やもめの手記

立花

第1話

 そこには荒野があった。

 吹き荒ぶ風に砂埃が舞い、強い日差しとともに、その男の体力を奪っていた。男は膨れたリュックサックを背負い、左手で木製の杖をつきながら一歩一歩踏み締めるように、ただ広い大地を歩いていた。


 やがて夜がくると男は立ち止まり、野宿の準備を始めた。煤けたリュックサックからランタンを取り出し、マッチで火をつける。もう一度リュックサックに手を伸ばすと、男は古びたノートを取り出した。ノートは砂埃で汚れ、表紙や裏表紙はところどころ破れている。

 男はペンを取ると、白いページを開いた。


『コーピアと別れてから、3日が経った。今日で34回目の夜を迎える。そろそろ春になる頃だろうか』


 男は無言でペンを走らせた。


『今日も南へ歩いた。コーピアが話していた、南の方角に聳える山々を目標としているが、まだまだ距離は遠いようだ。足も疲れたので早めに切り上げ、また明日、進んでみる』


 そこまで書くと男はノートを閉じ、ペンと一緒にリュックサックにしまうと仰向けに寝転がった。

 星々が遠く輝いている。男はすぐに眠りについた。


 翌朝、早くに目覚めた男は荷物を片付けると、再び杖を握りしめて歩き出した。

 進むは南の方角。砂塵で霞む視界の中、荒野の果てに山脈が見えた。それは果てしない距離だった。男は歩き続けた。


『今日で35回目の夜。そろそろ食糧も減ってきた。コーピアが残してくれた分も、大事に使わせてもらおうと思う』


 その夜も、男はランタンの横でペンを走らせていた。


『山を越えた向こうに、穏やかな自然に囲まれた場所が見えたとコーピアは言っていた。道は険しいが、コーピアのためにもたどり着いてみたい』


 そこまで書くと、リュックサックから紙の包みを取り出した。中には食べかけの乾いたパンが包まれており、男はゆっくりと、それを口に含んだ。1人の寂しさとパンの冷たさが身に染みた。


 50回目の夜を迎える日、遂に男は、目指していた南の山の麓にたどり着いた。

 聳える山々は威圧的で、そのゴツゴツとした岩肌で来るものを拒んでいるように見えた。男はそこで1泊することに決めた。


 いつものようにランタンを灯し、男はノートとペンを取り出した。


『やっと、コーピアが目指していた山の麓に到着した。明日が最後の勝負になるだろう。山を越えた先に、どんな景色があるのか見に行こう。そして、それがどんなものだったかコーピアに伝えよう。コーピアは喜んでくれるだろうか』


 男はなかなか寝付くことができなかった。50日間の終着点が目の前にあると思うと、寂しさと虚しさのような、表し難い気持ちで胸が痛くなった。

 コーピアに会いたい。男はそう思った。

 コーピアが居てくれたら、こんな山を終着点には選ばなかっただろうし、50回も夜を乗り越えることはなかったかもしれない。でもきっと、コーピアがこの困難の渦中にいる事実に耐えられなかっただろう。


 終わりが見えない苦しみの中にコーピアがいないこと、それだけが救いで、コーピアがいないこと、それだけが何をもってしても打ち消せない寂しさだった。

 50回目の夜、コーピアと別れてから初めて、男は泣いた。


 朝日はゆっくりと昇り、夜の終わりを告げる。男は荷物をまとめ野営地を後にした。

 なだらかな荒野はすぐに形を変え、険しい山道となって男の体力を蝕み始めた。斜面は大きな岩で凸凹しており、男は四肢を使って岩を登っていく。

 食糧が底を尽きたので、男はここ数日間何も口にしていなかった。そのせいか、体にうまく力が入らず、すぐに息が切れた。それでも男は止まることなく、岩肌を登り続けた。


 直に、日が傾き始めた。男は焦っていた。

 日没までに登るつもりだったが、予想以上に道は険しく、体は言うことを聞かなかった。それに今の自分の体力では、この夜を越えることが厳しいということも、察しがついていた。

 焦る男を嘲笑うように、日は暮れた。すぐに気温が下がり、男の体は震え出した。暖を取ろうとリュックサックからマッチ棒を取り出したが、風が強く、何度擦ろうともうまく火は付いてくれなかった。


 止まっちゃだめだ。進むんだ。


 男は自分に言い聞かせ、凍える手を、足を、前に進めた。頭の中で、何度も何度もコーピアの名を呼んだ。


 全ての物事に終わりがある様に、夜は終結する。辺りがゆっくりと明るくなってきた頃、男は山頂を目の前にしてうずくまっていた。辛うじて浅い呼吸を続けながら、その体は小刻みに震えていた。

 ここまでか。男はぼんやりとそう考えていた。

 コーピアが言ったオアシスなど、無いことは分かっていた。それでも荒野の中で野垂れ死ぬくらいなら、コーピアの言葉に賭けてみようと思った。それくらいしか、今日まで生きる理由がなかった。


 ふと、頭上に温度を感じ、男はゆっくりと顔を上げた。

 力を振り絞って少し上の岩を掴むと、男は震える足で立ち上がった。一番上の岩に手をかけ、全力で体を引き寄せると、それと同時に地面を蹴った。

 転がり込むようにして、男は山の頂に辿り着いた。なんとか体勢を整えて上半身を起こし、岩に寄りかかる。東の空から太陽が昇っていた。

 山を越えた先、荒れ果てた大地が永遠に続いているのが見えた。


 男に、もうペンを握る力は残っていなかった。

「コーピア」

 最後の力で、最愛の人の名を呼ぶ。久々に発した声は枯れて掠れていたが、構わずに、手を差し伸べてきた空に向かって呟いた。

「ここを僕らの旅の終着点としよう」


 夜を切り裂き、眩しい朝日が差し込んでくる。今まで見てきたどの瞬間よりも綺麗だった。その強く美しい真っ直ぐな光は、頂に横たわる男の姿を、慈しむように照らし続けていた。

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