その18

「はぁ。 ・・・疲れた」

 その女性は独り言を呟くように、けれど確かに誰に向かってともなくそう言うと、ため息と一緒に残り少なくなったアイスキャラメルラテを一気に飲み干しました。真夏の一番暑い盛りの午後に汗だくになって困ったように入ってらしたのですから、よほど冷たいアイスキャラメルラテが疲労した体に滲みたのでしょう。お出ししたグラスの氷がまだいくらも溶けていないうちに飲み干されてしまわれたのです。その方が 呟いていらっしゃった疲れたというのは、将又仕事に疲れていらっしゃったのか、生活に疲れていらっしゃったのか、それとも夏の暑さに対して疲れていらっしゃったのか、何に対して疲れていらっしゃっていたのかは定かではありませんが、もう店に入ってきてかなりのため息をついてはそう言っていらっしゃるのでした。少なくとも10回は確実にため息を漏らしていらっしゃいます。それが、僕になにかを訊ねて欲しい遠回しのアピールなのか、それともただ息と一緒に漏れてしまうくらいその方の体内に充満していたのかはわかりませんが、女性は特に僕を伺うでもなく、ドリンクを頼む間も待つ間も飲み干す間も絶えず独り言のようにため息をついてはこそっと何かを零していらっしゃったのです。

 僕はお代わりか他のドリンクをお勧めしましたが、その女性は丁寧に断ってチェイサーをお願いしますと言われました。

「あまり急激に血糖値を上げ過ぎるのも、体に良くないから」

 いくらか脱色した軽い色をした肩までの涼しげなボブスタイルが憂鬱そう頬にかかっている俯きがちなその女性は、透け模様に編まれた白く簡単なニットの羽織を肩からかけ、アジアンちっくな幾何学模様の紫を基調にした丈の長いワンピースを着ていらっしゃいました。そのワンピースの紫はまるでドラゴンフルーツの果肉のように鮮やかな色をしていたので、女性が儚げに扉を押して店内に迷い込んだように入っていらっしゃった時には南国の蝶が迷い込んできたかのような華やかさがあり、思わず目を奪われてしまいました。僕は南国と名のつくものには沖縄しか行った事はありませんが、沖縄も一般の民宿や食堂から少し足を伸ばしたリゾートのように作り込んだホテルや施設には熱帯の植物が植えられ、ハワイなんかを意識したハイビスカスやら南国の果物、蝶なんかが効果的に配置されていたっけ。沖縄には沖縄のいい所がたくさんある筈なのに、どうしてハワイみたいにしなきゃけないのか些か疑問に思ったのです。南国イコールハワイとかがミックスされたものみたいな押し付けがましいイメージがあるらしくて、どうでもいいけれど僕はそんなのは嫌いなのです。話が逸れましたけけど、とりあえず女性のワンピースはそれだけの事を僕に一瞬にして思い起こさせたのです。

 店内には夏のぼんやりとした午後に相応しいボサノバが、ゆったりと流れていました。窓際には健三郎先生が脇目も振らずもの凄い速さで万年筆を動かし、黙々と執筆に励んでいらっしゃいました。女性はお出ししたチェイサーを一口がぶりと飲むと、又何度目かのため息を一つつき、そのまま眠るようにして両手を組んで口元にあてがったまましばらく動かなくなりました。その瞬きすらも忘れたかのような固まった視線は何処か一点を見つめてはいたのですが、女性の真ん前に置いてあった珈琲メーカーやグラス等をご覧になっているのではない事は一目瞭然でした。僕はというと、明日の花火大会に浮かれていました。元々こういうお祭り騒ぎが好きな質なのです。彼女と渡部さんは仕事が終わり次第駆けつけると言っていましたし、シゲさん一家は仕事仲間と誘い合って繰り出すそうです。なので、運が良ければ何処かで会えるでしょう。そんな事を考えていそいそとジャガイモや人参を洗って下ごしらえをしていた僕は、随分と大きくなった小太郎が蠅を探して静かに店内を移動をしている事をすっかり忘れてしまっていました。と言うか、小太郎の存在はあまりに当たり前になり過ぎていたのでいつもそこまで気にした事はなかったのですが、この時は珍しく人見知りの小太郎が客席近くまで降りてきていたのです。女性がそれに気付いたのと僕が顔を上げたのは殆ど同時でした。店内に女性の金切り声響きました。健三郎先生も一瞬怪訝そうに顔を上げましたが、なんだとばかりにつまらなさそうに女性を一瞥するとすぐ原稿用紙に視線を落としました。

「何これっ!なにこの大きな蜘蛛は?! どうしてこんな所にいるの?」

 驚いているのが自分1人だったのが意外だったのか、女性は動揺を必死に隠そうとして口を抑えて立ち上がりました。僕は慌てて女性の目の前に駆け寄って小太郎を目のつかない端っこに寄せると、深々とお詫びをしました。その様子を見ていた女性は僕の対応が増々理解出来ないようでした。

「どうして食べ物を扱う店であんな気持ち悪い蜘蛛を飼っているの? 非常識だと思わない?」

「はい。ある側面から見れば確かに仰る通りではございます。けれど、彼は私が飼っているのではなく雇っているアルバイトなので、そこはどうかご勘弁を」

「は? アルバイト? だって、あれどう見ても蜘蛛でしょ? あたしは子どもの頃に頭から大きな蜘蛛が落っこちてきた経験をしているの。だから蜘蛛が大っ嫌いなのよ!わかる? 蜘蛛が、嫌いなの」

「そうでしたか。それは知らずに、大変申し訳ありませんでした。彼は小蠅等の害虫駆除をしてくれているのです。しかも巣を張らずに」

「でも、蜘蛛は蜘蛛でしょ?」勿論そんな説明をしても女性の怒りは収まらないようで、尚も聞き返してきます。

「確かに蜘蛛は蜘蛛でございますが、彼は僕の大の親友なんです」

「親友? 蜘蛛が?」狐にでも摘まれたような顔をして女性は変に甲高い声を出しました。

「はい。彼はかけがえのない大切な友達ですから」

 僕がそこまで言うと、何故か女性の顔が不意に強ばって黙ってしまったのです。

「とにかく、そんな事を言ってもお客様に大変嫌な思いをさせてしまった事は事実ですので、本日のアイスキャラメルラテはサービスさせて頂きます。それでお許し願おうとは思ってはおりませんが、宜しければそうさせて頂ければと思います。如何でしょうか?」

 すると、女性は顔を曇らせたまま力が抜けたように再び椅子にすとんと着席したのです。それがYESの合図だと受け取った僕は気を取り直して、昨日作って冷やしておいたレアチーズケーキを切って涼しげな硝子のお皿に乗せて女性と次いでに健三郎先生にもお出ししました。先生は最初気付かない振りをしていましたが、僕がカウンターに戻って残ったチーズケーキを再び冷蔵庫に仕舞い立ち上がると、既にお皿は空っぽになっていました。なんたる早業。

「・・・美味しい」

 と、チーズケーキをはにかむように小さく切り分けては少しずつ口に運んでいた女性が不意に呟くように言葉を漏らしました。僕は、喜んで頂けて光栄ですと笑って返しました。

「なんだか、ここでは色んな事が共存して、それが当たり前のように流れているのね」

 女性の言った言葉の意味がよくわからなかったので、僕はちょっと首を傾げました。すると、女性は恥ずかしそうに、なんでもないのと笑いました。

「ただ、ああやって人間でもない生き物を、誰かに平然と親友だと言い切れる店長さんがなんだかおかしいような、羨ましいような変な気持ちで・・・あ、ごめんなさい。別にからかっている訳じゃないの」

「いえ。大丈夫です。僕にも勿論人間の友達もいるんですけど、小太郎はちょっと特別なんです」

「小太郎というのね。あの蜘蛛は」女性はまた少し笑って答えました。

「ええ。蠅取り蜘蛛の小太郎です」

「そう・・・店長さんはよっぽどあの蜘蛛を信頼しているのね。口ぶりから伺えるわ」

「はぁ。信頼しているとかしてないとか、そういうのはあんまり考えた事がなかったですね。ただ僕が小太郎を大切な親友だと思っているだけで。小太郎の気持ちなんてわかりませんよ。話せる訳でもないんでね」僕がそう言うと、女性はそれもそうねと乾いた声で曖昧に笑いました。なんだかその笑い声はぽっかりと宙に浮かんだままいつまでも漂っているようでした。

「言葉を話せる人間同士でさえも、相手の気持ちなんてわかりはしないんだから」そこまでを口にして無理に遮るように言葉を切った女性はけれど、そこから続く話をしたいような迷っているような雰囲気でした。そういえば、つい先程にもため息と一緒に疲れたと漏らしていたのです。けれど、女性は迷った挙げ句にやっぱり仕舞い込んでおこうと決めたのか、それきり唇を開こうとはしませんでした。僕は女性が発した最後の言葉をぼんやりと考えながら、真夏の日差しでとろっとしたフルーツジュースの中に漬かってでもいるかのように見える景色を窓ガラス越しに眺めました。その窓枠の上を急に強い日差しを見た時の目に浮かぶ滲みのような残像みたいに小太郎は不器用に移動していき、棚の裏のいつもの指定席に戻っていきました。やれやれ。


 女性はその後も何度か来店されました。けれど、いつも決まって一番暑い盛りの午後にいらっしゃいました。そして、その度に何かを話したいようでしたけれど、いつも思い止まったように中途半端に言葉を切ってはただひたすらため息をつき、疲れたと零すのを繰り返していたのです。そしていつもアイスキャラメルラテをお飲みになりました。

「店長さんは、あの親友の蜘蛛がある日突然行方知れずになってしまったらどうする?」

 ある日はそんな会話から始まりました。僕は特に考えもせず探しに行くか待つかのどちらかですねとカレーをかき混ぜながら特に考えもせずに答えました。スパイスの加減を見ながらだったので、些か乱暴な答え方をしてしまったかもしれません。女性は少し困ったように肩を竦めると、そっかと独り言のように言ってから黙ってしまいました。

 店内にはカレーのいい香りが充満しています。夏と言えばカレーなので、今月からうちの喫茶店でも夏カレーと称して、夏野菜、例えばトマトや茄子やピーマンなんかをたっぷり使った、いつもの熟成させたようなカレーとは違った味付けのぴりっとしたあっさりカレーを出していました。入れる材料はその時の仕入れ状況に寄って変わってきましたが、とにかく常連さんも含めてすごく好評で、その日の分が残る事はあまりない程の売れ行きでした。お陰で、必ずお店が一段落する午後はまず明日に備えたこのカレー作りから始めなければいけない程でした。女性が来店される時間はカレーを作っている事が多い時間帯でした。

「ご馳走さん。今日のはオクラがいい味出してたぞ」

 そう言って、健三郎先生がお皿をテーブルの脇に寄せました。健三郎先生は滅多に食べ物を注文されないのに、店内を占領する有無を言わさぬカレーの匂いに負けたのか、最近はいらっしゃると必ず夏カレーを食べていらっしゃいます。勿論、渡部さん、シゲさんの面々も。

「ありがとうございます」

「うむ。連日の素麺には些か飽きてきたからな。何事にもちょうど良い刺激は必要だ」

 どうやら、先生のお家では素麺ばかりが出ていらっしゃるらしくて、いかにも満足そうに笑うと、白髪混じりの鼻毛を一本抜いて灰皿に落とし、さてと言ってまた万年筆を握り原稿用紙に向かいました。ツクツクボウシが飛んで来て、それまでいた油蝉を追い出すかのようにして我が物顔で独特の声で鳴き始めましたが、真横の硝子に陣取っている健三郎先生には全く聞こえていないように集中されているのがわかりました。

「・・・誰かとの信頼とか信用って、時としてとても重く伸し掛かってくるものよね」

 僕はカレーを小鍋に移して、洗い物を始めました。その勢いよく出し過ぎた水音に掻き消されて聞こえるか聞こえないかくらいの音量でその女性が話しかけてきましたので、僕は慌てて水を止めました。女性ははっとした顔をして恥ずかしそうにまた一瞬視線を手元に落としましたが、勇気を震ったように再び口を開き言葉を紡ぎ出し始めました。

「・・・そもそも、他人に信用とか信頼とかって求める方が馬鹿よね」

「? いいえ。僕はそんな事はないと思いますが、ただ、信用出来るとか信頼出来るという答えに至るまでの過程が大切な気もします。その過程が大切であって、最終的に導かれたその信用とか信頼はあくまでおまけかな」と、自分の経験も交えてそんな事を返してみました。

「おまけ・・・?」

 女性はショックを受けているかのように凍り付いた表情をして、それだけを口にしました。

「ええ。でも勿論それを求めたら悪いものでもないですよ。ただ、人を信じる事は、信じる人の一方的な思いだという事は忘れてはいけないと思います。例えそれによって相手が自分が思っているような反応を返してくれなくても、それに」

「そんな事言ったって、私には彼女を信じてあげるしかなかったのよっ!」

 不意に僕の話を無理矢理遮って女性が大声を上げながら勢いよく立ち上がったのです。あまりの勢いに座っていた椅子が後ろに倒れて景気のいい音が木霊しました。

「だって、そうしなきゃ、彼女が思い詰めて死んでしまうかもしれなかったのっ!だから、だからっ!私は今までたくさん助けてもらった大好きな彼女を信じる事にしたのよっ!それなのにっー・・!」女性は取り乱したように歯を食いしばって項垂れました。力を込めて握っている拳が微かに振るえています。時間にしたら30秒程の奇妙な沈黙が店全体を包みました。

「・・・それなのに、金ごと相手は蒸発しちまった、のかな」

 いつの間にやら、窓際の健三郎先生が手を止めて、今までにない程の穏やかで優しげな目をして、そう言ってこちらを眺めていました。女性は一瞬怯えたように顔を上げたかと思うと、見る間にその豊かな睫毛に縁取られた目から涙を零し始めました。健三郎先生は穏やかな眼差しを向けられていました。いえ、正確には言い当てられてしまった事によって一気に溢れ出てきた今まで必死に我慢してきたどうしようもない気持ちと共に嗚咽する女性の背中をそっと慰めるかのように先生は眺めていました。

「彼女に泣きながら相談されて、じゃあ他にどうすれば良かったのっ? 見捨てて、なんにもならない言葉をかけてあげれば良かったの? 別に善意を振る舞った訳じゃない。親友だったらって、助けてあげられる方法をいくら考えてもわからなかったのよっ!それでも・・・それでも私が悪かったの?!」

 気が違ったように頭を両手で抑えて誰にともなく泣き叫び訴える女性に、尚も優しく諭すように健三郎先生は鼻毛を弄りながら女性の背後から語りかけるのを止めませんでした。不思議な事には女性は決して背後を振り返ろうとはしないのです。

「なら、自業自得だ。そこまでしたのなら、もう腹を括るしかないだろう。相手はどう思っておったんかは知らんが、少なくともお前さんは、相手を親友だと思っておったればこそ自分の出来る最大限で相手を助けてやりたかったんだろう。気持ちがわからんでもない。だがな、そこで何より大切なのは腹を括る事なんだ」

 健三郎先生はいつになく堂々として諭すような調子で、更には饒舌で、僕は何も言えずに聞き入っていました。

「お前さんは自分の先の未来等微塵も考えもせず、ただ困っている相手を前にして助けたいと純粋に思って実行したつもりでいるんだろう。だがな、誰かを助けるっていうのは己に責任が生じるもんだ。あまり知られていないようだが、特に金銭が絡む事例ではな。生じた責任共相手の人生を背負う気持ちがなけりゃ、到底誰かを真に助けてやる事なんてできゃしないのさ。儂の憶測が正しければ、お前さんはかなりの額の金を相手に貸したんだろう。それでもって、相手が蒸発しちまって、下手したら金貸しなんかから連絡が来たりして内心かなり焦っているんじゃないのかね? 自分の選択は間違っていたのかもしれないと困惑しているんじゃないのかね? そして、その問答に心底疲れてしまっている」

 女性は大きく目を見開いて健三郎先生の方を初めて振り返り、しばらく先生を凝視していましたが再び力なく項垂れて、はいと蚊の鳴くように答えました。僕はというと、このやり取りを前にただ突っ立って聞いているより他に出来ませんでした。

「相手の人生に金を貸すという事で関わってしまったお前さんは、本来は最後まできっちりと関わらなけりゃいけない。それなのに、相手がドロンしたとなると、増々不信感が募っちまった。貸した金はこの際諦められたとしても、その時の相手の言葉や気持ちまで疑い出した己自身に嫌気がさせているんじゃないのかね? そして、金を貸した愚かだったかもしれない自分自身に」健三郎先生の語り口は責めるでも冷酷にでもなく、どちらかと言えば慈悲深く優しくさえ聞こえました。

「・・・間違っていたとしてもそう思いたくないんです。そう思ってしまったら、彼女との思い出も彼女自身も何もかもを否定してしまいそうで。そうしてしまう自分がなんだか辛くて、だからずっと誰にも言わずに自分の中に閉じ込めてきたんです。誰かに話してしまったら、絶対に真実を言い当てられてしまう。それも怖くて。必ずいつか彼女は戻ってくると。ただそう信じようとしていました」右手を左手で抑えながら痛々しく訴えかけるようにして女性は続けます。

「辛いだろう。誰かを信じる事は。一歩的な思い込みと言えなくもないからな」

「疲れました。でも、私はどうしたいんだろうって、自問した時、彼女が変わってしまっていても私は彼女が好きな事には変わりなくて、だったら信じて待っててあげてたいって思ったんです。例え裏切られても、帰ってこなくても。それが私の友情だと思ったから。・・・でも」微かに灯った希望を自ら吹き消しながら、不意に女性は口籠りました。

 窓辺の健三郎先生は猫のように目を細めると、又一本、品良く鼻毛を引き抜き、まじまじと眺めて灰皿に捨てました。

「もう大分年数が経ってしまったのかな。諦める頃なのかとも思い中途半端に迷っている」

「情けないですね。ほんと」女性は儚げに少し笑いました。

「いや。そんな事もないかもしれん。もしかしたら、その相手も時間がかかっても必ずお前さんに会えるように何処かで頑張っているのかもしれないからな。少なくとも平気な顔して暮らしているような相手じゃないんだろう。お前さんを見ていてなんだかそんな気がするよ。希望を持つのは自由さ。お前さんは何も悪くなかろう」

 そう言って腕組みをしながら難しい顔をした健三郎先生とは裏腹に、女性の顔が俄にぱっと明るくなったのです。

「そう言ってもらえると、気が楽になります。ずっと誰にも相談出来なくて。でも、1人で抱えているのもしんどくて。誰かに話したところで貸した私が悪いんだって一般的な意見でハッキリと言われるんだって怖くて憂鬱だったんです」

 女性は目尻をそっと指で拭いながら、健三郎先生に向かってありがとうございますと深々と丁寧なお辞儀をしました。

「なんともしょっぱいご時世だからな。己の事は己で全て処理しろと。例え弱音にしても後悔事にしても聞きたくはない。聞ける余裕のない人間ばかりだからな。正直な人間が馬鹿を見る。まっとうな人間が苦しむ。まぁ仕方あるまいよ。だがな、どんな時でも己の中の気持ちだけは捨てたらいかん。捨てた振りをして隠し持っておくべきだ。それは巡り巡って偶然と言う名の必然を呼ぶだろう」

「成る程。偶然という名の必然ですか・・・」僕は思わず感嘆の声を上げてしました。又しても名言です。

「そうだ。この世に偶然はないという。あるのは必然だけだそうだ。だが、必然は奇跡を底上げしたものと考えても差し支えないだろう。つまりは物事は全て感じ方、考え方なのだ」

 ほぉーと二人分の感嘆のため息が漏れました。さすがは文字を専門にされている方は違いますね。ここ数日の女性の曇った表情がまるで太陽の光が差し込んだかのように晴れ晴れとしたのです。この方もお一人で大分辛かったのだと思いますが、こうして少しでも気が和らいだようで本当に良かったです。僕はすっかり安心して、お二人に生ミントを入れたアイスコーヒーをお出ししました。最近、個人的に嵌っている飲み方です。ミントの香りとコーヒーの香りがなんとも言えずフレッシュで、夏らしいのです。と言ってもマニアックなので好き嫌いは分かれるとは思いますが。

「むむっ。これは何とも斬新な」

「ほんと。でもスッキリしていて不思議な味・・・」目を真っ赤に腫らした女性は初めてにっこりと笑いました。

 お二人は不思議そうに、けれど残さずコーヒーを召し上がっていました。気がつくと窓の外はピンク色の夕暮れの光に染まって店内に差し込む閃光も美しく輝いていました。やれやれ。今日も暑かったな。


 数日後、ボブの女性が店を訪れました。もうすっかり表情は明るくなり、白いワイシャツにグレーの縞が入ったパンツ姿と黒いパンプスといった感じのきちんとした格好をしていました。注文する飲み物もアイスミントコーヒーに変わっていました。彼女は書類の束をたくさん抱いてきて、カウンターに座るなり、その書類をばさっと広げて隅から隅にチェックし書き込み始めたのです。どうやら何かの学校の先生のようでした。

「何の教科を受け持っておいでなんですか?」

 コーヒーをお出しする時に何気なく訪ねましたら、女性は顔を上げてにっこりと笑いました。同時にその顔に寄り添うように大きめの銀色をしたループピアスが誇らしげに揺れました。

「栄養学なんです」

 成る程。管理栄養士の先生だったようです。だから血糖値だとか仰っていたんですねと納得しました。

「この間はありがとうございました。お陰で、悩んで見えなかった気持ちがはっきりと見えるようになりました。あの先生にもお礼をお伝えください」

「いえいえ。僕は何もしてませんから。全部健三郎先生のお陰ですよ」

「あの方は、健三郎先生と仰るんですね」

「ええ。案外有名な作家の方で、僕も何冊かは読んで知ってますけど」

「そうだったんですね。そんな大先生に助言を頂いたなんてラッキーだわ!くれぐれもお礼をお伝え下さいね」

「でも、ご自身で直接お礼を言った方がいい気がしますけど。恐らく明日辺りにもいらっしゃいますし」

「ええ。そうしたいのは山々なんですが、実は私は転勤する事になりまして。明日にも出発なんです。だからこうして慌ただしく出させたレポートを採点したりしているんです」

「そうでしたか。一体何方へ行かれるんですか?」

 僕の問いには答えず、彼女はふふと含み隠すように微笑むと、少し間を置いて話し始めました。

「彼女は県知事の秘書をしていました。でも、長年の夢だった自分のお店を持つ事に成功したんです。けれど、なにか海外進出の際に問題が起きてしまって、それで財産を全部差し押さえられてしまったみたいなんです。不運な事にそれと前後して彼女のお父様が末期の癌で入院してしまい、看病をしていたお母様も持病の心臓病が悪化してしまい入院してしまう事になってしまったんです。更に、彼女のお父様がお父様の側の親族の借金の肩代わりをしていたらしく、そっちの返済も迫っていたようなんです。彼女自身も心臓が弱かったので、赤ちゃんは望めない体だった為、それを引け目に感じてしまい結婚するチャンスはあったんですが、独り身だったんです。かといって県民からも信頼の厚い県知事に自分の私情で迷惑をかける訳にもいかないので何も言わずに辞めたそうです。それから、彼女はあらゆる手を使って色んな所からお金を借りたそうです。それでも足りなくて、とうとう私にまで電話をしてきたんです」

 突然話し出した女性の話に僕はただ黙って聞いていました。健三郎先生のように助言をする事は出来ませんが、聞く事くらいは出来るのです。なんと言ってもそれが僕の商売ですから。

「北海道にいる父と母に会いに行きたい。お金をいくら集めても集めてもなんの足しにもならないんなら、せめて最後に会いにだけでも行きたいと言って。だから、私、彼女に約束させたんです。最後だなんて言うんなら会いに行かないで、こっちで働いていた方がいい。最後じゃないんなら北海道に会いに行って側にいてあげて下さいって。それで必ず事態を収拾させてこっちに戻って来て下さいって。そう言うと、彼女は泣きながらごめんなさいと何度も言いました。私はあの時の彼女の涙は嘘じゃないと信じたいし信じてます。もし、例えあの時の彼女の涙までもが嘘だったら、それはそれで仕方ないんです。それで苦しむのは彼女だから、せめて私は彼女の友達として、友達として出来る事をやろうと思います。今までお付き合い下さって本当にありがとうございます。向こうから絵葉書送りますので」

 彼女はそう言い終わると、キャラメルラテを一口飲んで桜貝色をした唇を横に伸ばして満足そうにニッコリと笑いました。

「じゃあ、是非時計台の写真でお願いします」

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