その19

 強めのシャワーのように勢いよく降っていた雨が、少しずつ小雨に変わり、半分にちょん切られた視界の景色もワントーンずつ明るくなってきました。そろそろ止むかと思い、両腕に食い込む荷物の重さも手伝って、先走ってゆっくりと傘を閉じると、すっかり雨は上がっていました。

 アスファルトの歩道の彼方此方に散乱している大小様々な水溜りが、動いていく雲とその向こうに覗く青空を映し出しています。ついさっきまで土砂降りだったなんて嘘のように、あっという間に太陽の光が影を作り始めました。一気に水分が蒸発しようとして気温が上がってきたようです。

 水溜りに映っている景色はなんだか何処か冴えなくて、そこに映る自分ですらもアングルのせいか別人に見えるから不思議でした。見入っていると、抱えた袋からアンチョビの小瓶が転がり落ちました。慌てて掴もうとする僕の手をすり抜け、アンチョビの小瓶は水溜りに一直線に落下していきます。ダメだ、割れる。せっかく奮発した良いやつだったのにと残念に思った瞬間、節ばった大きな手がにゅっと伸びてきて瓶を難なく受け止めてくれました。

「危ない危ない。間いっぱーつ」

 まだ初夏にもなっていないというのに、黒いキャップの下にうっすらと日焼けした顔を覗かせた男性が不敵そうな笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がりました。シックな木綿のシャツを羽織り中は黒のTシャツ、ジーパンという爽やかな出で立ちのその男性はシゲさんの警備仲間。半年程前にシゲさんと一緒に来店されてから、ちょくちょく寄って下さるお客様です。

「おはよ、マスター。何覗き込んでたの?」

 警備仲間から茅さんと呼ばれている男性は、眠そうな表情の窺い知れない目を真っ直ぐ僕に向けながら、瓶をボールのように一回上に放ると上手にキャッチしました。昔、野球でもやっていたのかもれないと思うくらい安定した動作でした。

 少し痩せ過ぎの体系からは感じないのですが、恐らく50代後半くらいではないかとシゲさんが言っていましたが、運動神経は40代目前の僕よりも遥かに上だろうと想像がつきます。

「水溜りの中が、好きな映画の世界みたいな色だったので、ちょっと見物を」

「へぇ。なんて映画?」

「いえ。昔一回だけ観た事があるってだけなので、タイトルとかは殆ど覚えていないんですけど。マイナーな監督のマイナーな映画だった筈です。その映画の中では水溜りの中は死後の世界で、引きずり込まれると戻れないとか。確かそんな設定だった気がします。ただ、色が良かったのだけは印象に残っていて」

「色? あぁ、水溜りの中の死後の世界の色?」

「ええ。そうです。明度が低い色彩を上手く使っていて。丁度こんな感じでした」

「へぇー・・・」茅さんは遠い目を水溜りの中に投げました。

「確かに、そう言われれば、ちょっと陰気臭い世界に見えたりするな。じゃあ良かったな。俺がキャッチしてなかったら、文字通り、その瓶の中味は死後の世界に旅立ってたとこだ」そう言いながら茅さんは、瓶を僕に渡してきました。

「仰る通り。危ない所をありがとうございます」

 僕が笑ってそう言うと、どう致しましてと低い声で紳士な返事を返してくれました。

「今日はこれから?」

「マスターの店に、昼飯がてら暇つぶしに行こうかと思ってたとこ。一人もんは、折角の休みでも特に予定もなく暇なんでねー」

 茅さんは大きな欠伸混じりに言いながら、僕の片方の腕に食い込んだ袋を取り上げてくれました。前を歩く茅さんからは香水のような芳香が微かにして、几帳面な性格なのか、木綿シャツには皺一つなく、丁寧にアイロンがけされているようでした。部屋に遊びに来た彼女に、臭いだの不潔だのと怒られている何日も洗濯物を溜めてしまう僕とは大違いです。

「茅さんは、キチンとしてますね・・・」

 僕が感嘆の独り言を呟くと、聞こえたのか、茅さんはふと振り返って例の表情のない目で僕を見ながら、まぁそんな事ぐらいしか私には取り柄がありませんからねと、冗談とも本気とも取れる事を言うと、にっと笑いました。その笑顔は照りつけ出した初夏の太陽みたいに輝いているのに、どうして時々急にそんな寂しい事を言うのだろうと、前から気にはなっていたのですが、訳等聞ける筈もなく、そんな事はないですよなんて何処か体裁を装った事しか口に出来ない自分がなんだか悲しくもなるのです。結局、僕は専門カウンセラーでも何でもないので、お客様が話したい時に聞くお相手になるくらいしか何も出来ないのですけど。時々それが歯痒くもなるのです。茅さんの場合はその回数が、何だか他のお客様に比べると少し多く感じるような気がします。

「来週から、又シゲさんがヘルパーで来てくれるから頼もしいわ。俺が今働いている施設は、レジャーっつても案外厄介な案件も多いから、少しでも現場慣れした人がいると非常に助かるんだわ」

 彼方此方の現場、主に工事現場なんかを好んで渡り歩いているシゲさんとは違って、確か茅さんは都内の某有名レジャー施設内での警備と聞いています。動物園だか公園だかわかりませんが、成る程そんな所ともなれば、休日には親子連れ等でごった返して、色々と面倒な事も多いのでしょう。人が多い所には必ず何か起りますから。何しろ、彼女と行った美味しいと評判の肉まんの店でも、買う為に並んだ列に割り込んだとか何とかで、お客同士の軽いいざこざが発生しましたから。

「そうですか。それは心強いですね」

 茅さん特製ココナツブレンドをお出ししながら、そんな相槌を打ちましたが、正直、シゲさんが泣いている小さな迷子をあやしているところなんか想像もできませんでした。むしろ、迷子を泣かせていたり、一緒になって困っているような様子しか浮かんできませんでしたので、密かに笑いを噛み殺しました。

「俺なんかより何倍も頼りになるから。あの人は」

 美味しそうにココナツブレンドを一口飲んだ茅さんが呟いた言葉が、又しても僕を寂しい思いにさせます。そうなのでした。この茅さんの癖と言うか、性格がそうさせているような、謙った言葉がどうにも引っ掛かってしまうのです。

 それは会話の端っこや、聞き落としてしまいそうな随所に散りばめられていて、時々酷く物悲しく存在感を感じるのです。どうして、そんなに、そんなにも自分を卑下する言葉を、気軽に口に出してしまう必要があるのでしょうか。

 僕は茅さんのこれまでの人生の事については知りませんし、茅さん本人が口に出す以上の事、シゲさんから遠回しに聞いている以上の事以外は何も知りませんが、もしかしたら、茅さんは自分に自信がなくて何かを諦めているのかもしれないと、何気ない会話の中でうっすらと感じるのです。そして、紳士的な言葉の裏側に込められている寂しさのようなものも。

「うまいなぁ。いつもありがとうな」

 そう言いながら、ぎこちなく笑った茅さんの顔が、何故かその日に限って焼き付いたのです。


 それからしばらくして、シゲさんがいらっしゃいました。

 シゲさんも仕事が忙しいようで最近めっきり音沙汰がなかったのですが、一足先に夏を先取ったように真っ黒に日焼けた肌に派手なアロハシャツという出で立ちをして、いつもの席でいつも通りカフェオレとミックスサンドを頼まれました。心なしかやつれたような様子です。

「仕事が忙しそうで、何よりですね」

 コースターを敷き、上にアイスカフェオレを乗せながら僕が言うと、シゲさんは珍しく深い溜め息をつきながら、そうでもねぇよぉーと疲れた声を出しました。心なしか、今日はいつもに増して貧乏揺すりが激しいので少し苛々しているような気もします。

「茅さんと一緒の現場なんですよね。最近いらっしゃらないですけど、茅さんは元気ですか?」

「その茅さんがいねぇから、大変なんだって」吐き出すようにシゲさんは言った。

「えっ?! いないって、行方不明なんですか?」

「行方不明な訳ねぇだろう。って、マスター、ニュース見なかったのか?」

「ニュース? いつのですか?」

「ほんの3日くらい前の。ほら、立て篭り事件。博物館の」

「あぁ、立て篭り事件は知ってますけど。でも博物館って言うのは知らなかったですね。何処のとは報道されていなかったんじゃないですか」

「あーそういや、そうだなぁ。あれぁー博物館を経営してる奴らが、名前を出したらイメージダウンだってんで、わざと隠したのさ。お客が気味悪がって減るんじゃないかってな。勝手な話だ」

「確か、女性が人質に取られて、でも、警察が駆けつけたら難なく解決したとか何とか」

「ところが、事実は違う。殆ど博物館側が都合が悪いから隠蔽してある。実際はそうじゃねぇ。警察が集まってくる前に、人質に取られてたネェちゃんは犯人から解放されてる。代わりになった男がいたからな。残念ながらそいつは刺されちまったが、犯人はそれでビビって大人しく警察のお縄になったんだ。だから、警察のお手柄っておかしな事になってる」

「へぇ、そうだったんですか。その刺された方は、大丈夫なんですか?」

「・・・重体だよ」シゲさんの顔が一気に渋くなった。

「そうですか。それはお気の毒に。でも勇気ある方ですね。一般のお客様でしょうか。それにしても、シゲさんやけに詳しいですね。まるで関係者みたいだ」

「関係者だからな。刺されたその男は警備員。マスターもよく知ってる俺の仕事仲間だ。そいつが生死の境を彷徨っているっていうのに、博物館はのうのうと営業を続けてやがるから腹が立つのさ」


 事件は、茅さんとシゲさんが、ちょうど休憩の入れ替えで引き継ぎをしている最中に起ったそうです。不意に身につけている無線から、3階のフロアで不審者が包丁を振り回して叫んでいるとの通報が入りました。

 二人が駆けつけると、既に犯人らしきニット帽を深く被った男は若い女性を人質に取って、ティラノサウルスの骨の前で陣取り、周囲に絶え間なく罵声を撒き散らして、緊迫状態だったそうです。人質の女性は、大学生くらいの年頃で、包丁を顔に突きつけられ、パニック状態で鳴き喚いていました。

 一般のお客様を避難させた他の警備員と関係者が集まっては来ましたが一向に動けない状態の中、それまでじっと様子を窺っていた茅さんが突然、俺が行くと言い出したそうです。

 犯人は薬物乱用者なのか興奮状態になっており、叩き付けるように口にする言葉も支離滅裂。こちらからの呼びかけにも反応出来ない状況だったようで、交渉ができる筈がなく危険だから止めろと、シゲさんが強く止めたそうです。けれど、茅さんはそれを振り解いて犯人に近付いて行き、俺を刺せと言ったそうです。

 犯人はバカにされたと思い、人質を突き飛ばして茅さんに向かってきて、その腹を思いっきり刺した。そこに警察が流れ込み、取り押さえられた犯人は我に返ったように泣き出し、事件は解決した。

 ただ1人、闇に揉み消された哀れで勇敢な被害者を残したまま。

「奴は、ああ見えて、見栄っ張りな上に、人一倍正義感も強い厄介な性格だ。けんどな、警備員なんて言ったって、所詮一般人と同じ扱いだ。警察とは違う。無駄な正義感なんて持つもんじゃねぇ」

 茅さんはお腹を抑えながらゆっくりと倒れ込んだらしい。そして、何処か微笑んでいたのだとか。

「俺は必死に止めたんだ。そんな事をしなくても警察が直に来るから、任せとけってよ。だのに、奴は・・・俺なんかいいんだ、どうなったって。あの子の方が何倍も生きる価値があるだろうって、聞かなかった。それで、英雄気取りすらもさせてもらえず。ほんとに、バカな奴だよ!」

 シゲさんは勢い任せにカウンターを拳で叩くと、悔しそうに唇を噛んで俯きました。こんなシゲさんは初めて見ました。現場に居合わせていたからでしょうか。太郎さんの時にすら見せなかった苛立ちを露にしていました。博物館の対応にも、茅さんの行動にも両方に心底腹が立っているようでした。

「今、茅さんの容態は、どうなんですか?」

 怖々聞いた僕の言葉を、まるで恐れてでもいたかのように、シゲさんは拳を更に固めました。

「・・・思わしくねぇ。あと、保って2、3日だそうだ」

「そうですか・・・」

「見舞いに行くか? とは言っても、親族以外面会謝絶。ガラス越しだがなぁ」

「いえ。僕はここで。ご親族の方のお邪魔になっても何ですし」

「親族なんて来てねぇよ。駆け落ち同然で結婚した両親もとっくに死んじまってるって聞いてるぞ。浮気されて離婚してるから、女房も来ちゃあいねぇだろうし。確か、仲の悪い妹が1人いるとか言ってたなぁ。結婚して家庭持ちらしいけど、見舞いに来てる様子もないから、もしかしたら縁すら切られてるのかもしれねぇな。全く、血なんて名ばかり。家族なんて、いてもいなくても寂しい限りだ」

 そうだったか。僕が彼に対して抱いていた寂しさの意味が、ようやくわかったのでした。

 茅さんは、ただ、ただ孤独だったのです。誰かにいて欲しくても、プライドと意地が邪魔して素直にそう言えなかったのかもしれません。言葉の端々に忍び込ませる事くらいしか。それだけ、自分にも、もしかしたら自分の今までの人生にも全てに嫌気が刺して、或は自信が持てなかったのかもしれません。

 人は誰かと触れ合う中で、自分の居場所を見つけて、そこから自信を育んでいく事が出来るのですが、誰もいない状態ではひたすら寂しいと言う思いばかりに立ち塞がれ、終いには自分なんかと悲観的に陥りがちになってしまいます。

 思い起こしてみれば、茅さんは、よく自分の働く施設に遊びにくる家族連れや子どもの話をしていました。特に子どもは可愛いようで、何度も同じ話をしていたくらいです。前の奥さんとの間に子どもがいたら良かったのにと残念がっていました。そうすれば、もっとマシな人生になっていたかもしれないとも。

「奴は、この仕事を辞めたがってたよ。何処か南の島にでも移住して暮らすんだとか、夢みてぇな話ばかりしてた。今、思うと、奴はもう疲れてたのかもしれねぇな。人生に」



 1ヶ月が過ぎようとしていました。シゲさんはあれから姿を見せませんでした。茅さんの事が気掛かりでしたが、何処の病院かもわかりませんでしたし、僕はひたすらこの店で待ちながら、祈る事しか出来ませんでした。ジメジメと鬱陶しい梅雨の雨が、増々どんよりと憂鬱な気分にさせます。

 雨は相変わらず彼方此方に水溜りを作っていましたが、さすがに今回は覗き込む勇気がありませんでした。別にいつか観た映画の内容を信じている訳では決してないのですが、ただ、ちょっと切れ端だけでも、黒っぽいシルエットのようなものでもチラと見えたらと思うと、情けない事に怖かったのもありました。

 それに、又覗き込んでいるうちに何かを不意に落としてしまう事があったら、それを器用に受け止めてくれる手がない現実を嫌でも思い出してしまいそうで、それは何だかとても悲しい事に思えました。

 いつか話した死後の世界に、茅さんは、寂しさを抱え込んだまま、旅だって行ってしまったのかと、どうしてそんな事になる前にもう少し気の利いた言葉の一つもかけてあげられなかったのだろうとも、自責とも後悔ともわからない中途半端な感情が湧いてきて不意に嘆きたくなったり。こんな時の心持ちは複雑です。

 それにしても、いくら思い出そうとしても、その映画の中での水溜りの設定が今一不明虜でした。

 死後の世界だと言う事は覚えているのですが、死後に行く世界なのか、その人がいなくなってしまった死後の世界なのか、そこがよく覚えていないのです。けれど、引きずり込まれるという設定から考えると、やっぱり死後に行く世界のような気もしますが、基本的な景色は変わらないので、その人がいなくなった未来の世界なのかもともどっちとも取れるのです。もし、未来の世界だとしたら、引きずり込まれた後、どうなるのでしょう? 自分が存在しない世界を見せられて、自分がいなくても通常通り過ぎていく時を感じられて、今まで必死にやってきた事の虚しさを思い知らされるのでしょうか。それとも、今まで全てだと信じていた事が、今まで絶望的だと思い悩んでいた事が、良くも悪くも覆されるような気分になったりするのでしょうか。だとしたら、それはそれでとても興味深い内容です。けれど、肝心のタイトルがわからないので探しようもありません。そんな風に混沌とした気持ちを遣り過ごしながら、とうとう1ヶ月が過ぎました。

 シゲさんが再び来店したのは梅雨も明けかけた7月上旬でした。

 僕は例の如く、数珠つなぎのように思い起こされる感情に弄ばれながら、何となくレモンパイを作っていました。なので、シゲさんが入ってきた事すら気付かなかったのです。情けない事に、ここ最近はぼんやりしてばかりで、常連のお客様からの注意が絶えないような状態になっていました。

「いーぃ匂いだなぁー」

 シゲさんは、いつもの調子でのんびりとそう言いながら、香ばしいパイの焼ける匂いに釣られるようにして、いつもの席に座りました。まだ元気とは言えない笑顔を浮かべています。

「いらっしゃいませ。レモンパイです。もうすぐ焼き上がります」

 茅さんの事が心配だったので、真っ先に聞きたかったのですが、不粋な感じもしたので黙っていました。すると、シゲさんがふと顔を上げて言葉を繋ぎました。

「ならよ、テイクアウトで2つ包んで欲しいんだけど、いいかな?」

 その答えだけで充分でした。僕は満面の笑みで勿論ですと答えると、シゲさんのカフェオレを作り始めました。後で聞いた話、実は茅さんは心肺停止になったそうなのですが、嫌々来院した妹さんの怒りのパンチによって戻ってきたとか何とか。

 妹さんはご臨終になった茅さんに馬乗りになり、顔を思いっきりこれでもかと殴りつけながら、葬式代と墓くらい自分で用意してから死ねと罵ったそうです。すると、余程ムカついたのでしょう。茅さんがいきなり目を見開いて、誰が死ぬかー!と言ったとそうです。最早何処までが本当か、何処までが作り話かはわかりませんが、とりあえず茅さんは死後の世界に行く事よりも、こちらの世界で粘る事になったようです。

 シゲさんはベッドに起き上がれるようになった茅さんに、訥々と説教をしているそうです。

「生きる価値なんてのはよ、一体何処のどいつが決めんだ? あ? 歴史に名を残す偉業を成し遂げりゃ価値が出るのか? それ以外は価値がねぇのか? 違うだろ。価値なんて関係ねぇ。母ちゃんの腹から転がり出た時点で、命には価値が産まれてんだ。勝手に、てめぇの価値をてめぇで決めんな。価値だ何だと喚いてる暇があんなら、もっと走れ。もっと足掻け。とりあえず突き進め。いじけてんじゃねぇ。よく覚えとけ。女なんざ、我武者らにやってりゃ自然と寄ってくるもんだ。そんなくだらねー事でクヨクヨしてんじゃねぇよ」と。

 ・・・おや? どうやら、茅さんは最近、好意を寄せていた女性に振られたばかりのようでした。やれやれ。まぁ、なにはともあれ、一件落着ですから。



 暑い夕方、9月も中頃だというのに、いつまで経っても残暑が抜けず、日中の暑さを洗い流すかのように夕立が降りました。文字通り、巨大なバケツをひっくり返したようなあっという間の豪雨でした。僕はその様子を店の中から眺めていましたが、降り終わった後の清々しい空気を吸いに、ちょっと外に出てみたのです。

 店の前には大きな水溜りが出来ていました。夕立を齎した雲は、次の夕立を求めている土地を目指して忙しなく動いていき、その隙間隙間からは、夕日と呼ぶには些か眩し過ぎる日差しが差し込んできていました。

 暖色がかった日差しを反射して水溜りは美しく輝き、その中に映る世界も美しく温かい光に溢れているようでした。それを目を細めて見ているうちに、もしかしたら、死後の世界とは、何かがあって一回死ぬような体験、今回のように大きな事故にあって生死を彷徨ったりして、再び目覚めた後の世界だったりするのかななんて思いました。水溜りから目を離して見上げた空には、いつの間にか虹がかかっていました。

 今までの自分は一回死んで、新しく生まれ変わるから。だから、水溜りの中の世界はこんなにも美しかったり、影が濃く見えたりするんじゃないかと。路地の少し先に、同じように空を見上げている男性二人がいました。

 でも、現実世界だってそうそう捨てたもんじゃない。見方によってはどんな明度にも、どんな色合いにも変えられる。談笑しながら虹を見上げる男性は、片方の方が車椅子に座っていました。どんな話をしているのでしょうか。太陽のような笑いがここまで見て取れます。二人は虹を背にゆっくりとこちらに歩いてきました。

 人は生まれ変われるのだと、何度でもやり直せるのだと、僕は手を振りながら、そんな事を思いました。

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