珈琲日和
御伽話ぬゑ
その1
初めまして。
僕は、都会の隅っこで小さな喫茶店を営んでいるしがない男です。
僕の喫茶店は、ひょっとすると見落としてしまうくらい暗く狭い路地にありますが、それでも老若男女関係なくさまざまなお客様がいらっしゃいます。年齢や背負っているもの、歩んできた人生こそ違えど、人生を必死に戦って生き抜いてきたところはどなたも同じなのかもしれません。いずれにしても僕にとっては大切な愛すべきお客様。
うちの店は規模の小ささから僕一人でも充分に回るのですが、稀になにかのめぐり合わせで誰かが働いていたりします。
今回お話しようと思っているのは、そんなアルバイトの1人。とある女性のお話です。
その女性は、僕の何人目かの恋のお相手でもありました。
出会ったころの彼女は、自分の事を「不幸せな女」だなどと公言するような人でした。けれど、僕からみると、不幸せと言うよりはどちらかというと「哀れな女性」だなと感じられました。
彼女はとても美しい人でしたし、外見の容姿はもちろん、性格も穏やかで優しくて勝気でとても魅力的な女性でした。
あらゆることを理解しようと努め、そのせいで何事も覚えが早く、まさに絵に描いたような理想の女性として、ちょっとした噂になってもおかしくないほどです。けれど、彼女は「哀れな女性」だと僕は思っていました。
「哀れ」という言葉は、誰かが誰かの基準で勝手に決めて、勝手に口にしていいことだとは思えなかったのもあり、僕は決して口には出しませんでしたが。
一般的に女性に向かって「哀れな女」だなんて言おうものなら、その女性を不快にさせ憤慨させ、あるいは嫌われてしまうでしょう。よっぽどその人があまりに絶望的な人生を送り続けているだとか、誰から見ても気の毒だと思うのなら話は別ですが。
僕が彼女を初めて見かけたのは、秋でした。
まだ幼い男の子の手を引いた彼女は、雲1つない秋空の下、銀杏の降り積もる黄色い公園をゆっくりと歩いていました。
物憂げそうに俯いた彼女とは反対に、空から舞い落ちてくる銀杏の葉を掴もうと躍起になっている男の子。
その時は、少し気になる絵を見つけたような感じで、取り立ててなにかを思うこともありませんでした。近所に建設中の大型のショッピングモールがどのくらいの規模なのかを見ておこうと、工事現場に足を運ぶ途中にすっかり忘れてしまったくらいです。
最近、ショッピングモール建設現場で働いている作業員の方々が昼休みに押し寄せてくる日が続いていたため、僕1人では店を回しきれずにちょっと困っていました。
工事がどのくらいの規模で、いつまでに完成なのかを把握しておきたかったので、ようやく作った休みに買い出しがてら現地に見に行き、募集をかけるかどうかを検討するつもりだったのです。
下見の結果、工事の期間が長いこともあり、募集をかけることにしました。とは言え、店の表に張り紙をしただけの祖末の募集広告です。工事が終わってしまえば僕1人で充分だと考えていたので、1人しか採用しない予定でした。
けれど、狭くて暗い一見さんお断りムードが悶々漂う路地裏の怪しげな喫茶店の店先。無造作に張られた小さな紙切れを誰が目に止めるでしょう。
それもそのはず。裏路地に探検気分で入り込んできて、この蔦だらけの店に目を止めるか、わざわざ来るかしない限りわからないように募集の紙を貼ったのですから。僕の気持ちとしては、店に一回でも来たことのある人をとりたかったのです。
店のお客様はほとんどが常連ばかりで、時々間違ったように若いアベックなんかがオドオドしながら入って来たりします。
「ありゃーきっと初デートだねー間違いねぇよ。」
開店当初からの常連のシゲさんが、いつものように持参した新聞を広げてホットカフェオレを頼みながら冷やかし始めました。
「そうですよ。僕らも通りました。青い春です。あの時分は女の子を見るのすら照れましたね。」
僕はカフェオレを作りながら、シゲさんの好物ミックスサンドウィッチの準備を始めました。
「おりょ?マスターにもそんなピュアな時代があったんかねぇ」
視線をカップルから僕に移しながら、シゲさんが意外そうな顔をしました。
「そりゃ、ありますよ。もしかしたら今だって・・・」
僕がにやっとしてみせると、シゲさんは大袈裟に吹き出しました。
「ぶっ、はっはっはっ!ほうけほうけ。そうだなぁー。ちげーねぇやね!」
アベックの注文は、クリームソーダと林檎ジュースでした。
注文内容を知ったシゲさんは「くっくっく。本当にうぶだねぇー」と笑いをかみ殺しました。そんな店を覆う蔦にひっそりと埋もれた募集広告に惹かれて応募してくる人は、当たり前といえばそうですがゼロでした。いつまでも応募がないので、すっかり常連になったショッピングモールの建設現場で働くおじちゃん連中によく茶化されました。
「なんだ、なんだー出会いの女神は、こんな小ちゃな店には振り返ってくんねーみてーだなー」
「俺達が交代で働いてやろうかー? 警備の服きたまんまでもえーかな? がっはっは!」
そんなタイミングでした。
僕の喫茶店に張り出してある「スタッフ募集」を見たと言って彼女が来た瞬間、僕の頭に「巡り合わせ」という言葉が閃いたのです。
「私、頑張ります!」
公園で見た憂鬱そうな顔とはちがう無邪気そうな顔で彼女は言いました。
「うん・・・まあ、頑張ってもらわなきゃ、困るしね。」と、少し経営者の威厳を持った僕。
顔を真っ赤にして気まずそうに俯いてしまった彼女をしばらく見つめてから、僕から質問をしてみました。
「どんな音楽が好きなの?」
嬉しそうに顔を上げた彼女が、口をへの字にして考え込みました。
しばらく考え込んだあげく「何でも聞くんです!こだわりは特にないです!」と、在り来りな返事。
・・・ ま、いいけど。
そのタイミングで、常連のお客様が入っていらしたので、「詳細は後ほど連絡します」と手短に伝えて面接を打ち切りました。彼女は店に来た事はありませんでしたが、背に腹は代えられません。
募集を始めて数ヶ月。他には誰も来なかったのです。
その日から、彼女は僕の人生の一部に関わるようになりました。
彼女は「おはようございます!」と、元気に出勤してから、「お疲れ様です!一日ありがとうございました!」と帰るまで笑みを絶やしませんでした。
うちの喫茶店は裏路地の立地条件もあり薄暗く、昼間でも日の差す時間が極端に短いため一日中小さなランプがあちこちに灯っています。
また、僕の気の向いた時しか精を出してやらないという怠け者の性分から、薄暗めの店内はよく見ると少し汚くて、おまけにちょっと埃臭くもありました。けれど暗いことに託つけて、天井の隅っこに引っ付いているもう1人のアルバイト、蝿取り蜘蛛小太郎に気付く人はあまりいません。
そんな年季の入った店内を慎重に掃除をしてくれていた彼女の笑顔はまるで太陽のようでした。彼女はすぐに店の人気者になりました。
まだ半年も経っていないのに仕事の覚えも早い為か、店にしっくりと馴染んでいたのです。
僕の店のこだわりは、お客様の好みの珈琲豆を挽きサイフォン又はドリップを使い、それぞれのお客様の好みにあった珈琲を入れることでした。ですが、僕は新しい物好きなので定番の豆の種類は変えませんが、入れ方や挽き方は色々チャレンジしたりします。そのやり方が好評であれば定着していきますし、ダメなら次を模索するというスタイルです。なので、手挽きミルも電動プロペラ式ミルもなんでも使いますし、偶然見つけた道具やお客様がお持ちになった面白い道具があればすぐ使います。そんな、こだわりがあるようでないようであるスタイルです。
また、メニューの1ページにはチョコレートの名前がずらっと並んでいました。
僕は、チョコレートも珈琲豆同様にいささかうるさい方で、珈琲とチョコレートは、ワインとチーズのようなマリアージュな関係だと確信していたからです。
彼女は、そんな複雑なオーダーを取るために、必死で珈琲の種類や煎れ方、其々の特徴や味や香り、其々のチョコレートの由来などを猛勉強しているようでした。出勤する度に、説明できることが増えていったいるのが日頃の努力を物語っていました。
時間が空くと、僕は彼女をカウンターに座らせて珈琲を入れたものです。
ブラックが苦手だった彼女が、おいしいと言って飲んでくれるようになったのがいつからだったかまだ覚えています。それなのに、いつから男女の関係になったのかを覚えていないのは、なんとも不思議なことです。
仕事に慣れてくると、僕らはふざけ合ったり意地悪し合ったりしました。
理想や夢の中で生きてない彼女は、僕をいちいち腹立たせたり苛々させたりするのです。
「君を憎たらしく思う事があるよ」と、僕は彼女に向かって口にした事もあります。彼女は知ってか知らずか、「まだ怒ってるの?怒らないで」なんて言ってくるのです。
悲しいかな僕は許してしまいます。
彼女には甘い・・・でも、彼女を好きだから良いのです。
彼女の息子は7歳になります。時々、店に連れて遊びに来ていました。彼女は、離婚をした母子家庭でした。
僕は40前半の中年間近で、彼女は25歳。そんな彼女を世間の男が放っておくはずはないのに、彼女には男の臭いはおろか影すら見えませんでした。僕がただ単に知り得なかっただけかもしれませんが・・・そんな事知りたくもありません。
今の、彼女といる時だけで十分だと思っていました。
一年ほど経つと僕らは2人で、店が休みの日に会って所謂デートをするようになりました。
僕の大好きなあがた森魚さんの歌にある「シベリアケーキにお茶でも飲んで、銀座のシネマに行きたいなぁ」のあれです。自然と回数が増え、行きつけのカフェができました。自分の店以外で美味しい珈琲が飲める店でした。
陽光が燦々と降り注ぐ明るいそのカフェの窓際の席に2人で向かい合って座り、珈琲を飲み時々話をするのです。
知り合いのこと、最近のできごと、昨夜の夢の話、食べもの特にチョコレートの話・・・話が尽きると外を見て、どこかを見て、お互いを見ました。目を合わせて笑い合ったりして、そんな時間を過ごしたのです。
「幸せと不幸せって紙一重よね。光と影みたいなもの。いつも幸せの影には不幸せがある。どうしてなの?」
彼女は、熱い珈琲が入っている白い陶器でできたカップを、うっすらと桜色をした透き通るような両手で包み込むようにして持ち上げました。
「そうじゃないと、バランスが取れないのかしらね。」
2階のカフェで僕たちが陣取った窓ぎわの席からは、街道を彩るさまざまな種類の紅葉樹が色付き始めた様子が一望できました。
話の合間に時折思い出したように外を眺める彼女の横顔を、秋の色彩が彩って、まるで絵画のように美しかったのです。彼女と別れて時が経っても、こうして彼女の横顔だけを鮮明に思い出せるのは、あの秋の日、眺めのいいカフェの窓際の席での記憶があまりに鮮烈だったからかもしれません。
そんな彼女との日々で僕はうっすらと気付いたのです。
彼女が時々、どこを見ているかわからない眼差しをすることを。
時間にすると1分にも10分にもなるのだと思いますが、長い時間じゃありません。けれど、そうしている彼女を見ていると僕を含める彼女の周りは静止していきます。
時間も色も。とても静かに。それまで心地よく店内に流れていたDjango Reinhardtさえ、どこか遠くに行ってしまうのです。透明で青白い空間には僕と彼女だけで、しかも彼女はそこにいるのかいないのか判らない感覚に陥ります。
僕が無理にでも目を逸らすか、彼女がこちらに顔を向けると終わるのです。真っ暗な所で誰かが偶然電気のスイッチを押してしまったというように、急に周りの時間や音や色が戻ります。
とても不思議な時間です。
これは僕だけに起こる事なのかもしれません。
僕の彼女を好きだと思う気持ちに依って起こるのかもしれないと、ずっと思っていたのですが、彼女の息子の言葉を聞いて自分だけではないと認識したのでした。
「母が時々、どこか遠くを見ているのをじっと見てると、なんだか不安で仕方なくなってくるんです。」
スプーンでミルクセーキを突つきながら、彼はぼんやりとこぼしました。
それから、ぽつぽつと話してくれた息子の話を僕なりにまとめてみると、どうやら彼女には知らずに人を、妙な空間か彼女の世界かに連れて行ってしまう不思議な力のようなものがあるようでした。
その空間の中で、自分には不可能なことはないと自信を持ち、変わらずに進んで行けると確信できる人もいれば、不安で怖くて仕方なくなる人もいるらしいのです。けれど、その時間が終わった時、自分はなにをしているのかわからなくなったり、改めて確認したりする一種の麻薬に似ている感覚なのかもしれません。
もちろん、当の彼女は自分のそんな妙な力に気付いてはいないと思います。ただ、僕の推測ですが、その妙な力のようなものが彼女の幸せを妨げ、彼女を「哀れな女」にしていたのではないかと思えてならないのです。
彼女の前の夫がいい例でした。
前の夫は妻子持ちだったようですが、彼女の美しさと不思議な空間に引っ張られ、自分でも訳のわからないままに自信をもって離婚し、彼女と再婚。
ですが、常に彼女と一緒にいたその男は徐々におかしくなっていき、終いには自分のしたことを後悔し、子どもや家族に会いたがっていたらしいのです。そのうちに自分で言ったこともやったこともわからなくなり、毎日浴びるように酒を飲み女と寝まくりほとんど彼女との家には帰って来なくなりました。彼女が妊娠したころには完全に姿を消したそうです。
彼女は、仕方なく実家の近くに移ってきて親の助けを借りながら子どもを育てたようでした。
僕はその話を聞いたときに、可哀相だとか酷いだとかと思う前に、その男の心の弱さに同情してしまいました。
話を聞く限りだと、よっぽど頑固な心の持ち主でないと、彼女の空間に犯され戻れなくなってしまうようでした。
もちろん僕もそんなに強い方ではありません。
優柔不断ですし、女の子の押しにだって弱かったりします。ですが、さすがに30年以上生きていれば、人に対しても自分に対してもある程度のガードが可能になるのも事実。
今まですごくモテた時期だってちゃんとありますし、興味本位も含めて色々な女性と接しています。
余談ですが、人にはモテる時期が人生に2回あるそうです。
僕はその2回ともすっかり使い切ってしまった実感があります。なので、そう簡単に落ちません。そう簡単に立ちません。
彼女はというと、そんな話はどこ吹く風で、いつも無邪気そのものでした。まぁ、30代のおじさんからは見えない部分もたくさんあったのかもしれませんが。いいのです。女という生き物は、好きな男の前では可愛いもの。男が好きな女に感じることは時間であり、空気であり、優しさであり、愛おしさであり、気持ちよさであり、娘であり、妹であり、ペットなのです。
僕は彼女が大好き。
彼女も僕を好きなはずです。多分。
「誰にでもそんな自信たっぷりの事を言っているの?」
彼女は呆れたように言ってきました。
「別に自信なんてないよ。ただ君の事が好きなだけだよ。」
僕がそう言うと、必ず彼女は頬にキスしてくれました。男は好きな女を美化し、女は好きな男を甘やかす。それで良いのです。そうじゃなきゃ、ロマンなど有り得ません。
彼女は、そんな僕のロマンを粉々に打ち壊すようなことを時々口にしました。
「私は不幸せな女だと思う。多分これから先も。あなたは他の人の方が幸せになれるわ。」
冗談か本当か。
悲しいかな僕は、夕飯用の大きな鍋に今日中に使わないと腐ってしまう明らかに組み合わせの悪い食材を入れて、それが決して美味しくならないと解っていてもなんとかしようと一生懸命に色々調味料を入れて引っ掻き回しているような気持ちになるのです。
虚しい。
そして、自問するのです。その悲しさは自分の意志か?と。
それでも、お構いなしに世界は毎日回り、僕の喫茶店もせっせと営業し、週に1回休みます。彼女は週に5日来て、週に1回は2人でデート。
2年が過ぎました。
だのに相変らず僕と彼女は仲良し。相変らず手を繋ぎ、相変らず世界は美しく映り、彼女の美しさも相変らずでした。それでいいのです。
ある晴れた日、唐突にそれは訪れました。
「どこか、旅行に行きたいの」
「どこに行きたいの?」
「寒い所。雪がいっぱい降っていて、一面真っ白な所。」
ちょうど季節は冬だったので、雪の降り積もる所を探すのに苦労はしませんでした。ということで、彼女と彼女の息子と3人で北海道の釧路に行く事になりました。
行くのなら、2人で行くべきだと世間ではご丁寧なアドバイスをくれますが、僕は彼女に似ている彼女の息子が好きでした。
彼は、とても物静かでしたがいつも微笑んでいて、僕たちは色んな話をたくさんしました。その彼が、旅行に行く前日に、僕の店に珍しく1人で来たのです。
「最近、母の様子がおかしいんです。ぼんやりしていてご飯もろくに食べずに外ばかり見ています。」
僕はというと、完全に旅行気分が盛り上がって準備万端だったので特に深く考えませんでした。
「大丈夫。きっと明日が楽しみで仕方ないんだよ。忘れずにスノーブーツを履いていくんだよ。」
そんな返しをしたと思います。なにしろ僕といる時の彼女はとても幸せそうに見えたからです。最近は、彼女の空間に引っ張られることもなくなっていました。彼女はもう「不幸せな女」なんて自分で言うことはしないだろうと思っていたのです。
けれど、それは僕の勝手な思い込みでした。
次の朝、予定通り僕達3人は北海道に旅立ちました。
真冬の豪雪地帯への旅行はなかなか順調にはいかず、悪天候で飛行機はなかなか着陸できず、やっと空港に降り立ったころには辺りは真っ暗でした。
そこからは、ようやく捕まえたタクシーで予約したホテルまで移動することになりました。タクシーの窓越しに外を見てみましたが景色もなにもなく、一面真っ白。おまけに吹雪いているので雪に閉ざされ進んでいるのか止まっているのかすら定かではありません。今がどこで、方角はどっちなのか、まったくわからずこのまま遭難してもおかしくないように思いました。
彼女のほうを見ると、鼻までマフラーを引き上げ疲れたのか瞼を閉じてまんじりともせずに座っています。その隣では息子が窓ガラスに息を吹きかけて、外の雪を溶かそうとしているようでした。僕は雪国に来たのは生まれて初めてでしたが、なぜか知っているような気がしてしょうがなかったのです。どこでだったかを思い出そうとしているうちに、優秀な雪国のタクシー運転手さんは遭難せずに見事に予約していたホテルの玄関に車体を滑り込ませました。
運転手さんに感謝をして車を降りると、寒さと疲労でヘトヘトだった僕たちは、チェックインを済ませると即座に温泉に飛び込み、夕飯をかっ込むと歯磨きもそこそこに眠りに落ちたのです。
どのくらい寝ていたのかはわかりません。人の気配がしたので、僕はふと目を覚ましたのです。
暖房が効いているはずの部屋にはひんやりとした空気が漂っていました。
隣を見ると、そこで寝ているはずの彼女の姿がありません。
トイレかと思い、部屋にある洗面所とトイレがある方を見ましたが、暗く物音1つしませんでした。胸騒ぎがしました。
僕は、浴衣の上にコートを羽織ると、ぐっすり眠っている息子を起こさないようにもう一枚布団をかけてやり、足音を忍ばせて部屋の外へ出たのです。
ホテルの長い廊下に規則的に並んだ窓はやけに明るい白さでした。
月が出ているようなので、窓際に寄って空を見上げました。明るい満月が空にかかっています。月の位置から、真夜中を過ぎたあたりなのが推測されました。
こんな時間に、一体彼女はどこに行ったんだろう?
朱色の絨毯が敷き詰められている廊下を常夜灯が照らしていましたが、ひっそりとしていて誰の気配もありません。僕はエレベーターで一階に降りました。フロントや待ち合いロビーは電気が点いていましたが、人の気配はありませんでした。どこもかしこも静まりかえっています。耳が痛くなりました。
あまりに静か過ぎたのです。
僕達が眠りにつく前に、社員旅行らしき家族連れの団体がたくさん風呂から上がって大きな声で騒いでいたのを思い出しました。それに、各部屋を除いたホテル全体には静かにクラシックもかかっていたはず。何より、いくら夜中だからといってフロントや夜回りする人がいても良さそうなもんだと考えながらペンギンのような足音をたてて歩き回りました。
時々、照明が電気特有のジィーっと微かな音を立てる以外は沈黙に包まれています。
なにかの本で、雪は音を吸い込むのだと書いてあったのを思い出しました。それともこれは僕の夢?
突如、ロビーの大時計が静かに鳴り始めました。
ボーン ボーン ボーン 4、5、6、7、8、9、10、11、12、13
確かに13回鳴ったのです。
どういうことでしょう。僕は未だかつて12回以上鐘が鳴る時計は目覚まし時計しか知りませんでした。
広間にあった古い大時計は、たしかドイツ製のゼンマイ式ホールクロックだったはず。
このホテルに着いてすぐ、古いのに丁寧に手入れされていて綺麗だと言って疲れた目を輝かせた彼女が眺めていると、ホテルの支配人だと思われる男性が来て、この時計は何十年もの間一分足りとも狂ったことはないのですと言っていたのです。
もし仮に、今が夜中の1時だとしても、午前1時はやっぱり1回のはずで、それに13時は昼間の1時。外はこんなに綺麗な月夜なのに有り得ない!
僕が時計の前に行き、目を凝らして文字盤を見ようとした瞬間、玄関ポーチの両扉が音もなく開いて外の月の光が挿し込みホテルの灯りが消え失せたのです。
驚いた僕は目を細めて、明るい月光に自分の目を慣らそうとしました。
ようやく慣れた目に映し出された青白い雪原に一筋の小さい足跡を認めた僕は、胸が凍り付くようでした。まさか。
僕は急いでそこにあった長靴を履くと走り出しました。
彼女は一体どこに行こうとしているのか、それとも、これは僕の夢なのでしょうか。もし夢なら、夢のくせにすごく寒い。
慣れない雪に足を散々取られながら、転がるように走りながらふと気付いたのです。
この白い景色は彼女のあの空間に酷似していました。こんなに凍てつくように寒くはありませんでしたが。だから、どこかで見たような気がしたのです。
恐ろしい予感が僕の胸を締め付けました。
凍てつく空気を思いっきり肺に吸い込み、足下を取られながらの全力疾走。強烈な喉の痛みと感覚がなくなっていく手足に引きずられて今にも倒れそうでした。
ようやく彼女の姿を見つけたときには、汗だくで意識も朦朧としていました。なんとか大声で叫んだつもりでしたが、まるで野獣みたいな声が出てしまったのです。
彼女は、その声にビクッと立ち止まると怖々振り返りました。そして、僕を認めると静かに微笑んだのです。
僕は彼女に駆け寄ると抱きつきました。
凍てつく寒さと体の暑さ、汗と息苦しさと咽の痛さ、手足のかじかみで僕は涙さえ流していたと思います。そんな僕を優しく抱きしめながら、彼女は静かに言いました。
「ありがとう。私はあなたに出会えて、一緒に時を過ごす事が出来て幸せだったわ。あなたといた私は不幸せな女ではなかった。」
僕は涙を流しながら頷きました。それしかできなかったのです。
「でもね、私はやっぱり不幸せな女なの。今夜あなたと別れなければいけないから。大好きなあなたのそばにずっといられないのは辛いわ。けれど仕方がないの。」
彼女は、汗と涙でべとべとの僕に優しくキスをしました。それは、今までで一番甘くて柔らかいキスでした。
「今までありがとう。さようなら」
再び僕が目を開くと、遥かに続く雪原のどこにも彼女の姿はありませんでした。
僕は寒さと疲労でその場に崩れ落ちました。冷たくて美しい真っ白い雪がチクチクと僕を刺し、指の先から凍っていくのを感じましたが、もうどうでもいいと思っていたのです。
どうせ、彼女は帰らない。僕は静かに瞼を閉じました。
次に気がつくと、僕は病院のベッドの上で寝ていました。
ベッドの脇には、彼女の息子が心配そうな顔をしてパイプ椅子の上に体育座りをして僕の顔を除きこんでいます。
あれは夢だったのか? 夢じゃなかったのか?
僕が問おうとする前に、彼が口を開きました。
「ホテルの玄関の扉が全開になっていたから外に行ったとわかったんです。もう早朝だったのでホテルの人達と手分けして探しました。あなたはすぐ見つかったのですが、母がいません。足跡すらないのです。母がどこへ行ったか知りませんか?」
僕は部屋で目を覚ましてからの出来ごとを全て彼に話しました。彼は身じろぎせずじっと耳を傾け、聞き終わるとぎこちなく少し笑ったのです。
「きっと母は母だけの世界に帰っていったんですね。いつもどこか遠くを見ている人でした。悲しいけど、なにとなくいつかこんな日が来る気がしてました。」
彼は、それだけを言うと声を上げて泣き出したのです。僕は号泣する彼の頭を撫でながら、ぼんやり考えていました。彼女はかぐや姫だったのか?それとも雪女?
東京に帰ると、息子は彼女の親元に引き取られ、僕は彼女なしのいつもの生活に戻りました。不思議なのは、今まで人気者だった看板娘の彼女のことを誰もなにも言わなったのです。まるで最初からいなかったみたいに。ショッピングモールの完成にはまだ期間があったため、僕の喫茶店は、またスタッフ募集の張り紙を出しました。
お話はこれでお終いです。
初めに彼女を「哀れな女性」だと言いましたが、今改めて考えてみても彼女は「不幸せの女」とはやっぱり言い難く、かといって「哀れな女性」でもなかったような気がします。なぜなら彼女は最後別れる瞬間に、とびきり幸せそうな顔をしていましたし、自分を例え一瞬でも幸せだったと認めたのですから。
人は誰でも自分の幸せを求めます。
それは当たり前の権利ですし、良いことでしょう。なにが幸せか不幸せかは、本人が決めることなので他人がとやかく言うことではありません。ただ、そのために誰かを傷付けたり悲しませることをしてしまうのはいかがかと僕は思います。
彼女は、自分の幸せのために自分の息子を犠牲にしてしまったことに気付いてくれるといいのですが。皆さんはどう思いますか?
では又。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます