第35話
マリアばあさんの薬草屋は地下にあった。
細い階段を降りていくと、丸い小さな木の扉がある。そこに、「薬草屋」とだけシンプルに書いてある。本当にここであっているだろうかと不安なったが、とりあえず扉をノックしてみる。
すると、ノックするかしないかのうちに音もなくすっと開いた。夏だというのに、中からひんやりとした空気と妙なにおいが漂ってきた。
カエルたちは逃げるようにあっという間に帰ってしまった。
「すいません」
一人取り残されてしまったリシュカは戸惑いながら中に声をかけた。が、返事がない。
しかし、扉が開いたということは入ってもいいということだろうか?
いつまで待っても返事がないため、中に入ってみることにした。
リシュカはエイナルを引きずりながら狭い入り口をくぐった。
店の中に入るなり、ハーブの奇妙なにおいが鼻についた。
祖母のハーブとはずいぶん違う刺激的な香りだ。正直、いいにおい、とはとても言えない。しかも、部屋には煙のようなものが充満しており、視界も悪く、その煙自体も不思議なにおいがしていた。
「すいません」
エイナルを引きずりながらリシュカは奥に進んでいった。
煙のせいで視界が悪く、部屋がどうなっているのかよく分からない。ずいぶん廊下が長いような気がするのは気のせいだろうか、とリシュカは首をかしげながら、ゆっくりと進んでいった。
「誰かいませんか?」
「おやおや」
突然、天井のほうから声が聞こえた。
リシュカははっと顔を上げる。
「人間の男の子だね」
と思うと今度は後ろから声が聞こえる。
リシュカは慌てて後ろを振り返った。
けれど、誰もいない。
「惚れ薬でも飲まそうとしたのかい? ヒッヒッヒ」
ぎょっとしてリシュカは前を向く。
いつの間にか目の前に小さい老婆が立っていたのだ。老婆はエイナルの顔をしげしげとのぞきこんでいた。
真っ黒なローブと帽子をかぶり、真っ白な髪は床につくほど長い。顔はしわだらけで目は埋もれていた。
「なかなかハンサムじゃないか。でもね、人間用の惚れ薬を作るにはちょっとコツがいるんだよ。あたしも若い時は加減を知らなくて三人ぐらいあの世に送っちまったもんだよ。若気の至りさ。ほっほっほっほっほ」
リシュカはあっけに取られていたが、響き渡るような甲高い声にはっと我に返った。
「違います! そんなんじゃありませんから!」
「おや、そうなのかい?」
マリアばあさんは残念そうに言った。
「じゃあ、どうしたんだい?」
「それが……」
リシュカは説明した。
「なるほどね。灰色トカゲの毒はたしかに人間には少しきついかもしれないね。でも、それだけなら少し体が痺れるぐらいで害はないはずさ。問題なのは、そこにイチイの実と紫リンゴを合わせたこと。単独では大丈夫でも組み合わせによって人間には猛毒になることあるからね」
「猛毒? じゃ、じゃあ、エイナルは……」
リシュカは涙ぐむ。
その顔見てマリアばあさんは陽気に笑った。
「今回は大丈夫だよ。一口だけだったようだしね。でも、斑点トカゲと白黒イチゴだったら危なかったかもしれないけどね」
とマリアばさんは言い、両手の指を何かを呼ぶように動かした。
するといくつかの瓶がひとりでに歩いてきた。
と思ったが、よく見ると小さな白いネズミたちが運んできたのだった。
「治りますか?」
「このくらいなら、少し解毒してやれば大丈夫さ」
リシュカはほっと胸をなでおろす。
「お前たち、このお坊ちゃんをベッドに運んでやりな」
マリアばあさんがそう言うと、エイナルの体は浮きあがり、さらに奥へと運ばれていった。カーテンをくぐると煙が薄まり、その向こうに干し草で作られたベッドがあった。
静かに運ばれていたエイナルだったが、そこに投げ捨てられるように寝かせられる。リシュカはまた冷や汗をかいてしまう。
「あの、彼は人間の貴族なので丁寧に扱ってください。火炙りにされてしまうかもしれないので」
「おや、良い顔つきだと思ったら貴族のお坊ちゃんとはねえ。お前さんもなかなかやるじゃないか」
「だから、そんなじゃないですから!」
「ほっほっほっほ」
マリアばあさんは瓶の中から薬草を取り出して、それをすり潰しはじめた。
「もうすぐ夏至祭だからねえ。いいかい、惚れ薬や魔法よりも夏至祭で一緒に踊るのが一番効果的さ。特に人間にはね」
こちらの話を聞いていないようだ。
「あたしも若い時には何人もの人間を泣かせたものだよ。こう見えて昔は、『野ばらの君』と言われてもてはやされたものさ」
「はあ……」
昔とはどれくらい昔の話なのだろう。今の姿からは想像もできないが……。
「ちょっとぐらい酒に酔わせとくのはありだけどねえ。リンゴ酒もいいけど、おすすめはブラックビールだね。良く冷やしたブラックビールにシナモンとジンジャー、それからルリボシチョウの鱗粉を少しだけ混ぜておくんだよ。そしてたくさん踊って汗をかいた後に……ほっほっほっほっほ」
マリアばあさんはそれから数分間も笑い続けていた。
何を思い出しているのかは、想像しないことにした。
それでもマリアばあさんの手は止むことなく、何種類もの薬草をすり潰し終わると、次に鍋に火をかけた。その中に黒い奇妙な液体を入れる。沸騰すると赤色に変わった。その中にすり潰した薬草を入れて練りはじめる。
鼻をつくような刺激的な臭いが立ち込め、リシュカは思わず鼻と口をおおった。しかし、マリアばあさんも手伝っているネズミたちも平気なようだ。
この激臭に顔色一つ変えることなく、マリアばあさんの思い出話はまだまだ続いていた。
リシュカは鼻をつまみながら機械的にうなずいていた。
「あたしもヤドリギの塔で何度も逢瀬を重ねたもんだよ。薔薇の繁みにね、ちょっと袖を引いてその中に引っ張りこめば男なんてイチコロさ。薔薇の棘に恐れをなしちゃいけないよ。あいつらも好奇心でいっぱいだからね。上手くやれば応援してくれるんだからね。もっとも嫉妬されることもあるがね。ほっほっほっほっほ」
「ヤドリギの塔って何ですか?」
聞きなれない言葉が出てきたので、リシュカは鼻をつまみながら思わず聞いた。
「おやまあ。今どきの魔女はヤドリギの塔も知らないのかい? つまらないねえ。マルルアモリスと太陽神が密会してた場所じゃないか」
「え?」
リシュカは押さえていた手を離して声をあげた。むっと濃い香りが襲ってきてむせてしまう。
「マルルアモリスですか?」
「まさか、マルルアモリスと太陽神のことも知らないんじゃないだろうね?」
マリアばあさんは呆れ果てたように言った。
「それは、最近知りましたけど……マルルアモリスのことは全然本に載っていないので」
「ああ。たしかにそうだね」
マリアばあさんは液体をかき混ぜながら言った。
青に緑、ピンクに黄色と目まぐるしく色が変わっている。これをエイナルに飲ませて大丈夫だろうか? とリシュカは心配になる。灰色トカゲのハンバーグよりも危険そうに見える。
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