第四章 ホウキとちりとり屋
第10話
「リシュカ、夏至祭の準備はもうしたの?」
週末の朝、ネラがふわふわの金髪をさらにふわふわに巻きながら話しかけてきた。リシュカは寝癖だらけの髪を手櫛でときながら、あくびをしていた。
「まだ……」
「ドレスはもう用意したの?」
「まだ……」
「そういえば、野ねずみのあくび通りに新しい服屋ができたんだって。人間が作った服がたくさんあるんだって。一緒に行かない?」
「今日はダメなの。他に用事があって」
ネラは真っ赤な唇をとがらせる。今日の口紅はトマトのようだ。
自分が同じ口紅をつけたら、トマトケチャップを舐めた後みたいになってしまうだろうが、ネラのぽってりとした厚い唇はたとえそれがトマトケチャップだったとしても色っぽくなるのだろう、とリシュカは思った。
「そうなの? まあ、私も今日は夕方からバイトがあるんだけどね」
「どんなバイト?」
「リストランテのウェイトレス。急に行けなくなっちゃった子の代役なの」
と言ってトレーを持ったような格好をしてくるりと回った。
「ルビーとサファイヤ通りのお店だし、良い出会いがあるかも! 突然、侯爵様からプロポーズされたらどうしよう!」
ネラはうっとりと空を見上げた。
「それはないと思うけど」
「もう、リシュカはのんきなんだから。もうすぐ夏至祭なんだから、はやく相手を見つけないと、でしょ?」
「そう言われても」
リシュカは浮かない返事をする。
もうすぐ、夏至祭の季節がやってくる。
夏至の日には太陽神が地上に降りてくると言われている。夏至祭はそれを祝う盛大なお祭りだ。
ミルフォルンの森の外れには太陽神が降りてくるために造られたという太陽の塔と広場があり、夏至祭の日はステラクレードの住民たちが人種問わず集まってきて一晩中踊り明かすのだ。そのとき、素晴らしいダンスをした恋人たちは末永く幸せになれると言われている。
「そういえば、エリクはどうしたの?」
去年、ネラが一緒に夏至祭に行った男の子だ。ネラと同じ金髪でそばかすのある可愛らしい顔をした真面目そうな男の子だった。
町役場の消防団員で小火騒ぎの野次馬に行ったネラが一目惚れをして、危うく火事の中に飛び込んでいきそうになった相手だ。
ところが、ネラは苦虫をかみ殺したような顔をして、
「彼とは太古の昔に別れたから! いいえ、私たち付き合ってすらいなかったの。あれは、幻だったの」
と言った。
リシュカの記憶が正しければ、あの夏、「彼こそが私の運命の人! 私たちの心の炎は誰にも消せないの」とかなんとか言って、ところかまわず「エリクに捧げる歌」を歌っていた気がするが、おそらく幻だったのだろう。
「今年こそは王子様を見つけて、私はお姫様になるの」
ネラはブラウンのチークを塗りながら言った。マスカラはワインレッドで、まぶたにはゴールドのアイシャドウをたっぷりと塗っている。
リストランテのウェイトレスがそんな派手な化粧をしていても大丈夫なのだろうか? と心配になる。
「リシュカもいい加減、相手を見つけなさいよ。男子寮に忍び込んでる場合じゃないんだから」
「え?」
リシュカは固まる。
「リシュカも水くさいんだから。でも、ミルフォルンの魔法使いなんかじゃダメよ。もっと、玉の輿を狙わないとね」
ネラはウィンクをすると軽やかな足取りで部屋を出ていった。
なぜ男子寮にいたことをネラが知っているのか……。まさかベアリー婦人が話したのだろうか?
いや、婦人は変な髪型をしてはいるが生徒の秘密を簡単に漏らすような人ではない。
ここは魔法使いの家なのだ。誰が盗み聞きをしていたっておかしくはないのだろう……。
リシュカは勘違いされた噂が人知れず広まっていることを知り、羞恥で体が燃え出すのではないかと思った。だからと言って本当のことを話すわけにもいかない。リシュカは頭を抱えると、髪をかきむしった。寝ぐせのついた髪がさらにぼさぼさになった。
服を選ぶ気分も身だしなみを整える気もなくなって、リシュカは最初に目に入った灰色のワンピースを着た。そして黒いキャスケット帽に髪を詰め込み、丸メガネかけた。
すると、彼女の朱鷺色の瞳が焦げ茶色に変わった。魔法使いの瞳は鉱石のように特徴的な色をしているのでそれを隠したいときに使う変装メガネだ。
それから、ベッドの下に隠していた革袋を引きずり出した。大きめの布カバンにそれをしまうと、仕事を終えた泥棒のように辺りを警戒しながら部屋を出た。
いつもよりも人の目が気になるが、さいわい生徒たちの姿はほとんどない。森の中にいてもすることがないので、休日になるとほとんどの生徒が町へ降りていくからだ。
「リシュカ・ルビナス」
ベアリー婦人に呼び止められてどきっとする。
が、彼女はあわれっぽい眼差しを向けて、
「もっとおしゃれをしたらどう? 私が髪を結ってあげましょうか? あなたにぴったりの髪型にしてあげますよ」
と言っただけだった。
その申し出を丁寧に断ると、リシュカは急いで寮を出た。
以前、ベアリー婦人の申し出に負けて髪を結ってもらっていた子がいたが、耳の上にハート型のお団子がついた髪型になっていた。その子が一日、部屋に引きこもっていたことは言うまでもない。
校門を出て森の中を抜けると、眼下に小さな町が広がっているのが一望できる。
煉瓦作りの家が小さな広場から放射線状に列を作り、細い通りがたくさんあるのが特徴だ。そのすべての通りに名前があるが、すべて覚えている人なんているのだろうか、と思うほど路地がたくさんある。
町の南には西からトマン川が流れており、周囲の牧草地には羊の群が見えていた。
そのさらに南には霧の森と呼ばれる黒い森がある。灰色狼と呼ばれる狼の古代種が棲む森で、狼使いの一族が暮らす集落もあるのだという。
その奥にノルクブ山脈が城壁のようにそびえていた。険しい山で天候も変わりやすく、商人たちは命がけでこの山を越えてくるのだという。その向こうにはどんな町があるのか、リシュカはいつか行ってみたいと思っている。そして、東のグラツィアルにも。
真っ白な雲が伸びやかに浮かぶ空を眺めながらリシュカは坂を下っていく。すれ違うのは動物ばかり。このあたりには人も住んでいないので静寂そのものだ。
でもたまに、魔法使いが猫に変身して寝そべっているので用心しなければばならない。うっかりしっぽを踏んでしまうと、呪いの魔法をかけられてしまうことがあるからだ。そのせいで半日鮭に変えられて本物の猫に食べられそうになった学生がいたらしい。
あずき色のレンガの橋を渡って町の中にはいると、ミルフォルンの生徒でにぎわっているであろう「黒猫のしっぽ通り」や「昼のフクロウ通り」を横目で通り過ぎて、「塩キャラメル通り」に入る。子供向けのお菓子や玩具の店が並ぶ通りでは家族連れでにぎわっているが、リシュカはその隙間を通り過ぎながら、飴屋の角を曲がる。
その奥に進むと、小さな広場に出る。
そこに並ぶ右から二番目の扉を三回叩いてくるっと回る。そして、扉を開けると、猫の通り道のような灰色の細い道があらわれた。
その道を通った先が、「ナメクジの隠れ家通り」だ。
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