その10

 急に日が陰り、僕は空を見上げました。いつのまに垂れ込めたものか泥水にでも浸かった綿の塊みたいな雲が不器用に敷き詰められていました。曇天のカオス。そこを燕が一羽、綺麗な弧を描いて低く飛んでいったのです。雨の前兆。

 僕は慌てて店への道を急ぎました。雨に濡れるのは嫌いではないのですが、生憎こんな日に限って代えの靴下を持って来ていなかったのです。それに仕入れて来たばかりの珈琲豆も両手に持っていました。

 日一日と強く香り立つ初夏の面影に、その後ろに根気よくじっと控えているだろう夏の気配を感じて嬉しいような切ないような胸を炙り出される気分になるものです。炙り出されたものは人それぞれ違った思い出や無数の感情なのですが、僕はいつかの鮮烈な景色がじんわりと炙り出されて浮かんできます。湿った草の鬱蒼とした臭いと共に。


 今日は鬱々とした天気のせいか何時にも増してお客様が少なく、湿度を持った艶っぽいHelen Merrillの声が漂う中、僕は店のフードメニューを考案する事に集中していました。ふと窓の外を眺めますと、どんよりとした空気の中さっきよりも雲の色素が濃くなっているのがわかりましたが、まだ雨滴を落としそうもありませんでした。曇り空はどうしてこうも人の心をその湿度と色で籠らせて思い出と言う名の香りをたたせるのだろうと悩まし気に思いました。すると、店の扉が音もなく開き、黒いトレンチコートにすっぽりと身を包み、つばの大きな帽子を深く被った方がまるで霧のように入ってきて無言で窓際のテーブル席に腰をかけました。

「いらっしゃいませ」

 僕が水を運んでいくと、その方は黒い手袋をした手を軽く組んで、少し低めの声でカフェロワイヤルを苦めにと言いました。深く被っている帽子のせいで顔はほとんど見えませんが、華奢な首と顎だけ見ると女性のようにも見えます。けれど、マリさんのような例もありますのでハッキリとはわかりません。とりあえず僕は珈琲豆を配合して挽き始めました。

 カフェロワイヤルを作るのは久しぶりです。けれど、今日のような薄暗い日にはあの炎がさぞ美しく映るでしょう。そう思い、ワクワクしながら作りました。

「お待たせ致しました」

 お客様の前にカップを置くと、素早く火を点けました。予想以上の美しい蒼い火がふっと燃え上がりました。その方もつばの影になった置くからその様子を見ているようでした。相変らず顔は見えません。が、いくらロワイヤルの炎が美しくてもずっとそこに突っ立っているのも変でしたので、僕はカウンターに戻って洗い物を始めました。

 その方は火が燃え終わると、静かにスプーンを珈琲に沈め少しかき回して一口飲み窓の外を眺めていらっしゃいました。やはりその仕草等を盗み見ていると何処か女性のような品の良さが滲み出ているのです。なにか訳ありの方なのかもしれません。しばらくすると、その方はお勘定を払い出ていきました。その時にふと帽子の影の角度がずれ、頰の当りに白いガーゼが貼ってあるのが僅かに見えたのです。顔に傷を持っていらっしゃるからなのだと思い、さっきまでなんだか気味悪がって興味本位にちらちら見ていた自分が恥ずかしくなりました。もしあの方が女性だったらどんなに辛い事か。いえ。恐らく女性だからこそああして隠していたのだと思います。おいたわしい限りです。僕はなんとなく心を込めて、その方が座っていたテーブル席を丁寧に片付けました。消毒液やハーブのようなすっとする不思議な胸を透く香りが気のせいかと思われるくらい本当に微かに残っていました。それは刺々しさすらありませんでしたが、決して甘くはない何処か寂し気な香りでした。

 音楽が途切れました。窓には相変らずの景色が張り付いています。相変らずお客様はいらっしゃいません。僕はシャンソンをかけようと思い、CD置き場を探りました。

 幾つか候補がある中で、マレーネディートリッヒのCDを取り上げようと手をかけた時でした。振動でキラキラと小さな水銀色に光るなにかが溢れ落ちたのです。僕は慌ててその小さな小さな光る粒を踏まないように気をつけながら拾い上げました。それは小豆程の大きさをしたプラチナの丸玉ピアスでした。こんな所に隠れていたのだ・・・僕は思わずじっと見入ってしまいました。

 ちょうどこんな空模様の下、このピアスの反射が絹糸のような細い髪の間に見え隠れする彼女の泣き出しそうなのを唇を噛んでじっと堪えている横顔が鮮やかに蘇ったのです。あの時、あの団地の廃墟の荒れ放題になった草地でかっきりと空を睨んでいた彼女はどんな思いを噛み締めていたのだろうかと・・・



「自分よりも大切な人がいないあなたには私の気持ちなんてわかるわけない」

 そんな事はない。僕だって大切な人くらいちゃんといるんだ。そう彼女に言おうとしましたが、喉元まで出かかった言葉は結局口から発せられなかったのです。それは曇り空に際立つ彼女の左目の下から伸びる涙の痕のような傷痕が残る色白の横顔があまりに悲しそうで、そして綺麗だったから。

「あなたはどんな時でも自分が一番大切なんだから」

「君は知らないだけだ」

 思わず口を突いて出た僕のその些か乱暴な言葉に、彼女は少し驚いて顔を空から僕に向けました。けれど、不服そうに寄せられた眉間の皺はそのままです。

「へぇ、そう。なら自分よりも大切な人があなたにもいるの?」

「ねえ、どうしていつもそんなに喧嘩口調なんだ? 普通に話せないの?」

「私は普通に話してるつもり。あなたが勝手にそう感じてるだけでしょ」

「そうだろうか・・・」

「そうよ」

 僕は大きくため息をつきました。こんな状態になった彼女にはなにを言っても無駄なのです。いくら僕がなにを言っても彼女にはなにも入ってはいかないのです。毎度の事だけど。それにしても今日は天気が良くてだから2人で誘って散歩に出たのに、どうしてこんなところでこんな事になっているのか僕にはちっとも思い出せないのです。或いは濃過ぎる野性味を帯び始めた雑草の臭いに入り混じった廃墟特有の終焉臭に酔ってしまったのかもしれません。物事の終わりの臭い。嫌な臭いだ。

「どうでもいいけど、もう帰ろうよ」

「なにがどうでもいい?! ホラ。あなたはいつもそうやって話を誤摩化す」

「別に誤摩化しているわけじゃないよ。もうすぐ雨が降ってきそうだし、それに・・・」

「わかった。あなたの言いたい事は充分。あなたは大切な事なんかどうでもいいから適当になんとなく過ごすのが一番なんだ。それが一番楽なのよね」

「楽とかそういう事じゃないけど、こんな所でこんな口論をしている意味がわからない。君はなにが言いたいの? なにがしたい?」

「そうやって聞いてばかりいないで、少しは考えて。苛々する」

「考えてもわからないよ」

「どうしてわからないの? もう2年も付き合っているくせに」

「わからないよ。推測しか立てられない。だって僕は君じゃないんだ」

「もういいっ!」

「いや、良くないだろ。なに? 結局なにが言いたい?」

「なにも言わないで!もう嫌だっ!」

 彼女は耳を塞いで蹲ってしまいました。何枚にも重ねられたチュールみたいな白いスカートがふんわりと煙草の吸い殻や不可解な滲みがついている汚い地べたに被さっています。肩にかかる甘い香りのする髪の毛に初夏っぽくフレンチスリーブの袖をした水色のトップスにカーディガンを羽織り、バレリーナのような透けるように純白のスカートを身に纏った、こんな打ち捨てられた侘しい臭いの漂う廃墟にまるで場違いな彼女。これじゃあまるで僕が虐めているみたいじゃないか。彼女はどうして不意にこんな所に来てみたいと言い出したのか。わかりませんでした。

「ねえ、君、雨に濡れるの嫌なんだろ?」

「好きな人なんていない」

「僕は好きだよ」

「私達合わないのよ」

「・・・結局それを言いたいの? だからこんな所に連れてきたの?」

 彼女はなにも答えませんでした。ただ、足下に転がっていた小石を拾って力なく投げたのです。このままこんな所にいても埒があかないと思った僕は彼女を無理矢理立たせて手を引っ張って歩き始めました。

 しばらくすると彼女がぽつりと呟いたのです。

「・・・ごめん」

「いつもの事だ。でも、君が言うようにやっぱり僕じゃダメなのかもしれないな」

 握っている彼女の手が微かに震えて体温が下がっていくように感じました。徐々に重さを増している不吉ささえ感じられる汚れたモノクロの空はそれでもまだ持ち堪えていました。

「・・・私、雨が怖い」

「どうして?」

「・・・怖いの。濡れたくない。それだけ」

 いつもの事ながら彼女の断片的な言葉の紡ぎ方を理解するのは骨が折れる。僕に余裕があればいいが、時々その言い方にイラッとさえするのだ。なにを言いたいのか全くわからない。彼女は大手会社の秘書の仕事をしているとても賢い女性だったのです。でもだからこそ、余計に気になるのかもしれません。或いは僕にはそこまでの難解理解力や想像力なんかが欠けているのかもしれません。きっとそうだと思います。けれど、本を読んでいるのならともかく誰かと話しているのにそんな謎掛けみたいな会話をするなんて疲れるのは事実です。いいじゃないか。普通に言いたい事を言えばと思ってしまうのです。僕はデリカシーがないのでしょうか?

 風が吹いて来て僕の雑に切られた前髪を無造作にかき回しました。その風につられて後ろを振り向くと、手を引かれてとぼとぼ付いてくる叱られた子どものような彼女は俯いていてモノクロの空気に染まり、今にも泣き出しそうです。いや、左頰の傷跡で誤摩化されてはいましたがもう涙が頰を伝っていたのかもしれません。耳元で反射するピアスが鏡のように僕の目を刺すのがうっとおしくて、僕は又1つため息をつき曇天の空を仰ぎました。泣かないでくれよ。


 それから幾日後の夜、いきなり彼女が僕の家に訊ねてきて一通の手紙を差し出しながらこう言ったのです。

「しばらく離れましょう」

「いいけど。しばらくってどのくらい?」

「2年とか3年とか」

「遠距離並だな。それで、なにかを試すつもり?」

「わからない。でもそのぐらい離れていたらお互いになにか落ち着くかと思って」

 確かに彼女の言わんとしている事はなんとなくわかるが、しかし僕にとってはどうだろう? 僕は特になにも変わってなんかいないのだから。時間を置いた所で僕の中でなにかが落ち着くなんて思えない。そもそも僕は落ち着いている筈なんだから。

「君は落ち着くかもしれない。だけど、僕はその間なにもないという保証は出来かねるよ」

 彼女は僕を見つめ、少し黙っていたがやがて乾いた唇を僅かに開いて言った。

「その時はその時。仕方ない」

「・・・そう」

 僕はそれ以上はなにも言わずに彼女の差し出す薄っぺらな手紙を受け取りました。

「色々と忙しい時なのにごめん」

「君が決めた事なら、僕にはなにも言えない」

 ふと彼女は射るような不機嫌そうな視線で僕を見つめてきました。僕はなにか悪い事を言ったのだろうか? 考えている間に彼女はさっさと扉を閉めて出て行ってしまいました。

 僕は手紙の封を開けました。一枚の薄い便せんに書かれていたのはただ1行。

   『ごめんなさい。私、あなたといるのが疲れた』

 そしてプラチナのピアスが転がり落ちてきたのです。これは僕が誕生日プレゼントに無理してあげたものでした。水銀のような丸いピアスが滑らかに転がっていくのをぼんやり見つめて思いました。そうだった。僕も疲れたのです。彼女に振り回される事にも、彼女を理解しようと努めるのもそして、気持ちを否定されるのにも。それがわかっていたからこそ、僕は敢えて彼女を引き止めなかったのかもしれません。

 そしてそのまま彼女からの連絡がないまま8年の歳月が過ぎ去り、僕はその間に違う女性と結婚して離婚し、また違う色々な女性とお付き合いをして別れてきました。

 彼女の事もすっかり心の奥底に埋もれてしまって思い出す事もあまりなかったのです。けれど、こうしてピアスを前にするとなんと鮮やかに浮かぶ事でしょう。錆びる事のない艶やかなプラチナのように、まるで彼女が今にも現れそうな予感までしてしまうのです。

 気付かない程静かに雨が降り出した音でふと我に返った僕は、そのピアスを大切に半紙に包んでしまい、仕入れて来た豆を保存袋に選り分けて麻袋に移し、Cassandra Wilsonをかけました。こうして考えていても所詮は過ぎさった事、なにもかも昔の事なのだ。



「なぁ、マスターは一人になってからどのくらい経ったんだ?」

 雨の降りしきる湿気った午後、のんびりとカフェオレとミックスサンドイッチを食べていたシゲさんが競馬新聞から目を離さずに何気なく聞いてきました。

「さぁ。どのくらい経ったんでしょうかね。1年は経ってるとは思いますけど、どうしたんですか? いきなり」

「いやなに、うちのお節介なかかぁがな、憖結婚相談所なんかに勤め始めやがったからな、良い人がいなきゃ紹介してやるからってうるせーんだわ。そんな事言われたってもなぁ、マスターは女にゃ困っちゃいないだろうが?」

「いやいや。僕はモテませんよ。それに女性付き合いがあまり上手くないので・・・」

「っかぁー!モテないなんて言ってる奴ぁ、俺の経験上女が放っておかねーのよ。そんな事言ったってよ、誰か、いるんだろっ?」

「そうですねぇ・・・・・・いなくもないですが」

 無意識に僕は数日前に発見したプラチナのピアスの事を思い浮かべていました。シゲさんは新聞を脇にどけて目を輝かせ面白そうににやっと笑いました。

「ほらな。やっぱりな」

「はぁ・・・けれど、もう昔の事ですから」

「なに? 昔の女かよっ。案外マスターも純だったんか?」

「いや、ホラ。なんて言うか、なんとなく ですから・・・」

 そう言ってしどろもどろになってしまった僕をシゲさんは諭すように言いました。

「いいじゃないの。いいじゃないの。その相手に会いてーんだろ?」

 会いたい。そうなのかもしれない。けれど、こんなに歳月が経っているのに今更なんだかおこがましくはないだろうか? 僕が色々な人と色々な経験を重ねてきたように彼女もまた同じなのだし、何より彼女はもう僕の事なんか忘れているだろう。僕もつい最近まで忘れていたのだから。それをふと鮮明に思い出したくらいであの時の想いまでが炙り出されるなんて事があるのだろうか。

「そうかもしれません。でも、どうだかわかりません」

 誤摩化すように笑う僕に、シゲさんはうんうんと納得したように頷き、人それぞれ色々あるからなぁーと言い、残りのサンドイッチに手を伸ばしました。




 また雨か・・・僕は足早に家までの道のりを急いでいました。

 今朝は珍しく早めに目が覚めたので、いつもより早めに家を出て馴染みの店で朝食を食べようとしたのはいいのですが注文しようとした時に財布を忘れてしまった事に気付き、慌てて取りに帰ってきたのです。財布がなければ買い出しも出来ない僕にしては珍しい事です。

 ぼんやりと不注意になっているのかもしれない。気をつけないといけません。そう考えている傍から、いつもは通らない道に踏み込んでいる事に気付き、はっとしましたがこの道を通っても、家に辿り着く事は出来るので構わずそのまま進みました。なにしろ薄い墨汁を吸っていく綿のような層積雲が霞色の空一面に投げ散らかされて、小雨まで降ってきていたので、一刻も早く帰らないとズブ濡れになってしまいそうだったのです。

 坂になった急な階段を息を切らせて登っていく両側には古びた住宅が立ち並び、その中でもひと際時代を感じさせる家の前で思わず足を止めてしまいました。

 階段からは木や草が茂り放題になった中庭が僅かに覗けました。そこに黒い着物を着た女性が小雨に濡れて佇んでいました。藍染めのように斑さが残る濃い色をした空を見上げる後ろ姿しか見えませんが、薄い色をした髪の毛を鼈甲の簪で無造作に纏め、後ろの襟ぐりから垰やかに伸びる白いうなじに後れ毛が纏わり付いています。濃い緑の臭いが煙草の煙のように流れてきました。

 あの女性は・・・

 思い出そうとした僕の顔にいきなり雨混じりの強い風が吹き付けたのです。思わず目を瞑り、そして再び目を開けるともうそこに女性の姿はありませんでした。ただずぶ濡れになった僕が情けなく立っているだけでした。夢でも見たのか? 時計を見ると、かなり時間が経ってしまったらしく急がないと開店時間に間に合わない時間でした。僕は走り出しました。



 それから数日後の夕方でした。相変らず天気は曖昧な小雨で、梅雨が近付いているようでした。店内がやけに薄暗く感じたので、僕は予備のランタンとランプを出して、灯りを増やしているところでした。羽衣のような透けるように白いショールを巻いてサングラスをかけた和装の女性がヒールを小さく鳴らして入ってきました。小雨なのもあって、珍しく着物にブーツを合わせていらっしゃるのだと思い新鮮な感じがしました。

「いらっしゃいませ」

 女性はカウンターの隅の席に腰を掛けました。

「カフェロワイヤルを」

「かしこまりました。少しお待ち下さい」

 最近、店内が暗いからかカフェロワイヤルの注文が多いような気がします。僕は途中で放り出したランプを何処ら辺に設置しようかと考えながら、豆を挽き始めました。やはりもう少し壁際に増やすか、それとも天井から下げるか・・・

「お待たせしました」

 ショールを外している女性にロワイヤルをお出しして火を点けました。暗度が増していく店内でその炎はまるで小さなオパールが燃えているかのように美しく何度見ても思わず魅入ってしまいます。女性は徐に黒い煙管を取り出し、煙草を詰めてスプーンの上で厳かに燃え続けている火を点け、一筋の煙を吹き出しました。女性のかけているサングラスにはゆらゆらと震えながらも力強く燃える蒼い炎が2つ映っていました。

 もしかしたらいつかの女性かもしれないと思いましたが、いかにせ暗い店内でしたのでよく見えず、今の僕の頭は照明の事で一杯だったので設置しかけのランプに戻りました。

 四苦八苦してようやく店内が明るくなった頃、満足してカウンターに戻り音楽を変えて洗い物を始めました。Nuovo Cinema Paradisoのサウンドトラックです。こんな湿った柔らかい夕暮れに相応しい。女性が控え目に話してきました。

「この店はもう長いの?」

 一番端に座っている女性はサングラスをかけている横顔しか見えませんが、白い肌に整った綺麗な顔かたちをしているのがわかりました。

「そうですね。かれこれ、8年くらいは経ちました」

「そう。もうそんなに経つのね」

「お陰様で」

 照明問題が解決した僕は機嫌良く特になにも考えずに答えていました。

「私、最近引っ越してきたばかりなの」

「そうでしたか。いい街ですよ。ここは。残念ながら海はないですけど、美味しいので有名な魚屋さんなんかもありますし、いい店も多いです」

「そうね。よく知ってるわ。その魚屋の美人の看板娘さんが中学生の時から」

「おや。もともとお住まいだったんですか? 帰って来られたと言うところですか?」

「ええ。忘れ物を探しに」

「忘れ物 ですか」

 僕のその言葉に女性は徐にサングラスに手をやり、こちらを振り向きながら答えたのです。

「そう。プラチナのピアスよ」

 ゆっくりとした動作でサングラスを外し微笑む彼女は、僕の記憶で炙り出された頃よりも遥かに透き通る程綺麗になっていて、顔にかかる色の薄い細い前髪に見え隠れしている左頰には目の下から10センチ程の懐かしい傷痕がありました。

「大切な人から貰ったものなの」

 信じられない。目の前で煙管を吸いながら、蝶が葉に止まっている時のように長い睫毛をゆっくり瞬かせて話す彼女に僕は我が目を疑いました。すっとした不思議な香りが煙管の火皿から細くたなびいています。これは夢なのだろうか?

「・・・どうしてそれを忘れてしまったんですか?」

「忘れたわけじゃないわ。ただ取りにこれる自信がなかっただけ。だけど、 もうないかもしれない。時間が 経ち過ぎてしまったから」

 彼女はなんと美しくなったのだろうと思いました。以前とは違った静かな落ち着いた雰囲気を感じました。まるで気高く燃えるロワイヤルの蒼い炎のように。頰の古傷の痕でさえも、8年間もの間彼女が積み重ねて磨いてきた心の美しさを際立たせているかのようです。

 僕は引き出しから半紙に包んだピアスを取り出して静かに彼女の前に置きました。情けない事に彼女の目を直視する事が僕には出来ませんでした。なにか熱い液体が急激に溜って胸が高まり、上手く言葉が出てきません。なんて事だ。

「ありがとう」

 彼女はそのピアスをそっと取り上げると、自分の耳に嵌めました。僕は顔を上げました。あの頃、見栄を貼って初めて無理して買ったプラチナは彼女の耳で髪の毛に見え隠れしながら誇らし気に光っていました。長い時間をかけて、ようやく彼女は戻ってきたのだ。そう思った瞬間、僕の口を言葉が突いて出たのです。

「・・・おかえり」

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