その13
「おんや、今日は、あの作家先生いねぇのかい?」
凍てつくような厳しい冬がようやく和らぎ始めた予感を感じさせる日差しが降り注ぐ日中、シゲさんが土方の仕事仲間と昼食に立ち寄ってくれた時に、ナポリタンを頬張りながら、ふと思い出したように聞いてきました。
「あんでぇ? その作家先生っつーのは?」シゲさんの隣に座っていた、満遍なくかつ何度も重ね塗りをしたかのように日に焼け、迫力ある風貌を持った黒人のパオ君が、荒々しく割って入ってきました。シゲさんと比べるとまだ歳若いパオ君は、誰に教わったものだか、話す日本語はまるで何処かの組の若い衆のように荒っぽいものでした。その割には、いつも頼むものはアイスチョコレートドリンクかアイスココアといった可愛らしい類いのものだったのがミスマッチで微笑ましい感じの男性です。
「なんだパオ、作家先生っていう意味を知らねぇのか、その人を知らねぇのかどっちだ?」とシゲさんがナポリタンをフォークの先に器用に巻きながら聞き返しました。
「オレ、どっちも知らねぇー」パオ君がアイスチョコレートドリンクとサンドイッチを交互に口に運びながら、モグモグと答えました。
「作家っつーのはな、文章を書いたりして文字でおまんま食っている人間の事よ。先生ってつくのは、まぁその中でもすげぇ有名な人ってとこだな。要約すると。その作家先生がこの店の、ホレ、あの窓際の席を陣取ってな、いつも創作活動してんだよ」
シゲさんは、綺麗に巻いたナポリタンを口に運んだついでに、フォークで窓際を軽く指したのです。パオ君は咀嚼しながら、窓際を特に興味なさそうに見遣りました。
「まぁ正確には、いつもではありませんけれど・・・」と、僕は付け足しました。
「その先生、どんな本書いてんだ?」パオ君が思い直したように聞いてきました。
「さぁな。知らねぇよ。つか、その前に何て名前なのかも知らねぇからな。だが、きっとアレだろ。あの外見からしてみると、よくわかんねーような小難しいもん書いてんだと俺ぁ思うね」何の根拠だか、シゲさんが自信たっぷりに言い切りました。
「なら、オレ読まねぇ。オレ、漫画とSFしか嫌いなんでぇ」パオ君が言いました。
「は? なんだぁ? なにガキみたいな事言ってんの? おめぇ、大の男なら歴史もんに決まってんじゃねーか。泣く子も黙る、忠臣蔵、新撰組、戦国武将もん」シゲさんが猛烈に突っ込んで来ましたが、オレ難しい漢字読めねぇのパオ君の一言で一瞬で粉砕していました。そんな2人の会話を聞きながら、僕もあのお客様が毎回、どんな話をあの山のような原稿用紙に書き付けているのかが少し気になり出したのです。
けれども、作家先生と噂されるその初老のお客様は、最近あまりお見かけしてはいなかったのです。どうしたのでしょう? 病気や事故、不幸等に見舞わていなければいいのですが・・・と、若干心配になってきました。
「なぁ、マスターは、あの先生、どんなもん書いてると思うよ?」シゲさんが聞いてきました。僕は少し首を捻って考えながら、なんだかシゲさんとパオ君が言うようなジャンルではないような気がしました。もっと、なんと言うか現実的で土臭いような、それこそ恋愛小説なんかを案外お書きになっているのかもしれないなと思いましたが、又してもSFと歴史もので口論し始めた2人には、敢えて言いませんでした。
作家のお客様がふらっと店に現れたのは、それから1ヶ月程経つか経たないかの頃でした。暦の上ではもう春なのに、いつまで経っても木枯らしが吹き、朝に晩に残寒を感じるある日の夕方でした。Cassandra Willsonが針葉樹に囲まれた静かな湖の上に広がる広大なキャンバスを黄昏色に染めながら、静かに訪れる冬の夕暮れのようなその独特の低声が店内の空気を満たしている中、まるで実体のない影のように音もなく入っていらっしゃったのです。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」珈琲豆を選別していた僕はそれに気付くと手を止めて、珍しくカウンターに陣取ったその方に慌てて声をかけてお水を出しました。初老のお客様は原稿用紙と万年筆が入ってはち切れんばかりに膨らんだ大きな鞄を小脇にかかえてはいましたが、今日は席に座ってもそれを広げようとはしませんでした。それどころか、投げ遣りな調子で隣の席に放り出してしまい、荒っぽく方肘をつくと、大きなため息を1つつき徐に白髪混じりの伸びた鼻毛を弄り始めました。
「なにに、なさいますか?」僕は灰皿をその方の斜め横に控え目に出しました。
「あぁ・・・まぁ・・・いつものでいいさ」と、やはり何処か焦点の合わないような視線をして、投げ遣りな感じにその方は答えました。明らかに、いつもの自信に溢れた洞察力豊かな発言をするその方とは違い、何かあったのは傍目にも明らかです。
「かしこまりました」
僕はそのお客様のいつもの定番、ブレンド珈琲を煎れ始めました。なにかあったのだとしても、それを聞くべきかどうかは相手にも寄るものです。例えどんなに落ち込んでも、自力で回復しようとする人もいますし、誰かが関与しなければ持ち上がらない人もいます。言葉や態度が人それぞれなように、相手に望む対応も又、人それぞれ違うのです。良かれと思ってした事がただのおせっかいや迷惑になってしまうように、相手の事情や話を聞いたりする事も、よっぽど相手が言い出しでもしない限り、放っておくのが一番だと僕は思います。誰かになにかしてもらいたかったり、話を聞いてもらいたかったら、真っ先にその事を本人が切り出してくるのですから。そんな風にして相手から、なにか打ち明けられてきたり、相談されてきた時は、自分の要領や気持ちは関係なく、しっかりとただ聞いてあげるだけで大体はその方自身で答えを見出して先に進んでいくのです。そう。本人以外の部外者が出来る事は、ただ話をしてきたらそれを聞いてやる、これだけなのです。ケースバイケースですが、それ以上する努力も必要も基本的にはないと僕は思っています。何故なら、自身のなにかや、自分が原因になっていたり、少なからず関わっていたりする事に関しては、ご本人の捉え方考え方が、その物事を更に大きく複雑にしている事が多いからです。
『常に答えは己の中にありき』僕はこの名言を何処で覚えたのでしょう。けれど、いつの頃か、この名言は何かにつけて浮かび上がってきます。何の本から引用してきたのかはハッキリとは覚えてはいませんが、いつも迷っている僕の背中を押してくれるのです。思えば文章を書くと言う事は多かれ少なかれ誰かに与える影響がある仕事だと思います。僕のように常に受け身の姿勢で、お客様のアクションに答えるような類いの仕事ではなく、無数とは言えども限られた表現方法や言葉を組み合わせて、何かを新しく作り続けていく事は宇宙の片隅で星の元になるような隕石や細かな塵を造り続ける事にも似ているような気がします。その無数の隕石や欠片がぶつかり合って爆発して、中にはくっ付いたりして大きな惑星になったり、彗星のように彼方此方を飛び回ったりし始めて、それこそ太陽のように強く輝く惑星が出来る確率なんてもっと低い世界で、ひたすら真っ白な原稿用紙に向かって孤独に万年筆を動かし続ける。きっと、ブラックホールだって時々出来てしまうでしょう。そんな生み出す苦労を知らずに気軽な気持ちでしか僕のような読者は眺める事しか出来ませんが、それでもその方達の為に心を込めて珈琲を煎れる事は出来ます。
「お待たせ致しました」
そう言って、耄けているお客様の前にブレンドをお出ししました。温度といい、濃度といい最高です。恐らく今までで5本の指に入る位に心を込めました。その至高のブレンドが入ったカップをそっと持ち上げて一口飲むと、お客様の表情がふっと和らぎました。成功だと、僕はその様子を横目で盗み見ながら密かにほくそ笑んで洗い物を始めました。お客様は少しの間、じっと味わうようにして、目を閉じたりカップをかなり伸びた無精髭の間に覗く口に持っていったりしていましたが、ふと呟くようにぼそっと言いました。
「・・・やはり、この店のコーヒーに敵うものはない。同時に、儂の創作意欲を奮い立たせるものは、この店のコーヒーを置いて他にない」
「もったいない程のお誉めの言葉を頂きまして、誠にありがとうございます。お客様から味が落ちた等と言われぬようにして日々頑張って参りますので、どうぞいつでもご利用下さいませ」と、カウンター内のお客様からは見えない所で、濡れたままの手でもって密かにガッツポーズをしながら、僕は控え目にそう答えました。
「儂もマスターを見習って精進せぬば、より納得のいくようなもの等書けないのだろう・・」お客様はそう言って、少し俯き加減になりました。スランプでしょうか?
「失礼ですが、お客様はどのような話をお書きになっていらっしゃるのですか?」
つい興味本位が先行してしまい、そんな不躾な質問をしてしまいましたが、お客様は対して気にした風もなく、さらっと答えて下さいました。
「儂が書いている主な風潮は人情ものや恋愛推理ものだ。だが、いつになっても真に書きたいと思っているものと、文字として書き綴っているものとが一致しないのだ」
「それは、書きたいものを書いていらっしゃらないという事でしょうか?」
「そうとも言える。だが、必ずしもそうとも言い切れない」なんだか難解な答えで、正直僕はぼんやりとしか、お客様のおっしゃっておられる実体が掴めません。
「ちなみに、真に書きたいと思っていらっしゃるのはどのようなものですか? もし差し支えなければ、お教え願いたいものでございます」僕がそう言うと、お客様はふと口を噤んでしまい、気を紛らわすようにしてブレンドを又一口召し上がりました。それから、鼻毛を抜いたり、スプーンを手に取って眺めていたりしていましたが、思い切ったように顔を上げると、はにかみ笑いをしながら口を開きました。
「・・・そうだな。まぁ、そんなに、もったいつけるような内容でもない。・・・・マスターは、特攻隊の事は知っているかな?」
「戦争中の特攻隊ですよね? 敵艦に飛行機共突っ込んで行かされた若者達の。そんなに詳しくはないですが、歴史の教科書やメディア等で大体は」と僕は答えました。
「そう。儂が書きたいのは、そんな話だ。ある所にいた平凡に産まれ育った若者が、親友と共に特攻隊に招集されてから、敵艦に突っ込むまでの、そんな話だ」
「そうですか。けれど、戦争ものは、戦争が終わった今だに、社会の風潮やら戦争推進派だのが多く点在している我が国では、賛否両論、万人に受け入れられるのは厳しいかもしれませんね。戦争アンチ派の僕は勿論、当時の様子を思いつつ、しっかりと受け取って読ませて頂きます」僕はそう言うと、ブレンドのお代わりを入れました。
「まさしくその通りだ。今の、いや、多分これからの日本で、いや、それこそ世界中でだ、戦争と言うものを始める輩がいなくならない限り、そんな話は受け入れられはしないだろう。もしかしたら、過ちを犯し続ける愚かな人類自体が消えなければ、無理かもしれない。だがな、儂は物書きの人生を懸けてでも、この話を書いて、己の言わんとする事全てを注ぎ込み、なんとしてでも書き上げなければならないと思っているのだ。いわば死ぬまでに果たさなけりゃならん義務だな」
そこまで一気に話し終えると、お客様は一旦ブレンドを口に含んで又1つため息をついた。すると、さっきまで創作意欲に燃えていらっしゃった少年のようにキラキラと輝いていた瞳の色が少し陰ったようにも見えました。凍ったように冷えた窓ガラスを甲高く耳障りな音で鳴らしながら、外を強い木枯らしが吹き荒んでいきました。
最近又新たに購入した大きな石油ストーブが、橙と黄色を含んだ赤い炎で煌々と勢いよく燃えています。周りに張り巡らされたよく磨き込まれた鏡のようなスチールの一枚板にその炎が何重にも映り込んでいて、まるでそれこそ彼方此方で爆撃でもされた何かが燃え盛っているかのように見えるのでした。店内を満たす空気の密度がなんだか変に高く感じて、重苦しいような気がしました。そんな中、ストーブの炎をぼんやりと見つめていた僕は、たった1つの浮かんできた疑問を口にしました。
「有無を言う事も出来ずに敵艦に突っ込むという使命を背負わざるを負えなかった若者達は、一体最後に何を思っていたのでしょうか・・・」
初老のお客様は、何処か一点をやはりぼんやりと眺めてはしきりに鼻毛を弄っては抜きしていましたが、僕のぽっかり浮かんだような問いに対してこう答えたのです。
「敵艦に突っ込んで死んでいった奴らが最後に思っていた気持ちは、儂なんぞには到底わからん。儂にわかるのは、突っ込み切れなかった死に損ないの気持ちだけだ」
「俺の父方の爺さんも、生まれつき右足が酷く不自由だった為に招集は免れたんだが、その当時、戦争に招集されるのは誇りなんだという考え方まで刷り込まれてたからな、非国民だと白い目で見られちゃあ、散々嫌な目にもあったらしいぞ」
先頃の作家のお客様の事を話していると、それまで黙って聞いていた渡部さんがカフェモカを啜りながら、そんな事をさり気に話してきました。
「その先生、よくわかってんじゃないのかな。そんな内容の本が、今のこの国では受け入れられないどころか、批評の的になるだろうっていうのを」
「だから、願っているだけで、実行しようとはしないのでしょうか?」
「恐らくな。表向きには戦争放棄した平和な国を気取ってはいるが、その実、ちゃっかり自衛隊だって存在するし、右翼だって厳しく取り締まる事はない。思想の自由だとかなんとか言ってな。それを疑問にも思わなくなっちまったマインドコントロールされているような大多数の国民の根本はなんも変わっちゃいないのさ。それに戦争ともなれば膨大な予算や莫大な額の金が動く。ある一部にとっちゃ、戦争なんて大規模な金儲けの手段なのさ。人の命と引き換えにして金が動く。心底ふざけた大博打」
「汚い世界ですね。そう言われれば、戦争そのものが、遥か大昔から隣の領地や国を支配したいからとかっていう欲から勃発したんでしたね。忘れてました」
僕は渡部さんの前にあったカレーの空皿を下げながら言いました。そう言えば、そもそもの戦争の成立ちは、そんな欲望が発端だった筈。やれやれ。今も昔もなにも変わっていないのだなと、自分で言っていて、なんだかガッカリしました。
「欲は果てしない。だが、しかし、人間は産まれるそれ自体から、もう既に欲なのだと言われている。そして、欲がなければ生きている事も出来ないとも言われている。産まれたいだとか、生きたいだとかも一種の欲望だからな」渡部さんはカフェモカを又がぶりと一口飲みました。いつも渡部さんが相手にしている小さな患者さん達は、きっと必死に生きたいという強い欲望だけが命の支えになっているのかもしれない。
そう考えると産まれる前から欲を持ち、様々な欲望に翻弄されながら生き、死ぬまで持ち続けなければいけない人間とはなんとも哀れな存在なのかもしれないと思いました。欲故の幸せ。欲故の不幸。自分のみならず、その他大勢を巻き込んでの欲望。そして、繰り返される歴史。壮大で立派そうに聞こえますが、感じる事はそんな風にしか生きられない性がただただ悲しくなるだけなのです。思わず僕は小さくため息をついてしまいました。それを、じっと見ていた渡部さんが添えるように言いました。
「その先生には、是非その願いを叶えて欲しいと俺は思う。今、ざっと聞いた感じだと、その先生はきっとスランプか、何か現実的な壁に打つかっているようだからな」
「そうですね。早く突破して欲しい限りです」僕も付け足しましたが、俄に作家のお客様のなにか思い詰めたような表情が引っ掛かりました。あの時、僕に簡単なあらすじを話してくれた、あの話それ自体が、もしかしたら実体験談なのかもしれないとふと思ったからです。特攻隊で招集されて、何らかの理由で幸か不幸か一人生き延びてしまった者の気持ち。例えば目の前で親友が突っ込んで行く所を目撃しなければいけなかったとしたら? 僕なら到底堪えられません。そんな事を思うとこの時代に産まれて、戦争を知らずにぬくぬく生きてこれて良かったなんて失礼極まりないのかもしれない安心感を抱いてしまいます。今目の前に広がる当たり前の日常、細かい色々はありますが、時々退屈ささえ感じてしまうような平和。その暮らしは、無数の誰かの犠牲の上に成立っている平和なのだと。それすらも不安定ではあるのですけれど、僕はそんな時代だからこそ一人でも多くの方にやってしまった過去を知って頂きたいですし、そこから学んで欲しいと思います。あのお客様に現実と戦えと望むのは酷な事なのかもしれませんが、少なくとも一人ではないのです。
「まぁ、無理強いは禁物だ。人は誰でも、自分ですらどうにも始末出来ない過去の1つや2つは必ず抱えているもんだからな。それは生きている証であり、同時に避けられない事でもある。問題なのは自分と周囲の人間が、それにどう向き合ってどう付き合っていくかだ。マスターも充分わかっているとは思うが、そればっかりは、いくら周りが何を言っても本人でないと決断が出来ない事だ。周りは静かに見守るのみだ。じゃ、ご馳走様」渡部さんは咳き込むようにして一気にそう話すと立ち上がり、手際良くお勘定を済ませ、病院に戻っていきました。レジ横の花瓶には、お客様から頂いた梅が一枝挿してありましたが、その丸い蕾はまだ固く、花開くには少し早かったのです。
「マスター、健三郎先生来てるか?」春の陽気が上がり始めた昼下がり、シゲさんが騒がしく店に入ってくると開口一番そう聞いてきました。
「誰ですか? その健三郎先生って?」と、僕は聞き返しました。
「なぁーに言ってんだ。あの作家先生だよ。作家先生っ!」
「あぁ。成る程。健三郎さんとおっしゃるお名前なんですねー・・・」そこまで聞いて、何処かで聞いた名前だなと俄に奇妙な感覚になりました。何処でだったっけ? 記憶をもどかしく手探っている僕には構わず、シゲさんは続けます。
「あの先生、やっぱすげぇ大物だったんだな。今、テレビだの新聞だので特集組まれて、えらく話題になってるぞ」と興奮混じりにシゲさんは続けます。
「はぁ、そうなんですか。最近あまりテレビを見てなかったので、全く知りませんでした。どうしてそんなに騒がれているのですか? なにかあったのですか?」
「なんでぇ、知らねぇのか? 存外マスターも薄情だね。俺も詳しくはわからんがな、次回の新作発表会かなにかで、あの先生、物書きとは文字の落書き等ではない、娯楽という括りにも半分以上足を突っ込んではいるが、全てではないとか何とか小難しい事を言ってな、私は物書きとしての度量を全て使い果たしても、学会から追放されても、刑務所に放り込まれても、真っ向から戦争という永遠の題材に対して、これから立ち向かって行くつもりだとか、大体こんな感じの大胆発言をしたんだとさ」
「成る程。そうでしたか」その他人行基な言葉とは裏腹に熱っぽく語るシゲさんに相槌を打ちながら、僕はカフェオレをお出ししました。
「いいじゃねぇのよ。あの先生。こんなしょっぱい世の中でよ、まったく、やってくれんじゃねぇか。俺、俄然応援するね」意気揚々とシゲさんが息込んでいる前で、僕は不意にあっと思い出して、軽く手を打ちました。そうだ。あの名言・・・僕が常日頃から心がけている名言が載っていた本の表紙には確か庚慧健三郎と書かれていました。学生の頃、その名字が読めなくて、辞書で読み方を引いたものです。そうだったのだ。あの本の作者だったのだと、偶然とは言え、人と人との不思議な巡り合わせをしみじみと感じました。シゲさんが不振そうに僕を覗き込んできました。
「どうしたぁマスター? 独り言か? 大丈夫かぁ? なんなら俺が相談に乗るよ」
そんな心配そうに乗り出しているシゲさんに、僕はふっと微笑みました。
「いいえ。なんでもありませんよ。ただ、思い出しただけなんです。大丈夫です」
「ほっか。それなら良かった」シゲさんはそう言って和やかに笑って、さも美味しそうにカフェオレを飲みました。そんなシゲさんの後ろには春めいた太い二筋の光の帯が埃や空気中に舞う塵を美しく輝かせながら窓から真っ直ぐに差し込み、その光がレジ横の梅の蕾にも微かにかかり、蕾にはうっすらと白い花弁が覗き始めていました。
『常に答えは己の中にありき』
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