その8

 待ちわびた桜が咲く華やかな季節を迎えて、日に日にのんびりとした穏やかな暖かさが増してきたある日。僕は店に早めに来て、冬の間にすっかり曇ってしまった窓ガラスを拭いていました。扉や窓を開け放しているので、気持ちの良い清々しい風が吹き抜けます。それを体中で堪能しつつ、口笛を吹きながらの作業はなんとも愉快でした。春になったのだなぁ。建物の隙間に切り取られた浅葱色の薄いガラス空が広がりクラシックの小鳥のさえずり宜しく平和な朝の音が溢れる中、店の扉が切羽詰まった感じで開けられ、絹糸のような黒髪を波打たせて一人の華やかな女性が傾れ込んできました。マリさんです。

「いらっしゃいませ」

「おはようマスター。あら。もしかしてまだ開店してなかったかしら?」

「いいえ。今開けようと思っていた所なので大丈夫ですよ」

「そう。なら良かったわ。マキアートをお願い」

「かしこまりました」

 マリさんは何処か気怠そうに方肘をついてカウンターに座りました。いつもより雑なその仕草に、酔っぱらっているのだと気付きました。

「どうぞ」

 先に水をお出ししました。マリさんは少し頰を赤らめ、それよりももっと赤い瑪瑙のような艶やかな爪先の指をグラスに絡ませました。

「・・・バレちゃった?」

「楽しい気分で飲み過ぎてしまったのならいいのですが」

「ふふ。マスターには敵わないわ」

 そう言うとマリさんは一気に水を飲み干し、眩しそうに目を細めて扇のような睫毛の下からぼんやりと窓の外を眺めていました。

 僕は芳ばしい胡桃色をした薄青磁色のカップの表面に白い蔦の葉模様を描きマキアートを仕上げました。アールヌーヴォー調な感じが我ながら上出来だ。乱さないように注意してお出しすると、ぱっとマリさんの顔色が明るくなりました。

「今日の模様は今までで一番素敵だわ」

「ありがとうございます」

「ねぇマスター、このマキアートにはさくらんぼの実る頃が似合うと思わない?」

 にっこりと笑いかけるマリさんに言われて僕は音楽がない事にやっと気付き、お詫びをして急いでご要望の曲をおかけしました。まるで丸い水の雫が転がるような優しいピアノの音が店内に溢れ、次いで力強く静かな低い女性の声が青空を映し出すかのように流れ出しました。なんとも美しい曲です。こんなしっとりとした夕暮れ時のみならず、こんな平和な朝にもとても似合うのです。

「パリ市民の秘めた切ない思いを感じさせる曲です」

 聞き惚れているうちにふとピアノの音と一緒に思わず溢れてしまった僕の言葉に、マリさんがマキアートを口元に運ぶ手を止めて聞きました。

「あら。物知りなのね」

「ええ。この曲には色々と・・・」

 そう言って言葉を濁した僕をマリさんは何故か眩しそうに目を細め、再びマキアートに口をつけると微笑みながら優しく言いました。

「お互いにもう随分歳だものね。色々と思い出のある曲の30や40は当たり前よ」

 その言葉に僕も思わず笑ってしまいました。

「おっしゃる通りです」

「さくらんぼの実る頃は短い。人生も又然り。そして苦しんでも生きている分だけ心に溜っていくものが思い出なのよね」

 マリさんはその長くしっかりした睫毛を伏せ両手を組みその上に顎を乗せて物思いに耽っているように言葉を区切りました。視界の端で小太郎が早くも舞い始めた小蠅を素早く跳躍し捕えましたが、その到底お腹を満たしそうもないあまりの獲物の小ささに着地した窓枠で不服そうに一時静止していました。または麗らかな春の日差しにうっとりと浸っていたのかもしれません。これからの季節は小太郎の腕の見せ所です。

「なにが正しいかはわからないものよ」

 ぽつりと呟いたマリさんの投げやりさを感じる温度の言葉に、僕は視線を戻しました。

「正しいと思われる事はそれぞれの生き方や培ってきた思想や考えによって違いや差が生じると思います。特に対人関係は」

 遠慮しながらも紡いだ僕の言葉に、マリさんはふと薄く笑いました。

「正義だのが持ち出される場合って対人関係が多いんじゃないかしら?」

「そう言えばそうですね」

「相手に自分の正しいと思う主張を認めてもらう為に鷹揚にして人は常識や正義と言う手段を持ち出すわ。相手を服従させたり勝敗を決めたり。だけど、大体は相手に受け入れて欲しいっていう願望でもある。平たく言うと喧嘩の手法ね」

「喧嘩・・・ですか」

「そうよ。大体は大きくなって頭でっかちになった子どもが綺麗に喧嘩出来ると思っている手法よ。実際は綺麗どころか泥沼になる確立の方が高いけど。だから絶対的な正義の法を定めて裁判だとかで無関係な第三者を間に挟んでもらう。でも、それだって感情のある人間相手なんだから何処まで当てになるかなんてわかったもんじゃないわ」

「子どもの頃のようにお互いにただ猛烈に喧嘩した方がまだマシだと?」

「一概には言えないわ。だってあれはお互いを貶めてやろうなんて事を微塵も考えていないって言う事と、自分が何が何でも絶対的に正しいんだと言う確信を持ってない事が前提だから。頭の柔らかい子どもだからこそ相互理解を出来る余裕がまだ残されているのよ」

「大人になってしまうと難しいですね」

「自分達で難しくしているのよ。自分で壁を作って、自分でわからないと言い聞かせて、自分で受け入れを拒否して、自分の損得ばかり考えるから。模範的に子ども達に言い聞かせている事を、果たして大人達はちゃんと出来ているのかしら?」

 何処かしら苛立を覚えるようにマリさんの表情は少し強張って言葉を綴っています。

「・・・僕もあまり言えません。子ども達に言う事は大人の描く理想でしょうね」

「誰でも元々子どもだったのに、いつのまに人生で培ってきた経験や知識を自分の為に周りに色々な物を張り巡らす事にだけ使うようになってしまったのかしらね・・・」

「張り巡らされた中には入っていけないのを感じているんですか?」

「案外臆病なのよ」

 マリさんは今までとは打って変わり寂し気な眼差しをカップに落としたのです。

「傷つくのが怖いと?」

 いくら親しいからと言ってもうっかりと口にしてしまった自分の言葉に僕は後悔しましたが、それには構わずマリさんはふっと微笑みました。それはもしかしたら仕事用の笑顔だったのかもしれません。

「或いはそうかもしれないわ。でも、生憎わからない事だらけよ」

「同感です」

 店内にはまだピアノの雫が空気中を心地良く弾んでいました。けれど、それとは裏腹に人の気持ちのなんと複雑で重たい事でしょう。窓の外を白いモンシロチョウが頼りな気に横切っていくのが見えました。こんな薄暗い路地裏になにを思って迷い込んでしまったのでしょうか。まだ窓際にいた小太郎がモンシロチョウをじっと見ています。

 マリさんは残りのマキアートをゆっくりと飲み、今夜も仕事だから少し寝ないとと言って帰っていきました。心なしか別れ際の顔色が僅かに沈んで見えたように感じたのは僕の気のせいだったのでしょうか?

 入れ違いに渡部さんが入ってきました。時計を見ると、丁度お昼休みの時間でした。

「この店は美人がよく通うな。所謂穴場だな」

 カフェモカとカレーの辛口を注文して、文庫本を取り出しながら渡部さんはにやっとして言ってきました。

「そう言われれば、峰子さんも美和子さんも彩子ちゃんもみなさん美女揃いですね」

「だろ? それにさっきの美人さんもな」

「さっき? ああ、マリさんの事ですか?」

「それ以外に誰がいる? 見応え充分のゴージャスな美女じゃないか」

「確かに・・・美人には違いないですけど」

 僕の苦笑いに、渡部さんは不思議そうな顔をしつつも満足そうにカフェモカをがぶりと飲みました。その様子が先ほどから流れているJohnny Winterの曲になんだか合っていて、思わず笑ってしまいました。いつもクールな渡部さんが峰子さんと一緒の時以外でこんな可愛らしい表情をするのは珍しい事でした。

「俺もあんな美人と知り合いになってみたいもんだ」

「渡部さんがそんなに美女好きだとは思いませんでしたね」

「美女を嫌いな男の方が少ないだろう? 美しいものは目の保養にもなる」

 その好奇心一杯の子どものような真剣な眼差しで語る渡部さんに、僕は確かにと頷きながらカレーをお出ししました。

「気になるのでしたら、宜しければマリさんのお店にお連れしましょうか?」

「おお!是非頼む!」


と言う事で数日後、僕と渡部さんは仕事が終わってから連れ立ってネオン輝く夜の新宿ゴールデン街へと繰り出したのです。

「そこのおにいさーん寄ってかなーい?」

 彼方此方から飛び交う色っぽい誘いを生真面目に断りながら渡部さんの顔が些か強張り始めていました。

「なぁ、マスター。まさかとは思うんだが、まさかじゃないだろうな?」

「え? どんなまさかですか? はい。着きました。ここです」

 僕はアールヌーヴォー調の手すりが伸びる階段の前で立ち止まりました。

「なんだ? 何処だ?」

「この階段を登った所にマリさんのお店があります」

「なんだ。凝った造りの階段だな。でも普通そうで良かった」

「? なにがですか?」

「いや。なんでもない」

 渡部さんはそう言い捨てると先に階段を登り始めました。するとすぐに古びた真鍮製の丸い取っ手がついた分厚い木製の扉が現れ、その上には真っ赤な薔薇の装飾を施され秘密の花園と書かれた巨大な看板が出現しました。

「おい、マスターまさかここじゃ・・・?」

「え? そうですよ。ここですよ」

 階段の途中でそんな事を言っていると、急に店の扉が開いて中から南国の花々のように鮮やかな色を纏った美人のホステスさんが現れました。どうやら呼び込みに行くらしいのです。たちまち僕らを見つけて圧倒的な笑顔と力で店の中に迎えてくれました。

「あら、マスターじゃない。来てくれたの? 嬉しいわ。そちらの男前の方はどなた?」

 金色のドレスに身を包んだ純金の塊のようなマリさんが長く豊かな髪を揺らして手を振りました。渡部さんは固まったまま動かなくなってしまいました。

「今晩は。こちらは常連の渡部さんです。今日はどうしてもマリさんに会いたいとおっしゃるので・・・」

「おいおいおいおい!マスター余計な事言わなくていいからっ!」

「あらっ!そうなの光栄だわ。初めましてマリと申します。この店のチーママよ!」

 マリさんの豪華な笑顔にウィンクまでされた渡部さんはまるで夜遊び初体験の初々しい新社会人宜しく眩しそうに目を細めながらも、丁寧にお辞儀をしていました。

「あ、渡部と申します。宜しくお願いします」

「こちらこそ。マスターの喫茶店には時々顔を出しているの。2人共水割りでいいかしら?」

「お願いします」

 僕と渡部さんは思わず声を揃えて言ってしまいました。マリさんはくすっと笑って僕にはジャイアントコーンと水割りを渡部さんにはミックスナッツと水割りをそれぞれに出してくれました。

「僕がジャイアントコーンが好きだって覚えていてくれてたんですね」

「当たり前よ。お客様の好みは一人一人正確に把握出来なきゃホステス失格よ」

 背の高いマリさんの惜しげもなく強調している豊満な胸に目を奪われながらも僕は感心してしまいました。

「すごいな。よく俺がミックスナッツ好きだってわかりましたね」

「渡部さんはなんとなくそんな感じがしたからよ。当って良かったわ」

「峰子はいくら俺がミックスナッツが好きだと言っても、自分が柿ピーが好きなもんだからそれしか買ってこないんだ」

「渡部さんは先月ご結婚したばかりなんですよ」

「あら、新婚さんなのね。いいじゃない。一番熱々の時よ」

 渡部さんにからかうように言うマリさんは先日よりはいくらか元気になっているようでした。

「元気になられたようで良かったです」

「あら。なんの事だったかしら? あたしは基本的には元気よ」

「色々と」

「相互理解には妥協もある程度必要だと言う事? それとも相容れない喧嘩の事?」

「うーーん・・・両方でしょうか」

「私達のような滲みがついてしまった人間はどうしたって頑なに滲みがとれないどころか逆に広がっていくだけ。なら、その滲みを不安がって忌み嫌わないで認めて生かしていければいいのよ。いつか滲み色に全てが染まってしまっても胸を張っていれば、その色が粋に見えるかもしれないわ。いいえ。誰も理解してくれなくても自分がわかっていればそれでいいの。例え汚い道を歩いていても自分で決めた理だけは真っ直ぐに持って歩いていれば必ず足跡は後ろに繋がっていくわ。そしてそれが自分の生きている証なのよ」

 些か酔っているのでしょうか。ちょっと以前とは違う話の答えのような気もしましたが、マリさん自身が納得しているようなのでまぁいいかと思い聞いていました。

「その通りっ!やっぱり美人は前向きで気が強いのが一番だ!」

 美人好きの渡部さんはお酒が進んで威勢良く言いにっと笑いました。

「光栄だわ。渡部さんって随分といい男じゃない? 奥さんと別れたらいつでも相手してあげるわよ」

 そう言って片目を瞑るマリさんに、渡部さんは溜らず吹き出して咽せ始めました。その横で僕はマリさんが言った事を考えていましたが、ふと思い当たって手を打ちました。

「だからカフェマキアートなんですね」

 マリさんが僕を見てにっこりと笑いました。


 羽根のような雲がふわりと僅かに散らばった空に、春の風に吹かれた最後の桜の花弁が惜しげもなく舞い踊るある日の午後。渡部さんと峰子さんのご夫妻がいらっしゃってました。どうやら最後の花見と洒落込んだようです。

「この間のマリさんはそりゃーいい女だったな。あんないい女は滅多にお目にかかれないさ。な、マスター?」

 渡部さんが面白そうに峰子さんの前でぬけぬけとそんな話をするので、僕はわかってはいますが内心冷や冷やしていました。峰子さんはへぇーそうなのーと相槌を打ってはいましたが、何処となく不機嫌なのが見て取れました。

「あらそう。そんなに素晴しい方なら是非とも一度拝見しなくちゃ。ね、マスター」

「はぁ・・・」

 その時タイミング良くマリさんが扉を開けて入ってきました。今日は髪を1つに結わえ、白い縞のワイシャツにスリットの深いグレーのスカート、金色のアクセサリーが品良く光りまるで貿易会社の秘書のような出で立ちです。

「こんにちは。マスター、それに渡部さん・・・あら?」

 マリさんは手を振る渡部さんの隣で若干訝しそうな顔をしてこっちを見ている峰子さんをじっと見つめました。

「峰子? 峰子じゃないの? 久しぶりねぇ」

 そう言われた峰子さんは一瞬なんの事だか誰に言われたのかわからないような顔をしましたが、私よ私と言うマリさんの顔をじっくり眺めてからあ!っと叫びました。

「えー嘘っ!マー君?! マー君なの?!」

 喜ぶ峰子さんに渋い顔をした渡部さんが聞きました。

「なにその下手な呼び名? 誰だよマー君って?」

「もちろん、私よ」

 しれっとマリさんが答えて峰子さんの横に座りました。渡部さんは困惑した顔で助けを求めるように僕を見てきました。僕は苦笑いをして言いました。

「マリさんは元はマリオさんとおっしゃいます。お父様がイギリス系のハーフなんだそうですよ」

「マー君とは遥か昔、随分若い時に付き合ってた事があるのよ。同じモデルの仕事をしていた事があって仲良くなったの」

 峰子さんがはしゃいで報告してきました。その峰子さんを横から見つめながらマリさんがしれっと言いました。

「峰子はいい女になったわね。あの時も綺麗だったけど、今の方がもっと綺麗よ。いい感じに歳を重ねてきたのね。結婚おめでとう」

「ありがとう。マー君は随分変わったけど、相変らずね。そのぶんじゃ未だ年齢性別問わず色んな人と遊んでるんでしょ? 昔からそうだったもんね」

「んー・・・まぁね」

「ほどほどにしときなさいよ。好きな人なんて1人で充分なんだから」

「まったく。峰子には敵わないわよ」

 そうは言ってもマリさんは嬉しそうに笑って峰子さんを見ていました。マキアートをお出ししながら、そうだったのか、マリさんと峰子さんは付き合っていたのだと正直ちょっと驚きました。言われてみれば美男?美女で当時はさぞかしお似合いだったのでしょう。

 渡部さんはどう反応していいのかわからないようで固まってしまい、黙ってカフェモカを啜っていました。それには構わず2人の女同士のお喋りは盛り上がっていました。

「それはそうと、峰子、あんたいい加減自分の旦那の好みくらい覚えなさいよ。いくら結婚して安泰だからって、油断してたらすぐに他の優しい相手に寝取られちゃうんだから」

 渡部さんがまたしても咽せ始めたので、僕はそっとお水を差し出しました。

「え? なぁにそれ?」

「あんたは昔からちょっと相手の気持ちに対して鈍感なところがあるから、近い人に程気をつけなさいよ。私達が別れたのだってそれが原因なんだし」

「そうだったんだ。全然知らなかったわ」

「相手が峰子にとって特別な存在なら思い遣るのは簡単な事でしょ?」

「うん。ありがとう。まさかマー君にそんな助言を貰うなんて思ってもいなかったわ。お互いに随分大人になったのね」

「そうよ。年月は流れて経過していくだけ。今を楽しく生きて先を大切にしなきゃ」

 と、ここで僕がさくらんぼの実る頃をかけたのです。

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