その9
「縁切りで有名な喫茶店ってここですか?」
凍てつく空気を溶かすような力強い冬晴れのある午後。
元気に腕を振りながら大学生らしい風貌の若い男性が訪れました。チェックの赤いシャツをコートの下に重ね、首にぐるぐる巻いたマフラーも鮮やかな赤でした。その方は勢いよくカウンターの真ん中に座ると、開口一番、少し早口目に聞いてきました。
「はい?」
あまりの唐突さに僕は思わずそんな事を返してしまいました。
「だから、縁切りで有名な喫茶店はここですか?」
「はぁ どうでしょうね。そうなんですか?」
「だから聞いてるんですけど」
「さぁ。聞いた事ないですけど・・・・・・」
その男性は憮然として、ミルクティーを注文して飲み終わると何も言わずに帰って行きました。
僕がその話をすると、案の定シゲさんと渡部さんは大笑いをしました。まったく。
「傑作だなぁ。ここはそんな喫茶店だったのか。じゃあ、あんまり峰子と来るのはよそうかな」
優しい雨の日のような潤色のカーディガンを羽織った渡部さんが柔らかく無精髭を動かしました。その肩を軽く叩いて、少し寝癖のついた髪をしたシゲさんが真顔でからかいます。
「いんや。俺ぁ前々からどーもそうじゃねーかと思っていたんだよぉ。やっぱりかぁー」
「違います。大体そんな言われる程、誰かが別れたりしてないじゃないですか」
僕は全く憤慨していました。まったく何処のどいつがそんなデマを振りまいたんでしょう? 営業妨害も良いとこです。
「この間なんて、ここで告白して付き合い始めた人達だっているんですよ。僕、感動して思わず拍手してしまいましたよ。それに、茜ちゃんだって最近作った彼氏を連れてきてくれます」
「んだけど、少し前なぁ、こっからそう遠くない何とかってぇ会社の前で、雷が直撃して、人が死んだじゃないの。その人、ここのお客だったんだろ?」
ミックスサンドイッチ派のシゲさんが珍しく注文したナポリタンを食べながら聞いてきました。
「横井さんです。本当にお気の毒でした。この前、奥様に駅でお会いしたんです。英会話の講師で働き出されたんだと笑いながらおっしゃってました。元気になられたようで良かったです」
「ほらな。それに、あのえらく綺麗なお姉ちゃんどうした?」
「よく雨上がりにお一人で寄っていらっしゃっていたエスプレッソ濃いめの方ですか? そう言えば最近お見えになりませんね」
「ほらな。きっと他の旦那のとこ行ったんだよ。あのお姉ちゃんは囲われている雰囲気があったからな」
「へーぇ。そんな綺麗な人が来てたんだ。俺も見てみたかったな」
なんて、渡部さんまで言っています。
「そうかもしれませんね。でもそれと縁切りと何の関係が・・・・・あ」
「な? そう言う意味では縁切りだろが」
トマトソースがついた先っちょの赤いフォークをタクトのように振ってシゲさんが言いました。
「確かにな」
渡部さんが成る程という感じに意味深に呟きました。すると、噂をすれば何とやら、当の本人茜ちゃんと実君が手袋をはめた手を繋ぎながら仲良く入ってきました。
「こんにちはマスター!」
「こんにちは。いらっしゃいませ。2人共新しい仕事には慣れましたか?」
「ええ。おかげさまで。毎日とっても楽しいわ」
「マスター、マスター!聞いて!俺、今度、主役任されたんだよ!」
劇団員の実君が子どものようにはしゃいで得意そうに報告してきました。鮮やかな蒲公英色のダウンが目に滲みるようです。春ももうすぐですね。
「それは凄い!」
「でしょー!俺、オリジナルブレンドー」
「茜ちゃんはどうしますか?」
茜ちゃんと実君は、シゲさん達と反対側のカウンターの端っこに陣取った。
「私はカフェマキアートがいいな」
女の子らしく若々しい躑蠋色のハイネックセーターを着た茜ちゃんが唇に指をやって言いました。
「かしこまりました」
「ところでマスター、この喫茶店が縁結びで有名になってるって、知ってる?」
さっきの話とは全く正反対の茜ちゃんの問いに、またもやシゲさんと渡部さんが爆笑しました。
「縁切りの次は縁結びですか。まったく。ここはあくまで喫茶店であって神社とかじゃないんですよ」
「ですよね。私の出版社の中にある違う部署の編集者がここらの有名どころを載せる特集を組んだみたいで、その雑誌にここの事が書いてあるそうなんですよ。縁切りだか縁結びだかで有名な喫茶店って」
そういえば、この間いきなり来たあの男の子は手になにか色とりどりの華やかな雑誌のようなものを丸めて持っていた気がしました。成る程。雑誌の影響か。はた迷惑もいいとこだ。
「そうなんですか。特に取材みたいな事はなかったんですけどね」
僕は2人の豆を配合しながら答えました。
「どうせ、でっち上げだろ」
渡部さんがカフェモカを啜りながら呟くように言いました。
「そーだそうだ。ちげーねぇーよ。第一、根拠がねーじゃないのよ」
シゲさんも口を尖らせました。
「ですよね」
何故か責められた形になってしまい、茜ちゃんが少し困ったように同意しました。
「その雑誌って、これ?」
隣に座っていた実君が不意にA4版のカラフルな雑誌を取り出しました。
「さっき茜を待ってる間に暇だったから立ち読みしてたんだけど、面白そうだから買ってみたんだ。でも、書いてあるのでっち上げなのかぁー」
「見せて!」
皆で一斉に覗き込みました。成る程。ここら一体の有名スポットとお店の案内のような散策地図が載っていました。裏路地もしっかり載っています。やれやれ。
「ほーーここらはこーんなたっくさん有名どこがあったんかぁー長年住んどって全っ然知らんかったわ」
感心しているのかバカにしているのか定かではないニヤニヤ笑いをしながら無造作に片鼻の穴に指を入れているシゲさんの横から、珍しく渡部さんも興味津々で見ています。
「俺の所は・・・あったあった。何々、腕のいい親切な先生と迅速な対応で有名な頼れる小児科医。子どもになにかあったらとりあえずすぐに駆け込むべき。何だか駆け込み寺みたいな宣伝文句だな。お、ミレットも載ってる。美人ママがいるミュージックバー、誰でも楽器持ち込みセッション可、ママの料理が絶品、大人のデートに使いたい、か。そうだな。あながち嘘でもないじゃないか」
僕はくねくねした裏路地の散策地図を目を凝らして見つめていました。路地裏の奥まった所に小さく僕の喫茶店がありました。
『老舗の喫茶店、マスターは気さくで近所住民の溜まり場的な場所、2人で行くと別れやすくなり、独り者で行くと縁結びに利くという噂もあるらしい』なんじゃこりゃ。
「誰が言い始めた事かは知らんが、くだらん事だ。気にしない方がいい。では、俺はそろそろ戻るので」
渡部さんは立ち上がって、お勘定を払い、颯爽と病院に戻っていきました。
「まったく先生の言う通りだ」
シゲさんはそう言って、新聞を広げて眺めながら、残っていたナポリタンを一気にかっ込みました。
「何だか、ごめんなさい・・・」
茜ちゃんが責任を感じてしまい、泣きそうな顔をして小さな声で謝ってきました。隣の実君までバツの悪そうな顔で口をもごもごさせて俯いています。
「いえいえ。謝るのはこちらの方です。何しろお飲物を出すのがすっかり遅れてしまいましたので」
大変お待たせいたしまして申し訳ございませんと、僕は雑談で中断されていた2人の珈琲をそれぞれの前にお出ししました。おまけにチョコレートを添えて。2人は、それでも黙っていましたが、お出ししたそれぞれの珈琲を一口飲むとたちまち元気になったようでした。
やれやれ。僕は弱い日差しが入り込む窓から、白い空の下所存投げに佇む寒々しい木を見やりました。
それから数週間、その雑誌の反響か、店は年齢層様々な独り者のお客さんでごった返していました。もちろん全てご新規の方です。逆に常連の方は全くと言っていい程、さっぱり寄って来なくなったのです。僕としては嬉しいやら寂しいやら。けれど、そんな見当違いな目的でいらっしゃる方々は長くは続きません。最高で2回程来て、何も効果が出ないようならさっさと諦めて来なくなります。当たり前です。僕の喫茶店は何の変哲のないただの古くて汚い喫茶店なのですから・・・
店はまるで築地市場の様に声が飛び交い活気が溢れ、煙草の煙と人臭さと珈琲だか紅茶だかの臭いが溢れ、トイレに並ぶ列まで出来ていました。有り得ない光景です。尋常ならざる人の波に、小太郎は怯えて怖がってしまい、いつも蓄音機の後ろに隠れていました。しかしその回転の早い事早い事。喫茶店なのに、あっという間に人が入ってきたと思ったら注文が来て、やっと飲み物が出たと思ったらあっという間にお勘定して出て行きます。一体ここは何処でしょう? ファーストフード店? ファミレス?
僕は例によって一人だったので、もちろん回りません。回る訳がありません。なので、こっちはまだか!あっちはまだか!遅い!クレームの嵐です。一体彼らはここに何をしに来ているのでしょうか? ただ飲み物を胃に流し込むだけなら、自動販売機でも充分用が足りる筈です。ですが、追い返す訳にもいきません。この時程、小太郎のように固定した店を持たずに自由に飛び回れる身を羨ましいと思った事はありませんでした。僕は本当に苛々しながら無口にただこなしていました。
3週間後、店はまったくいつも通りに戻りました。いえ。むしろ、前より暇になってしまいました。常連の皆様方はどなたも、静かな雰囲気や落ち着いた時間を好む方ばかりでしたから、人で溢れ帰って騒がしい芋洗いと化した店には寄り付く筈もなかったのです。店内は前よりも一層くたびれて、汚れてしまったようでした。彼方此方に食べこぼし、飲み物のシミなんかが目立ちます。やれやれ。
僕は久しぶりに掃除をしようと思い、早めに店を閉めて取りかかりました。年末の大掃除並の掃除を何とか終わらせて、一息ついた時にはもう9時を回っていました。
ふと、鍵のかかった扉をコンコン叩く人がいます。行って開けると、仕事帰りの渡部さんが立っていました。
「お疲れさん。もう店閉めるんだろ?俺も今日は長引く患者がいなかった。最近忙しくて、なかなか立ち寄れなかったんだ。どうだマスター。もし良かったら、ミレットに行こう」
「お疲れ様です。僕もちょうど今終わったところです。ミレットですか。いいですね」
「よし。決定だな。峰子も後から合流する事になってる」
「すぐ、用意して追いかけますから、お待ち頂くのも寒いので、どうか先に行っていて下さい」
「それはいいが、場所はわかるのか?」
「ええ。甥っ子が働いていますので」
「甥っ子?」
「はい。ミレットでバーテンダーをしているんです」
「そうか。なら大丈夫だな。じゃ、お先に」
「はい。すぐに伺います」
渡部さんは闇のような真っ黒いコートで凍るような夜風を切って暗くて湿った路地裏を颯爽と歩いていき、間もなく闇の中に溶けるように見えなくなりました。
店の中に入り、着替えをして電気を落とすと、小太郎が安心したように蓄音機の後ろから飛び出してきて、いつもの指定の位置に移動して行きました。それを見届けてOPENの札をひっくり返して、扉を閉めて鍵をかけました。外はたいへん真っ暗で、隣のバーの入り口に幾つか温かそうに灯る白っぽいランプで何とか行き先が見分けられる感じでした。うっそうと伸び放題の木のシルエットの間から、時々澄んだ美しい星空が覗きました。僕はそれを見上げながら白い息を吐いて、路地裏の砂利道を抜けて駅の方に向かいました。
次の日、開店して4時間。さっぱりお客様がいらっしゃらないので、僕は暇に任せて昨夜甥っ子に教えてもらったハーモニカを吹いていました。何度やってもなかなか甥っ子の教えてくれたように演奏出来るようにはなれず、意地になって必死に吹き鳴らしていたのです。
「おーーーい。マスターーー いつになったら、俺のカフェオレは出てくんだーー?」
もう懐かしいとさえ思ってしまうシゲさんの声で顔を上げると、いつの間にやらよく洗い込んだ風合いをした生成りのハンチング帽を小粋に被ったシゲさんと、ココアのような焦げ茶色のふんわりした長い髪が透けるような肌に寄り添う峰子さんが座って、いたずらっぽい表情を浮かべて僕を見ていました。
「あら、やっと気がついたわ」
峰子さんがそのアーモンド型の目を細くして、おかしそうにピンクベージュ色の唇から白い歯を覗かせて篠笛の凛とした音のようにうふふと笑いました。今日は卵色のブラウスカットソーに品の良い珊瑚色のベストを重ねていらっしゃいます。いつもながら綺麗な色を選ぶ方です。
「申し訳ございません!すぐにご用意させて頂きます!」
僕は慌てて取りかかった。シゲさんはホットカフェオレ。峰子さんはカフェバレンシア。気を落ち着けてお二人の珈琲を煎れてお出しすると、いつの間にか、窓際の席にカプチーノの彼女と旦那さんが座って談笑していました。僕が、これ又慌ててお詫びをしながらチェイサーを出しに行くと、こっくりした小豆色の揃いのセーターを着たお2人は揃ってにっこり笑って僕を見ました。
「こんにちはマスター。カプチーノを2つお願いします。このセーター、2人で編みっこしたんですよ。私のは彼が編んでくれて、彼のは私が編んだんです。どうですか?」
「そうなんですか!手作りなんて素晴しいじゃないですか。お二人ともよくお似合いですよ」
「良かった。ありがとう」
そしてお二人は又向かい合って、面白そうに話の続きに戻っていきました。
忙しさから解放されて、気が緩んでいるのだろうか? お二人のカプチーノを煎れながら僕はぼんやり思いました。それとも、対応しきれない忙しさで自然に身につけてしまった見て見ぬ振り、聞いて聞かない振りが残っているのだろうか? だとしたらいけない。お客様に失礼な事だ・・・
「それにしても昨夜は楽しかったわ。マスターの甥っ子のバーテンダー君も可愛かったし。今度はシゲさんも一緒に行きましょうよ。渡部さんも喜ぶわ。ねぇ、マスター」
峰子さんに僕は普通に返事をしたつもりなのですが、峰子さんは不思議そうに首を傾けました。
「どうしたのマスター。疲れてるの?」
心配そうな目で見つめる峰子さんの横から、シゲさんが渋い顔をして首を振りながら言いました。
「そりゃあー 疲れてんだろーや。つい最近まであのバカ雑誌のせいで、バカの客が溢れかえってたんだからなぁ。俺もな、一回来た時にゃあまりの人口密度の高さにおっかなくなって引き返しちまったんだから。マスターは怖えー顔しながらぶっきらぼうに彼方此方動いていたっけな。さぞかし疲れたろぉー」
「見られてましたか。いやいや。面目ない」
僕は恥ずかしさに熱くなって苦笑いしました。そしてカウンターから出て、カプチーノを窓際に運びました。お二人はまだ夢中で話していました。
「ありがとうございます、マスター!」
「いえいえ。こちらこそ」
カウンターに戻ると、今度はクリームコロッケカレーの方がいらっしゃってました。
「お待たせいたしました。すみません」
僕が謝ると、その方は上品な山鳩色のマフラーを外しながら、微笑んで軽く手を振っておっしゃいました。
「元の来やすいお店に戻って良かった」
それに呼応するようにシゲさんも大声で言いました。
「まったくだ!」
そして、お客樣方はそれぞれに話や珈琲や時間を楽しむ事に戻っていきました。
「あ、ありがとうございます!」
それだけしか口に出せませんでしたが、僕は感動で胸が一杯でした。このお店をやっていて、こんな素敵なお客様達とご縁が出来て本当に幸せだと心底思いました。決してお金には代えられない掛替えのない時間がここには確かに存在するのだと嬉しくなりました。
その喜びを音楽に変えMadeleine Peyrouxwoを流しました。柔らかく包み込むような歌声が優しく満ちていきました。心なしか春めいた匂いすらしてくるようでした。その時、扉が開いて昼休憩の渡部さんが入ってきました。
「お、ようやくいつもの店に戻ったな。ところでマスター、この店の特大パフェを食い切ると願いが叶うって本当か?」
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