第四章

第四章 思惑交錯その一

 集落内の医務室は受付と待合室、検査室、診察室、ベッドルームとに分かれている。

 これらのスペースは、ショッピングセンター一階にある、眼科だった部屋をここへ逃げ延びてきた医師と看護師が改装した物だった。

 寒さによる凍傷やキャンサーとの戦いが日常茶飯事な、このご時世。負傷した者は怪我の程度に関わらず、皆、ここに運び込まれることになる。

 そして今、まりんはベッドルーム内で、ベッドに仰向けで寝かされていた。四階から外に投げ出され、地上に叩き付けられても無傷に近い姿をしている。

 同室で椅子に腰かけて寄り添っているのは、まりんの身体を得たミリルだ。他には誰一人、部屋にはいなかった。


「まりんちゃん、そろそろ目を覚ましてよね。奴らとの次の交渉日まで、もうあまり時間的な猶予がないんだから」


 ミリルは腰を上げ、まりんの寝顔にぐっと顔を近づける。かつての自分の身体をした彼女を見て何を思っているのか、その寝姿に見入っていた。

 まりんが意識を失ってから、すでに二日が経過している。今、窓からは朝日が差し込み、朝の訪れを知らせてくれていた。

 穏やかな顔で寝息を立てていることから、彼女は夢でも見ているのかもしれない。


「お、お父さん……」


 まりんはうわ言のように、お父さんと繰り返している。これまでも何度もあったことなので、今はもうミリルは気にしている素振りはなかった。


「寝言か。呑気なものね、私の気も知らないで」


「お父さん……どこ? ……会い、たい」


 まりんは尚も父を呼び、生きているかも不明な父を追い求めているようだ。


「……このファザコン。初めて会った時、私のこともお父さんて呼んでたよね」


 ミリルは呆れ気味に、まりんから顔を離す。そして再び椅子に腰を下ろそうとした、その時だった。

 突然、まりんが両手を天井に伸ばし、弾かれたように飛び起きる。呼吸は乱れ、悪夢から覚めたかに見える怯えた形相だ。


「お父……さんっ!!」


 ミリルの姿のまりんは、全身から冷や汗を流しているのが見て取れる。ベッドの上で上半身を起こし、瞳孔が大きく開いていた。

 腰を下ろしかけていたミリルは、改めて立ち上がると、優しげな顔でまりんの背中を手でさすってあげた。


「どうしたの、まりんちゃん? 何か怖い夢でも見た?」


「え、あっ……ミ、ミリルっ!?」


 すぐ側に立つミリルに気付いたまりんは、反射的にベッドの上を移動して、壁際まで距離を取った。

 その顔は、警戒心が滲んでいる。能力が暴発した切っ掛けを作ったのがミリルであり、意識を失う前に起きたことを考えれば当然だろう。

 対するミリルは、澄ました顔でそんな彼女に笑顔を向けた。


「大丈夫、危害を加える気なんてないよ。ちょっとお話しようかな、まりんちゃん」


「は、話って何ですか? まずは返してくださいよ、私の身体っ!」


「返してあげたいのは山々なんだけど、一度身体を奪うとね。しばらくは憑依の能力を使えなくなっちゃうんだ。だから、今は無理かな」


 ミリルの穏やかな口調に対し、まりんは興奮が冷めやらない様子だ。ミリルが宥めようとしているのは、彼女にだって分かる。

 しかし、信じていた相手に裏切られたショックが尾を引いているまりんには、そんな優しげな言葉も嘘に思えて仕方がなかった。


「お、お前なんて、私がその気になれば……」


 言いかけて、まりんは口ごもった。力を誇示して、暴力に訴える。そんな他人を傷つける非道な行為は、父との約束で禁じているのだ。

 弾みで最低なことを言おうとした自分を恥じ、冷静さを少し取り戻す。けれども、あんなことがあった後で、まともな話し合いなんて出来るものだろうかと思う。

 確かに今のミリルの顔には敵意がないが、また演技かもしれない。現に一度、彼女には、まんまと欺かれてしまっているのだから、用心もしたくもなる。


「その気になれば……? どうなるのかな、まりんちゃん?」


「な、何でもないです、よぉ……」


 強気に反論もできず、まりんは弱々しく呟いた。そんな彼女をミリルは母性溢れる笑みのまま、目元をそっとなぞった。


「ほら、涙で汚れてるよ。怖い夢でも見たのかもしれないけど、元気出して。自分だけで起き上がれる? 君、二日間も眠ってたんだからね」


「二日間もって……ゆ、夢? そ、そうです……そうですよ、夢っ。夢の中で、お父さんが出てきたんです! 私にどこかへ向かえって言ってたような」


 ミリルのふとした言葉が引き金となり、夢の全容は思い出せないものの、断片的ながら記憶が蘇った。

 ただ父の顔は、今もぼんやりしていて出てこない。しかし、それでもあの声は確かに父だったはずだと、確信していた。

 そして父が夢で言っていた場所こそ、ずっと目指していた目的地な気がする。

 だが、どこかに向かえと言っていたのだろう。俯き気味に考え込むが、やがてミリルの声で現実に引き戻された。


「ねえ、まりんちゃん。考えるのは後にして、水分補給ぐらいしようか?」


 ミリルの手には、お湯の入った紙コップが握られていた。たった今、側にある机上のポットに入っていたのを注いだばかりなのか、湯気が立っている。

 まりんは少し躊躇したが、恐々とそれを受け取ってぐいっと一息に飲み干した。乾いていた喉が潤い、生き返った気分になる。

 それを見届けてからミリルは、襟を手で引っ張って首元の火傷痕を見せてきた。かつてはミリルの元の身体、西欧女性の首筋の方に刻まれていたものだ。

 それが今では、まりんのものだった身体に元々あったように痕となっている。ミリルは、自身の弱点とまで言ったそれを晒しながら自嘲気味に話し始めた。


「これね、私が幼少期の頃からあるんだよ。物心つく前に、私の不注意でついたものなんだって。でも、今はもう受け入れているし、私も気にしてないけどね」


「そ、それがどうしたって言うんですか?」


「ある時を境に、この痕に不思議な力が身に付いたの。性的接触を発動のスイッチとして、他人の身体を奪い取る力がね。きっと君の極炎と同質の力だと思うんだ。君がその能力を得たのはいつか分かる?」


 炎を操る力については、まりんだって何度も考えたことだ。しかし、そう聞かれた所で能力が発現した理由も原因も、知る由もない。

 ただ、いつからかと聞かれれば、それは凍り付いた東京で目覚めてからだ。炎を発する力が身に付き、ミリルのような同様の人間と出会うようになったのは。

 十年前にはこんな超能力染みた力を使える人間は、やらせ番組の中くらいでしか観たことがなかったのだから。まりんはどうするべきか、少しだけ判断を迷う。

 だが、もしかしたら情報を交換することで、こちらも何かが掴めるかもしれない。そんな淡い期待から、ミリルに対して不信感は拭えなかったものの、素直に話すことに決めた。


「多分ですけど、貴方と会う少し前に東京で目を覚ましてからだと思いますよ。十年前は私だって、ただの女子高生でしたから」


「ふふふ、やっぱり君って、根が真っ直ぐだよねえ。本当に素直でよろしい!」


 ミリルは意を決して話し始めたまりんにニカっと笑顔を向けると、その身体をぎゅっときつく抱き締めた。

 怪訝な顔をしていたまりんとは違い、愉快で仕方がないという顔だ。まるで小動物でも可愛がっているかのように、頬ずりまでしている。


「な、な、何するんですかっ! やめてくださいよ、もうっ!」


「ごめん、君があんまり可愛かったから、ついね。あんなことがあったばかりなのに、また私のことを信用し始めているんだもの。本当に良い子だと思うよ?」


「ふ、ふざけないでくださいよ! 別に貴方を信用した訳じゃないですから!」


「本当にごめんねー、まりんちゃん」


 怒りを露わに頬を膨らませるまりんから、ミリルはようやく離れた。それでもしばらくはまだその顔に名残惜しさを残していたが、やがて背筋を正す。

 まりんも必要以上に、その態度を責めることをしなかった。やはり元の自分の姿をしたミリルに対し、本気で怒ることに抵抗感が拭えなかったのだ。


「ま、話を戻そうか。実はね、私と君以外にもう一人だけ、似た力を使える男を知っているの。そいつは救世ボランティア過激派のリーダーで、その男こそ私が倒したいと願っている敵よ」


「その男を倒すため、私に協力しろってことですか? けど、今更、そんなことを頼める立場だとでも思ってます? あんなことしておいて……」


 ミリルのことをあくまで信用ならない相手と見て疑っているまりんに対し、ミリルは笑っている。

 しかし、その笑みは身体を奪おうとしてきた時のように冷徹な感じはなく、かといって諦めるつもりもないようだ。

 このまま交渉を続けるつもりなら、何か切り札を隠しているのだなとまりんは思った。そしてやはり予想していた通り、ミリルは交渉材料を提示してくる。

 ただし、その材料自体は予想すらしていなかった魅惑的なものだった。


「分かってる、ただでとは言わないから。ギブ&テイクよ、君にとって大事な情報を教えてあげる。夢で君のお父さんが、どこに向かえって言ってたかをね」


「えっ? そ、それを知ってるっていうんですかっ?」


「うん、君が寝言で何度も呟いてたもの。どうする、力を貸す気になった?」


 まさか寝言をミリルに聞かれていたとは思わず、まりんは心が揺らぐ。思い出せそうで、後一歩で出てこなかった夢で見た父の言葉だ。どうしたって知りたい。

 それにもしかしたら、すでに死んでいるかもしれない父の遺言になるのかも。そう考えたなら、判断を思い惑わせるには十分な交渉材料だ。

 また、身体を返すことを条件にしなかったのは、少し見直してもいた。強引に奪われた身体を返された所で、まりんにはプラスマイナスゼロでしかないのだから。


「ねえ、どうする、まりんちゃん。心は決まった?」


「ちなみにそのリーダー格の男とは、どこで会えるんですか?」


「明日の正午、私が奴らと約束している待ち合わせ場所で会えるよ。交渉の場には、あいつも必ず姿を見せてくるの。よほど私にご執心なんでしょうね」


 ミリルの言いなりになるのは癪だと思ったが、彼女の声色にはどこか人の気持ちを落ち着かせる不思議な力があるようだ。

 元は自分の声なのに、抑揚次第でこうまで変わるものだろうかと驚きもした。一度裏切られているにもかかわらず、力になってあげたい欲求が顔を出してくるのだ。

 その気持ちを後押しするように、ミリルは鼻先まで顔を近づけて囁いた。吐息がかかり、まりんは内心穏やかではいられなくなって、目を逸らしてしまう。


「ねえ、お願い、まりんちゃん」


「わ、私の身体で色仕掛けしないでくれますかっ?」


「やーだ。女の武器は有効に使うのが、私のポリシーだもん」


 ミリルがこうやって集落の男達を手玉に取っているのは、容易に想像がついた。しかし、今の彼女はまりんの身体でそれをやっているのだ。

 自分の身体で、こんな好き勝手な真似をされたら堪ったものじゃない。まりんは気恥ずかしさで顔から火が出そうだった。

 それに加えて身体を取られてしまったことに対する、当然の悔しさや怒りも。やめろと言ったとしても素直に従うとは思えず、妥協案を出すことにする。

 彼女の要求を言われるがまますべて呑んでは、話の主導権を握られ、次々に別の要求を突きつけてくると思ったからだ。


「わ、分かりましたよっ。ただし、その男を見てからどうするか決めます。貴方の言葉だけを一方的に信じることは、もうできませんから!」


「うん、いいよ、それでも。取り引き成立だね、まりんちゃん」


 あっさり妥協案を受けてくれたミリルにまりんは拍子抜けするが、一先ずは切り抜けられたと胸を撫で下ろす。

 そう、とりあえずこの場を凌げたなら、それで十分なのだ。後は状況によって、身の危険を感じればその場から逃げ出すなりすればいいのだから。

 まりんは恐る恐るミリルの瞳を見つめると、引き込まれそうな感覚に襲われる。

 やはり彼女は危険だ、と思った。あまり長く側にいると、本当に心の奥底からミリルの持つ魔性に屈服してしまいかねない。

 それだけは嫌だった。だから、機を見て距離を置きたい。まりんは、彼女へのそんな警戒感を肌でひしひしと感じていた。


「さ、皆が心配して待ってるよ。少し歩こうか。皆は君のことを私だと思ってるんだから、あまりおどおどした態度はしちゃ駄目だからね。幻滅されるからさ」


 ミリルはまりんの手を引いて、ベッドから下ろす。まりんは床に予め置いてあった靴を履くと、そのまま彼女にベッドルームの外に連れ出された。

 そこから待合室を通って通路に出るなり、大勢の老若男女が集まっている光景に出くわし、あがり症のまりんは心臓が飛び跳ねてしまう。

 何しろ、全員がまりんに注目しているのだ。その表情を見れば、病床の身だった彼女を案じてくれていたことが、ありありと伝わってくる。

 ただし、正確にはまりんに対してではない。この姿をしている彼女を、ミリルだと思っているからだろう。


「あ、ええと……皆さん、何とか元気になったみたいです。心配させてしまい、すみませんでした」


 まりんが周りからの視線に耐え切れず、謝罪を口にすると、皆が大喜びで押し寄せるようにして寄り集まってきた。

 まりんの手を握って笑いかけて歓喜を表現する女子供や、天井を仰ぎ見ながら彼女の無事な姿に男泣きする男性達など。

 皆が我先に彼女に対して、身体を気遣う言葉を投げかけてくれるのだ。そんな非現実的な光景を目の当たりにして、まりんは不覚にも高揚感と多幸感を覚えていた。

 自分がこれだけの数の人達に慕われている、カーストの上位人物だという、生まれて初めての得も言われぬ体験を味わったのだ。

 これがミリルの築き上げた、彼女を女王とする王国なのか。彼女がこれを手放したくない気持ちが、まりんにも理解できた気がした。


「ねえ、勘違いしないでね、まりんちゃん。お姫様は君じゃないよ」


 ミリルが、まりんの耳元で釘を刺すように小さく囁く。彼女の目は少し前までのように笑ってはいなかった。

 ドスの効いたその顔と声に、まりんはぞくりと鳥肌が立つ。元のまりん自身の姿だが、明らかに敵意に満ち、不機嫌そのものに見えたのだから。


「わ、分かってますよぉっ……」


「よろしい。じゃあ、行こうか。陰キャの君が、その姿でボロを出す前にね」


 ミリルはまりんの腕に手を回すと、二人は人だかりを掻き分け通路を歩き出す。周りの人達は、今のミリルのことを新入りだと思っている。

 そんな新入りに主導権を握られている自分は、不自然なのではないか。怪しまれないように笑顔を振り撒いた方がいいだろうかと、まりんは無理に笑ってみる。

 実際、それは効果覿面だった。この姿なら、皆が良くしてくれるのだから。だが、皆の視線を浴び、声をかけられる度に、ミリルの機嫌が悪くなっていくのを感じた。

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