第9話

「い、いつの間に?」

「迷ったんだ。森に来るのは久しぶりだったからな」


 彼女はとても迷子とは思えない落ち着き払った表情で言った。

 魔女が森で迷う? そんなことがあるのだろうかとリシュカは首をかしげる。


「グラツィアルには森はないの?」

「あのあたりは造られた森ばかりなんだ。昔、焼き払われたことがあったからな。それで今は森のような庭園しかないんだ。管理が簡単だからと言って。でも、いくら似せてもやっぱり本物の森とは違うんだな」


 グラツィアルの森が焼き払われたなんてリシュカはまったく知らなかった。それはいつの話だろうか?

 ウリカは感慨深そうに深呼吸をしていた。


「空気に味がする」

 と言う。


「空気に味?」


 リシュカも深く呼吸をしてみたけれど、いつもの森の匂いとしか思わなかった。グラツィアルの森は違った匂いがするのだろうか?


「グラツィアルの空気は無味無臭なんだ」

「無味無臭?」


 リシュカはピンとこない。


「グラツィアルは美しい都市ではあるけど、自然は造り物ばかりだからな。最近は人間の数も増えてまた住居地を増やさなければならないし。そのために、自然を削り自然を造るというのは、やはり間違っていたのかもしれない」


 ウリカはまた大きく息を吸う。


「やはり本物の自然はいいものだな」

 と微笑んだ。


 その笑顔はドキリとするほど美人だ。


「小鬼のデリーとかいう奴のことも知らないんだ。どうやら人工の森にはいないらしい。だから、捕まえ方もよく分からないんだ。よければ教えてくれないか?」

「も、もちろん」


 リシュカはドキマギして言った。

 取っつきにくいと思ったが、話してみれば素っ気なさはあるものの、偉そうにするわけでもなく素直な人だと思った。警戒していたけれど、そんなに悪い人ではないのかもしれない。

 それに、ララ・ファーンの魔法使いに自分が教えることがあるなんて、と思うとリシュカは誇らしい気持ちを隠すことができなかった。


「デリーは土の中に棲んでいて、木の根っこを食べちゃう奴なの。彼らは土の中からめったに出てこないんだけど、春のはじめと、天敵のモグラに追われたときと、それから、大好きな光るものがあるときに土の中から出てくるの。あとは、火が嫌いで、蜂蜜は食べるみたい。蜂蜜酒を置き忘れて、デリーたちが酔っ払ったって話があるから」

「なるほどな。デナス鬼の亜種ってことか。どうりで覚えがないわけだ」


 ウリカは独り言を言っている。

 デナス鬼というのは角の生えた地中人と妖精との間から生まれた半妖精のことだ。ただし、地中人は大昔に滅びているし、デナス鬼も昔話の中でしか見たことがない。しかも、デリーがデナス鬼の亜種だなんて初耳だった。しかし言われてみれば、確かに大きさは半分以下だが見た目は似ているかもしれない。


「グラツィアルにはデナス鬼がまだ残っているの? この辺りにはもういないけど」

「いや、向こうでも絶滅しているだろう。最近、見かけないしな」


 最近絶滅したということだろうか?


「ありがとう、分かったよ」


 そう言うなりウリカは手の平を地面にかざした。

 すると数秒も経たない間に、土が沸騰したようにぶくぶくと膨れ上がった。

 ウリカは素早く手をあげた。

 地面がひっくり返った。

 そして、中から何十、いや、何百匹ものデリーたちが飛び出してきた。

 リシュカは宙を舞うデリーたちをぽかんと見つめた。


「えっと、火だったか?」


 ウリカがつぶやきながら手のひらを握りしめると、一瞬で炎の竜巻があらわれた。それは竜のような姿となり、その大きな口を開けるとデリーたちをあっという間に飲み込んでしまった。

 熱風に押されてリシュカは尻餅をついた。顔を上げると、炎はさらに激しく渦を巻き周囲の木々をすばやく飲み込んでいった。

 植物や妖精の叫び声が金属音のようにキイキイと鳴り響いた。

 鳥たちがいっせいに羽ばたいていく。

 炎は本当に巨大な火竜のようだった。

 翼をひろげるように炎が空まで広がっていく。

 森は火の海になった。


「う、ウリカ!」


 リシュカはすっかり腰を抜かしていた。

 どっと汗をかき、熱湯になったしずくが頬をつたっていく。

 肌が焼けるように熱い。喉が張りつくように乾いていた。声もかすれて上手く出ない。逃げなければと思うのに体が言うことを聞かなかった。


「ウリカ……」

「しまった。やりすぎたか」


 しかし、当のウリカは涼しい顔を崩しもしていなかった。

 彼女はすっと手を下げた。

 すると、バケツをひっくり返したかのような豪雨がどっと降り注いだ。

 と思うとすぐに止んだ。

 あれほど燃え広がっていた火が一瞬で消えてしまった。しかし、森は黒こげになっている。

 森の呼吸が止まっている。

 静かな空気に雫が滴る音が響く。

 焼け焦げた枝が折れて落ちる音が、死者の足音のように聞こえていた。

 夢でも見ているのだろうか?

 リシュカは頬をつねってみたかったが、まだ手足が震えていてできなかった。


「えっと、確かこうだったか?」


 ウリカは何かを思い出そうとしているかのように斜め上を見ながら、手でぐるりと円を描いた。

 つむじ風がどこからかやって来た。

 すると、まるで時間が巻き戻っていくかのように灰になった草木が元通りになった。花が咲いた。黒焦げになって倒れた木が起き上がり、枝から葉が芽を出し、見る見るうちに生い茂っていったのだった。


「思い出したぞ」


 ウリカは風を操るように手を右へ左へ動かした。

 風が通ると草木や花がにょきにょきと伸びていく。ぽんぽんと音を立てながら花が咲いていく。灰になったはずの蝶が色を取り戻したかのように鮮やかな翅をひらひらとさせて飛んでいく。

 そして、彼女が手を戻したときには、何事もなかったかのように森は元通りになっていた。花も素知らぬ顔をして咲いていた。金切り声をあげていた鳥たちものんきにさえずっている。妖精たちはくすくすと笑っていた。


「今の、いったい……」


 リシュカの声だけが取り残されたようにかすれていた。


「森で魔法を使うのは久しぶりだったからな。手加減を間違えた」


 いつの間にかウリカの足下にはぱんぱんに膨れ上がった小鬼袋があった。しかし、その中のデリーたちは無惨にも黒こげのままだった。どんないたずら妖精でも愛するヒービー先生が見たら泣いてしまうかもしれない。

 ウリカはそうとも知らないで袋を縛り上げた。


「リシュカ、君の星屑のことは黙っててやるから、このことは内緒にしろよ」


 そう言って彼女はぺろりと舌をだした。

 リシュカはびしょ濡れのまま笑うしかなかった。

 今のは夢だったのではないかと思うけれど、下着までぐっしょり濡れているので夢ではないはずだ。

 しかし、どうしてウリカはまったく濡れていないのだろう?


「あなた、何者なの?」


 と聞きたくても、言葉が出なかった。

 そのかわりに、リシュカはくしゃみをした。

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