噂のアンチゴネー

 小一こいち時間するとはす向かいのバーの前に人影があった。ベネディクトは身を乗り出して目を凝らした。表情がこわばると立ち上がって店の外に出た。

 一人の男がバーの扉を開けて入っていくところだった。ベネディクトはその男に後ろから速足で近づき、腰のあたりを押すように蹴った。男は「あっ」と声だけあげて店の中へたたらを踏んで倒れた。鈍い音がした。

 男は恐れおののく表情で何ごとかと振り返った。

 倒れたその男は、数時間前、店の前でレナルドと立ち話をしていた男、そして、レナルドのアパートの同じフロアに住むマーヴィン・アップショーだった。

「俺が誰だかわかるよな」ベネディクトは低い声で云った。

「あんたは...ベネディクト!」

「俺を知っているお前の名は、クライヴ。クライヴ・ソーン!」

「なんで俺だと判った? 顔を整形してまで、ひっそり隠れていたのに」

「お前の癖でわかったのさ」

「癖?」

「お前は話しているとき絨毯じゅうたんや足ふきマットの上に立つと、無意識に右足のかかとこすくせがある。人がやらないような独特の仕草しぐさでな。向かいの店でその姿を偶然みかけたんだよ」

「へっ、そうか。まいったよ。それで俺をどうしようっていうんだい?」

「俺の相棒であり、友人でもあった警官のブラッドを殺したことに対して、いまから報復をさせてもらうぞ」

「ブラッド...ああ、あの警官はあんたの友達かい。その、ブラッドが俺をパクリに来たとき、もみ合いになって...ハズミで刺しちまったんだよ。しょうがなかったんだ。しかし、考えてもみろ、俺が捕まったらあんたの悪事もすべて警察に話すことになるんだぜ。あんただって、それは嫌だろう? 俺とあんたは一心同体だ。お互いのために良かったんじゃないのかい?」

「俺の悪事だと? 何のことだ」

「へへ、何言ってんだい? とぼけんなよ。密輸している企業の倉庫から押収した例の薬品のことさ。外国へは輸出が禁止されている核兵器の製造に必要なヤツだよ。それをあんたは横流しして金に変えようと、俺に話を持ちかけて来たんだぜ。忘れたのかい?」

 マーヴィン、いや、本名がクライヴというこの男は、かつて二人で行った密輸出について、企業の誰が関与し、どうやって薬品の存在を突き止めたかなど、当時の経緯いきさつ流暢りゅうちょうにしゃべりだした。10年前のことをベネディクトは忘れたかもしれないが、俺は覚えているんだぜと云わんばかりに。

「そして、お前は俺を強請ゆすってきた。そうだよな」そう云ってベネディクトはクライブをにらんだ。

「へっ、だからあんたは今でも俺を殺したいんだろ? あんたにとっちゃ俺は地雷のようなものだからな。危険のレベルは、あの当時と何も変わっちゃいない。あんたは俺に対して殺意をもっているだろ。友達のブラッドはそれをよく知っていたんだよ。おそらく、殺人をあんたにさせるぐらいなら、自分の手で捕まえてやろうとブラッドは考えてたんじゃないのかな」

 ベネディクトはそれを聞くと下唇を噛みながらクライヴに銃口を向けた。そして、大きく深呼吸してから云った。

「頭を手の上に乗せて、ひざまずけ!」

「ここで死刑執行かい?」ため息をついてクライヴは警官の云う通りにした。

 店内にはしばらく沈黙が流れた。そして、ベネディクトは口を開いた。

「お前を逮捕する」

「なんだと? お前が俺を? 捕まえるだと?」クライヴは驚きをみせたあと、せせら笑った。そんなクライブにベネディクトは手錠を掛けた。

「いいのかい? すべてが明るみになるだけだぜ」

 ベネディクトは何も言わず、ただ満足げに微笑みを浮かべていた。

 そのあとパトカーを呼び、とらえたクライブを仲間に引き渡した。引き渡した警官は昨晩パトカーに乗せないまま置き去りにした同僚のチャーリーだった。

 サンドイッチの配達先からベアトリスが店に戻ってくると、ベネディクトは彼に別れを告げ、残っていた警官たちといっしょに分署へと引き上げていった。


 火葬場から警察へ連行されたドーラとレナルドを父親のデレクがむかえにいった。二人をひきとったデレクは娘の親権者しんけんしゃの監督責任を問われ、罰金刑を受けることになった。

 後日、ドーラの友人ジョアンは、自分と親しいチェスタートン兄妹が警戒のかこみをやぶって火葬場まで母親の遺体へたどりつき、無事、別れを告げることに成功したと大げさにSNSへ投稿した。そして政治家や役人たちを翻弄して正義が貫かれた、とまで書いた。この投稿でジョアンも世間の注目を浴びた。人々はその投稿に対して、ドーラたちの行動に同情や共感を示す者と、法治ほうち国家の住人らしからぬ行為だと非難する者とに分かれ、ちょっとした論争になった。

 とくにドウェイン・オールドカースル市長はSNSを使ったドーラへの非難の先鋒せんぽうだったが、彼のその態度は一部の市民から反発を呼んだ。

 世間ではチェスタートン兄妹とジョアンたちがギリシア神話のアンチゴネーに似ているのではと話題になった。社会のおきてばかり振りかざし、徳目とくもくをないがしろにする市長は、クレオーンさながらの評判となった。

 市長は、反感を買ってから所属する政党の支持率が下がり始めると、ドーラのとったあの行為についてSNSでいっさい言及しなくなった。

 同じころ新聞には警察官ベネディクト・クワインの汚職に関する記事も掲載された。彼は自分が犯した過去の罪を自ら申し出て、共犯者だったクライヴ・ソーンの不正とクライヴによる警察官ブラッドフォード・ピアースの殺人についても告発した。ベネディクトは、クライブを逮捕する直前にボディカメラのスイッチを入れ、クライブが自白した犯罪の内容を全て録画し、それを証拠として警察へ提出した。ベネディクトは警察を免職めんしょくになることが決まったが、目下もっか、流行り病いをわずらっており、病院で治療中であるとも記事に書かれていた。

 2週間ほどして、国や市が医療の専門家の意見を聞き入れ、流行り病の危険度をレベル1からレベル2へ引き下げた。これによって流行り病で亡くなった遺体は家族のもとに引き取られ、すぐに埋葬や火葬がされないようになった。外出制限が少しだけ緩和され、時間帯によっては自由な外出が許されるようになった。

 ドーラは、以前にかばんを買いに行った店に忘れてきたキャスケットを取りにデレクと出かけることにした。久々ひさびさ大手おおでを振って外に出かけられるうれしさから、そのことをSNSに投稿した。あの出来ごと以来、彼女のSNSはフォロワーが増えていた。彼女の勇気と人気を利用してデモをおこそうと画策する活動家たちが連絡をくれるようになったが、ドーラは無視し続けた。活動家がよく口にする陰謀論なるものを信じていなかったし、どうでもいいことだと思っていたからだった。


 ドーラはキャスケットを頭にかぶり、デレクといっしょにかばん店から御満悦ごまんえつな表情で通りに出ると、一人の中年の女性がドーラに声をかけてきた。

 彼女はベネディクト・クワインの妻だと名乗った。

「SNSに、このお店に行く予定とあったものですから」クワイン夫人はスマートフォンを握った手を見せて云った。

 ドーラは新聞に載っていたベネディクトの不正を犯した過去について、残念に思っているとクワイン夫人に告げた。

「ベネディクトが不正をしていたのは、今から10年前のことなんです。生まれつき難病にかかっていた娘の治療薬が開発されたばかりのころでしたわ。その薬があまりにも高額だったので、彼はなんとしてもお金がほしかったんだと思います」

「でも、ベネディクトは罪を償うことが正しいことだと信じて、自首をしたんですよね、そうでしょ?」

「ええ、彼とは1度だけ面会が許されて、話すことができました」

 クワイン夫人は目を落として小さくうなずいた。

「彼は、あなたとお兄さんに感謝してましたわ。自分がれてしまった正しい道へもどる、勇気をもらったと」

「免職になったと新聞にありましたが、これから裁判も受けなければならないんですか?」かたわらにいたデレクは夫人に聞いた。

「ええ、でも、もうそれはありません。彼は死んだんです」

「えっ? 死んだ? ベネディクトが?」マスクで隠されているドーラの口はあんぐりと開いた。

「はい、流行り病で入院して3日後に、亡くなりました」

 うつむいたクワイン夫人の声は少し震えていた。

 ドーラは足の力が抜けて、ふらふらと後ずさった。たしか、彼が発症したのは火葬場で別れてから4日あとのことだったと記憶している。新聞記事にそう書いてあった。私と一緒にいなければウィルスに感染しなかったかもしれないと、そのとき思ったが、まさか死んでしまうなんて。

 デレクも驚いていた。彼の入院は新聞に書いてあったのを覚えている。その後どうなったのかは見落としていたのかもしれない。

「ああ、私といっしょに行ったどこかで、感染したんじゃないかしら」ドーラは不安そうに尋ねた。

「どこで感染したのか保健所が調べたけど、わかりませんでした。彼は勤務中にマスクや手洗いもきちんとしていたようですし」

 そこでデレクは云った。

「ドーラ、お前のせいじゃないよ。あの病気はどこで感染するかわからないから、みんな恐ろしがっているんだ。我々が一生懸命に対策していても、その合間をすり抜けて入り込んでくる憎い奴なんだよ」

 ドーラはベネディクトと過ごした短い半日の思い出を夫人に話して聞かせた。最後のベネディクトの姿を話しておきたかったからだった。そして、クワイン夫人はお互い健康に注意しましょうと別れを告げ、ふたりのもとを去っていった。


 そしてドーラは家路についた。デレクが運転する車の助手席に座っていた。

「マルマンで買い物をしていかなきゃ。久しぶりに魚料理にでもするかな。牛乳と果物も仕入れないとね」そう云うとデレクは家のそばまで来たのに駐車場へと向かわないで、家からとおのくように車をスーパー『マルマン』へと走らせた。

 ドーラは、前よりふえた往来おうらいの人や車を、車内からぼんやりながめていた。広場には酒場へ向かう大人たちがフラフラ歩いていた。ハックルベリー公園も見えてきた。ここでベネディクトにあったのだ。あの夜、彼と会わなければ、亡くなった母の姿をみることは決してなかったろう。一方、彼は私と会わなければ、これから先どんな気持ちで人生を過ごしただろう。やっぱり自分が犯した罪をつぐなったのだろうか? クライヴを見つけ出して最後にとらえることができたのだろうか?

 そんな思いを抱きながら、ドーラは、走る車の中から、遠く、公園の奥にある岩場のところに目をやった。そこには見回りをしている警官らしき人物がひとりいた。遠くの彼は、なぜかこちらに気づいたようだった。ドーラへと向きなおり、ゆっくり敬礼をしたようにも見えた。


 完

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アンチゴネーの駆ける街 沢河俊介 @on_the_kakuyom

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