番外編〜真空管に灯る想い
どうして、いつも伝わらないのだろう
君の姿を見ただけで、こんなにも心を揺すぶられてしまうのに
君と話しただけで、一喜一憂してしまう程同様するのに
いつまで経っても、なにも、欠片すらも君には伝わらない
もどかしい僕のこの想い
一体いつになったら 一体いつになったら
「って言うか、自分が伝えようと努力しなきゃ、相手に伝わるわけないじゃない。ねぇ?」
郵便受けに突っ込まれていた差出人不明の手紙で簡単な紙飛行機を折って、遠くのゴミ箱目掛けて飛ばしながら、呆れたように美和子が言う。真っ直ぐに目的地目掛けて飛んで行った紙飛行機はゴミ箱の端っこに当って無様に墜落した。美和子はそれを拾おうともせずに、立ち上がると冷蔵庫の上に乗っかった使い古した真空管ラジオのスイッチを入れた。マジックアイのエメラルド色の扇が2つ開かれたと思うと、丸っこいような音で陽気な放送がクラッカーを鳴らしたように吐き出され、一気にそこらが心地良い雑音に塗れた。美和子は流れてきた曲に合わせて鼻歌を歌いながら、体をくねらせてスープをよそう。
彩子はそんな母親の様子を、きつね色にトーストされ満遍なくバターを縫られたパンをゆっくりと咀嚼ながら遠い目で見ていたが、口の中のパンを飲み下すとふと口を開いた。
「・・・ママさぁ、せっかく人から貰った手紙を、そんな風にするのやめなよ。いくら誰だかわからないからって言っても、その人が可哀相だよ」
「今日は雪が降るかもしれないわねぇ~」と、美和子は面倒臭いので彩子の質問には答えずに違う事を言った。それが余計に彩子の気に障ったようだった。
「ねぇ、そんな事をすると可哀相だって言ってるんだけど!」
「え~? 可哀相って、自分の名前も堂々と書く事が出来ない人が? 自分の気持ちだけを巻き散らして、こっちに勝手に期待して押しつけてるみたいな内容の手紙を? そんなの捨てられて当然じゃない? じゃあ、あんたはどうしたらいいと思うの?」
美和子は振り返りもせずに、後ろで1つに結った赤茶けた癖っけの髪を揺らしながら、引き続き鼻歌を歌い、よそったスープに桜えびだの、粉チーズだのをトッピングした。
「恥ずかしくて書けなかったんだよ。きっと・・・すごい勇気出して書いたんだよ。きっと」
彩子は思い詰めたような感じで、パンを食べるのも忘れて呟くように言葉を続けた。美和子は出来上がったスープを食卓に並べながら、真新しい中学の制服をきちんと着て、少し節目がちにパンを見つめているそんな娘の様子を横目でちらっと眺めると、片方だけ眉を顰めてからかうように笑って言った。
「な~んか、まるで自分の事みたいに、彩子にはその人の気持ちがよ~くわかるのね~。すごいわね。でも、ママにはさっぱりわからないし、理解したくもないわ。だって、男の癖に根暗って有り得ないもん。それに、こんな風にして相手に自分の思いばかり押しつける男って、付き合ってもこっちの事情なんてお構いなしの俺様が多いのよ。ただ自分の中で思っているだけで、全く違う時間を生きて全く違う気持ちや心で生きている相手になんて伝わる訳ないじゃない? 奇跡を待ってるみたいな感じで好きじゃない。奇跡って自分で起こすものでしょ」
美和子がいつもの調子で自身たっぷりに解説したが、彩子は眉間に皺を寄せただけだった。
「ママはそうだろうけど、そう出来ない人だって沢山いるのよ。頭ではそうしたくても上手く出来ないの。そうやって自分の価値観だけで物事を見るのはやめてよ。いくら色々苦労してきたからとか経験してきたからとかでも、ママのそういうのだって充分押しつけがましいし、それがぴったり当て嵌まるのはママだからでしょ? 少なくともあたしはママとは違うもん」と、なにが気に入らなかったのか、彩子はやけに食ってかかってくる。ところが美和子も大人げなく負けずと言い返すものだから、朝から徐々に口論になってきてしまった。
「ねぇ、あんた、なに朝から苛々してんの? どうしたの? 生理でも来てるの?」
「生理なんて来てないし、苛々してもない。なに? あたしがそうやってママの考えと違う事言うのがそんなに異様に見えるの? そんなに普通に受け入れられないの?」
「そんな事言ってるんじゃないよ。話がズレてるでしょ。もうわかったから、ママが誰だかわからない相手に貰った手紙を、雑に扱ったのが気に食わなかったんでしょ? ママはこんな名前を明かす勇気も持ち合わせていない男なんかどうでも良いってだけだから。まぁでも、とりあえず謝るから、朝ご飯食べて学校に行ってよ。遅刻するよ」
美和子が苦笑いをすると、彩子はいきなり席を立って脇に置いた鞄を掴むと、騒がしく扉を閉めて家を飛び出して行ってしまった。後にはホカホカと湯気のたった手つかずのスープと半分齧っただけのトーストが寂しそうに残されていた。美和子は大きな溜息をついて崩れるようにして椅子に座った。いつの間にかラジオの電波が途切れてしまったらしく、マジックアイが不安定そうに扇を開いたり閉じたりしている。部屋中に耳障りな低音ノイズが鳴り響いている。美和子は面倒臭そうに立ち上がると、ラジオのスイッチを切り、スープには手もつけずにお湯を沸かし始めた。まったく。年々娘の考えている事がよくわからなくなっている。小学生からようやく中学生になった最近は、本当になんだかこんな些細な事での口論が本当に多くなったのだ。今まで当たり前に通ってきた美和子の考えに彩子がいちいち反発してくるのだ。俗に言う反抗期とか思春期とかいうやつなのかもしれない。
美和子は再び席につくと半分程冷めてしまったスープを啜った。ぼやけた視界には彩子が残して行った冷たくなったスープとゴミ箱の側に落ちている紙飛行機が、やけに纏わり付いてくる。だって、人同士の価値観が違うのなんて当たり前じゃない。あの手紙の主が自分の価値観を貫いてああして何をしたいのか不明な手紙を無記名で出して来るように、母親と娘との価値観が合わなくたって仕方ないじゃない。血液型だって違うんだし。どうしてそう、食ってかかってくるのよ・・・美和子は再び深い溜息をついた。
彩子がよく懐いていた彼氏と別れて1年が経とうとしていた。不倫だったし、美和子の精神的な負担が大きかったので別れた事に後悔はしていない。3年かけて後腐れなくしっかり別れられるように準備したようなものだった。そんな事を考えると、一体何の為に付き合っていたのかすらもよくわからないけれど、結局、不倫なんてそんなものなのだと思うのだ。
妻子持ちの男は家庭を捨てるなんて出来ないし、負担がかかるのはいつの時代も女だけ。そんな下手な昼ドラマでも視聴率の上がりそうもない在り来たりな図式にしっかり嵌り込んでいる自分が滑稽に思えて、その前では相手への愛だとか相手からの愛だとかがやけに薄っぺらく感じて、未練とかやけとかの類いと化しているのかもしれないと思った。誰かを傷付けて得るものなんて、ろくでもない。そんなものに価値なんてない。誰かを傷付けるくらいならそんなものいらない。そう思った。だから、寂しいだとか選ばれなかっただとかの自分のプライドから多かれ少なかれ必ずくるくだらない未練以上の相手への呆れとか諦めとか嫌悪感を認めて、相手の細かい思い遣りの全てに気付かない振りをして、そういう風に自分の心を閉じて密かに別れる為の準備をしたのだ。そうでもしないと、恐ろしい程の嫉妬や醜い感情で押しつぶされてしまって到底やり切れなかったと思う。神経がおかしくなり、度々発狂しそうになり、生きている充実感までも奪われてしまいそうになり、何度も精神科に通った。慣れない薬を飲んでは卒倒して、二日酔いのようになって仕事も手につかないような事もあった。それまで、気合いと心意気だけで生きてきた美和子には堪えられない仕打ちだった。そんな美和子の様子を彩子はただ1人、側でじっと見つめていた。だから、別れると打ち明けた時も、なにも反対しなかったのだと思う。彩子は心優しい子だった。だから、それに甘えた形になっていたのかもしれない。お湯が沸騰する音が静かに聞こえた。随分と物思いに耽っていたらしく、いつの間にか、ヤカンから怒ったように湯気が沸き立っている。美和子はそのお湯でインスタントコーヒーを入れた。カップを置いたテーブルの端っこには彩子がメジャーを使って色々なものを計るのがブームだった小学生の頃に計ったテーブルの長さがボールペンで彫られていた。『縦66せんち 横120せんち』美和子はそれを指でなぞりながら口を尖らせた。今までした事、選んできた事に後悔なんてしてない。したって仕方ないじゃない。判断を頼れるのは、いつだって自分一人しかいなかったんだから。
漂白されたように白い空の下、登校して来る生徒達に混じって、彩子は無関心を装いながら密かに辺りに目を配り極めてゆっくりとした歩調で歩く。・・今日はいないみたい。寂しいような、ほっとした気楽なような、残念なようなおかしな気持ちになる。小さく溜息をつくと、誕生日に買ってもらったばかりの音楽プレーヤーのイヤホンを耳に突っ込み再生ボタンを押す。聞き慣れたラブソング。又しても一気に気分が高揚してくる。ダメだ。こんなの聞いて自分の気持ちばかり勝手に盛り上がってしまったら暴走でもしてしまいそうで怖いし。彩子は急いで他の曲を探す。これでいいや。軽い感じのpop。どんな風にも取れる前向きな感じの歌詞。諦めなければ、明日は来る。とりあえずはいい感じ。気楽に行こう。考え過ぎずに。まるで呪文のように繰り返しながら、彩子は学校に向かって無機質な色で佇む辛気臭い校門を潜る。その頃になると、かなり曲に浸っていて乗り乗りで踊るようにして下駄箱で靴を脱いだ。散らばった靴を拾い集めて顔を上げると、不意に目の前を1人の男子が横切って、スムーズに靴を脱いで靴箱に入れて上履きを履いた。彩子の胸は高鳴った。
「お、おはようございますっ」なにか言わなきゃ。とりあえず挨拶だけでもしなきゃ。口からついて出たのはそんな言葉だった。どうして敬語? 同級生なのに。訳分からん。
適度に体格のいいその男子は、分厚いマフラーを鼻の下まで巻いて、眠そうな目を瞬かせながら彩子を一瞥すると「おっす」と一言呟くように言って、彩子の横を間隔を置いてさっさと通り過ぎて行った。その一挙一動を目で追っている自分に気付き、我ながらなんかキモイなと恥ずかしくなる始末。でも、少しでも視界に入った事が嬉しくて、返事を返してもらえた事が嬉しくて、今日もなんだかんだときっと目で追うのだと思う自分。でも、やっぱり恥ずかしい。そんな事を延々と考えながら彩子は上履きを履いて教室に向かった。教室の扉を潜れば、他の男子と楽しそうに笑って話している彼がいて、同じクラスで良かったと思う瞬間。でも、表面には出さない。キモイとか思われるの嫌だし。なにより恥ずかしいもん。
「彩子おはよー」何人かの友達が話しかけながら席の周りに集まってきた。
「今日、数学抜き打ちあるらしいよ~やば~なんも勉強してない~」とか言いつつ、みんなは塾でちゃっかり勉強しているのを彩子は知っているので、適当に相槌を打つ。うちは一人親でお金がないのと、ママの方針で塾には行かせてもらえない。本当は行きたいのに。彼が行っている同じところに行きたいのになぁ。ママのバカ。
「ねぇ、ねぇ、見て。今日も千谷君カッコいい~」友達が男子を盗み見て騒ぐ。千谷君はクラス一の小顔のイケメン。女子の大半は千谷君のファンなのだ。彩子のお目当ての彼はその千谷君のグループの1人。何故か千谷君に一目置かれている存在。面倒臭そうに学級委員を勤めるミスのない博識ある彼。外見はパッとしないのかもしれないけれど、バスケ部に所属してそこそこの位置にいる彼。彩子はその物静かなくせに、話すと案外楽しくて、笑うと爽やかなその彼がずっと気になって仕方ないのだった。学級委員に自ら進んで立候補したのも彼と一緒にいたいが為。本当は頭も良くないし、ドジばっかで恰好悪いところばかり見られるから気まずいんだけど、それよりも彼と何らかの共通点ができるのが嬉しかったのだ。
「今、空いてる? これ、人数分ずつそれぞれコピーしといて」
昼休み、彼はそっけなくそう言いながら彩子の顔を真っ直ぐに見つめて、机の上に何枚かのプリントを置いていった。お弁当を食べていた彩子は、見つめられた恥ずかしさに真っ赤になってもごもごと返事をしたが、彼はもう既に何処かに消えていた。友達が文句を言った。
「自分でやればいいじゃなーい。きっと男子とバスケしに行ってんだから。ねぇ、彩子」
「え、ううん。平気だよ。忙しいから、きっと他にやる事があるんだよ。いつもそうだもん」
「へぇー・・・そうなんだぁ。あの子って同い年の割にはしっかりしてるけど、なんかぼんやりしてる子だよねぇー変に冷たいって言うか、印象が薄いって言うかさ」うるさいな。黙って。見た目しか見てないあんた達に彼の良い所なんてわからない。確かに冷酷なところはあるかもしれないけど、彼は彼なりにすごく気を使っているし、色々考えているんだから。ただ、不器用なだけで。話す時に人の顔を真っ直ぐに見るように、何でも真っ直ぐに考えている人なんだから。すごく、しっかりした人なんだから。なんて考えながら、彩子はプリントを愛おしそうに纏めて、お弁当を仕舞うと友達を残して立ち上がった。彼が、あたしを探して、あたしの所にわざわざ足を向けて、あたしを真っ直ぐに見て話しかけてくれるんならこんな用事でも舞い上がる程嬉しい。期待に沿うように頑張らなきゃ。浮かれた気分で彩子はひんやりとしたコピー室に籠って、手が冷たくかじかむのも構わずに、コピーを取っては出来上がっていくプリントを纏めてホッチキスで止める作業を昼休み中延々していた。
「最近、娘の考えてる事がわからないんです。助けて下さい」
店の開店準備をしながら、美和子は従業員のジョンソンに愚痴った。ジョンソンは何の事かと目を丸くして首を傾げ、美和子が言った日本語を理解しようと努めているようだった。
「ソレハ、アヤコチャンノコトデスカ?」
片言の日本語を返されて、美和子はそうだった、この人日本語を勉強中でまだよくわからないんだったと、ふと説明するのが面倒臭く感じてしまって思わず放り投げた。
「No thank you。なんでもないわ。all ok!よ」美和子はそう言って煙管を取り出してやるせなさにそうぷかぷかと煙草を吸った。ジョンソンは氷や料理の仕込みをしながら、小粋に被った中折れ帽子の下から美和子の様子をじっと眺めていたが、しばらくすると徐に口を開いた。
「アヤコチャンハ、シッカリシテルヨ。シンパイナイ」
美和子は煙管から口を離し、驚いたようにジョンソンを見遣ったが、にこやかに微笑むジョンソンにつられるようにして笑って、そうよねと言った。
「なるようになるわよね」
いつもそうだったし、これからだってそれはかわらないのだから、不自然な形でなければ自然となるようになっていくものなのだ。それは身を持ってよく知っている。ずっと一番近くで見ていた彩子も恐らく充分わかっているだろう。と思う。多分。とりあえず、自分が母として出来る事は受け止める事かな。上手く受け止められるか受け止め損ねてしまうかは、別問題でその心構えが必要なんだな。きっと。よし、頑張ろう。なに言ってもやって行くしかないんだし。もし、受け取り損ねたら、思う存分喧嘩して腹を割ればいいや。彩子が割ってくれればの話だけど。美和子は立ち上がると、店にも備え付けた真空管ラジオのスイッチを入れた。薄暗い店の中で、マジックアイが怪し気にエメラルド色の翼を広げる。いつ見ても綺麗な色。中に入った真空管の形も好き。電気が通ると控え目にほんのりと橙色に明るくなるのを見るのも好き。今の家電製品みたいにいかにも働いてますみたいに大袈裟じゃないところもいいし。押しつけがましく主張しなさ過ぎない感じが好きだなと、美和子は惚れ惚れとラジオに魅入った。
って言うか、そう言えば、どうしてあの子は今朝あんな事に噛み付いてきたのかしら?
美和子は火種が燃え尽きた煙管を口に加えたまま、思い悩んだ。あたしに送られてきた無記名の主張し過ぎのラブレターの事かしら? でも、なんであんなに怒らなきゃいけなかったの? 訳分かんない。美和子は彩子が今朝言っていた事を思い出そうとした。
『恥ずかしくて書けなかったんだよ。きっと・・・すごい勇気出して書いたんだよ。きっと』
あ。思わず美和子は手を打った。成る程ね。はは~ん。わかっちゃった。ママはわかっちゃったもんね~♫美和子は、ふふんと1人でほくそ笑むと新しい煙草を詰めて得意げに火をつけた。ま、それでもあたしは温かく見守るわよ。だって、彩子のママだもん♪
「彩子、お弁当作っといたから、持ってってね♪」
「・・・うん」面倒臭がりのママが珍しくお弁当を作るなんて、なんだか気味が悪いけど、ママのお弁当は美味しいからいいかと、彩子は食卓に既に用意された弁当箱を包んだ。今朝の美和子は変に機嫌が良くてやっぱり不審だけど、今日は放課後に学級委員会があるから彩子は頗るご機嫌だった。放課後になにも喋らなくても彼とただ一緒にいられるなんて滅多にない。
普段はお喋りな彩子も彼の前では上がってしまって緊張して上手く喋れなくなってしまう。彼からもなかなか話してこようとはしないので、余計に2人でいる時間は無言になってしまう。彩子はそれでも良かったのだが、もしかして彼が苦痛に感じているのではないかと時々心配になってしまうのだ。学級委員会はそれぞれの席に隣り合わせに座ってただ、話を聞いていればいいし、時々彼が発言する事を聞いていればいいから気分的にも楽だった。
「行ってきます」マフラーを巻いて、美和子を振り返りながら彩子がそう言うと、歌でも歌っているかのようなご機嫌な声が返ってきた。「行ってらっしゃーい♫」
玄関を出ると、空は白んだ冬晴れで、太陽は高く何処までも眩しかった。あーなにか絶対良い事起こるよ。きっと。彩子の気持ちは晴れ晴れとして高鳴った。
その日は、気のせいか、何度も彼と目が合った気がした。勿論彩子は頻繁に彼を見ているのだが、彼が全くなんとも思っていない彩子を見る事は滅多にない。目が合うと言ってもほんとうに0.0秒くらいの世界なのだけど、それでも視線が合う度に最高に嬉しくなって同時に恥ずかしくて思わず自分から視線を逸らしてしまうのだった。そのくせ、バレないようにして覗き見したりして、本当にストーカーの域だなと我ながら苦笑いしてしまう。
だって、あたしには恐れ多くて、彼はすごい高嶺の花で、とてもじゃないけど、堂々となんて見つめられない。彼にはあたしは不釣り合いだし、もっと彼にはスタイルが良くて頭が良くて優しくて女の子らしくて可愛い子が似合うもん。がさつなあたしなんて到底目じゃない。そこまで考えて、萎えてきた。授業もそっちのけで、両思いになんてなれないのが解っていながらなにやってんだと、自問自答し始めた時、不意に先生に名指しされて彩子は慌てて立ち上がった。思いの外、立ち上がった拍子に倒れた椅子の音が大きく響き教室に鳴り響いた。
「なんだ? 聞いてなかったのか? 教科書を読みなさいと言ったんだぞ」
選りにも選って一番意地悪い教師に当ってしまった。彩子は真っ赤になって教科書を手繰ったが、聞いていなかったものだから何処から読んだものか全くわからない。いつもの癖で思わず彼の方を見ると、彼が教科書を開いて一部分を指差していた。感動と恥ずかしさで真っ赤になってつっかえながらも、彩子はなんとかその彼が指していた部分から読み始める事ができた。読みながらも彩子の頭は違う事で一杯だった。まさか、助けてくれるなんて・・・!
でもよくよく思い返せば、彼は彼方此方で目立たないように、色々な事を手助けしてくれているのをよく見かけるのだ。優しい。さすが、あたしが好きになった人だわ。と、その度に彩子は誇らしくなったりして。視界の箸で彼の姿を認識しながら彩子は嬉しくなった。
丁度同じ頃、美和子は白い息を吐きながら縁結びで有名な神社に1人訪れていた。念入りに書き込んだ絵馬を椿の茂みに吊るす。と、そこで、足下に落ちている椿の花に気付いて、なんだか不吉な感じを覚えてせっかく吊るした絵馬を外した。椿の花は花共落ちる。それの絵図らがなんだかあまり縁起が良くなく見えてしまい、境内を散々探し回って桜の木があったのでそこによじ登って引っ掛けた。次いでに手を叩いてよくお願いしておいた。まだ蕾すらもつけていない桜の木は寒空に腕を伸ばし、何処ぞの母親の娘への思いなんぞ知らんぷりをしていた。
「学級代表委員会を始めます。まず、最初の議題は・・・」
待ちに待っていた学級委員会が始まった。が、彼はまだ来ていなかった。彩子は隣が空いた席でポツンと座って死んだ魚のような目で黒板を見つめていた。どうしたのだろう? いつもなら5分前には来ている彼が、サボるなんて絶対有り得ない。来る筈。絶対。来てくれる筈。机の下で握り拳を固める事30分。ようやく彼が現れた。どうやらバスケ部の部員で怪我人が出てしまい病院まで付き添っていたようなのだ。良かったと彩子は息をついた。
彼は慌ただしく彩子の隣の席につくと、配られたプリントに目を通し、黒板に書かれた内容を確認しながら、大事な部分をプリントの裏にメモっている。その様子をうっとりと盗み見ていた彩子は、自分はなにも書いてないのに気付いて慌てて書き出し始めた。何も言葉を交わさないけれど、満たされていく静かな時間。幸せだなぁ。
「では、本日はこれで終了です。宜しくお願いします」
彼が来てからあっと言う間に委員会が終わって、彩子が残念な思いで椅子や机を片付けて帰り支度をしていると、いつの間にか隣の彼が寝ている事に気付いた。他の学年の人達はさっさといなくなってしまっていたので、彼の眠りを妨げるものはいなかった。
消えてしまうんじゃないかと思うくらいの真っ白い空からの微かな光りの下眠る彼のあどけない寝顔に、彩子は思わずじっと見入ってしまった。何故か、彼の寝顔を含めた全てが懐かしさすら感じられた。どうしてだかはわからないけれど。なんだろ、この感じ、ママに初めて見せてもらった透き通った真空管の小さくて温かそうな灯りを見た時のほんわかした不思議な感覚に似ている。小さな灯り。小さな希望。透き通った彼の聡明な意思に灯る小さな光。素敵だな。彼には誰も敵わない。そんな彼を今なら、思う存分見れる。こんなに誰にも邪魔されずに独り占めして見つめる事が出来るなんて、なんて贅沢な事なのだろうと思った。彼を好きで良かった。この人を好きで良かった。本当に。例え、彼とこの先どうにもならなくても、あたしはずっと彼の事を好きでい続けるのだろうなと感じた。その思いを決して表には出さないのだろうなとも思った。ママに送られてきたあの手紙のように無記名であっても思いを伝える事なんて、到底あたしには出来そうもない。ただ、こうして彼を見つめられればそれで幸せ。
結局、彩子はそのまま彼の側に突っ立ったまま、30分後に泣く泣く彼を揺り起こした。
「悪ぃ。すっかり寝てた」と、彼は寝ぼけ眼のぼんやりした目をして、彩子を見た。寝癖がついた髪が可愛らしい。伸びをすると、寝起きだからか彼は立ち上がろうともせずに窓の外を眺めていた。彩子は気恥ずかしくなってきたので、その場を立ち去ろうと帰り支度を始めた。
「・・・雪 降ってきたな」
呟くように言った彼の言葉に振り向くと、カーテンが開け放たれた教室の窓中に薄灰色の影を持った雪の花弁が一面に舞っている。見事な眺めだった。それを呆然と見遣る彼の姿が相俟って、やけに彩子の胸に迫ってきた。綺麗過ぎる。本当に。涙が出るくらい。
彼が彩子を呼び出したのは、雪ばかりが降り続いていた寒い放課後だった。何事かとちょっとだけ有り得ない想像に胸を膨らませて冷気が漂う誰もいない廊下に出た。彼はちっとも寒そうではなさそうに、いつもの調子で、真っ直ぐに彩子を見つめて切り出してきた。
「この間、集めた修学旅行の集金なんだけど、一人分足りないって知ってた? 集金袋を集めた時に一個だけ軽かったり、足りなかったりしたのとかって覚えてる?」
「え? でも、あたし・・・ちゃんと全員分 確認した・・・」唐突過ぎて言葉が出て来なかった。って言うかそんな時の、そんな細かい事なんて覚えてない。でも軽かったり足りなかったりとかはしてなかった筈だし、でもそれを実証しろって言われてもそこまで確かな記憶じゃないから無理だよ。え・・・でも、どうしたらいいの、これ。彼の責めるような何かを見透かすような真っ直ぐな視線に突き刺されるように見つめられて、彩子は恥ずかしさと恐ろしさにじっとりと背中を冷や汗が濡らすのを感じた。何これ・・・もしかして、あたし疑われてるの? あたしが取ったとか思われてるの? あたしが誤摩化してるとか思われてるの?
彼の少しも逸らそうとしない視線は、明らかに真相を彩子の中に探ろうとしているような眼差しだった。その目に見つめられていると、まるで自分がやりましたと嘘でも言ってしまうような感じに陥りそうだった。でも、ここで視線を変に泳がせたら更に怪しまれる。八方塞がりで、もう泣きたくなってきた。ごめんなさいって言えたら、もっと楽なのに。
「じゃあ、向こうが勘違いしてんのかな。わかった。でも、今度から気をつけて」
明らかに疑われてる・・・!彩子は悲しくなった。そりゃあ、そんなに仲良くないから、過去に色々ドジって助けられてるから、あたしに疑いがかかるのは解るけど、でもそれでも、あたしだって一回したミスしないように気をつけてるのに。頑張ってるのに。
何事もなかったかのように教室に戻っていく彼の後ろ姿を見送りながら、彩子は死にたくなった。あたしは大雑把なママの性格で育ってきちゃったから、すごい適当だけど、時としてすごいいい加減だけど、それでも気をつけてやっているのに。でも、わからない。もしかしたらあたしがやったのかな? なんだかやったんだかやってないんだかすらも怪しくなってきた。むしろ、なんだかやってなくて言い訳みたいに言うのが愚かな事にすら思えてきた。やったんなら開き直って謝って、もうしませんでしたって言えばいいけど、いや、だってその前にあたしはやってないよ。多分。あーもうよくわからないよ。あたしがしたのかな? あたしが謝ればいいのかな? そうすれば・・・彩子は人気のない凍ったような冷えたトイレに駆け込んだ。泣いても仕方ないのに。ちゃんと確認して、ちゃんとやらなかった自分が悪いんだ。彼のようにしっかりと確認して、ミスのないようにしなきゃいけなかったのに。じわじわとツンとした感触が鼻から競り上がってきた。大袈裟に真っ白い息を深く吐いて又吸った。鏡が白く曇ったかと思うと溶けるようにして消えた。泣いちゃダメだ。彼に勘付かれる。そしたら、彼に泣かされたみたいになるし、彼が罪悪感を感じてしまう。でも、しんどいなぁ。泣きたいよぉ。彩子は何度も真っ白い息を吐いては奥歯を噛み締めた。
・・・しんどいよぉ。
その日雪塗れになって遭難しそうな感じに朦朧としながらようやく帰ると、珍しく美和子が夕飯を作って待っていた。どうやら店が休みのようだった。美和子は相変らずニコニコとしていてなんだかおかしかったが、彩子はそんな事に構う余裕もなく只今もそこそこに何も言わずにお風呂に直行した。彼に気にしてもらえているとは思っていなかったが、それ以前に信用されてすらいなかった事が、悲しかった。もう半年も一緒に委員長をしてきたのに。全く理解されてもらえていなかったのだと、いつかの彼の寝顔も混じって余計に悲しさに拍車をかけた。湯船の中で声を殺して泣いた。涙は後から後から面白い程出て来た。もう、諦めようかな。なにもしてもいないのに。でも、でも、でも・・・
ラジオをつけたらしく、騒がしい音と一緒に台所から美和子の鼻歌が聞こえてきて、それが増々悲しさに勢いをつけて、電波や想いが好き勝手に楽しく自由に飛び交う世界中でまるで自分一人だけがどん底のような気分を感じさせた。彼の事をただ好きなだけなのに。すごく好きなだけなのに。どうして彼からこんな風な仕打ちを受けなきゃいけないの? どうして他の人じゃなくて彼から? やる事成す事、全てしくじった事を彼が知っていて、だから彩子を女の子として見てくれないのかもしれないと思った。頼りないから。いい加減だから。バカだから。でも、そんな事言ったらクラスが離れでもしない限り、彼はあたしの失敗を見る事になって、彼の中のあたしの印象がどんどん悪くなっていくのかな? クラスが離れたら離れたで、今度は共通するものが少なくなって彼が更に遠くなってしまうかもしれない。そうしたら、それこそ寂しくなってしまうし、彼はあたしを忘れてしまうだろう。どうしたらいいの?
マジックアイは開かない。いつまで経ってもその翼を開かない。どうしたらいいの? わからないよ。あたしは彼とどうしたいの? 彼に好かれたい。ううん。彼に少しでもいいから見て欲しい。友達としてでもいいから。でも、その為にはどうしたらいいの?
「ねぇ、今度うちの店に、あんたの友達でも連れて遊びにくれば?」
不意に美和子が話しかけてきた。彩子は驚いて咄嗟に湯船に鼻まで深く沈んだ。どうしていきなりそんな事を美和子が言い出したのかわからないが、美和子はそれだけ言うと再び鼻歌を歌いながら去って行った。意味解らない。なによ。なんでうちの店に友達なんて連れてこなきゃ・・・そこまで考えて思いついた。そっか。誘ってみようかな。でも、今のあたしの彼の中の株で誘えるかな。マイナスになり過ぎてたら話しても貰えないかもしれないけど。
希望の光が見えて来たように彩子は前向きな明るい気持ちになってきた。あたしのいつもの軽い調子を繕って言ってみよう。さり気なく。なんとなく言ってみよう。彩子はそう決意すると、湯船から上がり、明日に向けて念入りに体を洗い始めた。
「・・・あのさ!良かったら今度、うちの店に遊びに来ない? ・・・かな」
最初と最後を情けない感じに尻窄まりにして、彩子は登校してきた彼を下駄箱で捕まえて唐突に切り出した。ようやく雪が止み、その日は久しぶりに太陽が顔を出したのだ。木々に積もった雪は粉砂糖で拵えた花のように芸術的に咲いて、彼方此方から垂れ下がった氷柱が光を纏う雫をキラキラと落としていた。生徒達は青い空の下、滑ったり遊んだりしながら浮かれて登校してきていた。部活の友達と派手に雪合戦をしたらしい彼は紅潮した頰に楽し気な白い息を吐いて、すっかり雪玉で濡れたコートを翻し、軽やかに下駄箱に入ってくると、何事かと驚いたように彩子を見つめていたが、すぐにいいよと答えた。
「つか、店ってなにやってんの?」
「え・・・バーだけど」飲み屋だなんて言ったら、またあたしに対しての悪い印象を持たれるかもしてないと一瞬不安になりながら、彩子は俯いて自信なさげに答えた。
「へぇーカッコいいじゃん。行きたい、行きたい」
カラッとそう言ってきた彼の無邪気で楽しそうな顔に、彩子はほっとして笑った。
「そっか。・・・良かった」そう言い捨てて、嬉しいのと感動したので恥ずかしくなってきたので、いつものようにして逃れようとした彩子の後を珍しく彼がついてきた。
「どういうキャラなのか今いちよくわからなかったけど、そんな意外な一面もあるんだな」
それを聞くと、彩子は立ち止まって後ろの彼を振り返りながら笑った。
「そうだよ」
関心するような面持ちで彩子を真っ直ぐ見つめる彼の横から降り注ぐ溶けかかった雪に反射された冬の日差しが、まるでマジックアイが綺麗に扇型の翼を広げているように見えた。
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