その2

こんにちは。僕が経営している喫茶店には、老若男女問わず色々なお客様がお見えになります。

仕事や学校帰りに寄っていかれる方もいれば、毎朝の散歩コースに入っている方や、毎週決まった曜日に定番メニューを召し上がりにいらっしゃる方など様々です。

余談ですが、僕の店ではそんなに本格的ではないのですが、簡単な料理もいくつかお出ししています。中でも、このクリームコロッケカレーとナポリタンは自分で言うのもなんですが、ちょっとした自信作です。

 毎月、第2第4金曜日に、クリームコロッケカレーとアイスコーヒーを召し上がりにいらっしゃるその老齢の男性は、いつもこざっぱりと清楚で上品な身なりをしており、ひょろっとした細身の長身に、物静かで少し気弱そうな雰囲気を漂わせていました。

どうやら、遠方にある有料施設からバスに乗って通っていらっしゃるようで、時折交わす会話の中に、ホームは不便なところなのでという言葉がよく混じるのです。

「こんにちは」

その方は、ステンドグラスを模した色とりどりのガラスがはまった扉を引いていつも静かに入って来るのです。

カウンターの端っこの席にちょこんと腰をかけて、「クリームコロッケカレー少なめとアイスコーヒーをお願いします」と、控え目な声で注文します。決して「いつもの」なんて言いません。

わざわざ「少なめ」と注文されるのは、僕の店で出している料理の量が多いからです。

僕は痩せの大食いの傾向があるので、ついつい自分の目方でよそってしまい、それはそれで若い方や力仕事をしている男性には喜ばれるのですが、女性やご高齢の方には心苦しい思いをさせてしまっていたようなのです。

いつだったか、この男性に「いつもおいしくいただいているのですが、毎回食べきれなくて残してしまうのが申し訳ないです」と謝られたことがありました。僕は仰天して「とんでもない!こちらこそ僕の配慮が足りないばかりに、いつもお心苦しい思いをさせてしまい、本当に申し訳ありません!」と平謝りし、その時から、メニューには「量は少し多めですが、調節出来ますので、気軽にお申し付け下さい」と書き加えたのです。

僕は、カレーを大鍋から小鍋に移して弱火で温め始めました。焦らずじっくりと温めることでスパイスの香りが際立つのです。その間に、手早くアイスコーヒーを作ります。

男性はというと、両手をカウンターの上でゆったりと重ね合わせ、奥の壁にかかった写真や絵を眺めながらお待ちになっているのです。

最初に、キリッと冷えたアイスコーヒーをお出しします。その方は少し微笑んで軽く会釈すると、まずストレートで珈琲豆の香り、その香りと共に生まれる時間を楽しんでからミルクを少し入れて同じように召し上がられます。

自分でこだわり、選りすぐった豆で挽いた珈琲をそんなふうに楽しんで召し上がって頂けるなんて嬉しい限りです。喫茶店のマスターにとって、これ以上のやり甲斐があるでしょうか。僕が幸せに浸っているうちにクリームコロッケカレー少なめがちょうど良く温まりました。

「お待たせしました」

クリームコロッケカレーをお出しすると、その方はにっこり笑って「ありがとう」と言い、嬉しそうにスプーンを手に取ります。この素晴しい瞬間。料理人冥利に尽きます。

クリームコロッケカレーを最後の一さじまで残らず楽しんだ男性は、もちろんアイスコーヒーも氷が解ける前の最後の一滴まで残さず味わい「ご馳走様でした。美味しかったです」と、お勘定をしてお帰りになります。こんな過ごし方が出来るのも喫茶店ならではですね。

こんな何気ないながらもほっこりする幸せな瞬間を見れるのなら、どんなに売り上げが厳しくても、生活が苦しくても店を続けようと思えるのです。

とは言え、離婚をしてからの僕の生活は困窮そのものでした。慰謝料を払いながらの借金返済でしたが、仕方ありません。妻を傷つけてしまったのは事実だから。いくつになっても男女の関係は難しいものです。とりあえず僕の話は置いておいて。

今回は、あるご夫婦のお話です。

そのお二人は、仲睦まじいご夫婦でした。

鴛鴦夫婦とでも言いますか。少しお話をするだけで、言葉の端々や時折交わす眼差しなどに、愛情や思いやり、気遣いが滲み出て、いつもお二人の周りには柔らかく優しい空気が満ちていました。

特に、奥様は始終ニコニコと優しい笑顔で、それでいてきちんと的確に旦那様の発言をフォローしてあげたり、優しく間の手を入れたり相槌をうったりと言い尽くせないほど素敵な方でした。

お二人とも、恐らく70歳手前くらいだったと思います。週に一回程、午後の散歩の途中に寄って下さってました。オーダーは、オリジナルブレンドとカフェラテ。時々、お供にビターの生チョコがつく事もありました。

お二人はいつも一緒。

どうやら住んでいらっしゃるところも店からそう遠くない場所らしく、時々買い出しに行ったスーパーでお二人を見かけたりもしました。やっぱり睦まじく買い物をしてました。

そんな光景を目の当たりにして、独り身の僕としては急に寂しさがこみあげてきたりもしたものです。あまりの人恋しさに、つい昔の彼女や仲の良い女友達なんかに電話をして会いに行ってしまいそうになったり。いやいや、僕はまだ一人になってからそんなに時間が経っていない、彼女達だってとっくに結婚したり妊娠したり母親になったりしているはずだ情けないぞと自分に言い聞かせ、我慢するのです。とりあえずそんな風に羨んでしまうくらいお二人はとても理想的な夫婦でした。

「私と妻は一心同体なんです。考えも思いもいつも一緒で、私がなにも言わなくても何をしても必ずぴったりとするのです。上手く言えませんけど、私には妻は私で、私は妻なのです」

何だか不思議な事を、奥様がお手洗いに立っている時にご主人が僕に言ってきました。

 一心同体・・・これはよくわかります。本当に気持ちやフィーリングがぴったり合った者同士だとまるで2人が1つになっているように感じる事があります。

 僕もかつて別れた妻とそうでした。

 しかし、奥様がご主人であってご主人が奥様である・・・これは??? 少し僕の中で引っ掛かるところがありました。

 でも、世の中は広いし様々な人がいるから中には極稀に神様が一人の人間を間違って2つに分けてしまい、片方は男にもう片方は女にしたような人がいるのかもしれない。まるで双子みたいな。。


 数日後。バラまいた無数の青ビーズがきらめくような五月晴れの日、僕は久しぶりに店を休みにした。

 最近休まず働いているからかようやく生活にもゆとりが出てきたのでたまには休もうと思い前から常連さん達には伝えておいた。

 とても天気が良い5月の初めでしかも久しぶりの休み。

 僕は薄いグレーのTシャツにジーパンという格好で、上に白っぽいシャツを羽織って玄関を開けた。すると、まるで水の中にいるみたいな錯覚が僕を包んだ。

 積み木を適当に積み重ねて作ったようなこの建物の中で、僕の住む部屋は玄関の扉を開けると目の前には隣の小学校のプールがあった。まだプールには肌寒いが夏に向けて掃除をしたらしく、ターコイズブルーの水が初夏の風に涼しげに揺れ、光を反射して僕の顔や、建物の壁面に白く輝く水面の粗い編み目模様をゆらゆらゆらゆら映し出していた。

 この間までは枯れ葉なんかが汚らしくいっぱい漂っていておまけに底は黒い砂だらけで、そこに何処から飛んできたのか桜の花弁が散って浮かんでいたっけ。夏が近づいているんだ。

 無駄に夏男の僕は機嫌が良かった。

 図書館まで散歩がてら歩いて行った。途中持って来たカメラで風景を撮ったり野良猫と遊んだり、結構有名な甘納豆屋さんで甘納豆を買ったりしながらゆっくり図書館までの道を歩いた。

 甘納豆屋さんが休業になる前に買えて良かった。僕はここの甘納豆がお気に入りで急に食べたくなる時があるのだ。

 あ、あんな所に新しくカフェが出来たんだ。帰りに寄って昼飯を食べて行こう。

 あそこの花屋は移転したんだな。高級マンションが建つらしい。

 本当に気持ち良い午前中だった。今日みたいな日は働いていても休みでも公平に気持ち良く過ごせる日だなどと考えていたら図書館に着いた。

 古い作りの図書館には吹き抜けの貸し出し受付ホールがあって、そこを取り囲むようにして2階まで本棚が縦にぐるっと取り巻いている形になっている。本棚の奥は窓や壁に行き当たりそこに読書したり勉強する為のカウンターやテーブル席や椅子等が彼方此方に置かれている。2階の吹き抜けのホールを見下ろせるバルコニーの手すりの傍にも幾つかベンチが設置されていた。

 僕はこの図書館が大好き。休みの日のスタートは何はともあれこの図書館からだった。

 小説を幾つか借りてカメラの専門書を見つけてしばらく読み耽った。

 しばらくすると急にフィンランドの住宅構造がとても気になり始めた。何故そうなったのかはわからないが、僕は時々急に全く関係ない事がすごく気になり始めて仕方なくなったりするのだ。

 多分ムーミンの歌かなにかが不意に浮かんできてそこから関連したのかもしれない。

 僕は受付の女の子にフィンランドの住宅構造について記されている書物があるかどうか調べてもらった。

 女の子はとても綺麗な肌と唇と睫毛を持っていた。薄化粧なのにつやつやと瑞々しい肌はまるでオリーブの実のようで、そこに更につやつやぷっくりとしたピンクベージュ色のアヒルみたいな嘴じゃなかった唇が乗っていた。睫毛は自然なカーブを描いてフサフサとして長かった。もしかしたら今流行の付け睫毛なのかもしれない。

 どちらにせよ僕には充分素敵な女の子だった。

 本は2冊見つかった。

 彼女はカウンターの隣の古びた鉄の扉を開けて中に入って行った。5分程経って、もしかしてフサフサ睫毛のぷっくりアヒル口のオリーブ少女はあの扉から何処か違う世界に行ってしまったんじゃないかと心配し始めた時扉が開いて分厚い大型本を2冊抱えた女の子が出てきた。

「申し訳ございませんが、貸し出しが出来ない本なので、あちらの窓際の閲覧コーナーでご覧下さい」

 僕はにっこり笑って「構わないよ。重いのにありがとう。」と言ってかなり重いその本を抱え窓際の席に移動した。

今日は良い日だなぁ。。

 僕は上機嫌でフィンランドの住宅構造についての分厚い蔵書をまず一冊捲る。

 中には設計図と、恐らくフィンランド語だと思われる文字がまるで広い広い草原一面にびっしりと草が生えているように並んでいた。とりあえず図は興味深かったのでぱらぱらと捲っては眺めていたのだが、段々頭の芯がぼんやりし始めてきて本の中の文字の草原が風に靡いて波打ち始めた。

 何しろ、座っている席の窓から見える景色は爽やかに眩しくて暖かくて、文句のつけようもない初夏の気持ち良さ。

 草原にはフィンランドの赤錆色に塗られた壁の昔ながらの可愛い家が一軒建っていて、煙突からは美味しそうな煙が立ち上っている。。 僕は空腹のあまり、草原を歩いて行ってその家の扉をノックする。

 トントン。

 トントン。

 トントントン。

「すみません。あの、こちら落としましたよ。」近くで優しい声がして僕ははっとして目を覚ました。

 うちの店のお客様、ご夫婦の奥様だった。

 いつもは上品な色のワンピースやブラウスにスカートなど控えめな服装をしているのに、今日は若葉色に香色の葵文様を型友禅で染めて金箔で括ってある着物に深く濃い緋色の帯を締めている。

「すみません。ありがとうございます。」僕は恥ずかしさに顔を真っ赤にしてべっとり垂れてる涎を拭い、僕が居眠りして派手に落とした本を受け取った。

「あら。あらあらあら。何処かで見た方だと思っていたら、あなたは喫茶店のマスターさんね。私服だから気付かなかったわ。ごめんなさい。今日はお店はお休みなのね。。」

「そうなんです。久しぶりに休みにしました。」

 奥様は心持ち寂しそうな顔つきになって

「そうなのね。今日は寄らせて頂こうと思っていたから少し残念だわ。こんなに気持ちの良いお日和ですものね。」

「申し訳ございません。明日からまたお願いします。」僕が謝ると、奥様はまるで蕾が咲く様に笑って

「マスターさんが謝る事なんてないのよ。私達のタイミングが悪かっただけ。でもここでマスターさんにお会い出来たからわざわざ遠回りしてお休みの喫茶店に行かなくて済んだわ。ありがとう。」奥様はまるで春の鶯みたいに澄んだ声で話した。

 僕は居眠りしていた事もあり、何だか気恥ずかしくてあまり話が出来なかったように思う。

 しばらくすると、後ろの本棚からひょっこりご主人が表れて僕ににこやかに会釈すると奥様と一緒に外に出て行った。昼ご飯でも食べにいったのだろう。

 そういえば僕も猛烈にお腹が減っていた。時計を見るともう13時だった。

 2冊目の本を少し開いて、中が文字ばかりである事と、その文字が僕には解読不可能なのを確認してからカウンターに返しに行った。

 もうあのフサフサ睫毛のぷっくりアヒル口のオリーブ少女はいなかった。多分、昼休憩に行って飯を食った後彼氏に電話でもしているんだ。

 代わりにすごく無愛想な禿頭のおじさんがいた。

 おじさんは無表情な顔で無言で僕から本を受け取り無造作に横の机の上に置き、さっさと背中を向け違う仕事に取りかかった。

 おじさんは頭の上も無いように全ての行動にも無が付いていた。いくら接客業じゃないにしても、酷い。

やれやれ。

 僕は気を取り直して昼飯を食べに、さっき見かけたカフェへ向かった。

 空は変わらず清々しく晴れていて、僕はすっかり気分が良くなった。Janis Ianを口笛で吹きながら大通りの横を通り過ぎた時、女性が激しく怒っている声が聞こえて思わず立ち止まった。

 思わず、興味本位でこっそり声のする方を覗いてみると、僕の目に明るい若緑色と緋色のコントラストが飛び込んできたのです。

 何と凄い剣幕で怒っているのは先程図書館で会ったあの奥様だったのです。もちろん怒られていたのはご主人。

 奥様は今までに無い程怒っていました。怒りを通り越して泣いてしまうんじゃないかと思われるくらいに怒っていました。

 ご主人はただびっくりしている様で呆然と奥様を見つめていました。

どうした事でしょう??

 先程はあんなに仲睦まじくにこやかに会話をしていたのに。。

 僕もただびっくりしてしまいそのまま突っ立っていましたが、思い直して足早に立ち去りました。きっとあまり見られたくない筈です。

 目的のカフェに着いてメニューの一番始めにあったロールキャベツプレートと珈琲をあまりよく考えもせず注文して、運ばれてきた檸檬水を一気に飲み干し気持ちを落ち着けました。

 驚きました。本当に。人それぞれ色々と思う事があるのは僕なりによく解っているつもりです。

 でも、あんなに温和な奥様をあそこまで怒らせた原因は一体何だったのだろう?

 よっぽどの事があったのでしょう。少なくとも僕と別れてからの数時間の間に起こったなにかなんでしょうけど。。

 そう思い、ふと壁に貼ってある鮭フライプレートの絵に目が止まった。

しまった。。こっちにすれば良かった。



 それからしばらくご夫婦は姿を見せなくなりました。

 夏の蒸し暑いある雨の日、ご主人だけがふらっと立ち寄って下さいました。何処となく疲れたような顔色をしていらっしゃいました。

 僕は敢えて何も聞きませんでした。

 人には触れて欲しくない部分が必ずありますし。いくら親しくてもある一線からは立ち入らない方がお互いにとっても良い場合もあります。もちろん悪い場合だってありますけど。

 僕は黙ってカフェオレをお出しました。

 ぽつぽつ雨垂れの音がしています。その音と今日かけているAstor piazollaが相俟って、何とも寂しい心地になっていました。

 音楽を変えようと思って探そうとした丁度その時、ご主人が雨垂れがぽつりと落ちる様に話しかけてきたのです。

「妻は一ヶ月前に死にました」

「えっ?!」急な事に僕はビックリしてしまい持っていたCDを落としてしまいました。

「ごめんなさい。そうだったんですか。。それは本当にお気の毒様です。」僕は慌ててCDを拾いました。幸い傷は付いていませんでした。

「子宮癌でした。かなり前から病院にかかっていたらしいんですが、どうも裏の方かなにかの丁度見つかりずらいところだった様でようやく発見した時には末期になるまで進行していて、もう手遅れでした。」ご主人はカウンターの上で両手を固く強く握りしめて話続けました。

「それでも妻は私には何も言わなかったんです。自分が後少しで死ぬのがわかっていても、それを私に知らせて残りの時間を私と悲しみながら過ごす事に耐えられなかった様です。いつもと同じに何も変わらず過ごしたかった様です。だから私は妻が亡くなる一ヶ月まで何もわからなかったんです。能天気に。バカですよ。本当に。妻は私だとか言っていながら妻が私に見えない所でどんなに苦しんでいたかなんて気付きもしなかったんです。苦痛に堪えながら自分の体が徐々に死んで行く現実と戦いながら私にいつもと変わらず笑ってくれていたんです。私は妻のパートナーとして失格です。一番妻を支えてやるべき時に、私が取るに足らない悩みで妻に支えられていたんですから。」

 音楽が止みました。

 僕は何も考えず特に見もしないで近くにあったCDをかけました。Glenn Gouldが流れ出しました。

「4ヶ月くらい前にマスターと図書館でお会いしたの覚えてますか?妻がまだ少し余裕のある頃でした。」

 僕は静かに頷きました。

「あの後、妻が私に怒ったんです。今まで連れ添って来て初めての事でした。私も吃驚してしまって思えばその時に様子がおかしいと気付くべきだったんです。原因は私が言った無神経な事でした。」ご主人は静かにカフェオレを一口飲みました。

「妻が公園で子どもを見ていたのです。お恥ずかし話ですが、私共の間には子どもがいないのです。ですが妻は本当に子どもが好きだったのです。出来なかった原因は恐らく私にあったのかもしれませんが、もう長い事2人だけの生活に慣れてしまっていたので特に子どもが欲しいとも思わなかったのです。妻はそんな私の気持ちをよく承知していました。だからもう何も言わなかったのです。が、その時だけは違いました。妻がふと、私も子どもが欲しかったわと言ったのです。私は子どもなんていなくったって私と君だけで充分じゃないかと冗談混じりに言ったのです。いつもの妻なら笑って返してくれる事がその日はいきなり怒り出してしまったのです。」

 店の前を静かに水溜まりを蹴散らし車が通り抜けました。

「何言ってるの?!私はあなたとの子どもが欲しかったの!あなたの子どもを産む事が出来たら私にはこれ以上ない女の幸せなの!今はあなたと私だけでいいわ。だけど、私がいなくなっても子どもがいれば慰めにもなるかもしれない。私はあなたといつまでも一緒にいたいけれどそう上手くなんていかないの!・・私が妻が何を言っているのかわからずに宥めるしかなかったのです。その2ヶ月後に妻が癌だと知ったのです。妻は死ぬ間際に私の手を握って何度も私に謝りながら言っていました。」

「ごめんなさい。私はあなたに出会えて本当に幸せだった。こうやってあなたを残して先に死んでしまうの事は悲しいけど生まれて来て良かった。ありがとう。あなた、どうか私を許して。ごめんなさい。・・・そう言って何度も繰り返して泣くのです。妻を母にしてあげるという女としての幸せも与えてやれず、一番苦しい時に支えてやれもしなかったこの不甲斐無い夫に向かって何度も・・・」そこまで言うとご主人は俯いて不意に立ち上がりました。

「ありがとう。ご馳走様。」お代を置いてお帰りになられました。

 僕はCarole Kingをかけました。

 奥様はCarole Kingが好きでした。

 外はまだ雨がしとしとと降っていました。




 紅葉が色づき始める頃、風の噂にご主人が亡くなった事を知りました。

 死因は急性心不全だったそうです。

 つがいの鳥は片方が死んでしまうと残された方も後を追うようにすぐ死んでしまうと言います。

 ご主人がお亡くなりになった時にきっとあの優しかった奥様が迎えにいらっしゃったのでしょう。そうであって欲しいです。そうしたら、又2人はずっと一緒にいられるのですから。

 何とも寂しいような優しいお話でした。

 では又。

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