第8話 吸血魔王は人類を許さない
――エルスカの雰囲気が、一変した。
血の気が引く。少し前までポンコツでしかなかったドジっこ吸血鬼は今、魔界を統べる魔王としての本性を現したのだ。獣が自分よりも遥かに強い群れのリーダーを前にした時の如く、トウマの身体は無意識に震えあがっていた。
「に、人間を滅ぼせって……」
恐れを抱いた彼の言葉は震えていた。本当は言葉を口にすることさえ畏れ多い。だが、それでもトウマは聞かねばならなかった。
対し、エルスカは妖艶に口許を笑みの形に歪める。
目を細めれば、赤い双眸が妖しく輝く。
「当然じゃろう? 同胞を苦しめられたのじゃ。その借りは返さねばならん」
ギチギチ、トウマの被る兜を片手で握りしめながら、人間への恨みつらみを述べ立てる。
「これまで、どれほどの魔族を殺されたと思う? どれだけの魔族が今も苦しめられておる? 私は封印されながらも見てきた。魔族が苦しむ様を。人間によって魔石が砕かれ、魔族の村や町が、奴らに蹂躙される叫喚たる惨状を!」
エルスカの言っていることは正しい。
魔界と人間との争い。それが始まったのは、魔界ができた直後のころからだ。原因は今でも分かっていないが、魔界が誕生してから今日に至るまで、ずっと二つの世界は争いを続けている。
エルスカが魔王だった頃には、魔族らには力があった。魔石が豊富にあり、個々に過不足なく魔力を供給できたからだ。
しかし、やがて時が経ち魔石を破壊されるようになると、人間は積年の恨みを爆発させるかの如く魔族を蹂躙し始めた。
戦いに巻き込まれた魔族は、たとえ子供でも殺された。人間にとって、あらゆる魔族は悪だと信じられてきた。彼らが信奉する《神》なる存在が、そう教えを説いているのだという。
そのような歴史を、エルスカは封印されながらも見てきたのだろう。トウマよりも遥かに昔から、魔族が蹂躙されるのを、封印された彼女は見ていることしかできなかった。
「……じゃが、ようやく封印が一部解けたのじゃ。この機会を逃すわけにはいくまい」
「で、でも、人間を滅ぼすなんて……」
「安心しろ。お前には力がある。それに、お前は魔族としての名声を取り戻したいのじゃろう?」
トウマは反論できない。彼女の言う通り、彼の目的は魔族としての名声を取り戻すこと。みんなに認めてもらい、魔界を守ることにこそある。
だが――。
「お、俺は、争いなんて望んでいません! 争えば、また悲しみが増えるだけですよ!」
「そんな甘いことを言っておる場合か!」
ギチッ……。
兜が歪み、エルスカの指の形に凹んでしまう。兜が柔いのではない。エルスカの握力が、強すぎる。
「人間への恨みを忘れるな! 人間を殺すことが、私たち魔族の宿命じゃ!」
「いや、争いが続けば、もっと魔族が苦しめられることになる! それよりも、早く争いを終わらせてしまう方が……」
「ならぬ! それでは、これまで死んで来た同胞の想いに報いることなどできん! 私を慕ってくれた従者たちも、お前の父親も……何のために死んで来たと思っておるのじゃ!」
その問いの答えが、トウマには分かってしまう。
魔界を守るためだ。
魔族を救うためだ。
自分たちを蹂躙し、虐げる人間どもから解放されるために、魔族は戦っている。
戦いから逃げれば、次代に思いを繋げてきた魔族たちに顔向けなんてできない。彼らの無念を晴らすために、魔族の王として戦わねばならないのだ。
(だけど……ッ!)
トウマは歯噛みし、兜を握りつぶそうとするエルスカの手首を握った。死人のように冷たい手。血の通っていない冷徹な吸血鬼の魔王は、トウマを鋭く睨む。
「俺は、それでも納得できません」
「……分かっておるのか? お前が抵抗すると言うことは、お前の父の思いすら穢すことになるのじゃぞ?」
(分かってる。だけど……)
父が望んだのは、本当に人間と争う世界なのか?
他の魔族だって、人間を恨みながらも思っていたんじゃないか?
争いのない、平和な世界だったら――って。
「……俺は、魔王として魔界のみんなを幸せにするって義務があります。争いを続けて、さらにみんなを苦しませるくらいなら……勇者の足でも舐めて、争いを終わらせる方がまだマシだ!」
「……そんなことで、争いが終わると思うか? お前が交渉したところで、人間はその後も魔族を虐げる! そうなれば、憎しみの連鎖は断ち切れぬじゃろうが!」
「だから、俺は強くなるんだッ! 強くなって、魔族たちを守れる魔王になる! みんなを守れたなら、きっと争いが終わっても不幸になんてならないはずだ! だから……」
「そんな甘い考えで、世界がお前の考えておる通りに回ると思うておるのか?」
エルスカは感情のこもっていない声で言い放つ。
まるで、自分が見てきたかのように。
「……お前の考えは、決して叶うことはない。たとえどれだけの力があろうとも、魔界の民を守り切ることなどできぬのじゃ。まして、お前は無能だったのじゃぞ? お前に何を変えられるというのじゃ。無能のくせに、出来損ないの癖に……ッ!」
憎々し気に、歯噛みした彼女は苛立ちに叫ぶ。
「己の力に、希望に、期待に自惚れるな……ッ! ありもしない希望など、いずれ絶望する種にすぎんわ!」
兜を掴んでいないもう片方の手を持ち上げると、人差し指をトウマに突き出した。
「お前が私に従わぬというのなら、その考えが甘いということを自覚させてやろう」
「な、何を……」
「のう、トウマ。なぜ、吸血鬼が血を求め、血で契約し、眷属を増やすと思う?」
動揺するトウマに対し、兜を強く握りしめたままエルスカは淡々と問うた。
「――血は生命の証。血を吸うことは『お前の生命は私の手の中にある』と言っているのも同義なのじゃ。つまり、お前の命も、意思も、命運も、私の手の中にある」
その時、トウマの身体が意思とは別に動き出した。
エルスカの手首を握っていた手が離れ、下ろされる。
「な、なんで……身体が……ッ!」
「吸血鬼という種族が、どういったものなのか……お前も知らないわけではあるまい」
「ッ……」
吸血鬼は、魔族の中で最も質の悪い種族。
彼女らに吸血され、眷属にされてしまった者は従順な奴隷になってしまう。
臣下が、王の命令に逆らえぬように。
信徒が、神の神託に従うように。
眷属は――吸血鬼の指示に決して逆らえなくなるのだ。
「お前がどう考えていようが、私には関係なかったのじゃ。お前の血を吸い、眷属にした。その時点で、お前は私の傀儡でしかない」
ゆっくりと、握り続けていた兜から手を放した。兜には、エルスカの小さな手の痕が残されていた。
同時、トウマの身体が勝手に動き出す。厨房の外へ向かう扉に向かって歩き出し、トウマは焦りを覚えた。そんな彼に、エルスカは冷たい声で言い放つ。
「それじゃあ、最初の命令と行こう。抵抗は無駄じゃ。お前は私に逆らえぬ。どんな意思を持っていようがな……」
扉の前に立つと、トウマはおもむろに扉へ手をかけた。軽く押すだけで、木製の扉は粉微塵に吹き飛ばされた。吸血鬼の怪力が発揮されたのだ。
破壊された扉の向こうには、ルミアが立っていた。
目を見開く彼女と、視線が交錯する。動揺し、身体を震わせた二人の耳に、凍り付いてしまいそうなほどに冷え切ったエルスカの声が響いた。
「まずは、そこのエルフの小娘を殺してもらおうかのぅ?」
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