第26話
イーダの実家は海の近くにあった。
石でできた小さな家のベランダで、褐色の髪をスカーフで束ねた小柄な女性が洗濯物を干していた
彼女はリシュカとウリカを見ると、一瞬怯えたような顔をした。
「魔女さんたちが何の用です?」
イーダの母はこちらを見ないで言った。
「イーダのことで」
「あの子はもういませんよ」
リシュカの言葉を遮って、彼女は言い訳をするように言った。
リシュカたちの視線から逃れようとするかのように、彼女は小さい体をさらに丸めてそっぽを向いた。近くで見ると、彼女の髪にはもう白髪が混じっていた。
「知っています。私たち、彼女を探しているんです」
イーダの母は怪訝そうにこちらを見た。
「オリバーがまだ彼女を愛しているからです」
彼女は呼吸が止まったかのように、はっと立ちすくんだ。そして嗚咽を漏らすと、気の弱そうな丸い目から涙をあふれさせた。
「あの子があんなに馬鹿だったなんて……」
と洗ったばかりの洗濯物で涙をぬぐった。
家の中はさらにこじんまりとしていた。
しかし、掃除が行き届いた清潔な部屋で、窓辺には真っ赤なアマリリスが可憐に咲いている。質素な家具には似つかわしくない豪奢なレースの壁飾りはオリバーからのプレゼントだろうか。
イーダの母は二人に紅茶を出してくれた。
「魔女さんたちの口に合うかは分かりませんけど」
と焼き菓子までそえてくれる。
サクサクとした素朴なオート麦のクッキーだった。
「あたしはもちろん反対したんですよ」
彼女はレースの壁飾りを見ながら言った。
「でも、あの子があんまりにも幸せそうだったからね、強く言えなくなっちゃって。けど、あの子の幸せのためにも、あたしがちゃんと言ってやらなくちゃ駄目だったんですよ。十年前に漁師だった主人が転覆事故で死んで、あの子には苦労をかけさせたから……あたしまで夢を見ちゃったのかもしれませんね。ボリシュ家のしかも長男だってのに、まったく、どうかしてましたよ」
イーダの母は顔をしわだらけの手で覆うと再び泣きはじめた。
何と声をかけたらいいのか分からなくてリシュカは黙ってその様子を見守っていた。
「屋敷をクビになってから、あの子はずっと部屋にこもってろくに食事も取ろうとしなかったんです。あたしも必死で慰めたりしたんだけど、あたしの声すら聞こえてないって感じで」
彼女は鼻をすすりながら話を続けた。
「あれは、流星群の日でした」
と彼女が言い、ウリカが紅茶のカップを置いた。
「真夜中に物音がしたと思うと、イーダが部屋から出てきたんです。あたしは最初ゴーストかと思いましたよ。あんなに元気いっぱいだった小麦色の肌は青白くなっちゃって、すっかりやつれていましたからね。自慢だった黒い髪だって、あんなに、ボサボサで……」
と彼女はまた鼻をすすった。
「あたしはびっくりして、どうしたのかって聞いたんです。そうしたら、星が落ちたから海に行ってくるって言うんですよ。あたしは、イーダの気が狂っちゃったのかと思いました」
「星が落ちた?」
リシュカはどきりとする。
あの日、水の音がしたことを思い出した。
「もちろん、あたしは止めたんですよ。でも、あの子が行かせてくれって、泣くんですよ。そんなに泣いたら枯れ果ててミイラになっちゃうんじゃないかってくらい。それで、あたし、根負けしちゃって……」
イーダの母は嗚咽を漏らした。
「あの子は海に身を投げに行ったんです」
「えっ、まさか……」
あの音はイーダが身投げした音だったのだろうか?
そう思うと心臓が痛むように脈を打った。
「そうなんです。あたしには分かるんです。ボリシュ家の坊ちゃんのことが忘れられなくて……それで……」
「でも、オリバーは」
「どんなに坊ちゃんが思っていてくれても、無理なもんは無理なんですよ。人間の世界ではね」
と彼女は机に突っ伏して声をあげて泣き出してしまった。
リシュカが途方にくれてウリカのほうを見ると、彼女は考え込むようにうつむいていた。
リシュカはイーダの母をどう慰めていいのか分からず、冷めた紅茶をいつまでも見つめていた。
もし、あの水音がイーダのものだったのなら、助けられていたかもしれない。もっと、よく確かめてみればよかった。けれど、霧が出ていてよく見えなかったのだ。あんな時間に霧が出ることは今までなかったのに。それも、あの紫の流れ星のせいだろうか?
リシュカはイーダの母が泣き止むまで答えの出ないことをぐるぐると考え続けていた。
「だからもう、イーダはいないんです。そう坊ちゃんに伝えてください」
イーダの母はさらに一回り小さくなったかのようだった。
「いや、あきらめるのは早いでしょう」
リシュカが戸惑っていると、ウリカがはっきりとした口調で言った。リシュカとイーダの母は同時にウリカを見た。彼女はあいかわらず冷静な表情で、
「お嬢さんはきっと帰ってきますよ」
と言った。
「どうして?」
「そのうち分かる」
ウリカはにやりと笑った。
イーダの母は呆気にとられている。
「少し、待っていてください。大丈夫ですよ」
ウリカは優しく言った。
イーダの母はウリカの顔をぽかんと見つめたまま、「はい」とうなずいた。まるで、神様に会ったかのように、彼女は、「ありがとうございます」と涙を流しながら言った。
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