その11
その中年太りの度を超してしまった体型をくたびれたスーツで包んだ疲れ切った表情をした男性は、髪が衰退し始めた凹凸の激しい広い額に脂汗を浮かべながら、まるでなにかに追われてでもいるかのように息苦しそうに扉を押して蹌踉けるように入って来られました。
「いらっしゃいませ」
「コーヒー。甘いやつ」
唐突でかつ作りづらい注文に僕は思わず聞き返してしまいました。
「甘いものでも様々ございます。ミルクが入っているものですとか、チョコレートが入っているものですとか・・・」
男性は僕のその質問に煩わしそうに手を振って、面倒臭そうに投げやり口調で答えた。
「ああ、なんでもいいよ。甘けりゃなんだっていい。缶コーヒーみたいに甘いやつ。ミルクはいらない。コーヒーフレッシュをたくさん入れてくれ」
「失礼ながら、当店ではコーヒーフレッシュは基本的には置いてません。ミルクでしたらございます」
「は? ないの? 普通何処でもあるよ。それでも喫茶店なのか? おかしな店だな」
さすがの僕も切れかけました。コーヒーフレッシュとは名ばかりのミルクの代用品。原材料は油と水で、乳化剤を使って混ぜた所にそれらしきとろみと香りを添加物でつけただけの代物でミルクでもなんでもないのです。確かに素早く混ざるのですが、僕は大嫌いでした。
「お客様、お言葉ですが、コーヒーフレッシュは香りが強過ぎて本来の珈琲の香りすらも消してしまいますし、あまり体に良くありませんので当店では置いてませんが、もしそれをご要望でしたら駅前のチェーン店にでも行かれてはいかがでしょう」
「なんだと?! あんた、せっかく来てやった客をバカにしてんのか?」
「いいえ。僕はただ、お客様はコーヒーフレッシュ入りのコーヒーをお飲みになりたいとおっしゃっておりましたので、そう提案しただけの事です。それが悪いですとか、それを求めるお客様をバカに等しておりません。けれど、うちにはそういった物は置いてないですし、これからも置く気はない。それだけの事です」
そうきっぱりと言った僕にその男性は少し面食らったのかもしれません。構いません。お客様は神様だからと言って何でもお客様の言う通りにしていれば、通すものも通せなくなって潰れてしまいます。どちらにも多少の妥協と多少の遠慮は必要です。例え、こんな名もない小さな喫茶店であろうと、大規模な量販店であろうと関係ありません。けれど、むしろ大規模になればなる程、来店されるお客様を甘やかして要望を聞いて、まるで使用人のように言いなりになっている所の方が多いのかもしれませんが。いくら売り上げを上げる為とはいえ、なんだか寂しいですし、そういう環境は礼儀を弁えないお客を逆に作り兼ねません。
「と、とりあえず、甘いコーヒーをくれないか」
「では、カフェオレ甘めで宜しいですか?」
「いいよ。なんでも」
なんだか納得していそうもなかったので、本当は駅前に行って欲しかったのですが仕方ありません。またなにか一揉めなければいいなと思いながら僕は珈琲を作り始めました。
窓硝子の向こうには季節外れな入道雲が聳え立ち、まだ蝉の鳴き声も彼方此方から聞こえ、まだ残暑も厳しかったのです。小太郎も、壁の隅っこで修行僧が滝に打たれているようにじっと微動だにせず暑さに耐えていました。男性が扇子を取り出して、汗だくになった顔をパタパタと仰ぎ始め、荷物と一緒に携えていた色のついたビニールの袋を取り出すと騒がしい音を立ててカウンターの上に出して中身を検分し始めました。ついさっきまで気持ち良さそうにその音を店内に響かせていたMiles Davisのクール感溢れるトランペットでさえ、お構いなしのビニール袋の人工的な無機質音に俄に控え気味に聞こえてしまいました。
「なんだこりゃ。電池入ってないじゃないか。くそっ。これだから何度も聞いたんだ。やっぱり女の店員はダメだな。そんな事一言も言わなかったぞ。なんて不親切なんだ」
恐らく何処かに電気屋さんにでも行って買い物でもされたのでしょう。付属品に対してぶつぶつと誰にともなく文句を呟いているのが聞こえてきましたが、僕は敢えて聞こえない振りをしました。これ以上振られてもいない厄介事に対処するのも面倒臭かったのです。男性は明らかにプライベートの僕なら決して相手にしたくない避けるような種類の人物でした。
「お待たせしました」
僕はカフェオレ甘めのカップを、まだ不平そうに呟きながらビニールの袋を乱暴に鞄に押し込んでいる男性の前に置きました。すると、それを待っていたように男性が僕に食いついてきたのです。
「ね、あんたは駅前の電気屋に行った事ある?」
この質問で僕の努めて何事もなかったように接客しようとしていた気力は半分以上萎えました。対して親しくもないのにタメ口をきかれるという些細な事でムカッと来てしまうなんて、まだ僕にも血気盛んだった若い思考がこびり付いていたのでしょうか。
「はい。何度か」
「あそこの電気屋は値段は安いけど、店員が不親切で愛想ないからもう行かない方がいいよ。特に女の店員はダメだ。ま、それは電気屋に限らず何処も女は無知なのが多いけどな」
「はぁ。そうですか。僕は特にそんな事感じませんでしたが・・・」
「ダメダメ。俺なんて、携帯ラジオが壊れて2回くらい修理に出したのに、半年くらいしたら又イヤホンが聞こえなくなったんだ。どんな修理の仕方してんのか知らないけど、ダメだありゃあ」
それはあなたの使い方が悪かったんじゃないんでしょうか? と思いっきり聞いてみたくなったが、また色々とばっちりを食らうのも気分が悪くなると思い黙って聞いていました。
「イヤホンが聞こえなくなったからどうにかしてくれって持ってったら、その時対応した女の店員が修理に出す事も出来るが脇のジャックにさせば普通のイヤホンでも聞こえるって言って新しいイヤホンを案内された。俺が修理してくれるもんかと思ったと言ったら、保証期限が切れてるから見積もりを出すとか言って、どのくらいかと聞いたらとんでもない金額出してきた。バカバカしいから、その時は安いイヤホンを買ってったがもう二度と買いに来ないと思ったね。けど、今日、気が向いたから久しぶりに寄って買い物をしたら、男の店員が塞がっててまた女の店員に当ったんだけど、またこうやって今度は買ったものに電池が入ってなかった。まったくバカにするのもいい加減にしろっ!」
男性は一気に捲し立てると拳でカウンターを打って、がぶりとカフェオレを一口飲み、更に傍にあったブラウンシュガーを3個程カップに放り投げて乱暴にスプーンで掻き混ぜました。しかし、鼻息荒く語っていたその話の一体何処ら辺が男性をバカにしている内容だったのか僕にはよく理解出来ませんでした。
確かにその店員は大人しく最初に修理の受付だけをしていたら良かったのかもしれない。けれど、修理に出した時にかかる費用と期間を知っていたので、親切心から敢えてそう案内したのではないだろうか? 壊れてしまったのはその店員のせいではないし、ましてやメーカーのせいでも電気屋のせいでもないと僕は思います。同じ商品でもいくらでも長く愛用している人もいるでしょうし、大量生産が常識ですから一つくらいは欠陥品があってもおかしくありません。店員の案内が少なかった。そんな事聞いてなかったと怒っている人をよく見かけますが、もしそんなに色々と気になるんだったらどうして自分から調べたり聞いたりしなかったのだろうと思います。だって、自分がお金を出して自分が納得して買うものなのですから。納得もしていないのに、誰かの責任にして買うのなんてなんだかおかしな話しです。返品が効くと思っていたとしても、ならどうして買うのかと思います。が、多分この男性のように多くのクレームをつける人は相手になにかしらの不明虜な期待を抱いて、不完全は要望を託して、不安定な信頼を持っているのかもしれません。その自分勝手な甘えと言えなくもないなにかが裏切られたように感じるから怒るのかもしれません。これでは相手もいい迷惑です。そして、きっとその考えは普段の人間関係にも知らずに滲み出ている事も多いのです。売り買いの立場でなくても、誰かに自分から進んでなにかを頼ったり教えてもらったりする場合には多かれ少なかれ礼儀や謙虚さがなければいけないと僕は思います。特に自分が知らない事を教えてもらうのでしたら、自分がなにを知りたいのかも同時に考えなければなんだかわからなくなってしまいます。相手に頼り過ぎる余り、相手に責任まで転換するのは頂けません。そんな事をしたところでなにも良くなんていかないのですから・・・
男性は更にシュガーを3個追加した飴のようになったカフェオレを飲みながらひとしきり話しまくると、それでもまだ腹が立っているような感じで会計をしてお帰りになりました。なんだか。僕がなにかして怒られたような後味の悪い気分になったので、気分を変える為にAnn Sallyをかけました。
「そういう人って、小心者なんじゃない? 攻撃される前に攻撃しなくちゃって」
駅のプラットホームで電車を待っている時に僕が男性の話をすると、黙って聞いていた彼女は僕が話終わって少しすると考えるように控え目に言った。僕らの立っている目の前には痛くなるくらい銀色に反射しているレールが横たわり、真夏宛らの強い太陽に焼かれてゆらゆらと熱湯に溶けていく砂糖のような透明な熱気が立ち上っている。お陰で向かい側の影に沈み込んだ暗いプラットホームが蜃気楼のように非現実的に浮かび上がり、圧倒的な明暗の差から生まれる残像も相俟って宛ら僕の大好きな白黒映画でも見ているような気分だ。
「そうかなぁ・・・なんだかすごく自己中心的な考え方をしているように見えたよ」
「だからよ。自分の範囲内で自分の常識内でしか物事や人を見られないから、例え親切心からしてもらった事でも悪い風にしか受け取れない。ある意味自分以外の刺激が怖いんじゃないかしら。自分に非があった時に攻撃されるから」
彼女は無意識に煙管を口に持っていくような素振りをした自分に気付いて、恥ずかしそうに前髪に見え隠れする目の下10センチ程の微かに伸びる傷がある頰を可愛らしく染めながら、それでもそれだけの事を言った。今や駅の構内は禁煙が当たり前なのだ。喫煙者である彼女にはさぞかし辛いだろうが、僕は彼女の喫煙があまり好きではなかったので、健康の為にも禁煙した方がいいと言い続けていたが頑固な彼女には無駄だった。
「でも、そんなのみんな一緒だろう? 誰でも自分に非があったら、大体は素直に認めるか訂正を受け入れるかじゃないか。そうしないと付き合いも成立っていかないから」
「その人にとって、特定の付き合い以外はどうでもいい事だったら?」
「それは・・・どうしようもないけど」
暑さのせいか思考回路が鈍くなっているらしく、僕は彼女に返す言葉に詰まってぼんやりと目の前の白黒映画を見つめた。時々、視界に滲む黒い滲みがまた古いフィルムを思わせるのだ。彼女は鞄からハンカチを出して流れる汗を拭っている。
「随分遅いな。何処かで事故でもあったのかな?」
僕が横で少し蒼白な顔色で暑さに耐えている彼女を振り向いてそう言いかけた時、ふと彼女の後ろに伸びる、白光りしているプラットホームの端に向かって何処かで見覚えのある男性が溶け始めたソフトクリームのようによたよた歩いているのを見つけた。平日の昼前という時間帯なのもあって、ホームで電車を待つ人影はまばらだったので余計に目立ったのだ。
「どうしたの?」
多分あまりいい顔はしていなかったのだろう僕を不審に思った彼女が後ろを振り向きながら聞いてきた。あの人・・・と僕が言いかけたその時、その男性がなんの前触れもなくふらっとプラットホームの端から姿を消した。それと同時に間もなく電車が到着するというアナウンスが流れた。行動を起こしたのは、僕よりも彼女の方が早かった。彼女はすぐに柱についた赤い非常停止ボタンを思いっきり押した。すると、間延びした機械音がして、ホイッスルを短く連吹するような鋭い音がプラットホームに鳴り響いた。
僕はその場所に駆けつけると、すぐさまホームの下に飛び降りて、潰れた蛙のようになってレールと枕木の上に突っ伏して倒れている重たい男性を有りっ丈の力で転がしてすぐ横にある外れた黒光りする石が敷き詰められた芝草の上に転がした。ホームが切れる一番端だったのがせめてもの救いだった。もし、ホームの真ん中でこれをやられたらどうしようも出来なかっただろう。電車が駅に1メートル程滑り込んで金切り音を鳴らして緊急停止をした。
僕はほっとシャワーを浴びたような汗を拭った。男性は脂汗を垂らしたまま真っ青な顔をしてぐったり横たわったままだった。かなり酔っぱらっているのが、胸が上下する度に吐く息の臭いでわかった。おいおい。今はまだ平日の昼前なのに。
「お客様っ!大丈夫ですかっ?」彼女に伴われた駅員が慌てて駆けつけてきた。
「すみません。端っこだったんでなんとかなりました・・・」と僕が報告すると、駅員より先に取り乱した彼女がもの凄い剣幕で怒鳴ってきた。
「私がボタン押したのに、なんで降りたのっ?! なに英雄気取りしてんのっ?! 助けられなくて一緒に死んじゃったかもしれないのにっ!なにやってんのっ!? バカなんじゃないのっ!もうそのまま恰好つけて死んじゃえば良かったんじゃないっ?!」
散々怒り狂う彼女に、恐らく本来注意しなければいけない筈の駅員も驚いてしまい、まぁまぁそこまで言わなくてもと宥める始末だった。僕は複雑な気持ちでホームによじ登ったが、当の彼女の機嫌は治る事はなくそっぽを向かれてしまった。やれやれ。駅員と駆けつけた救急隊員に起こされて運ばれていく男性を横目で見遣りながら、僕は言った。
「勝手な事して悪かったよ。でも、あの人はさっき話していたお客さんなんだ。全くの赤の他人じゃないんだよ。だから見て見ぬ振りも出来ないだろう?」
「だからって、あなたが危険を犯してまで助けるべきじゃない。見て、あの電車。私が押したボタンで充分助かった筈よ。しかもちゃんと降りるなって書いてあるのに!」
確かに電車はホームの遥か向こうで停まっていて、充分間に合っていた。彼女が怒る気持ちも充分わかる。だけど、僕は平日のこんな中途半端な時間にどうしてあの男性がこんな所を酔っぱらって歩いていたのか、そっちの方が気になったんだ。
「そりゃあ、そうかもしれないけど・・・」険しい顔をして唇を噛み締めている彼女に対して上手い言葉が見つからずに僕はもごもごと口籠った。
数日後、件の男性が再び僕の店を訪れました。どうやら、警察から僕の事を聞いて訊ねてきたらしいのです。どうもご迷惑をおかけしました、と男性は以前よりも何処か窶れたような表情で深々と薄くなった頭を下げました。店内には他に昼休み中の渡部さんがいて、文庫本片手にカフェモカを啜っていました。ちょうど先日の事を話していた最中だったのです。
男性は以前とは打って変わっておずおずと席に座ると、一番安いコーヒーをと注文してきました。口元を覆うようにして持っている文庫本越しに微かに渡部さんが笑ったのがわかりましたが、それより僕はどうしてこのお客様があんな時間にあんな所を酔って歩いていたのかが気になったので失礼は承知で聞いてみました。一応こちらにも彼女には激怒されましたが、命を助けたという恩がありましたのでそれを使ってみたという訳です。
「はぁ。なんともお恥ずかしい限りで。私は某会社に勤めておりました。所謂サラリーマンです。家には家内と子どもが1人います。ちょうど先日、あの事故の2日くらい前、会社から地方に転勤命令が来まして、それを家族に話したんです。冷たいもんでしたよ。中学生の子どもはいかないと言い、家内は子どもとこっちに残るから生活費だけ送れと言います。それが嫌ならいっそ離婚してもいいとね。おかしいでしょう? 何を言っても頑として行かないの一点張りの家内を不審に思って、寝ている間に家内の携帯電話を見たんです。そしたら、家内には私よりも年上の恋人がいたのがわかったんです。驚きましたよ。それも子どもも一緒になって私の留守中に何度か食事をしたりしていたんです。休みも返上して上司に付き合い、仕事に明け暮れていた私がそれでも必死になって何より誰よりも大切にしていた唯一のものがこれだったのかと絶望しまして。あの時は死んでもいいと思って・・・」
成る程。確かにそれじゃあ、ああもなるのかもしれないと思いました。けれど、
「失礼だが、聞こえ次いでにちょっと言いたいのだが、そこまで思い詰める理由は家族の事だけじゃないような気がするのは気のせいかな? だって、お宅は少なくとも会社をリストラされたわけでもないし、離婚を突きつけられているわけでもない。家族に嫌がられているわけでもないじゃないか。俺が思うに、お宅は自分が信じていた大切なものを守るという大義名分の為に過去に誰か何かを犠牲にしたんじゃないのかな?」
珍しく渡部さんが横から割って入ってきましたが、聞く内容がストレート過ぎて僕は些か焦りました。男性はちらっと渡部さんを一瞥すると、僕の方を向き直りました。
「すみません。こちらは小児科医をなさっている渡部さんです。別に悪気はないんです」
僕は慌ててフォローをしようとして思わず渡部さんの自己紹介をしてしまいました。
「そうですか。お医者様でしたか。さすがに病気も物事も見抜く力が備わってますね」
「どう致しまして。それで食ってますから」
この男性の関係ない相手に対しての態度を知っている僕は、渡部さんにそれをしたら喧嘩になりかねないと思い慌てていました。しかし、それには全くお構いなく渡部さんはカフェモカを啜りながら悠長に話し続けています。もしかしたら、渡部さんは命を扱う責任ある淡々とした冷静な医師としての顔を出していたのかもしれません。男性は剥げかけた頭に脂汗を浮かべてしばらく考え込んだように固まっていましたが、不意に口を開きました。
「・・・おっしゃる通り、私には社内に10年来の恋人がいました。とても好いてくれまして、離婚出来なくても一緒にいられればいいと言ってくれて、私も彼女を愛してました。けれど、それに感づいた妻が騒ぎ出しまして、会社にまで乗り込んできたんです。さすがに社長に呼び出され、周囲の迷惑を考えろ。周辺整理くらいちゃんとしろ、さもないと首にすると言われたんです。さすがの私も首になっては堪りませんから、彼女に事情を話して別れたんですが、彼女はその数日後に電車に飛び込んで 自殺したんです」
「だから、同じようにして死のうと?」
「私が・・・殺したようなもんですから。守る価値がないようなものの為に 彼女を」
そう言うと男性は深いため息をつきました。初めてお会いした時とはまるで別人のようでした。それが果たして、家族の事がきっかけだったのか、それともあの事件がきっかけになったのかはわかりませんが、とにかく人に歴史ありとは本当によく言ったものです。
「人間は知恵と欲がつき過ぎたせいか、それとも色んな物事に縛られなきゃ生きていけないからかはわからんが・・・悲しい事には、守っていたものが本当はなんだったのかが最後にならなけりゃわからない場合の方が多いんだ」
毎日たくさんの小さな命と触れ合っている渡部さんの言葉は重みがありました。わかった時はもう手遅れになっている場合の方が格段に多いのだと。それだけ、人は毎日の中で見過ごしたり自分本位になって生きているのだと。僕にはそう聞こえました。そして、恐らく男性にもその意味は伝わったのだと思います。少なくとも、男性は以前よりも明らかに人に対しての姿勢が変わっているのですから。恐らくはこれからも自分に対しても人に対してもいい風に変わっていける筈です。渡部さんが腕時計に目を遣り、ご馳走様と言って席を立つと、お勘定を置いて出て行きました。男性は俯いたまま固まっていて、その表情は伺えませんでしたが、肉付きのいい肩が微かに震えているようでした。音楽が止みました。
僕はThe Carpentersをかけました。Karen Carpenterの低い声が、丹念に磨き込んだばかりの艶やかな板張りの床に投げかけられた光を優しくそっと吹くようにごく静かに流れ出しました。本当に人生色々あるもんです。僕は独り言くらいの声量で男性に言いました。
「命あっての物種です。もし、後悔しておられるのなら、今からでも 出来る事はたくさんありますよ」
途端に男性はカウンターに突っ伏して嗚咽を漏らしました。弾みで倒れたカップからは真珠色に輝くカフェオレと溶けかかった小さな2粒のブラウンシュガーが溢れました。それがなんだか男性の心を表しているような妙な気がしてしまい、僕は思わず布巾を持つ手を止めてふと見入っていたのでした。
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