その20

 うちの店には小太郎という住み込みのアルバイトがいます。

 小太郎の名付け親は僕。小太郎は黒い蠅取り蜘蛛です。不幸な事故で亡くなってしまわれた常連の太郎さんとちょうど入れ違いに店に来た、どことなく太郎さんを思わせる小太郎は、長い間、僕の店で有能な蠅ハンターとしてアルバイトしてくれていたのでした。

 梅雨も明けた7月も終わりの暑い夏の夜でした。日も暮れかかっているというのに、一向に涼しくならないので、打ち水でもしようと僕は外に出たのです。その時、トイレのドアの右上のいつものポジションに彼は(もしかしたら彼女だったのかもしれませんが)くっ付いていたのをちらっと見たような気がします。うちでたくさん蠅を食べているからか、小太郎は普通の蠅取り蜘蛛より数倍大きく黒かったので何処にいても比較的すぐに見つけられるのです。

 僕は、表に思う存分水まきをして、開店準備をしている隣の店の美和子さんと軽く世間話をしてから店に入りました。そのすぐ後に、会社帰りのお客様達がいらっしゃり閉店までの20時までの間賑やかな時間が流れました。

 21時近く、最後のお客様がお帰りになり、閉店準備をしている時、ちょうどお客様から貰ったヤクルトがあったのを思い出して、甘いもの好きの小太郎に飲ませてやろうと、小皿に移してカウンターの端っこに置いておきました。そこはいつも小太郎が飛び降りてくるポイントだったからです。そして、僕は掃除を始めました。カウンターとテーブルと椅子を拭いて、食器を洗う。明日の準備をしてダスター類を消毒する。

 店の照明を一つずつ消している時にようやく気付いたのです。ヤクルトの近くに小太郎がいない事。そして、ヤクルトも僕が置いたそのままで変わっていない事。食いしん坊で、何にでも興味津々の小太郎が、ヤクルトを見て見ぬ振りする筈ないので、今までそんな事は一度もなかったので、不思議に思った僕は、小太郎のいつもの位置から店内のお気に入りポイントまで全てを見て回りましたが、小太郎を発見する事は出来ませんでした。それでも、まぁ狭い隙間にでも入りこんで蠅でも食べているのかもしれないと思い、ヤクルトはそのままにして店を後にしたのでした。夜にでも発見して飲むかもしれないと思いました。

 翌日は台風の影響か、雨がぱらつく生憎の天気でした。僕はいつもより早目に店に行きました。何故だか胸騒ぎを覚えたからです。そして、ヤクルトに変化はなく、小太郎の影も形も無い事を確認してガッカリしました。小太郎はまるで最初からいなかったかのように何処にも見当たりませんでした。もしかしたら、昨日の昼間に外に出た時に、一緒に出ようとして扉に挟まってしまったのかも。もしかしたらお客さんに踏まれてしまったのかも。エアコンに入り込んでしまったかもと挟まりやすい場所、隙間も手当たり次第探しましたが、見事にいません。僕は埃だらけの両手のまま力なくカウンター席に座り込みました。何処に行ってしまったのだろうかと、途方に暮れました。あんなにいつも当たり前のように一緒にいた小太郎がいなくなるなんて、想像すらしていなかったのです。

 寿命で死んでしまった訳ではないとは思うのですが、親友だと勝手に思っていただけに、仕方ないのかもしれませんが、前触れもなく去ってしまった事にショックが隠しきれませんでした。

 開店してからも、僕は余程ガックリしていたのでしょう。いつものように陽気にカウンターに座ったシゲさんがアイスカフェオレと言うより早く、なんでぇまた振られたのかと聞いてきたくらいです。またって。僕はそんなにシゲさんに振られた話をしてないような。そもそもあまり振られていない以前に、そんな多くの方に告白だとかお付き合いをしていないと思うんですけどと突っ込みたいのを堪えて事情を話すと、シゲさんはなーんだと心配しちまったじゃねーかと笑いました。

「仕方ねぇよ。もしかしたら、蜘蛛も、猫みてぇに、死期が近付いたら死に場所を探して、行方をくらましちまうのかもしれねぇしな。ゴミ箱とか探したか?」

 シゲさんは、決して悪気はないのですが、落ち込んでいる僕を増々悲しくさせる追い打ちをかけてきます。

「一応。落ちたかもしれないと思って、少し混ぜてみましたけど、いなかったので」

「そっかそっか。もしかしたら家出かもな」

「やっぱり。そう思いますよね。それとも何か事故があったとか」

「大袈裟だねぇ。心配すんなって。奴だって一人前の立派な蜘蛛なんだから。ちっとやそっとの事じゃあ死にゃあしねーよ」

「そう、ですよね。心配し過ぎですよね」

「あ、でも俺この間、うっかり蜘蛛踏んじゃったわ。足下見ずにただいまーって家の敷居跨いだら、ちょうど奴さんが下にいてさ。向こうもよそ見してたみたいで気付かずにプチって。」

「じゃあ、シゲさんが小太郎を?!」

「ちげーよ。小太郎は黒だったろ。そいつは茶色の縞がついてた。可哀想なこった。蠅取りは俺らと同じようにてめぇの目で見て動いてるから、見えないと気付かないらしいな」

「そうなんですか・・・」シゲさんに聞けば聞く程、僕の不安はどんどん膨らんでいきます。

「まぁ、大丈夫だ。そのうちひょっこり戻ってくるかもしれねぇよ。家出ならな。実家の味って奴を思い出してさ。だから、ま、あんまり悄気るなって」

 そう言ってシゲさんは励ましてくれましたが、それは、まず無いなと思いました。蜘蛛の知能を侮っている訳ではなく、きっと何か理由があって出ていったのだろうと。そうじゃなきゃ、2年以上も居着いたこの店を離れる訳が無い。小太郎にとって居心地が良い家だったと、そう思いたい僕は必死に反論する言葉を探しました。けれど、なかなか見つからなかったので、諦めて、グラスを拭きながら、最近芸能人に遭遇したと言う話をし始めたシゲさんに聞こえないように溜め息をつきました。

 窓の外は、いつの間にか小雨も止み、いつから差し込んでいたものか朝までの憂鬱な天気が嘘のように強い夏の日差しが溢れかえり、その攻撃的な光量と熱量が眩し過ぎて簾を下ろしていても目が痛んできます。風もなく、焼け付くような中、小太郎は一体何処に行ってしまったのだろうと、思いを馳せました。何処か遠くの土地で、コンクリートを這うようにして漂う逃げ水に塗れてふっとその黒い姿が溶けてなくなってしまう小太郎を想像すると胸が張り裂けそうでした。別れはいつでも唐突にやってくる。それはわかります。けれど、少しくらい猶予があってもいいじゃないか。僕は心の中で1人愚痴たのです。ずっと一緒にやってきたんだ。サヨナラの挨拶一つくらいしたっていいじゃないか。だって、友達だろ。友達だと思っていたんだ僕は勝手に。すごく自分勝手に。でも、それくらい思ってたっていいじゃないか。

 ・・・小太郎、どうしていなくなってしまったんだよ。

 なんだか、1人ポツリと取り残されたような寂しい気分だけが残りました。


 数日後、渡部さんご夫婦が珍しいお客様を連れてこられました。

 渡部さんの奥さん、峰子さんは現在妊娠8週目。かなりお腹が目立ってきていました。渡部さん夫婦にとっては初めての出産。最近は病院の休憩時間、ランチがてら来店される度に、眉間に皺を寄せた難しい顔をして、出産の本や育児書を熱心に読み込む姿が見られ微笑ましい限りです。

「初めまして。渡部の母です。いつも息子がお世話になっております」

 艶やかな口紅を塗った蕾のような唇を淀みなく動かしながら、深々とお辞儀をして、その、年配ではあるでしょうけれど、どこか年齢不詳な雰囲気を漂わせた女性はゆったりと椅子に腰掛けました。その隣にはお腹が目立ってきた峰子さん。少し離れた扉の近くには、苦虫を噛み潰したような表情を張り付かせた渡部さんが、眉間の皺も深く苛立ったような感じで突っ立っていました。

 峰子さんは居合わせた常連さんと話出していましたが、渡部さんのお母様がいち早く、そんな彼に気付き、綺麗に手入れが行き届いた手を優しげに振って手招きました。

「どうしたの? 豊ちゃん。そんな所に立ってないで、こっちにいらっしゃいな」

 渡部さんの顔が増々渋くなりました。どうやら、渡部さんはお母様があまり得意ではないのだなと容易に想像ができます。以前に、亡くなったお父様に関しても、あまり交流がなく厳しい厳格なお父様だったと伺っています。お母様は華やか好きで、社交的であまり家庭の事はしないのだとも。だからでしょうか。渡部さんのお母様は若々しく、黒目がちでとても華やかな美人でした。

 渡部さんがいつものカフェモカをと注文すると、まぁ、豊ちゃんはまだ甘いものが好きなのねと頓狂な声を上げました。渡部さんは今までで見た中で一番不愉快そうに、悪いかと答えました。

「俺の勝手だ。母さんにとやかく言われる筋合い等ない」

「そうは言ってもあなた、糖尿病には気をつけなきゃダメよ。あなたのお父さんだって危なかったんだから。峰子さん、峰子さんからもちゃんと気をつけてあげて頂戴」

 いきなり引き込まれた峰子さんは訳がわからず、はぁと曖昧な返事をしている。

「うるさいな。母さんは、父さんに気遣ってきたのか? 今まで何もしてこなかったじゃないか。それなのに今更なに言っているんだ。今まで通り放っといて・・・」

 そう切り捨てるように言い放った渡部さんを制するように、峰子さんが割って入ってきた。

「ありがとうございます。心配して頂いて。大丈夫です。私もそれは気にしていましたから。」

「そうよね。良かったわ。峰子さんが理解のある人で。ほらね、豊ちゃん」

 峰子さんに目配せで黙らされた渡部さんは、言いたい事も言えずに、不愉快そうな顔を更に歪めてふんっと横を向いて煙草に火を点けようとしました。おや? 僕が首を傾げたのと、お母様が手を伸ばしたのとは恐らく同時だったと思います。渡部さんは煙草を召される方ではなかった筈です。

 お母様は素早く渡部さんの手から煙草とライターを取り上げると、厳しい顔つきになりました。

「いい加減になさい。峰子さんのお腹の中には赤ちゃんがいるのよ」

 その時でした。店の扉が勢いよく開くと、大きなベビーカーを押した3組の親子連れが騒々しく流れ込むように入ってきました。一気に店内に流れていたピアノ音楽が聞こえなくなりました。

 ママ友とでも言うのでしょうか。年頃は30代くらいの母親達はベビーカーいいですかのひと言もなく、勝手に狭い店内のトイレに向かう通路にベビーカーを置き、窓際のテーブル席を2つ勝手に連結させて陣取りました。その周りでは4人の子どもが走り回り、大声を上げています。それまでいた他のお客様が迷惑そうに見ていても知らん顔です。母親達はテーブルにあったメニューを広げて、身振り手振りも交えて、熱心に何かを話し合っています。

 何か面倒な事が起ると察知したのか、常連のお客様方がお勘定をして足早に帰っていかれました。

 やれやれ。これは大変な事になったなと、僕が諦めて人数分のおしぼりとお水を用意していると、何かが落ちて割れる甲高い音が鳴り響きました。顔を上げると、走り回っていた子どもが、店の要所要所に置かれたランプを落として割っていました。慌てて、破片を片付けに行くと、子ども達は吃驚した顔をして、どうしていいかわからないらしくその場に突っ立って割れたランプを見ていました。

 母親達も気付きましたが、特に立って詫びにくるでもなく、座ったまま子どもに「あーぁーだから、走っちゃダメだって言ったじゃない」とか「ちゃんとごめんなさい言って」とか、「触っちゃダメよ。危ないから」なんて言っているだけで、誰1人として自分の子どもがやった事なのに謝ろうともしませんでした。子ども達は母親になにを言われているのかわからなかったらしく、暫く僕が片付けるのをぼんやり見ていましたが、そのうち飽きたようで何も言わず母親の所に駆けていきました。

 割れたランプは水色の案外気に入っていたものでしたので、さすがの僕も少しショックで、途方に暮れている子ども達にかけてやれる言葉が思いつきませんでした。最近、ショックな事が多いな。

 破片を片付け終わって、カウンターに戻ると、さっきの母親達からすみませーんと呼ばれました。

 用意したおしぼりと水を持って行ってみると、テーブルではやっと座った子ども達が持参したジュースとお菓子を食べています。

「お待たせしました。ご注文は?」

 パーマがかかったショートカットヘアのふっくらとした母親の1人がキツそうな目を細めながら、キャラメルソイラテは作れるかと聞いてきました。生憎豆乳が切れていましたので、難しいですと答えた所、不服そうにそんなものもないのー?と、言われました。

「しょうがないからカフェラテにする。アイスで。本当は牛乳よりも豆乳の方が健康にいいのよね」

 不服そうな顔を張り付かせたまま、その方は不承不承注文されました。それを聞いて、隣の少し若かめの巻き毛の方がお喋りそうな口を突き出しながら言いました。

「えーじゃあ、私は紅茶にしようかなぁーロイヤルミルクティーのアイスって出来ます?」

「バカね。缶ジュースじゃないんだから」

 すぐに隣のショートカットの方に突っ込まれて「はぁー また出来ないのー?」と言っています。

「大丈夫ですよ。ロイヤルミルクティーですね。おあとは?」

 一番流行に敏感そうなお洒落な身なりをしたポニーテールの方が、ジュースはありますか?と聞いてきました。僕は、オレンジジュースと蜂蜜レモンスカッシュをご案内しました。

「オレンジは在り来りだから、私は蜂蜜レモンスカッシュにするわ。以上で」

 そう言うと、母親達はお喋りの続きを始めた。その横で、子ども達が与えられたスマートフォンでゲームでもやっているようでした。やれやれ。今時の母親は・・・今時の子どもは・・・

 また、こんな時に限って、いつもすっぱりと物事を言って退けて頂ける健三郎先生が出張していて不在でした。いやいや。先生に頼ってばかりじゃいけないのです。いくらお客様といえど、好き勝手にしていい道理はありません。店主である僕がしっかりと言わなければいけないのです。それなのに、僕ときたら、いつだって強気な女性に弱いなんて情けないにも程がある。ウジウジと考えながら、それでも堪えてカウンターに戻ってくると、又しても渡部さんが苦渋に満ちた顔で僕を恨めしそうに見てきました。その横では、峰子さんに話しかけて華やかに笑っているお母様。ここにも強い女性に何も言えない同胞がいたと思い出し、少し笑ってしまいました。

「・・・今度は、子どもの名前だとさ。まだ、男か女かわからないのによ」

 うんざりした渡部さんを余所に、チーズケーキを食べていたお母様が割り込んできました。

「あら、でも、予めある程度は決めといた方がいいわよ。私の時もそうしたわ。ねぇ峰子さん」

「ええ、まぁ」峰子さんは曖昧な笑みをしてぎこちなく頷きました。

「なんたって、初孫なのよ。ちゃんとやってあげられる事はしてあげなきゃ。楽しみだわ」

 お母様はいかにも楽しげにうっとりと遠くを眺めました。その横で渡部さんが忌々しげに溜め息をつきました。峰子さんはお腹をさすりながらも少し困って笑っています。突然、その峰子さんのお腹に、子どもの1人が打つかってきました。さっきの子ども達はもうスマートフォンのゲームに飽きたらしく、また店内を走り回り始めていました。今度はかくれんぼをしようと言っています。冗談じゃありません。母親達を見ると、またしても知らん顔でお喋りに夢中になっています。峰子さんに打つかった事も見ていなかったようです。今度という今度こそは・・・僕がカウンターを出て行きかけた時、鋭くけれど小さな高い音がしました。同時に子どもの鳴き声が響き渡りました。

 お腹を守るように抑えている峰子さんの横に座っていたお母様がいつのまにか立ち上がり、打つかっても逃げるようにして他の子に混じってしまったその子を素早く捉え、頬を一発叩いていたのです。それを合図にしたように、それまで談笑していた母親達は緊急事態とばかりに一斉に顔色を変えて立ち上がりました。渡部さんのお母様は凛として冷静に彼女達を見据えました。

「この失礼な子の親は、いないのかしら?」

 ショートカットの母親が、私ですけど何か?と、一歩前に歩み出ました。少しも悪気の色は浮かんでいませんでした。まるで、被害者の親族のような強気な雰囲気すら漂っています。

「あら、いたのね。子どもが他人に迷惑をかけているのに出てこないからいないもんだと思っていたわ。あなた、今、この子が何したかわかってるの?」

「そこの人に打つかったのよね。でも、子どもは走り回る生き物だから仕方ないわよ」

「その走り回る子どもが他人に対して迷惑をかけた時の責任は誰が取るの? 子どもに償わせるの? 走り回る生き物を育てているのがあなたじゃないの?」

「たかだか子どものした事くらいで、なんでそこまで言われなきゃいけないのよ」

「あらあら。たかだか子どもがした事? その子どもがした事なら、どんな事でも許されていいとか思っているのかしら? その子達が、さっき落として割ったランプは高価な希少価値が高いものだったのよ。ダリの限定モデルよ。それは知っていたのかしら?」

 しれっと言ってのけるお母様に、僕は、そんな事ありません案外安物だし、ダリなんて代物じゃないんですよと割り込む勇気だありませんでした。何しろ、心底怒っていらっしゃるようで、先程の華やかな面影は何処へやら、放つ覇気と言いますでしょうか圧倒的でした。

「それに、その子が打つかったのは、妊娠しているうちの大事な嫁よ。お腹には赤ちゃんがいる。打ち所が悪かったら流産の恐れだってあるのよ。あなたもその子を産んだんなら、同じ経過を経験している筈なのに、そんな事も忘れてしまったのかしら。可哀相ね。もしもの事があったら、勿論あなたは償ってくれるのよね? だって、その子の保護者なんですから。その子が仕出かした事は、きちんと責任を取るのが親よねぇ」

「まさか、そんな事くらいで流産なんてしやしないわ。私は重たい物を持っても平気だったんだから。大袈裟なのよ」

 母親はまだしぶとく抵抗を続けています。どうやらこの母親がこのグループのリーダー的存在だったらしく、他の母親は不服そうな顔をしてはいますが、黙ったまま何も加勢をしてきませんでした。叩かれた子どもは母親に駆け寄るでもなく、その場でただ泣いています。どうやら、困った事があっても母親に相談するだとか助けてもらうだとかいう教育をされてはいないようでした。時々見ますが、小さな子どもが転んでも自分で立てと叱咤する親。教育方針が自立だとかなんでしょうけれど、子どもが小さな時からそれをしなくても良さそうなもんだけどなぁと思って見てしまいます。

 確かに、子どもは転んでも助けてくれないから自分で立たなきゃいけないと、いつかは覚えるかもしれません。それは誰も宛てにはならないから自分の責任は自分で取らなきゃいけないという事にも繋がっていくのかもしれません。が、まだ世間の常識を知らない子どもが、果たしてそこまで考えられるものでしょうか? 何か仕出かしてもやり方がわからなければどうしようもないのではないでしょうか。親が手本になって見せたり、やったりしないといけないのではないでしょうか? 

 困った時には親が助けてあげる事によって、子どもは助けられたら嬉しいと学び、誰かを助けようと思える事を学ぶのではないでしょうか? 確かに勉強や経験等の様々な事は親は教えるのに限界がありますが、常識やモラル、優しさや愛情は親が教えられる事だと思うのです。だのに、わからないなりに何でも自分でやらせるスタンスで、世間に放したところで、誰かに迷惑をかけても責任を取るどころか謝る事さえも出来ない、本当にただの躾の悪いペットのようです。

「それはあなたの話。あなたは、子どもに相手の立場になって考えるなんて常識的な事は全く教えたりしてないのが今の言葉でよくわかったわ。そんな人と話していても無駄だけど、一つだけ忠告しておくわ。世間で起っている子どもの酷い事件は自分には関係ないなんて思わない方がいい。公共の場でのルールや一般的なマナーも子どもに教えられていないようなバカで自分勝手な親は、子どもになにをされても文句なんて言えないの。何故なら、あなたは子どもを守ってはいないから。あなたは子どもを守ったり教えたりしなきゃいけない親の責任を放棄しているから。そんな親がとやかく言う資格なんてない。それとも、自分の子どもは平気なんて考えているのかしら? だとしたら大間違いだわ。どの子も同じ。殺される時も同じ。悪い事をして怒られるのも同じ。皆平等なのだから。子どもがいるからって横柄になってもいい法なんて何処にも無いわ。むしろ、子どもが嫌いな人だっていっぱいいる。子どもは基本、声が大きい騒ぐ、それだけで騒音と同じぐらいの害を他人に与える存在だとよく覚えていた方が良いわ」

 渡部さんのお母様は涼しい顔をしてそれだけを一気に言うと、ふいっと後ろを向いてカウンター席に座り直しました。いつの間にか泣いていた子どもでさえ、吃驚して泣き止んでいます。呆然と立っていた母親達は唇を噛み締めながら、渡部さんのお母様を睨み、子ども達にうっとおしそうに帰るわよと言い捨て、店を出ていきました。結局、最後まで壊したランプに対しても、峰子さんに対しても謝罪はないままでした。やれやれ。情けない世の中になったものだと、子ども達が食べ散らかしたテーブルを拭いて、元通りにセッティングしながら僕は溜め息をつきました。

 渡部さんのお母様は、まだ憤慨収まらないのか、先程のように色々と話はせず、暫くブレンドを啜っていましたが、ふと先にホテルに帰ると言い出しました。

「悪いけど。気分が悪くなったの。豊ちゃん、峰子さん・・・ごめんなさいね」

 そう言って、お母様は逃げるようにお帰りになりました。残された、渡部さんは安堵とも落胆ともとれる大きな溜め息を一つつきました。

「やれやれだ。母は孫が余程楽しみらしい。以前はむしろ子ども嫌いなように俺には見えたし、あんなお喋りでもなかったし、あんな事で気が立つような短気な人でもなかったんだが」

「・・・でも、お母様は正しい事を言っているわ」

 それまで、お腹を撫でながら神妙な顔で黙って聞いていた峰子さんは、やっと口を開けました。

「まぁ、そりゃあそうだろ。嫁と孫にはいい顔したいんだ」渡部さんは何処までも皮肉口調です。

「そんな言い方しなくてもいいじゃない。例え、昔あなたに対して酷い事をしたとしても、やり直す事は出来る。何度でも機会なんてあるのよ。私はそうやって自分なりに努力するお母様は好きだわ」

「そりゃあ、君の好きにすりゃいいさ。俺はあの人の事を好きでも嫌いでもない。苦手なだけだ」

「子どもみたいね」

「何とでも言ってくれ」

 妊娠の影響なのか、珍しく峰子さんが食ってかかって険悪になりそうな二人にまぁまぁと割って入りながら、僕は少し羨ましくも思いました。母親の事でそんな風に揉められるなんて。

「お母様がお孫さんが嬉しいのは当たり前ですよ。誰だってそういうものだと聞きますよ。新しい家族が増えるから喜ぶ。それだけでいいじゃないですか。幸せな事なんですから。喧嘩なんてもったいないですよ。それにしても、先程のママさんグループに対してのお母様はスカッとしましたねぇ。僕も苛々してはいたものの、なかなか言えず、僕の代わりに言って頂いて申し訳なかったです。なんだか僕は、お客様に特に女性に対して何か強く言うのが苦手で」

「だから、いつも尻に敷かれているんだな。そういう人間には気が強い人間が集まってくるらしいが本当だったんだな。ここの常連も一癖も二癖もありそうな人が多いからな。人柄かな?」

 渡部さんがいつものように笑って突っ込んできました。良かった。

「ほんとよ。私も子どもが産まれたら、子どもがいるからって何でも許されるって勘違いしているさっきの母親達みたいにならないように気をつけなきゃ。」

「峰子なら大丈夫だろう。何しろ俺が見込んだ女性だからな」

 自信満々の渡部さん。ご馳走様でした。




「暫く、留守にするわ」

 お盆ももう少しで終わるだろう時期に、久しぶりに来た彼女が突如そう切り出してきました。

「しばらくって・・・どのくらい?」

 ちょうど、昼間のピーク時も過ぎたので、僕は溜まった洗い物を片付けながら聞き返しました。

「わからない。貯金が続く限りとは考えているわ」

「そう。何処に行くの?」

「それもわからない。でも、国内でも海外でも行きたい所を転々とするつもり」

 その言葉に思わず顔を上げた僕には気付かず、彼女はいつも通り、特に表情もなくそう言いながら、飲みかけのカップをソーサーの上に置きました。

「海外もって・・・世界を放浪でもするつもりなの?」

「うーん・・取りように寄ってはそうとも言えるけど、私はいつも外国を旅する事を夢見ていたのに、何処にも行けずに死んでしまった母の代わりに、母が行けなかった所に行って、見れなかったものを見たいの。今のうちに。それだけ」

 彼女の母親は彼女が子どもの頃、不幸な事故で亡くなっていました。つい先日、お墓参りに行くと言っていたので、もしかしたらその時にふと思ったのかもしれません。

「・・・そっか。そうすれば、お母さんも君を通して色々見れるという訳だね」

「そう。きっと。ママは、今でも私の側にいて心配してそうな気がするから」

 そう言いながら、彼女は目を細めて何処か遠くに視線を投げながら優しげに微笑みました。そんな顔を見てしまったら 僕はなにも言えません。引き止める事なんて出来る蓮もなく、ただ、わかったと口にするだけで精一杯でした。彼女は握りこぶしを僕に差し出してきました。

「うちの鍵。あなたが預かっておいて」

「家の中はある程度片付けてあるから、出来たら時々風通しをしてくれると嬉しい。税金なんかは口座から引き落とされるようにしたわ。もし、私が何らかの事情で帰って来れなくなったら、この不動産屋に電話して。万が一の時の為に後処理を委任してあるから」

 そう言いながら彼女は僕の目の前で握った拳を広げました。中には小さな鈴の根付けがついたアンティーク感漂う飴色の鍵と折り畳んだ紙切れが乗っかっていました。紙切れの中には彼女に何かあった時に後処理をしてくれる不動産屋の番号が書かれているのでしょう。彼女の家はお祖母さんからの持ち家でした。僕が彼女と再会する前は、お祖母さんが1人で住んでいて、彼女自身は都心の方に住んでいました。お祖母さんが亡くなった知らせを受けた時、同時にお祖母さんが家や遺産の受取人を彼女にという遺言状を書いていた事を知ったそうです。けれど、築年数がかなり経っており、危険な為取り壊した方がいいと薦められたらしいのですが、彼女は頑として勿体無いからとその家に移り住む事にしました。そして、丁度この街に戻ってきた時に僕と再会したのでした。

「帰って来れなくなったらってどういう・・・」

 僕は彼女の言っている意味がわからなかったので、そう質問しましたが彼女はそれを遮りました。

「もし、あなたに他の人が出来たら、鍵は家の玄関の脇の植木鉢の下にでも放っといて。待つ待たないはあなたの自由よ。私は何かを約束はできない。いつ帰ってくるかもわからない。生きて帰ってくるかもわからない。だから、別に誰かと一緒になっても構わないわ」

 僕は腹立たしくなりました。彼女の勝手な言い分に。気付くと、さっきからずっと洗い続けているソーサーのしつこい滲み汚れが消えていました。近々漂白しておとさなければと思っていた滲みが、僕の動揺を露にしたかのようなスポンジを使った同じ動作の繰り返しで磨き取られたらしいのです。彼女はそこまでを一気に言うと、口をへの字に曲げたまま伏し目がちに下を向いたまま黙ってロワイヤルを一口飲みました。店内にはお客様はいらっしゃらず、僕が宛てどなく繰り返している洗い物の虚しい水音が、控えめなピアノの音と絡み合って不安げにそこらに漂っているようでした。こんな時にお気に入りのアリアを聞く羽目になるなんて。僕は悲しみや腹立たしさや虚しさ、そんな様々な感情に一気に支配されてしまい自分でも何を考えているのか何だかわからなくなってしまいました。

「・・・君は勝手だな」

 暫くして、ようやく喉から絞り出された僕の声は我ながら酷く震えて、怒りが隅々まで浸透された低い脅すような声でした。自分でもそんな声が出てくるとは思っていなかったので些か吃驚しながら、水道の蛇口を捻って長い洗い物を終えました。彼女が僕の言葉にふと顔を上げました。そのアーモンド型の子どもの頃から変わらない目の中には不安げな色が確かにあったように見えました。

「・・・いつだって、ちっとも僕の気持ちなんて考えない」

 そんな事を言いたい訳ではない。彼女の母親に対しての優しさの決心を快く応援して送り出してやりたいという思いと、どうしていつもいつも突然にそんな事を言い出すんだと思う憤りと、寂しさと。彼女の想いへの不信と。そうではないとの否定と。そう言うものだと納得しようとしている自分と。とりあえず、もうグチャグチャに入り交じって大変な事態でした。これ以上好き勝手に口を開くがままに任せていると、もっと言ってしまいそうだったので、自分では口を閉じたつもりだったのですが、無意識に、悪いけどもう行ってくれないかと一番辛辣な言葉を投げつけてしまったのです。

「・・・・・ごめんなさい」

 彼女は今にも泣き出しそうな顔をして、そう呟くと一回頭を下げて出て行ってしまいました。

 あーぁ 何て事を言ったんだーー 僕はーー・・・

 後悔と自責の念が一遍に湧いてきました。彼女の母親は、亡くなるまで彼女に対しての対応が、あまり良くなかったらしい事を聞いてはいたのですが、そんな母親でも彼女はやっぱり気にしていて、むしろすごく好きだったんだと言葉の端々に見えて、それをわかっていたからだから親孝行を認めてあげたかったのに、自分の我が侭が優先してあんな言葉を吐いてしまった。僕は結局ダメな男だ。

 彼女は突飛な事をいきなりしたりするので、普通より驚く事はこれまでも何度かあったけれど。こんな形で彼女と別れる事になるなんて思ってもいなかった。しかもこんな釈然としない形のままで。

 僕はカウンターに残された鈴のついた鍵をぼんやり見遣った。僕は彼女とこんな事になりたかった訳じゃないのに。きっともっと、他の形になってなれる言葉を探す事だってできた筈なのに。

 近くの木にでもとまったのでしょうか。油蝉の声が木霊するように聞こえてきました。聞き慣れたその声は、何故か侘しく感じられました。僕はどうしたいのだろうかと。



 眩しい木漏れ日に目を細めながら、僕は屋根のように覆い被さるような鮮やかな緑のトンネルを歩いていきます。

 まだ午前中の早い時間だというのに、隙間を見つけては光り輝く8月の暑さは容赦を知りません。最近、頭皮が気になってきたので被ってきた鍔の短い麦わら帽子は意味がないようで、紫外線は軽々と突き抜けて、早くも額からは汗が垂れてきます。それを拭いながら、ゆっくりと坂を登ると、不意に視界が開けて広大な墓地が姿を現します。

 見渡す限り、等間隔に整列した墓石で埋め尽くされた墓地の真ん中の辛うじて車一台が通れる木陰等逃げ場のない殺風景な白い道を、僕はひたすらゆっくりと歩いていきます。両脇に数字とアルファベットの区画を現す簡単な配列が記されたL時型の白い標識が等間隔で刺さって、白い小石が敷き詰められた何処までも真っ直ぐな道は攻撃的な日差しの反射を受けて、僕の目に肌に突き刺さってきます。サングラスを持ってくれば良かったと、花束を持っていない方の手で目を庇うようにして何個目かの標識を認めて小道を曲がりました。

 母の形ばかりの墓は、小道の並びの一番端っこの小さなスペースにひっそりとありました。一番端と言う事で、辛うじて木陰が少し被っており、古びて黒ずんだ墓石には気持ちよく苔生してはいるのですが、とっくに絶えてしまった母の親族だか、家族だかが眠っているだけで、母自体の遺骸はここにはありませんでした。

 母は、僕が幼い頃、僕を児童施設に連れて行こうとする車を追って交通事故で亡くなっており、その遺体は誰にも引き取られる事もなく、ひっそりと無縁仏として処理されたのです。幼かった僕は随分あとになってからその事を知り、母の遺骨を探したのですが、もう他の無縁仏の中に紛れて判別すら出来なくなっていました。せめてもの遺品にと、母が大切にしていたがま口をこの墓に埋葬したのですが、本当に形だけのものでした。けれど、他の母の事を偲びに来る所もないので、何となくここに来てしまうのです。

 墓に入っている他の親族や家族の事はわかりません。僕が子どもの時には既に母と二人きりだったのです。母も自分の事を多くは語ってはくれませんでした。なので、毎度の事ながら、ここに母はいないのにおかしな気分だと思ってしまいます。

 とりあえず、僕は持ってきた花束を墓前に供えました。それから、何とはなしに端っこの辛うじて日陰になっている苔生した石に腰掛けて、彼女の事を考えていました。あれから、一週間。音沙汰もない。もう出発したのだろうか。

「・・・母ちゃん。・・・彼女が、旅立つそうだ。僕は、どうしたらいいんだろう?」

 無意識にそんな独り言にも呟きにも似た問いが、何処にいるとも知れない母に向かって発せられたのは、余程誰かに助言をして貰いたかったからかもしれません。実質的には母が埋葬されていないので、いつもここに来るのは何年かに一回あるかないかで、こうして墓前で留まる事も初めてでした。こんな風に助けを求めた所で、実際、母が聞いている訳はなく、答えてくれる訳でもないのはわかりきっているのです。答えが己の中にあるのもわかっているのですが、なんだか、色んな感情が入り乱れて見えなくなっている上に、彼女はすぐにでも去ってしまう状況で、時間もないのです。

 僕は・・・僕は、どうしたらいいのだろう?

 彼女と再会してからの事が走馬灯のように脳裏を駆け巡りました。そして、以前の彼女との別れも。僕は別れても、何処かで彼女を待っていたのだろうかとか。彼女はどんな気持ちで僕の事を想っているのだろうかとか。そう言えば、彼女が僕をどう想っているかだなんて考えた事もなかったな。僕は深い溜め息をつきながら汗ばんだ顔を両手で包み、頭を垂れました。そんな事も考えた事がなかったなんて、僕はどこまで彼女の気持ちを考えていなかったんだろうかと、情けなくなってきました。

 彼女は彼女なりに考えて悩んだ筈。僕と一緒にいて彼女は以前のように疲れてはいなかった筈。でもわからない。もしかしたら。考えれば考える程、思考は土壺に嵌っていきます。わからない。わからない。ふと、足下を焦げ茶色をした蟻のように小さな蜘蛛が僕の靴を意識しながら通り過ぎていきました。・・・小太郎。

 いなくなってしまった小太郎の事が再び浮かびました。そして、小太郎に彼女が重なりました。そして、今まで付き合った女性達にも離婚を突き付けられた元妻にも重なりました。そう言えば皆、ある日いきなり別れを告げてくるか、いなくなってしまう事が多かったのです。その度に、僕はどうしていいのかわからなくなり、そうこうしている間に捨てられてしまうのです。どうして皆、唐突に僕を1人残して、いなくなってしまうんだ。悲しくなってきました。こんなに悲しいのは何十年振りだったのでしょうか。遥か子どもの頃以来だったような気もします。汗とも涙とも判別のつかないものが頬を伝って流れてきました。なにしろ焼け付くような暑さの上にサウナにいるような気温です。判別なんてつくわけがありません。僕は手の甲で乱暴にそれを擦りました。けれど、その液体は次々と垂れてきます。それどころか、鼻水まで出きました。やれやれ。情けない事だな。僕はむきになって擦りました。酸性の液体が流れた所が日に当たってヒリヒリと痛みを帯びてきた時でした。滲んだ視界の隅で何かが動いたのです。黒ずんだ墓石の苔生した深い常磐色の上で何か黒いものが・・・!

「こ、小太郎・・・!?」

 思わず名前を呼んだその黒いものは、確かに蜘蛛ではありました。そして、蠅取り蜘蛛でもありました。人懐っこそうな動きで、じっとこちらを見つめています。けれど、残念な事にはその蜘蛛は小太郎よりも小さく、僕の側にいつものようにどうしたのと言わんばかりに寄ってきはしなかったのです。似てはいましたが、小太郎ではありませんでした。残念に思いながら、けれど、さっきまでの絶望的な悲しさからひょんな感じに抜け出せたような気分になれた事に気付きました。

 その蜘蛛は、しばらく僕を見つめていましたが、それに飽きると背を向けてひと跳ねし、たちまち見えなくなってしまいました。その様子を見送りながら、僕は小太郎がきっと何処かで元気にああして生きているだろうなと思いました。

 僕は立ち上がりました。そして、もう一回ベトベトの顔を両手で揉むようにして拭うと、すぐ近くにあった筈の水道まで歩いていきました。そこで顔を洗い、ついでに水を飲むと、いくらかは顔の痛みは気にならなくなりました。

 今日は雲すらもない晴天です。青過ぎて、白くさえ見えてくる空を仰いでポケットに手を突っ込みました。微かな鈴の音がして彼女から預かった鍵の感触にすぐ行き当たりました。彼女はもう行ってしまっただろうか。

 最後の最後まで悲しい思いをさせてしまった。もっと前向きに背中を押してやれば良かった。店を出る直後の彼女の泣きそうな顔を思い出して、胸が苦しくなりました。彼女を悲しませたい訳じゃなかったんだ。もう会えないのだろうか。まだ間に合うかもしれない。その何方にも押されて、戸惑いながらも墓地の道を足早に帰り始めました。

 そう言えば、小太郎が別れも告げずに去ったのは、もう会えなくなるなんて最初から思っていなかったからかもしれません。いつでも会える。又会える。きっと。そう思ったから敢えてサヨナラの儀式めいた事をせずに姿を眩ましたのかもしれません。そう考えて行くと、彼女も又別れの台詞を口にはしていなかった。この前も、随分前も。僕の勝手な思い込みかもしれないけれど、それはもしかして別れる気はなかったと言う事になりはしまいだろうか? だから、何年も経ってからわざわざピアスを取りにきたのではないのか。でも、だったらどうしてその時にそう言わなかったのだろう。僕には何も伝わってはいない。口にしなければ、言葉に現さなければ、相手には伝わらないのに。そう憤りを感じはしましたが、ふと、でもあの時の彼女は心底疲れ果てていた事を思い出したのです。だから思い至らなかったのかもしれない。とりあえず、別れだのは置いといて休みたい。心に休息を取らせたい。空白の時間を求めていたとしたら。ひたすらそれしか浮かんでいなかったとしたら。口下手な彼女の事なら充分有り得る。変な所で律儀な彼女は、都合のいい自分の理由に、僕に図々しくも待ってとも言えなかったのだろう。言おうなんて念頭にもなかったのかもしれないけれど。僕にとっては全然図々しくなんてないのに。きっと。それにしても、彼女に本当のところはどうだったのなんて、こんな事聞いても怒るだけで答えてなんてくれないだろうなと、僕は1人で苦笑いすると同時に、本当に彼女の気持ちなんて何も考えずに酷い事を言ったもんだと心底後悔しました。今からでも間に合うだろうか。いや。間に合って欲しい。最後かもしれないけれど、どうにか取り繕いたい。そんな強い気持ちが湧いてきて、頼りなく不安げで覚束なかった僕の足取りが力強く確かなものになっていきました。

 その途中、向かう時には気付かなかったのですが、柄杓と桶が並べられた小さな休憩所があるのを見つけました。その休憩所の前には随分と品揃えの古い自動販売機が設置されていました。喉が乾いてきた僕は、迷わずそこで100%の林檎ジュースを買いました。一気に飲み干そうとした瞬間、ふとさっきの墓前にいた蜘蛛の事が浮かんできたので、少しだけ残して墓に引き返しました。

 墓は先程と同じように沈黙を守っていて、さっきの蜘蛛の影も形もありません。僕は適当な落ち葉を見つけて、その窪んだ所にジュースを垂らして墓前に置いておきました。こうすれば、きっと蜘蛛達も飲めるだろう。

 立ち上がりかけた時、ちょこちょこっと大きな黒い蜘蛛が踊りで来て夢中でジュースに飛びつきました。更にそれを追い掛けるように小さな蜘蛛達が数匹出てきて、習うようにジュースに群がったのです。もしかしたら、さっき見た蜘蛛も混じっていたのかもしれませんが、とにかく、真っ先に飛び出してきた食いしん坊の大きな真っ黒な蜘蛛は紛う事無き小太郎だったのです。

 視界がまた滲んできました。後の小さな蜘蛛達は子ども達でしょうか? 小太郎はこんな所で家族を作っていたのでした。

 小太郎はスクワットの状態で涙ぐむ僕には全く構わず、夢中でジュースを飲むと丁寧に口を拭って、子ども達を引き連れて立ち去って行きました。去り際に一瞬、僕を見上げてにやっと笑ったように見えたのは気のせいだったのでしょうか。・・・良かった。僕は小太郎の無事と元気な姿を見れて心底安心しました。良かった。本当に良かった。小太郎は、守られた中でではなく、自ら出て行ったのです。自分の成す事をして、精一杯生を全うしようとしているのだと思いました。

「小太郎、ありがとう」

 そう言うだけで精一杯でした。僕は踵を返すと全力で墓地の道を走っていきました。何としても、彼女に会わなければいけない。それだけを思ったのです。樹木に守られた墓地の出口はお盆も近かったので来る時よりも人が多くなっており、何台かの車の出入りもありました。そこをすり抜け、下り坂になった道を早足で下り降りた途端、誰かに呼び止められたのです。どうやらずっと僕を呼んでいたらしいのですが、僕は走るのに夢中で気付きませんでした。樹木の影が切れるか切れないか辺りでようやく立ち止まった僕に駆け寄ってきたのは、彼女でした。

 何処から追ってきたのでしょう。彼女は激しく肩で息をしながら、止めどなく滴ってくる汗を拭いながら笑って口を開きました。彼女がそんなに爽やかに笑ったのは久しぶりでした。

「ー 相 変わら ず 足が、 速いん だから」

 揺れる気持ちいい木陰に撫でられながら、汗だくになって笑ってそんな事を言う彼女は綺麗でした。彼女は僕がここに来る事を何となく予測していたようです。僕の母親の墓地がここである事は知っていたのですが、墓自体が何処なのかがわからなかったので墓地の出入り口で待っていたそうです。もし、ここで会えなければ、諦めようと思っていたのだと。

「ー吃驚 した だって、あなた、血相変えて、走り抜けていくん だもの」

「・・・ごめん」

「いいの。だって、自分勝手な事を言ったのは私なんだから。わかっていたわ。迷いもした。今更そんな事をしてもって悩みもした。でも、なんだかそれが報われなかったママにしてあげられる供養な気がして。ごめんね。あなたの気持ちを踏み躙る事だってわかってる。でも、私はあなたに疲れたわけじゃない。あなたが嫌になったわけじゃないの。それだけはわかって」

 彼女は汗を拭き拭き、泣きそうな顔で一生懸命それだけの事を口にしました。正直、彼女と付き合ってこんなに感情的な言葉を口にする彼女を見るのは本当に稀でした。それにいつもは感情が昂り過ぎて怒りにまで変換してしまうので、どちらかと言うと怒っていると感じる事の方が多かったのです。それは、彼女の性格も関係してくるのでしょうが、それ以前に誰かに自分の気持ちを伝える術を知らない不器用さも手伝っているのだろうと思っていましたが、理解しきれない部分も多かったのは事実でした。彼女は本当に純粋で、一生懸命でした。僕はだから彼女が好きなのに。

「わかってる。僕こそ、ごめん。君が僕を捨てていくと思って、怖くなったんだ。だから」

「・・・うん」

「本当は、笑って行っておいでって言えれば良かった。でも、きっと僕はそんなに器が大きくなかったんだ。君とまた離れてしまうのが、ただ悲しくて腹立たしかった」

「うん」うんと頻りに頷きながらも彼女は悲しそうに涙を零し始めました。彼女の目の下から頬に伝う涙の通り道のような傷が、彼女の悲しみや苦しみ、途方に暮れた思いを物語っています。けれど、彼女は決心したのです。彼女の幸薄かった母親に彼女を通して、色んな体験をさせてやろうと。彼女自身が母親の夢を叶えてやろうと。それはとても素晴らしい事でした。僕はそんな彼女を応援したいと、彼女と離れたくないという想いと同じくらい強く思っていました。彼女は何度もごめんなさいと口にしました。違う。そんな言葉を聞きたい訳じゃないんだ。彼女に謝って欲しい訳じゃない。僕は、僕は・・・

 僕はなにを言っていいのか言葉に迷った末、泣いている彼女を強く抱きしめました。

「また 会える!」

 確か、いつか遥か昔、こうやって僕が彼女に抱きしめられたなとぼんやり思い出しました。あの時は、独りぼっちになる事が怖くて寂しくて、ただそれだけだった。けれど、今は違う。そう思いたいし、彼女も僕もあの時とは違う。自分で人生を切り開いて行ける大人なんだから。想いがあれば必ず会える。途切れる事なんてない。大丈夫。僕の胸の中で頷く彼女の背を、僕はいつまでもいつまでも撫でていました。






 紅葉が美しくなってきた頃、店に一枚の葉書が届きました。

 裏には美しいオーロラの写真があります。どうやら、彼女は今フィンランド辺りのヨーロッパにいるようでした。表には簡単な報告がありましたが、彼女らしいぶっきらぼうの短い文章に少し笑ってしまいました。それにしても、見事なオーロラです。

 ニヤニヤとそれを眺めていた僕を無表情で眺めていた渡部さんが話しかけてきました。

「なんだったら、店を休んで会いに行ってくりゃいいだろ」

「あ、いい考えですね。でも、そんなすぐに会いに行ったりして、辛抱がないと思われませんかね」

「関係ないだろ。あいつは結構勝手なんだから、お前だって勝手にしたっていいだろ」

「確かにそうなんですけど」

「恋人に会いに行くのに、理由なんていらないだろ」

 渡部さんがそう言い終わるか言い終わらないかうちに、携帯電話がけたたましく鳴り響きました。峰子さんの臨月が近付いてきているので、気付かなかった事のないように一番大きくて一番騒がしい着信音にしているのだとか。渡部さんが慌てて電話に出ました。峰子さんにつきっきりのお母様からだったようで、よく通る声がここまで聞こえてきます。お母様もかなり慌てているようで、渡部さんが落ち着けと何度も言っています。峰子さんの臨月が近付くにつれ、渡部さんとお母様は子どもの事について自然と色々話せるようになったそうです。子は鎹なんて、上手い事を言ったものです。とにもかくにも良かったです。渡部さんは急いで電話を切ると、慌ただしく立ち上がりました。

「陣痛が始まった!もうすぐ産まれるぞっ!タクシーを呼んでくれ!」

 僕は急いでタクシーを呼びました。すぐ近くに馴染みのタクシー会社があったので、タクシーはものの3分もかからず駆けつけてくれ、渡部さんは病院へと向かいました。僕はそれを見送って、どうか安産でありますようにと祈りました。入れ違いに健三郎先生がいらっしゃいました。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

 ぼくがそう言いながら、お水をお出しすると、先生はいつもの席に座りながらまじまじと僕の顔を凝視してきました。なにかついてますかと僕が聞くと、先生はにやっと笑いました。なんだか、その笑い方が小太郎とダブって見えて、僕は目を瞑って軽く首を振りました。

「しばらく見ない間に、随分と味が出たように見える。色んなものに気付いたんだな」

 先生はそう言って鼻毛を毟ると灰皿に捨てました。僕は何と答えていいか考え倦ねて「これからも、もっと色々と気付いていくつもりです」と笑って返しました。先生は豪快に笑い出しました。

「そうだな。そうして初めて人生は実り豊なものとなる!」

 爽やかな秋空が覗く窓を背に、気持ちよく笑う先生につられて笑いながら、そう言えば、母の夢は何だったのだろうと思いました。いくら記憶を手繰ってみても、どうしても母との思い出自体が少なく、母が自分の事を語っていたような記憶が見つからないのです。なので残念ながら、僕には母の夢がわかりません。わかりようがありませんでした。ただ、一つわかっていた事は、母はいつも何不自由なく平和に暮らしたいと願っていたような気がします。だからこそ、自分の事よりも僕を、僕との生活を守ろうとしていたのかもしれません。

 彼女が母親の夢を叶えてやりたいというのなら、僕が母ちゃんにやってあげられる事はこうして、ここで店を営んでいく事のような気がします。母ちゃんが望んだであろう、穏やかで平和な、幸せな暮らし。僕の店に、こうしてわざわざ足を運んで下さるたくさんの素敵なお客様。そのお客様の人生に、一部也とも関われる事の幸せ。大切な人との絆。切れる事ない想い。そして、様々な人達に支えられて助けられながら幸せを頂いている僕。僕はそんな毎日を維持し続け、なにがあっても諦めずに生きていくのが母ちゃんへの親孝行のような気がしました。

 気付くべき幸せな事は、思いの外たくさんあるようだよ・・・僕は先生のブレンドをお煎れしながら、遥か彼方の地にいる彼女に想いを馳せました。

 


 僕の営む小さな喫茶店は、奥まった路地に入ってすぐの所にございます。

 様々な世代の様々なお客様がいらっしゃいます。

 お出しする珈琲は選り取りみどり。拘りを持っているものばかりでございます。

 お時間がありましたら、是非、一度お立ち寄りください。

 きっと、良きにしろ悪きにしろ、何かしら実りある一杯をお召し上がり頂けると思います。

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