春先に花を咲かせていた街路樹は今、生命力の強そうな緑の葉を枝先にまで茂らせている。

 道路を行き交う車が、ヘッドライトを点け始めていた。日が完全に沈む間際の時間まで、二人は当てもなく歩いた。


 凪は足を右に向けて、歩道橋の方へ進んだ。まゆもついてきて、階段に足をかける。


「俺は、就職しようと思ってる」


 まゆは口をつぐんだまま、凪の言葉を聞いている。


「学歴なんかねえけど、契約だろうが何だろうが、職をもぎ取る。死んだように生きるのは、もうやめる」

「だから最近ずっと黒髪なんだ。前は茶髪にピアスまで開けてたのにね」


 横から茶化すような声をかけられ、凪は照れ臭くなる。

 二人は階段を上る。上り続ける。


「これから、どうする?」


 まゆは問いかけた。

 橋にたどり着き、平らな道を真ん中まで行った。フェンスの向こうから見える景色はいつもと変わらない。けれど地平にわずかに残る橙色の日の名残り、灯り始めた街灯、過ぎていく人の流れが、今、鮮明に脳裏に焼きつきかけている。


 写真を、撮りたいと思った。

 街なかの風景をフレームに収めたいという衝動が、突然、走った。

 スマホではなく、カメラで。端末を通すのではなく、フィルムとして。


「私たちの、これからは……」


 恋人が切なげに目を伏せる。

 凪は手の力をぐっと強めた。


「お前は」


 頬に当たる風が、ぬるいような冷たいような、行き場なく吹かれていく昔の自分に重なった。


「チャンスを掴んで、ものにして、仕事に人生を捧げないと」


 まゆは薄く微笑んだ。こう返されるのはわかっていたというように、無言でこちらを見つめる。

 しばらく静寂が流れ、二人は橋の下に見える走行中の乗用車やバイクを眺めた。


「もう一つだけ、凪に聞きたい」

 まゆの柔らかなまなざしが凪を包む。


「何で私だったの?」


 雑多な音が鼓膜を刺激する。エンジン音、ひゅうっと吹く風音、その他いろいろな、自然と人の生活音。気にもとめなかった日常が、クリアに凪の視界に入る。

 世界と無関係に生きることなど、できない。


「私を見つけたのは、偶然?」


 まゆの質問に、凪は答えた。

 誰にも話さなかった、凪自身の昔を。


「一度だけ、親に連れて行ってもらえた場所がある」


 凪は地平をじっと見つめた。

 かすかに涼しくなった風が頬に当たり、髪を撫でていく。


「イベント名はもう覚えてない。ダンス会場だった。ソロダンサーや、グループで出場している人たちでいっぱいで、熱気があふれていた。プロかアマチュアの試合かもわからなかったけど、座席がすごい近くて、パフォーマーの飛び散る汗がスポットライトに当たって、キラキラ飛んでて、すげえ綺麗で、俺は」


 唐突に、目の前の景色がぼやけていく。


「知ったんだ」

 懐かしい思い出があふれ、あたたかな痛みとなって自分の心を浄化する。


「俺の目の前に」

 記憶の底に沈んでいた、美しい過去の情景。


「楽園が、あるんだと」

 こぼれ落ちる涙をぬぐう真似は、今はしたくなかった。


「今、俺がいるのは、楽園なんだ。そう確信した。子ども時代の、いたいけな想像力だなんて思わない。俺は理想郷を見つけた。誰にも理解されなくていい」


 にじむ街並み。幸せも不幸も、怒りも憤りも悲しみも、同じようににじむ。


「親は変わらず冷たくて、家に帰ったらいつもの地獄が始まって、それでも、あの瞬間だけ、世界でいちばん幸せだった」


 まゆが愛おしそうに聞いているのがわかった。


「どれほど理不尽なことがあっても、誇れるものなんか何もなくても、ステージだけは美しかった。楽しかったから。感動したから。スターになりたい夢を追いかけるやつらを、本当はずっと、応援していた。意志の強さを、分け与えてもらっていたから」


 日が沈む。ともに過ごした日々が沈む。

 凪は目もとを拭い、恋人と視線を合わせた。


「俺は、ダンスに賭ける蝶野まゆが、好きだよ」


 もう一度、手を絡め合う。互いの顔を正面から見つめる。

 世界に二人だけしかいないような錯覚を感じるほど、まゆの瞳は艶やかにきらめいていた。

 頬にふれた。

 他には何もいらない。

 彼女が目を閉じる。

 柔らかな温かさに唇を当てる。そっとついばんだ後、もっとほしくなって二度、三度と愛情をねだった。まゆは応えた。熱と人肌の温もりが、凪の悲しみを満たしてくれた。


 ずっと続いてほしいと願った甘い時間も、永遠に続くと思い込んでいた己の哀れさも、終わるのだと、凪は知った。その事実は救いにもなったし、呪いにもなった。けれどそれでよかった。自分はもう閉じていない。


 二人は顔を離し、しばらく恥ずかしそうに笑い合った。

 まゆが凛とした表情を見せる。


「私は、ステージに立つ」


 迷いも何もない、覚悟だけを背負ったパフォーマーの瞳。


「芸術には永遠が住んでる」

「――うん」


 俺も、それが答えだと思うよ。

 心の中でまゆに返事をして、凪は、彼女を自宅まで送り届けた。



「アドレスは消さないで」

 別れ際、まゆは自分の髪をさわりながら、それとなく凪に告げた。


「どうしようかなあ」

 凪はからかい気味に返事をする。和ますつもりで言っていることも互いにわかり切っている。


 じゃあね、また。

 伝え合い、二人は別れた。

 また明日会えるかのような、他愛のない挨拶だった。


 蝶野まゆと言葉を交わしたのは、その日が最後だった。



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