その12
こんにちは。僕の喫茶店はビル街の端っこにあるのもあって、夕方から閉店の21時にかけてはよく仕事帰りの方々が立ち寄って下さいます。
珈琲を飲みながら、今日1日の仕事の反省や報告、愚痴なんかを帰る前にちょっと発散させてから帰宅されるようです。確かに疲れていても幾らかのそんな時間を僅かでも持った方が、帰ってから色々と1人で思い悩まなくて済みますし、誰かに聞いてもらう事でかなり気が楽になりますから。一人で抱え込んでしまうとロクな事はありません。思い悩んでばかりいて仕舞には辞めたくなったりして。僕にも散々経験があります。そんな時は誰がなにを言っても、いくら慰めてくれても全く滲みてこないのです。返って苛々して、一人で職場の空気を乱したりして余計に落ち込んだりして。けれど、それに付き合ってくれる助けて見守ってくれる同僚や先輩がいるという事は、本当に心強い支えだと思います。
仕事という戦場で共に戦う仲間、ある意味では戦友です。
職場は仕事内容もそうなのですが、一緒に働く人達にも恐ろしく左右されるものです。次が上司です。上司と呼ばれている方には5分の1くらいの確立でしか尊敬されるような人がいません。責任感やプレッシャーの桁や、優先順位、こなさなければいけない仕事内容が違ってくるのもありますが、仕方ない事なのかもしれませんが気持ちや考えに余裕のない方が多いように思われます。だから、どんなに最悪な上司でも、無理難題ばかりを押し付けてくるような上司でも、その下で一緒に働く仲間が大きな要になってくる場合が多いのです。
「すいませんっ!ブレンド3つと、ミルクティー1つ、ホットでお願いしますっ!」
カウンターに並んで座ったお客様でカラリとした体育会計風の物言いをする黒いスーツを着た男性が、大きいのに決してうるさく感じないスッキリとした声で注文してきました。
話すような仕事なのだろうか、稀に見る爽やかな声の持ち主だなと、僕までがなんだか5月の気持ちのいい風でも通り抜けたようなスッキリした気持ちになりました。
「かしこまりました。お待ち下さいませ」
「あの・・・すみません。僕は甘めで」隣にこじんまりと座っているグレーのスーツを着た小柄な男性が、まだコートを着たままのんびりとした動作で眼鏡を押し上げながら、おずおずと言ってきました。いかにも育ちのいいお坊ちゃんと言ったような感じです。
「甘めって、後から砂糖貰って入れればいいんですよ」と、一番壁際に腰掛けていた少し浅黒い肌をして、ひょろっとした背丈の眼鏡をかけた一見すると大学生のような幼さが残る男性がさっさとワイシャツ姿だけになって煙草を加えながら、僕の代わりに苦笑いして答えました。4人とも20代後半位なのですが、その男性は飛び抜けて若い感じがしました。
「じゃ、そういう事でっ!」と先ほどの黒いスーツの男性がさらっと締めくくる。なんだか息が合ったトリオだなと思いました。その3人の中心に、黒に近いダークグレーのパンツスーツを着た日本人形のように髪の長い女性が1人憂鬱そうな面持ちでじっと座っていました。少し痩せ気味のような白く儚気な頰に髪が軽くかかっています。大きな目はなんとなく生気がなく、窶れていると言った方が正しいのかもしれません。小柄な眼鏡の男性と黒いスーツの男性に挟まれて、それでも付き合ってなんとか笑っています。
「で、今月はどうよ?」どうやら黒いスーツの男性がこの3人をまとめるリーダーのような役割らしく、隣に座っている女性に気遣い、背の高い壁際の男性の方を向いて一服吸いながら聞いてきました。すると、背の高い男性がにこやかに女性の隣に視線をよこし、その視線を受け止めた小柄な眼鏡の男性が肩をすぼめて小さくなって申し訳ないと呟きました。
「ちょっとぉーまたですかぁ?!」と大袈裟にけれど嫌味には感じない声質で黒いスーツの男性が笑いながら言いました。「マジで勘弁して下さいよっ」
「はい。おっしゃりたい事は重々承知してございます・・・」お坊ちゃん風の男性は増々小さくなっていく。女性は微かに笑いながらなんとも言えない表情で隣の縮こまっていく男性を見つめ、壁際の男性が煙を吹き出しながら人懐っこい困ったような笑顔を浮かべて言った。「先月の偽造工作は多分バレなかったと思いますけどね」
「今月も同じようなら、もう処刑でっ」と黒いスーツの男性は口角を上げて意味ありげに軽く笑って、深く煙を吐き出した。成る程、この4人は仕事仲間で結果を出せないあの眼鏡の男性を皆で助けてあげているわけだ。と、僕はなんとなく微笑ましく思い珈琲とカフェオレをお出ししました。もちろんブラウンシュガーをたっぷり入れた小皿と一緒に。4人全員、珈琲を受け取る時にきちんとお礼を言っていらっしゃったのがとても印象的でした。
アラジンのストーブを出したばかりの店内は温かく、窓硝子にはいつのまにか細かな水滴に半分だけ彩られた群青色の月夜空が張り付いていました。月はいつになくはっきりとして白く浮かび、空気が澄んでいる証拠です。時々、葉を落とした隣の柿の枝が震えています。今夜も寒くなりそうです。そのせいか、今夜はこの4人のお客様以外のお客様は早々に切り上げてお帰りになっていたので、僕は少しずつ片付けを始めていました。
すると、ふとカウンターの4人の雰囲気がさっきとは違ってきているのに気付きました。壁際の男性は笑顔をかき消してため息をつくようにひたすら煙草を吸っているし、黒いスーツの男性はつい先程までのからかうような意地悪いそれでも愛情があるような感じは何処へやら無感情な顔をして、相槌もせずに隣で訴えるように話す女性の話をただ聞いていました。いや、聞いているように見えて、実際聞きたくないからほぼ聞いていないようにも見えはしましたが、それでも時々なにかを言っていました。小柄な男性は頷いてはいるものの、困ったような表情を浮かべて苦笑いでした。手元の珈琲も飲み尽くしてしまって煙草も吸わないので、軽く手持ちぶたさのような感じでした。
女性はまるで呪いの言葉でも吐いているかの如く、仕事や上司の愚痴を言っているらしいのです。さっきまでの儚気な美少女のような顔でうんざりとした表情をして、口だけが何か別の生き物であるかのようにそんなに速くはないのですが、止まる事なく動いています。
壁際の男性が煙草を揉み消したかと思うと、席を立ってトイレに行きました。小柄な男性もついていきたいような感じでそれを見送っていましたが、いきなり女性に話を振られて戸惑って空返事をしています。偉いのは黒いスーツの男性で、返事はほとんど返しませんが、逃げる事なくひたすら聞いているらしいのです。
「もうあたし、精神的に辛くて辞めたいんですよ。家に帰ってご飯すら食べられない・・」
「けど、そりゃ俺らに言われてもどうしようもないだろ。」と、黒いスーツの男性は女性が何を言っても冷静に受け答えをしているのです。それでも女性は悲観に暮れているらしく話は終わろうとはしませんでした。そこにトイレに行っていた背の高い男性が戻ってきて、まだなにか言い続けている女性を無視して、黒いスーツの男性に声をかけました。
「そろそろ帰りましょうよ」言われた男性は軽く頷いて、カップを拭いていた僕に向かって「すいませんっ!会計をお願いしますっ!」と例の爽やかな大声で言いました。それを口切りに4人それぞれ帰り仕度を始めたのです。空気が一気に和らいで、心なしか男性陣の表情が心底ほっとしているようにも見えてなんだかおかしくなりました。
そうそう。僕も若い頃はよくああして、若い同僚の女の子の愚痴や、妻の不平不満を聞いたりしていたっけ。その時は、正直自分の事で手一杯で、どうでも良かったな。聞いているのだけで精一杯だった。それ以上なんてなにも出来なかったし、きっと彼女達にしてみても、ただ聞いて欲しいだけで、それに対しての相手のコメントなんて求めてもいなかったのだろうから、きっとあれで良かったんだろうと今になっても思ってしまうのです。
4人はお会計を済ませると、小柄な男性を先頭にして颯爽と店を出て行きました。それにしても、あの黒いスーツの男性はまだ歳若いのに、本当に人間が出来た方だなぁと同性ながらにしみじみと感心しました。同世代に慕われるきっといい漢になるでしょう。
「その人 会ってみたい」
冬の昼下がり。遅めの朝食を取っていたシゲさんと、休みに立ち寄ってくれた彼女に、4人の話をしたところ、それまでカフェロワイヤルを両手で包み込んでじっと聞いていた彼女が開口一番そう言ったのです。すると、シゲさんが食べていたカレーを吹き出すんじゃないかと思う程、吹き出して大笑いをしました。
「なんだ、早くもライバル出現かぁ? こりゃあ、うかうかしてられんねぇマスター」と、ふざけたように僕の顔をにやにや笑いながら見てきました。内心、僕もそんな事を言った彼女にショックでした。確かに同性でも惹き付けられてしまう雰囲気を持った方でしたが、話だけでそんな事を思うなんて。しかも僕に勝ち目はありそうもないのです。
「その人 また来るかしら?」紅色をした椿柄の入った黒縞の着物を着こなした彼女はとても真剣な眼差しをして、ショックを受けている僕の心情には全く構わず聞いてきました。
「さ さぁ・・・ ど うだろうか・・・」沌惑しながら答える僕を見て、シゲさんがさもおかしいといったように含み笑いをしています。憖色々と知っている相手だと、こんな時にはかえって気恥ずかしいものです。だのに、彼女はまったく真剣そのものなのです。
「別嬪さんはそんなにその男の事が、気になるんか? 話を聞いただけなのに? だけども、誰かの話は余計なもんがくっついてる事が多いから、事実と違う事だってあるんだよ」
なにも聞けない情けない僕に代わって、シゲさんが彼女に訊ねました。
「もちろん。そんなのわかってる。それでも会ってみたいと思うの。いけない?」
彼女がその黒いガラス玉のように透明な表情の読めない瞳を僕とシゲさんに向けて不思議そうに聞き返してきました。
「いーや。どうぞご自由に。なぁマスター?」シゲさんはにやにやしながら僕を見て、意味ありげに軽く肩を竦めました。
「そう だ ね。君の好きにすれば いい」なんとかそう答えましたが、実際また彼らが訪れるとも思えなかったのもありました。彼らはあの夜に間違ったように偶然来店されたのです。本当は駅前のファミリーレストランに行くつもりだったけれど、混雑していた上に待ち時間が長かったから、なんとなくこっちに来たと話していたのですから。
数日後の木枯らしが吹く、寒い夕暮れでした。今日の夜はおでんにでもしようかと考えながら、CDを選んでいますと扉が開いていつかの男性3人がいつかのように颯爽と入って来られました。今日は女性は一緒ではないようです。肩を縮込ませてポケットから出した手を擦りながら、爽やかな声をした彼が僕に今晩はと会釈をしました。それから、3人でカウンターに並んで座りブレンドを2つとモカジャバを1つ頼まれました。
「なんか通っぽいの頼んでるんですけど、モカジャバって なによ?」と、不振そうな表情をした彼が、モカジャバを頼んだ小柄な男性に聞いていました。ところが小柄な男性もメニューを見て適当に頼んだらしくわからないようで、さぁ・・・と答えています。
「カフェオレにチョコレートシロップとホイップクリームを混ぜたものです。かなり甘めな珈琲ですが、先日かなりブラウンシュガーを入れていらっしゃったのでいける口かと」
僕が説明すると、彼らはへぇー・・・とまるで子どものように納得していました。まだまだ若いあどけなさの残る対応に懐かしさすら覚えました。僕にもこんな頃があったなぁ。
男はいつまでも少年だと言うけれど、現にこうして自分よりも歳若い初々しい人達を目の前にすると、自分は気付かないうちに随分歳を取ったのだなとつくづくと実感するのです。男が歳をとったと感じるのは気持ちや精神面なのだと僕は思うのです。
女性と違って幾通りもの様々な生きる道をあまり選べない男は、どうしても社会で踏ん張って、なにかを守ったり築いたり戦ったりして生きていかなければいけません。なので、その為に必要な一般の知識や仕事での顔を持ってはいますが、外見がいくら変わっても自意識や気持ちが変わらなければ、いつまでも不器用な少年のままなのです。男とはそういうものです。けれど、一体、いつ少年から青年になって、いつ大人の男になってしまうのでしょうか?
仕事の話をあれこれと和んだ表情で話し合う彼らは、彼らに待っている未来が無数の可能性を秘めて輝いているように意欲や闘志が滲んでいるように逞しく見えました。それにつけても、あの女性は堪え切れなくなって辞めてしまったのでしょうか?
「お待たせしました」僕はそっとブレンド2つとモカジャバをお出ししました。
「ありがとうございますっ!」3人が揃ってお礼を言ったので、なんだか僕の方が照れてしまいました。どういたしましてと口籠りながら、僕はNuovo Cinema Paradisoをかけました。店内に優しい音楽がじんわりと滲みるようにゆったりと溢れ出しました。
「うっわ。なんか泣きそうな音楽流れてきたー」
「いいですよね、この映画。うちの親父が好きで」
「俺知らない。なんて映画?」
少年が男になる時・・・か。若い彼らの会話を聞きながら、僕はお皿を洗いつつそんな事を考えていました。なにを取ってそう感じるのか基準は曖昧ではあるけれど、中には青年期なんか軽く飛ばして漢になってしまうような少年も、きっといるのだろうな。僕は3人の様子を視界の隅で見守りつつ片付けものをしていました。ふと、窓際のテーブル席で分厚い原稿用紙に突っ伏すようにして一心に万年筆を動かしている初老のお客様が一瞬3人の若者を見て、にやりと笑ったような気がしました。すると、俄に扉が開いて黒いコートに身を包んだ和服姿の彼女が風のように入ってきたのです。なんてタイミングだと僕は内心慌てて思わず持っていたお皿を落としそうになりました。
彼女はいつものように上品な仕草でコートを脱ぐと、カウンターの端に腰掛け、カフェロワイヤルを注文しました。そして煙管を取り出してゆっくりと吸いながら、カウンターの反対側に陣取っている彼らを物珍しく観察でもするかのように見つめていました。一体彼女はいつ彼らが僕の話していた人達だとわかったのでしょうか?
彼らはすっかり話に夢中になっていて、彼女の視線には全く気付いてはいませんでしたが、1人、例のリーダー格の彼だけが彼女の視線に気付いて、他の2人の声の音量を落とさせたのです。そして、彼女に向かって真面目な顔で申し訳なさそうに詫びたのです。
「騒がしくしてしまって 誠に申し訳ない」そう言って、彼は頭を垂れました。
「大丈夫。構わないわ」と、彼女は微笑みました。
「それ、なに飲んでるんですか? さっき火出てたけど」人懐っこそうな眼鏡の男性が彼女のカフェロワイヤルを指して乗り出しながら聞いてきました。
「なんだっけ?」と、本当は知ってるくせに彼女が小首を傾げて僕に聞いてきました。
「カフェロワイヤルですよ。燃えていたのはブランデーを染み込ませたキューブシュガーです」些か複雑な心境の僕は憮然と答えました。
「へぇー あんな色で燃えるのか。本格的っすね」と彼が感心したように言いました。
「どう致しまして」彼女は細く煙を吹き出しながらそんな事を返しました。なんだか変なやり取りです。又しても窓際のお客様がこちらを見てにやりと笑ったような気がしましたが、僕がそちらを見ると、その方はこちらの様子等関係ないとばかりに原稿用紙相手に念話でもしているように脇目も振らずに執筆を続けているばかり。まるでにやりと笑っては、出現したり消えたりする不思議の国のアリスのチェシャ猫にからかわれてでもいるような、おかしな気分です。アラジンストーブの矢車菊のような炎を眺めながら、僕はぼんやりと昔の事を思い出していました。青い炎とは不思議なものです。普通の赤い炎では浮かんでこないような、昔の、すっかり忘れていたような感情や気持ちがぼんやりと思い出されてくるのです。
「ねぇ、大丈夫?」
彼女に声をかけられて、僕は我に返りました。気付くと3人の歳若いお客様は慌ただしく帰り仕度を始めていました。彼女は僕を心配そうに見つめながら続けました。
「急な用事が入ったみたいだから、お勘定をしてあげて」
「 わかったよ」まだぼんやりしていた僕は曖昧に返事をしました。
光っている携帯電話を胸ポケットに入れて、黒いコートを着た彼が代表して3人分のお勘定を済ませました。
「申し訳ない。また近々寄らせて頂きますんで。ご馳走様でしたっ!」と彼は律儀に気持ち良く言って、笑顔でご馳走様ですと挨拶をする他の2人より先に外に出ていきました。
残った彼女はしばらく煙管を吸っているだけで何も言おうとはしませんでした。音楽が止み、僕はholly coleをかけました。店内はやけにしんとして、まるでノイズキャンセルヘッドホンをつけた巨大な真空の中にでもいるような澄んだ空気が漂っていました。
「会えて、満足した?」僕は少し遠慮気味に彼女に訊ねてみました。
「満足したとか、しないとかの問題じゃないわ」と、彼女は僕を見もせずに些か乱暴に答えた。怒っているのだろうか? どうして彼女は怒っているんだ? 訳がわからない。
僕は深いため息をつきながら、窓際のお客様の様子を伺ったが、その方は変わらない姿勢で万年筆を動かし続けていました。よく使い込まれた飴色の万年筆は、まるでその方の腕や意思とは関係なく、好き勝手に原稿用紙の上をあっちこっちへ踊り狂っていました。そのままその方は閉店まで粘っていましたが、とうとう重い腰を上げました。
「どれ、雪が降って来る前に退散するか」分厚いコートを着ながら、その方は呟きました。
「どうぞ、お気をつけて」そう言ってお釣りを渡した僕に、その方は白髪混じりのごま塩色の鼻毛を抜きながら、意味深ににやりと笑って言いました。
「若さは雪みたいなもんだ。本質の愛情はなかなか見えん」
店を閉めてから彼女との帰り道。おでんの具材の入ったビニール袋を揺らしながら、人気のなくなった暗い並木道を夜の散歩のようにのんびりと歩いていた。
「・・・僕はあの頃、君をたくさん傷付けていた」
ぽつりと零した僕の言葉を咀嚼するように味わってから、彼女は真っ白い息と一緒に言葉を吐き出した。それは台詞の吹き出しみたいで、そこに恰も彼女の言葉が見えそうだった。
「それは致し方ないと思う。私だってそうだった。若いって、きっとそういう事なのよ」
彼女は僕の隣で、分厚いマフラーに寒さで赤くなってしまった鼻の下まで埋まりながら、ごくゆっくりとした歩調で履いているブーツのヒールの音を鳴らしながら歩いていた。引き締まるような夜の寒いコンクリート道路に彼女の足音は、いやに小さく頼りな気に響いている。僕は冬支度の済んだ枝木が影絵のように連なる罅割れたような漆黒の夜空を見上げた。
夜空には星が瞬いていた。オリオンの3つ星。もう何十年も見てきた星だった。
「僕は、大人の男になったんだろうか?」
そう問いかける僕を彼女は横目で見ると、煙管を取り出してマッチを擦って火をつけた。マッチの火は小さいのにとても明るく温かそうな色をして燃えてあっという間に消えた。
「わからない。でも、少なくとも、そうやって振り返って償おうと考えられるようになったって事は、大人になれたんじゃないかしら?」通常よりも何倍も白くてずっとたくさんの煙を細く吹き出しながら、彼女が言った。僕は苦笑いをしてしまった。
「なんだか若いと思いやりが足りないみたいな言い方だけど、そんな事が証拠になる?」
「なると思うわ。若い時は、まだこれから先いくらだってどうにでもなるって、誰かを傷付けても構わず、償う時間ももったいないからって脇目も振らずに、ただ突っ走っている所があるけれど、ある程度になって落ち着いて歩き出すと、自分と同じ歩調かそれより後ろを歩いている人の事を、余裕を持って見れるようになるし手を差し出せるようになる。自分に急いでいないから、自分以外の周りの事を考えられるようになるのよ。その違い」
彼女は風に吹かれて唇に張り付いた髪の毛を払いながら、恥ずかしそうに笑った。
「でも彼らは、私達なんかよりずっとしっかりしている。ひょっとしたら、可能性が詰まったあの頃のあなたに会えるかもと思ったんだけど、どうも私の早とちりだったみたい」
「なんだそりゃ」僕が呆れて言うと、彼女は残念そうに大きなため息をついた。彼女の髪の毛に白い塵のようなものがくっ付いていたので、僕は取り除こうとそれを摘んだが、その白いなにかは跡形もなく消えてしまった。ふと彼女が空を仰いだ。
「雪・・・」
ぼんやりとした古く黒ずんだ写真のような漆黒の空からは、まるで湧いてくるように白い紙吹雪が、非現実を感じさせるような一定の速度で落ちてきていた。それは、幻想的で何処か切ないような眺めだった。溶けてしまう事がわかっているからかもしれない。
「雪は凍てつくような寒さの中でしか生まれない。だから、こんなにも人の心を惹き付けて美しいのね」彼女が感嘆の混じったため息をついた。
「そうだね」と僕は同意した。若さを儚く溶けてしまう雪に例えるなんて、そんな事を考えられるのも歳を重ねたからかもしれないな。
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