警官と少女
夜中の2時になるとジョアンはベッドから起き上がり、『降臨ダンス』で出場したときに作った黒いタイツを身に着けた。このままではさすがに怪しまれるので、地味なチェックのミニスカートと紺のスニーカーを履いて部屋を出た。レナルドの部屋から明かりが漏れていたが、彼がいつもこの時間、ヘッドフォンをしながらゲームをするのを習慣にしていて、物音を立てても聞こえないと
案の定、家を出るまで家族に見つからず、アパートの中庭から建物裏の路地へと抜け出ることができた。
ドーラは300エーカーほどある馴染みのハックルベリー公園に入った。そこを横切って隣の街区へと向かう計画をジョアンと立てていた。目的の病院まではここから4マイル以上ある。公園には警官らしい人影が見えた。身長が5フィートにも満たないドーラが身をひそめながらであれば、大人たちに気づかれることなく通り抜けられるルートが存在していた。ドーラはそのルート入り口へ向かうために
そのとき正面からライトが彼女を照らした。
「おい、何をしている!」ライトのほうから叫び声がした。さっきの警官の後ろを追ってきたもう一人がいたのだ。ふたりの警官の挟み撃ちにあわないよう、ドーラは別の方角へと木々をぬって走り始めた。後ろから笛の音のような聞いたことのない電子音が聞こえた。
低い
人の声が近くでしたが、しばらくすると静かになって、息をひそめていたドーラは静かに細く息を吐いた。そして暗闇に対し、したり顔で微笑んだ。
ところが、大きな男が、夜の闇に溶け込んでいたかのように、音もなく岩のそばから突然現れた。
ドーラは声を上げる暇もなく、驚いて腰がぬけてうずくまってしまった。でもなんとか起き上がって走り出そうと一歩目をふみだそうとしたとき、ゴツゴツした岩につまずいて倒れた。暗闇の男は彼女の
「しっかり立て。手を岩につけ!」男は警官だった。
そう云われたドーラは生まれて初めて警官からボディーチェックを受けた。警官は特に何も持ってないことを確認し終わると、本のページをめくるようにドーラの体をくるりと自分の方へまわし、ドーラへ質問した。
「こんなところで何をしてる? 外出しちゃいけないのを知らないのか?」警官の話し声が思いのほか穏やかなので、ドーラは顔をもたげて彼を見つめた。彼はマスクをしていたが、頬からみえている2センチ幅ぐらいの傷あとが耳までのびていた。
「ごめんなさい、あたし、散歩してたら道に迷っちゃって」
「嘘をつくな、追っかけてきた警官から逃げてきて、ここへ隠れたじゃないか。ぜんぶ見てたんだぞ」
ドーラはあきらめたように、ため息をついた。
「私はね、これからママに会いに行くのよ」
「ママ?」
「そう、流行り病で死んだの。お墓に入る前に最後のお別れをいいたいのよ」
「だめだ、流行り病で死んだら、すぐ埋葬しなければならない決まりなんだぞ」
「お葬式をあげようってわけじゃないの。ただひと目会いたいだけ。そういう気持ちわからないかしら。あなただって、家族や仲のいいお友達が死んだらそうするでしょ?」
警官はドーラをじっと見下ろしていた。
ドーラはさっきからずっとこの警官が余計な動きをしない、感情すらもたない彫刻のように見えていた。しばらく沈黙があったあと、彼は大きくため息をついて、まるで彫刻に魂がふきこまれたように肉体を動かした。
「友達か。確かに俺もお前と同じ立場なら、会いに行くかもしれないな」ドーラには暗闇の彼の表情は見えなかった。声は優しく、きこえてくる呼吸の音の大きさが父デレクのものと似ているような気がした。
「名前は?」
「ドーラ・チェスタートン」
「俺はベネディクト。どうだろう、これからママに会いに行かないか」警官は云った。
「えっ? ほんとう?」
ベネディクトは、ドーラに対して特になにも語らず、無線で仲間に不審者を捕まえたこととドーラの名前とを告げた。そのあと彼はドーラを連れて岩の陰から人影がないか辺りをうかがった。ちょうど先ほどドーラを取り逃がしたふたりの警官がドーラ達を見つけて近づいてきた。
ベネディクトは、この少女が近隣の住人で、今しがた自分が事情聴取を済ませておいたので、これから自宅へ送り返すつもりだと仲間に告げた。ベネディクトがひとりでそれを実行しようとしていることに彼らはいぶかしい顔をした。しかし、普段の
ドーラを連れたベネディクトは公園の脇に止めたパトカーのところへ来ると、後部へとまわってトランクを開けた。彼は彼女にそこへ隠れるよう言った。
「ここに入るの? 怖いよ、なんでこんな狭いとこに入るの?」ドーラはベネディクトを不安げに見上げた。
「お前を助手席に乗せながら病院まで走るのは、さすがに仲間の警官たちに怪しまれる。ここに隠れるのがいいと俺は思う」
「本当に病院へ連れて行ってくれるの?」
「ああ。ただし、正規の方法で行くんじゃないってことだけは覚えておいてくれ。規則を破って病院に連れて行くんだから」
実のところドーラは心が躍り始めていた。ここ最近のやるべきことが見つからない暇な日常から一転して、彼女の好奇心をくすぐる冒険が始まりそうだったからだ。でも、そんな気持ちを見透かされないよう、ため息をわざとらしくついて、しぶしぶ同意したようにみせた。
ドーラはトランクに体を潜り込ませた。
ベネディクトはトランクを静かに閉め、運転席に乗り込むと車を出した。
大通りに出ると検問の近くを通りかかった。車をいったん停止させると、検問所の警官たちのうち、ひとりがこちらへ歩いてきた。夕方、検問を一緒に担当したチャーリーだった。
「署にもどるんだろ。一緒に乗せてくれ」チャーリーは運転席にいるベネディクトを外からのぞき込んで声をかけると、助手席側にまわりこもうと車のまわりを半周した。しかし、ベネディクトは彼を乗せずに車を発進させた。ドーラに聞こえたチャーリーの叫び声は徐々に小さくなっていった。ベネディクトはそれでもおかまいなしにアクセルを踏み込んで大通りへと向かった。
信号待ちをしていると静まり返った車内でドーラのこもった声が聞こえた。
「無理して大丈夫?」息を殺して黙っていたドーラがベネディクトに聞いた。
「心配するな、こういうやり方には慣れている」
ドーラはトランクの暗闇の中で肩の力を抜いた。ドーラには"こういうやり方"の意味がわからなかったが、とにかく彼女の冒険に、この警官が大いに役立つだろうと思った。
ふたりは病院へ夜明け前に着いたが、入り口は閉ざされいて院内に入れなかった。急患用の入り口も受け入れを拒否するかのように閉鎖されていた。警官のベネディクトは、立場上、不法侵入までする気になれなかった。ふたりは日が昇るまでしばらく身を隠すことにした。警察の留置施設にくと、そこの駐車場にパトカーを止め、彼が所有するワゴン車が止めてあったので、それに乗り換えた。それならパトカーほど目立たないし、ふたりのいなくなったことに身内が気が付くまで、時間がかせげるだろうと思った。
駐車場を出て町はずれの丘まで走らせ、幅の狭い支線にはいると車を止めた。丘の方は住人が少ないせいか見回りの警官がなかった。丘の上は街頭がなく、晴れていたので月明りが車内を照らした。
「動きやすい恰好をしてきたけど、薄着だから寒いわ」ドーラは車内の天井を見つめながら言った。後部座席で横になって外から見られないようにしていた。座席にあったベネディクトの上着を腰の上まで
「ベネディクト、あなた、家族はいるの?」
「いるよ、妻が。今は一緒に住んでいないけど」彼はマスクをずらして片手で鼻のあたりを掻いた。後ろにいるドーラからベネディクトの吐く白い息が見えた。
「俺にはあんたと同じぐらいの娘もいたんだけど、病気で死んだ」
「流行り病で?」
「いや、生まれつきの病気でね、難病ってやつさ」
「薬で治らないの?」
「治るかもしれないと聞いて、高価な薬をつかってみたけど、駄目だった」
「病気になると本人だけでなく、家族も大変なのよね」ドーラは口をとがらせた。
ベネディクトは大人びたものいいに、うなずきながら振り返って彼女を見かえした。
「あなたって警官らしくないわ。ドラマや映画と違って」
「映画の警官は、描写がリアルだなと思わせるところがあるけど、まったく間違っているところもあるよ」
「アレでしょ、ワイロをもらう悪徳警察官とかいるんでしょ?」ドーラはクスクス笑った。
ベネディクトは黙っていた。
「ねえ、何で私と病院に一緒にいってくれるの?」
「さあ、なんでだろうな。自分でもよくわからん」
しばらくふたりは黙っていた。
「あなた、人を殺したことある?」
「あるよ」
「相手は? どんな人」
「悪い犯人たちを捕まえる現場で、仲間が殺されそうになったから、撃ったのさ」
「仲間の人、助かった?」
「ああ、しかし、俺は顔に傷を負っちまった」
ドーラは月明りに照らされるベネディクトの横顔がさっきから見えていた。マスクからのぞいて見える深い傷跡のことかと理解した。
「でも、その仲間の人、あなたに感謝しているんでしょう?」ドーラはまどろみながらそう云って目を閉じた。
「だと、いいがな」
ベネディクトはそう云うと座席のシートを少し倒した。
「俺は少し寝るよ、今日は一日中検問で立ち通しだったから」
ドーラは何も言わなかった。
車内には長い沈黙が訪れた。
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