番外編2〜ヤモリの子守唄

 河馬の欠伸に似た音を立てて電車が駅に滑り込んだ。

居眠りのリズムをとり始めていた私は、口もとを拭いながら半ば夢うつつに目を開ける。

電車内でのうたた寝ほど、現実が曖昧になる代物はない。電車が動き出すと、私は再び瞼を閉じた。鼓膜だけで感じる車内は、動物園を思わせるさまざまな音に満ち溢れている。

蝉たちの合唱。

アフリカ像のいななき。

いるかの笑い声。

ヌーの逃げまどう足音。

鳥の叫び。

さまざまな音の群れが、レンズ雲が浮かぶ新橋色のガラスを振動させながら一瞬で飛び散っていく。

騒々しい音色を孕みながら、電車は今日も銀色に輝くレールの上をなぞってひた走る。

私が目指す田端駅は、まだ先。

窓から差し入る光と影のしま模様が、忙しく踊りながら逃げていくのを瞼の裏に感じる。

徹夜明けで疲れきった私が、そんな穏やかな車内でどうして母のことを思い出したのかはわからない。

駅に停車するたび、ぼんやり開けた目にやたらとたくさんの人の手ばかりが映る。

乗車している人々の、鞄を持ったり吊り革を掴んだりしたさまざまな手を眺めるうちに、無意識に母のしみだらけの手を思い出していた。

その手はいつも少し湿り気を帯び、うっすらと産毛がはえ、しみだらけの甲には青い血管が浮き出ている。

顔立ちの整っていた母は、父と離婚したあとしばらく夜の仕事をしていた。

けれど、留守番させていた私がしょっちゅう熱を出すようになってしまったので、昼間の仕事に転職したそうだ。

母は、焼き魚やカツ丼、ひつまぶしを作ったりする焼き場だったらしい。

慣れてきて1人で任された休日のランチタイムなどはてんてこ舞いで、鰻を焦がしたりして怒られることが何度もあったとおかしそうに話していた。

けれど、現実は安い時給で食べていくのもやっとの状態。

「ママの夢はね、いつかあなたと一緒に世界中を旅行することなの。」

母は、なにかにつけて自分の夢をよく語っていた。

「どう?素敵でしょ。きっと、今まで見たこともないような景色や食べ物がたくさんあるのよ。知らない人がたくさんいて。そこで、小さな事なんてどうでもよくなるくらいに世界は広いんだって実感するのよ」

私たちの貧乏な生活を考えると、夢のまた夢のような話だった。でも母は、夢は叶わないから夢なのだとわかっていたのかもしれない。

それでも私は、おとぎ話のような夢を話しているときの生き生きとした母が好きで、いつか母の夢を叶えてあげたいと思っていた。

母は、夢を語るのと同じくらいの頻度で、夕飯時や就寝時などに前触れもなく突如落胆もしていた。

「ママが無力なばかりに、こんな貧乏な思いをさせてごめんね。ママと一緒にいると、あなたを不幸にするばかりな気がする。ママはいない方がいいのかもしれない。死んだほうがいいのかもしれない」

こんがりと焼かれた滲みだらけの手を擦りながら、まるで小さな子どもみたいに部屋のすみっこに縮こまって涙を流していた。

そんな息苦しくなる母の姿を、夕飯時であればご飯を食べながら、就寝時であれば睡魔に引きずり込まれながらも私は、自分がしっかりして可哀相な母を守ってあげなければと決意していたのを覚えている。

夜のトイレを怖がっている場合じゃないらしい。

母がそうなってしまうのは、祖母が近くにいたにも関わらず母の心がいつも孤独だったからだと思う。

孤独とは自らが張り巡らす場合と、環境が生み出す場合とがあるらしいけれど、母はどちらも兼ね備えているようだった。

母子家庭の女姉妹の一番上に産まれた彼女は、幼児期に父が他界してしまった要因もあって姉である責任を一心に背負い続けて育った。

祖母もそれが当たり前だと思い、彼女を名前で呼んだ事はなく、いつも姉ちゃんと呼んだそうだ。

優秀でもなく不器用な彼女は、要領の悪い思いをしながらも必死に妹たちの面倒をみたが祖母に怒鳴られてばかり。

それでも、祖母を気づかうことが自分の使命だと自負していたのか、真面目さだけが取り柄の彼女は精一杯頑張った。

けれど、いつのころからか彼女は泣き虫の扱いづらい子どもになっていく。

高校生になるころには、ほとんど家に帰らない日が続いたそうだ。

たまに帰っても、家族と食卓を囲むことはおろか口をきくことすらもせず、思春期になるころにはリストカットや摂食障害を繰り返し、家の外に自分の居場所を求め続けた。

その頃の祖母は、妹達の進学も重なりとても手が回らず彼女のことは半分以上あきらめていて、現状を見守ることだけで精一杯。

母は高校卒業間近になるとアルバイトを増やし、高校卒業と同時に祖母に奨学金返済にと言って貯めたアルバイト料を祖母に渡し、家を出て一人暮らしを始める。

祖母は、最後まで母の気持ちを理解することはなかった。

口数の少ない母も、祖母に対してなにかを語ろうとはしなかったから。

私にとっての母は、起伏は激しい性格ではあったけれど、不器用で甘ったれなどこか憎めない人間だった。

それだから私はいくら母に辛くあたられても、叩かれても母を嫌いになれなかったのだと思う。

母は、奥底では関わった人をひどく気にしており、自分を犠牲にしてまで思いやっていた。

ただ、母が気づかう周囲の人間の中に私は入っていないのだなと感じる時は、無性に寂しかったのを覚えている。

母の一番近い場所にいた私には、母は一番心を許していたのだろうと思う。

同時に、だから一番いろいろな気持ちをあてられたのかもしれない。

人はそれを虐待だと言う。

確かに私は母に手を上げられるのが怖かった。

それは色んな形の傷になって私の奥深くに刻まれていったのだろうと思う。

でも、私は自分が受けるダメージよりも、私に暴行をすることで我に返った母が更に追い込まれて自分への苦しみを増しては自己破滅していく姿のほうが何倍も悲しかった。

「いつか、あなたを殺してしまうのかもしれない。ママは、自分が信じられない。私はもう死ぬべきなのよ」

そんな母の言葉が深く私の胸に刺さって、叩かれた痕より痛んだ。


電車が大きく傾いで、ようやく田端駅に到着した。

なぜかいつもホームに降り立った時に違和感を覚える。

屋根から降り注ぐ埃のような光の粒子が作りだす図形のせいでも、連休を迎えて浮き足立っている人々の賑わいのせいでもなく、どことなく居心地悪さを感じてしまう。

私の居場所はここにはないのだと誰かに言われているような。漠然とした得体の知れないなにか。

ではどこに行けばいいのかと問うても答えはない。

なんだかよくわからない現実とのズレなのだと思うしかない。

敷き詰める途中のタイルの端が変な形で余ってしまったどうしようもない隙間に似てる。

そんなことを思いながら、改札を抜け、蝉の声に包まれた野外に踏み出す。

ビルとアスファルトの照り返しがカメラのフラッシュのようになって降り注ぐ中、信号を渡り人気もまばらなひっそりと伸びる白っぽい坂道へと向かう。

私は、額に吹き出る汗を感じ、怠さがまとわりつく足を前へと出しながら、蘇ってきた母との色褪せた記憶を無意識に手繰りはじめた。

男を見る目がない母の周りには、アル中と家庭内暴力しか取り柄のない離婚した父を筆頭に、ダメ男ばかりが蠅のようにたかっていた。

中でも一生忘れられない男は、50歳近い男。

最初こそ優しかったものの、その実、借金やギャンブル漬けのろくでなしだった。

そいつはよく亭主関白を気取りたがったため、誰にでも気を使う性分の母はそれに付き合い、私にも偽装の家族団欒を強制した。

私は別人に見える母のために、そのくだらない茶番に仕方なく付き合う。

どうして、曲がったことや嘘が嫌いで短気な母が2年もあんなつまらない男と付き合っていたのかは不明だった。

「俺の事をパパって呼んでもいいんだぞ」

そいつは、酒に酔うと必ず甲高い猫なで声を精一杯作りながらよく言っていた。

「呼びたくない」

私がそう吐き捨てると、男は私の胸ぐらを掴んで酒臭い息を吐きかけながら脅した。

「クソガキ、調子に乗ってんじゃねーぞ!」

「調子に乗ってんのは、あんただよ」

むっとして言い返した私の言葉に、男は更にヒートアップ。

騒ぎに気づいた母が台所から飛んできて仲裁をするの繰り返しだった。

ちょうど男が我が家に侵入してきてから1年くらい経った秋口だったと思う。

小さな借家の平屋建ての狭い台所には、さんまを焼く芳ばしい匂いが漂っていた。

いつもの口論の最中、男が私の首を絞めようと馬乗りになってきた。

血相を変えた母がすっ飛んできて、すぐに男の下から私を引き離した。

「この子に手を出すなら、出て行って!」

私は、母の言葉にほっとした。

母はこんなクソな男より、私を大事にしてくれているのがわかったから。

ところが男は今度は矛先を母に向けて、酷い言葉を浴びせかけ始めた。

こんなやつのためにどれだけ母が我慢しているのかを知っている私は憎しみを込めて男を睨んだ。

私の手を強く握る母の手がじっとりと汗ばんでくるのを感じた。

母が緊張しているのがわかる。

「もうヤダっ!もうヤダ!うんざりよ!出てって!出てってー!」

怒鳴った母は顳顬に青筋を立てて、倒れそうなほど真っ青になりながら踏ん張って男を睨み据える。

狂人になったと勘違いされてもおかしくない気迫に負けたのか、男は急に腰が低くなって母の機嫌を取り始めた。

「なぁ、そんな怒んなよ。小さなでき心だろ?な、お前も俺がいなけりゃ寂しいだろ?な? 仲良くやろうや」

母の手の平が急激に乾いていく。

手の平に集まった汗が、今度は体中を巡っている。

私を叩いた後の状態と同じ。

私は黙って、母の手を振りほどいた。

夜、母は電気を消した部屋で湿気った匂いのする布団に一緒に寝っ転がりながら、私の手を握り、お腹を優しくぽんぽんと叩いて小さな声でごめんねごめんねと何度も唱える。

あまりに毎晩言うので、もしかしたら母はごめんねが子守唄だとでも思っているのではないのかと訝しんだことすらある。

「おい。いいから放っとけば寝るだろがっ!」

となりの襖を隔てて、男がテレビの音の合間にひっきりなしに母に呼びかけている。

「・・・ママ、いいよ。大丈夫。一人で寝れるから」

私がそう言うまで、母は方肘をついて黙って私の傍に添い寝してくれる。

まるで私がそう言うのをじっと待ってでもいるかのようにも感じてしまい、私はふと母を引き止めているようで申し訳ない気持ちになる。

「・・・そっか」

母は悲しそうな顔をして、波に翻弄されるイソギンチャクのようにゆっくりと起き上がる。

ナメクジのようにのろのろと騒がしい襖の前に歩いていくと、静かに手をかけた。

私はいつもそこで、母がもう一度戻ってきて隣に寝っ転がってくれないかと淡い希望を抱く。

けれど、一度も叶った事はない。

母はおやすみと呟くと、となりの部屋から洩れる灯りに吸い込まれるようにして消える。

残された私は目をつぶり、その場に満ちる音にじっと耳を澄ます。

外から聞こえる虫の声。

遠くを走る車の音。

近所の家で飼っている犬の声。

テレビと男の下品な笑いの騒音。

男に付き合う母の表情のないぽっかりと浮いた笑い声。

それはブラックコーヒーに垂らしたコーヒーフレッシュのように、周りから完全に浮いているのに素早く溶け込んで正体を隠してしまう。

私は鼓膜に受信する音の中で、母のコーヒーフレッシュの笑い声のボリュームだけを上げる。

大丈夫。

この機械的な笑いが聞こえている限り、母は私を置いていってしまうことはない。

母がこの笑い声を出す相手は限られている。

私以外の母の身近な人間すべてに対して、母は不自然な笑いをした。

心底楽しくて溢れる笑いではなく、相手に付き合って機械的に笑っている無理をした笑い。

母は私の前では頻繁に、涙まで流し大笑いをしたし、あまり接点も関係もないような無責任な相手の前では爆笑したりする。

もちろん男と知り合った最初のころの母も普通に笑っていた。

けれど、男の性格や本性に馴染んで行くに連れて徐々に笑いは乾き、音量だけが無駄に大きくなっていったのだ。

私は男と一緒にいる母が大笑いをしているのを見るのが嫌いだった。

そのうえ不安で仕方なかったが、母のテンションが下がった笑いを聞くたびに不安は薄くなり、むしろそれが聞こえているうちは安心できる。

娘の私では母の心を完全に満たす事は不可能で、母が女としての安らぎを得られるのなら、どんなにクソな男でもやっぱり必要なのかもしれない。

だからこそ、母を取られてしまうかもしれない不安と、邪魔にされて捨てられるかもしれないという恐怖は足下から伸びる影のように常に纏わり付いていた。

とりわけ眠ることは、自分の意識下で封印している恐怖の意識が剥き出しのまま夢になって現れるので本当に怖かった。

母は常に一緒についていてはくれない。

となりの部屋から聞こえてくる母の笑い声は、いつしか私の安眠剤になっていた。

変わった子守唄。


 私は昭和の香り漂う小じんまりとしたくたびれた商店街の通りから横に入ると、見逃してしまうくらいの小さな扉が開け放してある建物の中に踏み込み、奥の階段に向かって伸びる薄暗い廊下に並んだ1つの焦げ茶色に塗られた合板扉の前で立ち止まって鞄から鍵を探した。その扉には控え目な具合に107と書かれた小さな白いプラスチックプレートが真ん中から少し上寄りにくっついていた。

 昼間だと言うのに、活気も人気の欠片もない由緒正しい埃の匂いのような沈黙にひんやりと包まれた寮のような造りをしたそのアパートの一階が私の住まいだった。開け放した出入り口から滲む視界が真っ暗になる程の光量とは正反対に地味に灯る白い小さな電燈の下、鍵はなかなか見つからなくて私は会社に置いて来たのではないかと躍起になり焦り始めていた。ようやく手帳に挟まれた恰好になって見つかり、安心して鍵を開けて中に入り後ろ手に扉を閉めようとした時だった。蛙を踏みつぶした時のような小さな水風船でも弾けたかのようなケッっと言う音が不意に真横でしたので、驚いて振り向くと扉の上方に張り付いた小さくて白っぽいヤモリが慌てて天井に逃げる所だった。

 なぁんだ。ヤモリかぁ。虫もトカゲも嫌いではなかった私はそれ以上特に気にもせず、そのまま扉を閉めると昨日出掛けた時のまま開けっ放しになっていたカーテンを引くとお風呂場に向かった。とにかくあまりの眠さに一刻も早く窓辺のベッドに倒れ込みたかったのだ。


 母が男と別れてしばらくして、学校から帰った私がどんよりと泥水を吸い取ったような雑巾を敷き詰めたような空の下、安い如雨露から降り注ぐような大粒の雨音を聞きながら家の窓際に寄り掛かって宿題をしていると、いつもより更に黒緑色に沈み込んで見える玄関の扉を叩く荒い音がした。

 私は祖母かと思って特に躊躇もせずに扉を開けた。祖母は別に怒っているわけではないのだが何故かうちに来ると必ず苛々と乱暴にノックをするのだ。

 しかし、予想に反して立っていたのは別れた男だった。私は一瞬で考えもせずに開けてしまった事を心底後悔した。色褪せた落書きのように灰色の雨が降る日暮れの景色に沈んだ男はもの凄い形相で、その手にはやけに煌めくカッターナイフが握られている。確認もせずに無防備に扉を開けてしまった愚かな私は殺されるのかもしれないと頭に過った。

「お前だろ? あいつに変な事を吹き込んでたのは!」

 別れた事を逆恨みにしているらしく、しかもその矛先を私に向けてきたのだ。お終いかもしれないと恐怖が足下から這い上がってきた細かい無数のウジ虫のようにぞろぞろと一瞬で冷や汗に濡れた背中を這いずり回るのを感じた。

「・・・そんな事 してない」

 なんとか絞り出した声は乾涸びていて到底男の耳に届いたとは思えない程頼りないものだった。私は後ずさりながらなにか応戦出来る物はないかとコントラストが濃くなった部屋の彼方此方を盗み見た。男は遠慮なく踏み込んでくる。

「お前のせいで俺達の仲が悪くなったんだ。お前がいなけりゃ俺達はうまくいってた」

「そんな事ない。だって、ママはいつも無理して笑ってたんだ」

 思わず口を突いて出てしまった言葉をしまったと思った時は遅かった。男は血に餓えた獣のような叫び声を上げながら私に襲いかかってきた。けれど、私は逃げられなかった。母に叩かれる事の多かった私は逃げられないように体に染み込ませてしまっていた。母の怒りに満ちた手で叩かれるのが恐ろしくて、その恐怖のあまり体が竦んで逃げられなくなっていたのだ。私は男のカッターナイフの切っ先をモロに顔に受けた。男の憎しみの力強さに操られたカッターは思いのほかよく切れて、私は痛さと流れ落ちる血に動転してしゃがみ込んだ。男もそれは同じだったらしく私の顔から滴る鮮血を見ると急に怖くなったようで一目散に逃げていった。

 残された私はどうしていいのかわからず、泣きながら切られた顔を押さえていた。すると隣に住む老夫婦が開きっぱなしの扉を不審に思って怖々覗き込むなり慌てて駆け寄ってきた。

「可哀想にこんなになって、一体どうしたんだい?!」

「きっと、この子の母親よ。いつもなんだかおかしい感じだったから」

 警察と消防車に電話をしてからタオルで私の顔を押さえつつ勝手に話している老夫婦の言う事に私は反論すら出来なかった。そんな力等残されていなかったのだ。男は私の顔と一緒に、私が母に対して必死に受け止め続けていた最後の砦も切ってしまったのだと自分の血をぼんやり見つめながら思った。私を囲んで好き勝手に議論する夫婦の声が雨音と混じり合ってやけに耳障りに響く。

 駆けつけてきた警察と消防士が事情を聞くと、今頃必死に熱さと戦って鰻を焼いたりホッケを焼いたりしている母の代わりに老夫婦は自分達が思った事を大袈裟過ぎる程の見ぶり手振りを交えて供述した。

「虐待ですよ!早くこの子を安全な所に匿わないと」

 神妙な顔をして頷く警察官と救急隊員を血で濡れたタオルを通して見つめながら、私は母との別れを予感したがもうどうにもできなかったし、どうでも良くなったのかもしれない。母との綱渡りのような生活に正直疲れたのかもしれない。大人達の様々な声はもう何を言っているのかすら判断が出来ない。ただ、雨音が一段と激しくなっていく。気が狂いそうなくらいに頭に鳴り響く。私は自分の手の平にこびり付いて乾いている自分の血をただ見つめた。雨の音が私を取り巻く騒音達と相俟って音量を増していく。うるさいよ・・・放っといて。もう聞きたくない。



 止めどなく並々と満たされていた眠気がお風呂から出ると同時に蒸発してしまった私はとりあえず疲れた体をベッドに横たえていた。こうしておけばそのうち眠れるだろう。そして遮光カーテンで遮られた薄暗い木目の天井を眺めながら、左目の下から伸びる一筋の傷跡をなぞるように私は軽く触れた。もう触っても凹凸もなく、ただ埋め込まれたような線がわかるだけの古傷なのだけど折に触れてその存在を認識する度に、切られた直後のような痛みを感じる気がするのだ。

 あの事件の後、私は山奥の施設に入れられて母とは離ればなれで暮らす事になった。独りぼっちになった母は酷い精神病になってしまい、とうとう入院してしまったのを後で聞かされた。

 最後に面会した時の母は私の頰に張られたガーゼの上を泣きながら何度も撫でてごめんねごめんねと悲痛に満ちた声で繰り返していた。私はそれを抜け殻のようになってただぼんやり見つめるだけで不思議と言葉も涙もなにも出なかった。

 この傷がついてからそう言えば私はもう殆ど泣かなくなってしまった気がする。涙が流れた痕のようなこの傷があるからか。それとも泣く事すらも出来なくなってしまったのかは定かではないが、私は喜怒哀楽を感じる事がなくなった。いちいちの感情を表に出す事すらわからなくなってしまったのかもしれない。

 母はと言うと、元々そんなに物事を深く考えるような性格ではなかったのも手伝ってもう大丈夫だと言われて退院したが、何度となく私のいる施設に無断侵入して来ていたので摑まってはまた病院に逆戻りしたりしていた。

「どうして自分の娘と一緒に暮らしちゃいけないの?」

「どうして暮らしたらいけないのがわかっていないからですよ」

「私は正常よ。だから娘を返してよ!」

「まだダメですよ」

 そう言われて何度となく落胆した母だったが、めげずにまた私のところに来るのだ。けれど、施設に預けられた事は私にとってもとても良かったのだと思う。

 少なくとも母と離れた事で冷静になる事も出来たし、施設にいた他の子どもと接する事で物事を深く考えられるようにもなった。だから、一年を経た私は母ともう一度一緒に暮らそうと思えるようになったのかもしれない。

 私は静かに目を閉じた。カーテンの隙間から空が悲しい程青いのが手に取るようにわかる。私と暮らせる事が決定した数日後、興奮した母がそれを押さえる為に多めの安定剤を服用して洗濯物を干そうとベランダに出た時、5階から誤って転落してしまった。母が病院に運ばれたと知らせのあったあの日も色とりどりの落ち葉のような木々に囲まれた施設の上には雑に描かれた羊雲がのんびりと散歩をする平和そのものの秋の青空が果てしなく広がっていたっけ。母は運悪く首から落ちてしまい即死だったと迎えに来た祖母は涙ながらに言っていた。母の為にこんなに涙を流して悲しむ事が出来るんじゃないかと祖母に対して奇妙な気持ちになったのを忘れない。あの時にも私は悲しいかな涙すら出て来なかったな。

 私はただ祖母を振り切って外に飛び出して行き、いつも追い出される母を見送っていた門の傍に生えているガジュマロの木に登り、何度目かの誕生日で母からもらった銀色のハーモニカをがむしゃらに吹き鳴らす事しか出来なかった。

 雨を恐れるようになってしまった私にはもはやそれしか出来なかったのだ。

 不意に乾いた笑いが部屋に木霊した。その懐かしい声に私は驚いて目を見開き部屋を見渡した。ママ・・・

 しかし、私が探していた人形はいる筈もなく、ただ壁にぺっとりと張り付いたヤモリが再び鳴いた。そして、間隔をあけて何度か鳴いた。

 なんだ・・・はは。ヤモリじゃん・・・ヤモリが鳴いただけ。

 私は落胆したと同時にその声を聞きながら安心して眠りに落ちようとしている自分に気付いた。そして頑固に出なかった涙が温かい滝のようになって目頭から耳の上を伝っているのを感じた。ごめんねと何度も囁く懐かしい母の声が何処からか聞こえたようだった。ああ、そうか。お盆だからか。起きたら祖母に電話しようと思いながら、私は崩れるように深い眠りに引きずり込まれていった。

 ママ・・・

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珈琲日和 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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