その7

「あなたとは、もう一緒にいられない」

 年が入れ替わった細かい光が降り注ぐ冬晴れの緩やかな昼下がり。朝から見かけた浮雲が気付かない程微かに空を散歩していました。細長い窓から差し込んでくるあと1時間程で陰ってしまう細長い日差しの帯を眺めながら、明日からのお薦めランチは何にしようかと考えて、グラスを洗っていた時でした。

 ちょうど流れていたSTINGのEnglishman in New Yorkが終わり、無音の余韻の中、不意に聞こえたその言葉に僕ははっと胸を突かれて顔を上げました。

 店内には窓際の小さなテーブルに陣取り、熱心に原稿を書いていらっしゃる白い髭をふんだんに蓄えた老紳士と、壁際のテーブル席に神妙な面持ちで向かい合った20代後半くらいのアベックの2人しかお客様はいませんでした。先ほどの声の主はどう考えてもアベックの女性の方でしょう。僕の位置からは女性は背を向けていて、綺麗な長い髪以外はその表情は伺いしれなかったのですが、向かい合う男性は薄く開いた笑っているようにもとれる口で、些か驚いてはいたものの、なんとか平然を装って、ひたすらカップの中の残り僅かになったブレンドをかき混ぜていらっしゃったのです。

「私達は、別れた方がお互いのためよ」

 Shape of my Heartがごく静かに流れ出しました。 ああ、辛過ぎます。

 僕は無意識に二人にかつての僕と妻の姿を重ねてしまっていました。どうして女性は別れる時、必ず揃って同じ言葉を言うのでしょう。

 それが一番明確で、ある程度相手を思い遣る気持ちを含み、ソフトなのはわかりますが、いかにせストレート過ぎるのです。それに必ず、お茶や珈琲を飲みながらと言うシチュエーションも頂けません。折角のお茶や珈琲が台無しになってしまいます。

 その到底希望等は微塵も見えないアベックの成り行きを歯を食いしばってただ見守りながら、僕は落ち着きなくカウンターの中をオロオロと歩き回る始末でした。

「今までありがとう」

 男性はもはや意識すら遠い何処かに飛んでしまったのか、将又後悔の念に駆られているのか顔を深く垂れ、それでも目を瞬かせながら何度も空のカップを口に運び、ひたすらスプーンでなにも入っていない空のカップの中を忙しない音をたててかき混ぜているのでした。

「さよなら」

 カップをかき混ぜる音が一層忙しなく大きくなりました。もう聞いていられません。

 しかし女性は風のようにさっと立ちあがって白いコートを纏い、台本でもあるのではと疑ってしまう程の手際の良さと本当に滑らかな動きで、文字通りあっと言う間に店を出て行ったのです。

 残された男性はようやくカップをかき混ぜる手を止めて、がっくりと肩を落として、項垂れていました。その悲しみ、失望は傍目にも明らかでした。

 まるで2年前の僕を見ているような心地がいたしました。

 僕は本当にその方に同情してしまい、思わずおかわりのブレンドをお出ししました。

 30前半くらいでしょうか。まだあどけなさの残る無精髭を幾らか生やして、くたびれた灰色のパーカーを着込んだその方は、すみませんと、ぼそっと呟くように言うと皹だらけの指の短い手でカップを受け取りました。

「あの、席、移動してもいいですか?」

 その外見とは裏腹な、つぶらな子犬のような真っ黒な瞳でおずおずと聞いてきました。

「もちろん どうぞ」

 その方は巨大な芋虫のような薄灰色のダウンを片手に、カップを持ちカウンターの端っこに席を移しました。

 僕がお二人のテーブルを片付けに行った時に、女性の座っていた席からやけにハッキリと柑橘系のコロンの匂いがしたのです。成る程。これでは辛い。

「すみません。年明け早々とんでもないものをお見せしちゃって」

「いいえ。気になさらないで下さい」

「今日、年明けの初デートだったんです。このお店は前から気になってたんで、永和湖に遊びに行ったついでに足を伸ばしてちょっと寄らせて頂いたんですけど・・・ははは。まさか俺も振られるとは思いもしなかったもんで・・・」

 そう言いながら男性は煙草に火を点けて、一息吸うと吐き出すのと同時にまた深く頭を垂れました。ついでと言っても永和湖はこの街からかなり離れています。

 そんな遠くからわざわざ来店して下さったのに、こんな事態になってしまった事に対して僕はなんと言って良いやら考え倦ねて、今朝焼いたばかりの出来立てのロールケーキを薄く切ってお出ししました。

 なんだか子どもみたいだと思われてしまうかもしれないのですが、充分わかっている必要としてない慰めの同情の言葉よりは、ロールケーキが出てきた方が慰められる気がしたのです。

 実際僕自身は落ち込んでしまったり、嫌な気分になってしまった時に特定の誰かに聞いてもらいたい時もありますが、同情や慰めの言葉をかけられるのはどうも苦手でした。

 もちろん、心配してくれる相手の気持ちもわかってはいるのですが、人間の小さな僕は内側に閉じこもってしまう癖があるのです。相手によっては傲慢と思われてしまうかもしれませんが、そんな状態になってしまうと自分の中で負のスパイラルが回り始め、周りのどんな景色も言葉をも弾き飛ばしてシャットダウンしてしまうのです。

 それは僕が誰の助けも必要としていないのだと言う事になるのかもしれません。または自分でどうにかしようとしているのかもしれませんが、果たしてどちらの効果なのかは情けない事には僕にも判別がつかないのです。

 その男性は消え入るような声ですみませんと小さく呟くと、黙ってロールケーキを食べ、ブレンドを飲み干すと幽霊みたいにふらっと立ち上がり、店を出て行きました。

「さっきの男、いい雰囲気だったな」

 夜が何枚かの薄い黒い層を空に投げかけ出し薄暗くなってきた窓際の、テーブル席に座っているお客様に珈琲のおかわりを継ぎ足しに行った時、その方が使い込んで飴色になった万年筆を休めて、猫を可愛がるように髭を撫でながらふと言ってきました。

「なんですか、いい雰囲気って?」

 変な事を言う方だと思いながらも、思わず聞いてみました。

「振られた男のいい雰囲気が滲み出てた」

「降られたですか? それとも、振られたですか?」

「もちろん、どちらもだ。失恋の水も滴るいい男」

 成る程。さすが書き物をされていらっしゃる方は目のつけどころが違ってます。

 僕も、曇りどころか雨まで降っているような敏感な心境の時は、あまり慣れない人とは接しないようにしています。相手にいたずらに冷たく悲しい雨滴を飛ばしてしまい、困らせたり、傷付けたりして滲みを作ってしまいかねませんので。

 そんな時は堪えて、なにか他の事に没頭出来るならして、じっと雨宿りをしているに限ります。そうすれば、きっといつか雨は小雨になり、雲間から穏やかな太陽だって覗いてきます。そうやって生きていくのです。と、僕は妻との離婚後、2年もかけてようやく悟ったのです。長過ぎますか? そうですね。

 僕は妻の事を僕なりにとても大切にしていました。だからこそ、その喪失感は誰に対してよりも大きかったのです。その冷たい雨は、いつまでも寂しく僕を、僕の心を万遍なくじっとりと濡らしていましたっけ。

 さっきの方も言われてみれば、そんな雨に濡れたような感慨深い雰囲気があったような気がします。

「水も滴るいい男は、もっとも女が魅かれやすい」

 その方は皺でできた窪みの、奥の優し気な兎のような茶色い丸い目を何度か瞬かせて、所々隙間の空いた小さな歯でにやっと笑いそして、鼻から出ていたごま塩の白髪を徐に引き抜いて灰皿に捨てました。

「ちょうどあんな人物を探していた。お陰でいい作品が書けそうだ」

 その方は、ごま塩頭を何回か振り乱し、再び分厚い原稿にかがみ込んでせっせと万年筆を動かし始めました。原稿には、ぱっと見ただけでは到底解読不可能な黒い荒っぽい文字がところ狭しと暴れ回ってました。

 僕は感嘆の溜息をつきましたが、もうその方の五感も意識も、原稿の中で不可思議な文字達と一緒に一心不乱に踊り始めているらしかったのです。

 その方の近くのランプを点けて、僕はカウンターを片付けに戻りました。

 さっきの男性が灰皿に擦り付けて消した、無理に半分折れ曲がった形の煙草が半透明な白く細い煙を真っ直ぐにあげて、微かに燻っていました。それはまるで、男性の無理に消された心の燻りのようにも見えたのです。

 窓ガラスが軋んで、強い北風が切な気な声を上げて吹き荒みました。同時に窓際のお客様が小さなくしゃみをしました。僕はストーブの火力をもう少し上げる為に、ストーブの近くで黒いシミのように固まっている小太郎を横に移動させました。薄紫と橙色がたっぷりの水で混ざって滲んだ夕暮れ色に染まりながら浮雲はまだ散歩を続けていました。今夜も寒そうだな。



 それから数日後。僕は店の休みを利用して、古道具屋やリサイクル屋を巡って、店で使う食器やカップを物色して回っていました。

 新品ももちろん良いのですが、何しろ予算の関係と、ありきたり過ぎて今いち面白みがないので僕は敢えて古道具、リサイクル品を利用していました。個人的には骨董品も好きではあるのですが、価値があればある物程、普段使いにするにはもったいなくていけません。

 それにしても、こういった物色は本当に面白いのです。昔のものは味があり今の物にはない、ずば抜けたセンスがあります。先例されたデザイン。溜息が出てしまいます。

 古き良き時代の代表に相応しい物の数々が、彼方此方に隠れていて、まるで宝探しをするような気分です。

 リサイクル品もなかなかどうして捨てた物ではありません。一部の方には気に入られず不必要とされた物でも、また違った方は気に入って必要と感じる仕組みになっているのですから。古道具、リサイクルと侮ってはいけないのです。

 そんな蘊蓄をずらずらと1人考えては1人で納得しながら、品物を見て回り、気になった食器、カップを幾つか購入しました。

 高い空に切れぐれの凍て雲が停滞して、色の褪せた白い太陽が当らない部分は凍える程寒く、当る部分は差すように暖かい冬日和でした。

 高さの不明瞭な何層にも重なった薄青い空の下、粗方、馴染みの店は回ったので、そろそろお昼にしようかと思い、街外れの坂の上にある、よく行く蕎麦屋さんまでのんびり歩いていきました。すると、坂を登りきる手前、目的のお店が見えてきた丁度向かい側にリアカーを立てて作られた看板を掲げて、見慣れない新しい古道具屋ができていました。

 古道具屋に目のない僕は、蕎麦を食べる時間をとりあえず置いといて、もちろんそっちに向かいました。

 狭い入り口の脇には、小さな信楽焼の狸が可愛らしく3つ並んで、下には眩しく反射する水を張った火鉢の中に水草が浮いていてメダカが泳いでいました。

 昼間だと言うのに薄暗い店内には、アンティークらしきランプシェードがオレンジ色に灯り、心地よい響きを刻む柱時計も見えます。

 細かく仕切られた味のある木製の棚には懐中時計やら錆びたハーモニカやらジッポやらコケシやらがランダムに並べられています。

 まるで玩具箱の中に紛れ込んだような錯覚を起こしそうなくらいに、小さな店内はどこもかしこも渦高く物が並んでいて圧倒されてしまいました。

 そんな中、あまりに馴染んで見落としそうなくらいの柔らかい雰囲気の照明の下、食器コーナーを見つけました。

 揃っているセット物が多かったのですが、単品の物でも面白い物が幾つかありましたので迷わず手に取りました。それを持って、もう少し店内を見ようと、キョロキョロしていますと突然小さな白いカウンターが現れました。どうやら会計場所のようです。店員は見当たりません。

 僕はそこに置いてあったホテルのカウンターにあるような小さな銀の呼び鈴を何度か鳴らしました。しかし誰も出てきません。代わりに鳩時計の鳩が飛び出してきて一回鳴きました。

 それぞれの時計の針がそれぞれ違った時を刻む音がBGMのように静かに繰り返しています。やれやれ。

「すみません。どうもお待たせしまして」

 どこかから低い声がして、振り向くといつかの男性が頭に手ぬぐいを巻き、びしょ濡れになった軍手を外しながら眩しい外の光を背に受けて軽快に近付いてきました。

「お向かいのお蕎麦屋さんに、昨日取り付けた水車がいきなり倒れてきたってんで、ちょっと修理に行ってたんです。申し訳ない」

「そうですか。それは大変でしたね。直りましたか?」

「ええ。ネジの留めの部分が劣化していたみたいだったので、そこを交換して・・・あっ!あなたは、昨日の喫茶店のマスターじゃないですか!いやはや、度々ご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ない!」

 彼は真っ赤な顔を更に赤黒くして、汗を拭きながら慌てて深々とお辞儀をしました。

「いえいえ。気になさらないで下さい。しかし、良いお店ですねぇ」

「ありがとうございます!元々はワゴンに積んで彼方此方気ままに店を出していたんですけど、この度、念願叶って路上店を出させて頂きました!宜しくお願いします!」

 この前の声とは打って変わって、彼は鼻の下に生えている無精髭を指で擦りながら元気良く言いました。

 良かった。そこまで落ち込んではいないようです。

 彼は僕の手から食器やカップを受け取ると、相変らず皹の酷い荒れた手で、新聞紙に丁寧に食器やカップを包んで更にプチプチで包んでくれました。

「もしかして、これから向かいのお蕎麦屋さんにいらっしゃいます?」

「はい。そうですが?」

「いや。水車が倒れちまった勢いで、その傍で丁度出来上がった昼分の蕎麦も全部ぶちまけちまったみたいで、もう昼営業は終わってるんですよ」

「ええ!」

 お預けを食らった僕の胃袋は、ひもじい子猫のようにもうさっきからクークー鳴いて訴え続けていたのです。ここから街まで取って返し、再びなにを食べようかと、お店を探す気力は、空腹になり過ぎた僕の体には到底残っていそうになかったのです。

「あの、良かったら、俺も昼飯まだなんで、インスタントですけどラーメン作るんで食べて行きませんか?」

「え!? でも、お仕事中に悪いですよ」

「この前のお礼です。食べてって下さいよ」

 彼はニコニコと白い歯を覗かせながら、人の良さそうな笑みで何処からか鍋を取り出して、手前に置いてある5000円と値札がついている冷蔵庫を開けて、中から卵を取り出し、手際良く用意し始めました。

「ありがとうございます」

 こうして僕は売り物の丸いすに座って、彼が作ってくれたチキンラーメンを、彼とカウンターを挟んで向かい合い啜ったのです。

 そのチキンラーメンの美味しかった事。

「俺、惚れやすくて振られやすいんですよ」

 湯気に淡くなった彼がラーメンを啜りながら、ふと真剣な表情で言いました。

「惚れるのも早いんですけど、振られるのも早くて。どうしてか、すぐ捨てられっちまうんですよ。商売柄とでも言えるんですかね」

「それは、どう言う意味で?」

「いや。俺、ガキの頃から、古びたようなガラクタが大好きで、親に怒られてもどっかから拾ったりして集めてたんですよ。どうも、物を捨てるのが苦手で、捨てられてる古いものとかガラクタとか見るとどうしても放っとけなくて、拾ってきちまうんですよ。だから、古物商なんて始めたんですけど。ここにあるのは所謂捨てられた物達なんです。元の持ち主に捨てられて、もしくはどうしようもない事情で手放された物達なんです。中には何度も捨てられたような物もある。古道具屋やリサイクル屋は、そんな捨てられた物達が、また大切に使ってくれる誰かに拾ってもらえるのを待っている所なんです。そんな店の店主をやってんだから、俺もそんな風にされても、ま、仕方ないのかもしれないなと」

 成る程。面白い見解です。

 言われてみれば確かにそんな気もしますが、ただ、捨てる人がいるように、必ず拾う人もいるのですから。きっと捨てられた物達に愛情をかける彼は、そんな事は言わなくても承知しているでしょうから僕は頷くだけで、それについては特に敢えてなにも言いませんでした。

「人も物も幸せになる為に頑張るんでしょうね。ご馳走様でした」

 彼は脇に立っている大黒様のような嬉しそうな笑みを浮かべて、ぺこりと一回お辞儀をしました。それに倣うように柱時計が一斉に鐘を打って時を告げ始めました。

 その音を後ろ手に聞きながら、僕は店までの道のりを、横手にもう咲き始めている白梅の花を見ながら、明るい音を騒がしくたてる大きなビニール袋を片手に、思いついた出鱈目な口笛を吹きながらゆっくりと歩いて行きました。

 行き過ぎる車の音も空気と同じでどこか膨らんで聞こえるようです。

 陰っている剥き出しの土には霜柱が溶け切らずに立ちすくんで残っていても、春が少しずつ近くなっているのを感じる陽気です。

 厳しい冬の寒さの後には、必ず春が訪れるのです。

「あなたみたいな人は、喫茶店のマスターがとても性に合っているわ」

 そういえば昔、妻もそんな事を言っていたのを、ふと思い出しました。

 確かあれも凍える寒い冬の日だったのです。 いやはや。

 喫茶店は人の行き来を見守る、一時の休息場所とでも言いましょうか。

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