反射が見られることであった。脳幹、或いはその一部が生き残っている場合なら有り得るが ──それを「植物状態」と言い、稀に回復する事例も報告されている── 全機能が完全に停止した全能死、つまり脳幹すら機能していない状態では、そのような反射反応は見られる筈は無いのだ。

 それなのに葵の身体は、全くもって健全な生体反応を返し続けたのだった。この学会誌にも報告された葵の事例は貴重な研究対象とみなされ、彼女の家族に経済的負担を強いることなく、都内の大学病院への長期入院という破格の待遇を実現させていた。


 しかし彼女の容態は、その後に何の劇的変化も見せず、ただ漫然と眠り続けるだけの月日が流れていた。結局、「脳死」とも「植物状態」とも、或いはただの「睡眠」とも判然としない曖昧な領域に取り残され、生きているのか死んでいるのかすら判らない扱いで放置さていた葵が両目を開き、こちらをジッと見ていたのだ。それを知った時の看護師の驚きようは、筆舌に尽くし難いだろう。言ってみれば、目を瞑っていた筈の人形に、見つめられていることに気付いた時ほどの衝撃だったに違いない。そこで悲鳴を上げて卒倒したりせず、冷静に ──かなり慌てふためいてはいたが── 主治医を呼びに行けたのは、さすがベテラン看護師といったところか。

 そのセンセーショナルな症状とは裏腹に、回復の可能性無しと囁かれていた葵はこうやって突然目覚め、そしてこの世界に戻ってきたのだった。


 「先生、私はなんで病院に居るんでしょうか?」

 急遽、駆け付けた山崎はペンライトで葵の瞳孔を確認しながら、「えぇっとぉ・・・」と言葉を濁した。回復直後の彼女との会話は、医学的に見ても貴重な資料となり得る筈だ。ボイスレコーダーを持ってくるべきだったのではないかと、彼は自分自身の手抜かりに落胆していたのだった。

 いつも通り、彼女の瞳孔が正常な反応を返すことを再確認した山崎は、慎重に言葉を選んでその質問に答えた。

 「何も覚えてないのかい?」

 「はい・・・ あっ、図書館」

 「図書館?」

 「えぇ。私、図書館に行こうとしてたんです・・・ でも、その後の記憶は・・・」

 「そっか。そこまでは覚えてるんだね? 君は交通事故に遭ったのさ。あの市立図書館の前で」

 「えっ・・・? じゃぁ、腰が痛いのは交通事故のせい?」

 「いいや、そうではないよ。事故の後、君は長い間意識を失っていたんだ。長期間ベッドに寝ていたせいで、腰や背中が痛むんだと思う。そしてようやく目が覚めたってわけだ」

 「長い間って・・・?」

 「本当に何も覚えていないんだね?」

 「はい」

 「君が眠っていたのは、二年間だ」

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