第9話 契約には従わねばならないのか
「どうして、ルミアちゃんがここに……!」
瞠目するトウマは、ルミアがホウキを手にしていることに気づいた。
(まさか、掃除をしようとして戻って来たのか……?)
掃除道具が食堂の片隅に放置してあったことを思い出し、トウマは絶句する。そんな彼の前で、ルミアは身体を震わせながら半歩身を引いた。
「や……やっぱり、殺すつもり、だったんだ……」
震える声。怯える彼女の目から、涙が零れ落ちた。
「ち、違うんだ、ルミアちゃんッ! 俺は――」
「イヤ……来ないでッ!!」
ルミアがトウマを近づけまいとホウキを振り回した。頭に直撃しそうになり、反射的にトウマはホウキの柄を掴んだ。瞬間、バキッ、とホウキの柄が折れた音が鳴った。
「ッ……! ど、どうして……」
「
エルスカは手を掲げる。その手に、黒い魔力が集まっていく光景が可視化されていた。身体の内側から湧き出る魔力の奔流に、エルスカの藤色の髪が揺らめく。
彼女の魔力が高められると同時に、トウマの身体からも同様に魔力があふれ出るのを感じた。熱い。血が沸騰するかのような熱に、意識がフワフワと浮いてしまいそうになる。
「や、めろ……ッ」
「やめるわけがなかろう? さあ、吸血鬼の力を以て、その小娘を殺すがよい」
「い、いや……いやぁぁああッ!!」
喉の奥から引き絞るような悲鳴を上げ、ルミアはトウマに向かって折れたホウキを投げつけた。咄嗟に顔をガードするトウマ。腕で視界が塞がれた一瞬のうちに、ルミアは食堂の入り口に向けて駆け出していた。
「る、ルミアちゃん……!」
追いかけて誤解を解こうとして……足が止まった。
(今、俺が追いかけたところで、ルミアちゃんに何て声を掛ければいいんだ? ここは、何もしないほうが……)
「――何をしておる? これでは、逃げられるではないか」
エルスカが、魔力を込めた指先を弾く。パチン、と高い音が鳴ると同時――トウマは逃げ出したルミアを追って走り出した。
「や、やめろ……止めてくれ……ッ!」
食堂を出て、廊下を駆ける。ルミアが金色の髪を揺らしながら走るのを見て、身体が勝手に動く。足を踏み出し、赤い絨毯の敷かれた床を踏み鳴らす。
意識の中では必死に抵抗している。だが、エルスカは初代魔王。歴代最強とも言われた、魔界の王で、吸血鬼の王である。ただでさえ圧倒的な力を持つ吸血鬼。その頂点に君臨するエルスカに逆らえる者など、存在しない。
トウマが必死に葛藤しながらルミアを追いかけようとしている様を見て、彼の背後からエルスカは笑う。
「くふっ。何を言うておる? これも魔族に認められるため……つまり、お前のためじゃ。魔王たるもの、人間の味方を殺さないわけにはいくまい」
「だ、だけど、俺はルミアちゃんを殺したくない! あの子は、俺と同じなんだ! 誰にも認めてもらえなくて、苦しい思いをしてきたはずなんだ! なのに、ここであの子を殺したりしたら、やってることは勇者と変わらないじゃないか!」
「勇者と同列に語るな。お前は魔王。勇者は人間じゃ。味方同士ならまだしも、お前とあの小娘は敵同士。殺さない理由が、どこにある?」
敵は殺さないといけない。どんな理由があったとしても。
好きになった相手だったとしても――敵なら、殺せ。
エルスカの残忍な言葉に、トウマは歯噛みする。
そんなものは、望んでいないと――。
しかし……。
「さあ、こんなところで話しておる間にも、あの小娘はどんどん逃げてしまうぞ? とっとと追って、惨殺してくるがよいわ」
再度、指を弾く音。
身体のコントロールをエルスカに奪われたトウマは、膝を曲げると床を強く蹴り上げた。ドンッ、と硬い石の床が砕け、一気にルミアとの距離を縮める。
「いやぁあッ! 来ないでぇええッ!!」
ルミアの悲痛の慟哭が響く。
恐怖に満たされた叫びが、トウマの心を深く抉った。
(ちくしょう! せっかく、少しは仲良くなれるかと思ったのに! どうして、こんなことをしなきゃいけないんだ……!)
魔族を助ける力が欲しかっただけなのに。
ルミアを守るために、力が欲しかったはずなのに――。
「いや、だ……俺は……殺したく――ッ!」
肺から零れそうになった言葉は、最後まで言えなかった。
瞬く間にルミアに迫ったトウマは、彼女の肩を掴んで押し倒した。馬乗りになると、ルミアは必死に抵抗しようと仰向けに転がって、手を突き出した。
「やだっ! はな、して……ッ!」
ルミアの手が、トウマの顔を殴る。だが、顔は鎧に包まれている。殴ろうとした手が傷つき、血がしたたり落ちる。
「ぐぅっ……うぅぅ……」
抵抗するのが無駄だと思ったのか、ルミアはやがて動かなくなった。
トウマを睨みつけるように見上げ、憎々し気に呟く。
「嘘つき……なにもしない、って……言ったのに……」
「違うんだ……俺は、本当は……」
殺したくない……!
ルミアを助けたいんだ!
だが、身体は言うことを聞いてくれない。
「ぐぇ……ッ」
ルミアの細い首に、トウマが手をかける。手甲越しだと、彼女の首の感触は伝わってこない。が、ルミアは鉄と死の冷たい感触に震えている。
「や、だ……死に、た……く……な、い……ッ」
「やめろ……やめろ、止めろやめろ……止めてくれ……ッ!」
力を、込める。
万力で締めるように、ゆっくり、じわじわと。
トウマの意思を無視して、一目惚れした少女の首を絞める。
彼女を殺そうとする。
「ぐっ……ぁ……ぇ……ッ」
「やめ、ろ……ッ!!」
トウマの目に涙が浮く。視界が滲む。心に抉るような痛みが走り、悲鳴を上げる。
「俺は……殺したくない……ルミアちゃんに、生きてて欲しい……この子だけは、失いたくない……!」
奥歯を噛みしめる。ギリ……と、軋む音が身体の内側で響いた。
――どうして、こんなことをしなくちゃいけないんだ。
トウマの心に、ドロドロに蠢く感情が湧きだした。怒り。悲憤。憤慨。言葉にしても足りないほどの、熱く醜い負の感情。
――殺して堪るか。
意思を無視してルミアを殺そうとする手に、力を込める。細い首を締めようとする手を、無理やり開こうと、抵抗する。
「……くふっ。無駄じゃ。抵抗したところで、お前は私の傀儡じゃ。抵抗できるはずがない」
必死に抵抗しようとするトウマの背後。
エルスカが鷹揚に歩いて来て、そう告げる。
「血の契約は絶対じゃ。お前の意思も命運も、私の手の内にある。じゃから……」
「こん、な……ところで……ッ!」
だが、トウマはエルスカの声を無視し。
「また……大事なモンを、失って……堪るかよ……ォッ!!」
手を、開く。
無理やりにでも、血の契約を無視して。
「なに……?」
「げほっ、げほっ!」
ルミアは首に感じていた締め付けから解放され、失った酸素を取り戻そうと咳を溢した。涙混じりに、トウマを見上げる。
「あなた……何を……?」
「何じゃ……わ、私の契約は絶対順守のはず! 抗えるはずがないんじゃ!」
「……お前の命令なんて……誰が聞くかよ……」
「ッ……ふざけるでない! 魔族のために、人間を一人残らず……殺すのじゃッ! その娘を、殺せ! 今すぐに!!」
エルスカが命じ、指を弾く。
が、トウマは動かない。
勝手に動こうとする身体を、意思の力でねじ伏せる。ルミアの首を締めそうになる手を、身体の横に引きながら。
「何で、じゃ……ッ!」
エルスカは目を瞬かせた。
血の契約は絶対順守のはずだ。でなければ、吸血鬼は力を与えた上で、
血の契約に逆らうことなどあり得ない。
あり得るはずが、ないのだが――。
「どうしてお前は……私の傀儡にならんのじゃ……ッ!」
「エルスカ……俺は、お前の命令になんて、従わない……ッ!」
トウマは、拳を握りしめ。
「俺が守りたいものは、俺が決める。俺が守りたいものは、俺が守る。だから、守りたいものを傷つけるくらいなら……ッ!」
強く握りしめた拳で。
鉄をも砕く鋼鉄の如く鉄拳で。
己の頬を殴りつけた。
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