第34話

「エイナル?」


 リシュカは驚いて立ち上がる。

 名前を呼んでも肩を揺すってもピクリとも動かない。


「ま、まさか……」


 リシュカは青ざめる。

 心臓が凍りつきそうだった。

 人間は毒に弱いと聞いたことがあるけれど、灰色トカゲの毒でも人間には強すぎたのだろうか?

 魔法使いなら、舌がピリッとする程度で体に影響することはないのに、まさか、そんなことが……。

 リシュカは震える手で首筋の脈を触ってみた。

 ちゃんと動いている!

 リシュカはほっとして涙がにじんだ。生きていてよかった、と心の底から安堵した。

 とはいえ、完全に気を失っているようでいっこうに起きる様子がない。今はよくても、手遅れになる可能性だってある。

 でも、どうしたらいいのか分からなかった。解毒剤を飲ませるべきなのだろうが、解毒剤にも種類がある。第一、灰色トカゲの毒は魔法使いには害ではないので、灰色トカゲの解毒剤など聞いたことがなかった。

 リシュカは困ってとりあえずマスターを呼ぶことにした。


「まさか、この坊ちゃん人間だったのか?」


 いつもカエルのお面を被っているマスターがため息交じりに言った。


「そのまさかです。もしかして、ダメでしたか?」

「いや、人間お断りってわけじゃないが、言ってくれないとなあ。人間には刺激の強い食べ物がたくさんあるからね」


 と皿に残った血みどろのハンバーグを見る。


「灰色トカゲの毒が人間には強すぎたんでしょうか?」

「それもあるだろうが、それだけならここまでにはならないはずだがな。他にイチイの実と紫リンゴも入れたのがまずかったかもしれない。おそらく、この組み合わせは人間には相性が悪かったんだろう。人間だと分かっていれば、材料を調節したんだが」

「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて思わなかったので」

「いや、最近は人間の客だって増えてきたんだし、こっちもうかつだったよ」


 マスターは頭をかいた。


「しかし、どうしたものか」

「彼、大丈夫なんでしょうか?」

「分からない」


 顔は見えなかったが、お面の下は難しい表情をしているだろうことがすぐに分かるような苦い声で言った。


「さすがに人間と言ったって命に関わることはないと思うが……」

「本当ですか?」

「たぶんね。しかし、もし人間にこんなものを飲ませたと知られたら、まずいことになるかもしれないな。最近は人間に魔法でいたずらをするだけでも罰則が厳しいと言うし……。まさか、とは思うが、貴族ってことはないよな?」


 リシュカは冷や汗をかく。


「そのまさか、と言ったら……」


 カエルのお面の黄色い瞳がぎょろりとこっちを向いた。リシュカは心臓が飛び出しそうなほど驚いた。


「魔法使い裁判にかけられるかもしれない」

「ま、魔法使い裁判ってなんですか?」


 リシュカは心臓を押さえながら言う。


「最近、できたらしいんだが、どうやら人間の貴族たちが作ったもので、人間に悪さをする魔法使いを裁くものらしい……。もしも、彼が有名な貴族の人間だったら……」


 たしかネラが、エイナルの家は一、二を争う名家だと言っていたような……。


「だったら……?」

「人間の刑罰がどんなものかは知らないが……俺たちは火炙りの刑にされるかもしれないな」

「そ、そんな……火炙りの刑って……」


 リシュカは震え上がる。

 火炙りの刑は本の中でしか見たことがないが、もっとも過酷な罰だと書いてあった。木に張りつけられて、そこに火をつけられ木が灰になるまで何日も何日も一緒に燃やされ続けるのだという……。


「まさか、そこまでは……」


 リシュカはエイナルを見る。

 やはりテーブルに突っ伏したままで起き上がる気配はない。

 これがおとぎ話なら、キスでもすれば目が覚めるのに、と考えてリシュカははっと首を振った。こんなときに何を考えているのだろう。


「マリアばあさんに頼むしかないな」


 マスターが冷静に言った。


「マリアばあさん? 誰ですか?」

「黄ヤタガラス通りの薬草屋のばあさんだよ。一万年以上生きているんじゃないかって噂されてるほど、気味のわ……いや、すごい魔女のことさ。すごい物知りでどんな病気でも治しちまうっていう話だ」

「へえ」


 黄ヤタガラス通りは名前だけは聞いたことがあった。珍しい薬草や薬を売っている店がいくつかある通りらしい。


「黄ヤタガラス通りはこの通りから抜け道があるんだよ。よくぶっ倒れる客がたくさんいるからな。とにかく、人間にバレる前にばあさんにみてもらおう。きっと何とかしてくれるさ」


 マスターのカエルたちに手伝ってもらいながらこっそりとエイナルを運んだ。

 人目につかないように裏口から抜け出して、なぜか下水道を通って黄ヤタガラス通りに出た。


 黄ヤタガラス通りは一見すると普通の地味な通りだったが、ふと振り返るとカラスが物影からじっとこちらをうかがっている。

 リシュカはなんだか背中が落ち着かなかった。それは、気を失った人間を運んでいるせいだけではないだろう。

 夜ということもあって人の姿は多めだったが、表通りのようにまわりを気にしているような者はいないようだった。むしろ、人目だけではなく、月明かりさえも避けて、建物の影の中を歩いているような人たちばかりだった。ここにはリシュカと同じく何か事情を抱えた者たちが来る通りなのかもしれない。

 そのため、黒い布をかぶせられたエイナルを小さなカエルたちと一緒に運んでいても注目されることがなかったのは幸いだった。

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