第三章 *初夏*
6
「凪」
早番のシフトが終わり、夕刻時の帰宅路を歩いている途中、カバンの中のスマホが振動した。
電話の振動だった。名前を見てすぐに応答した凪の耳に、恋人の声は震えて聞こえた。
「何か、あったのか」
凪とまゆは同棲をできるほどの金銭的な余裕がない。まゆは大学三年になり、就職活動に勤しんでいるし、凪は変わらずフリーターのままだ。二人はその分、なるべく頻繁に互いの近況を報告し合っていた。時間を見つけてたくさんのデートを重ね、プレゼントを贈り合い、思い出を共有し続けた。
「…………まゆ?」
通話口から無言が続く。よくないことでも起きたのかと、凪は不安を覚えた。
「どうした」
「凪、あのね」
一呼吸おいて、まゆが話し始めた。
内容を知った瞬間、外でなかったら飛び上がりたいほど凪は興奮した。世界が拓けるほどの吉報だったのだ。
「オファーが来た」
「……仕事か!?」
ドク、と心臓が熱く燃えたぎるような感覚を味わった。チャンスが回ってきたのだ。忙しない毎日を送っていたところに、突然やってきた巡り合わせ。驚きと武者震いで、早く先が聞きたくなった。
「どんな?」
「うちの事務所に所属してみませんかって」
「スカウトか、なるほど」
「私の動画、見てくれたの。それで、オーディションを受けさせたいから、うちと契約を結んでほしいって先方が」
「どこの事務所?」
「Aプロダクション」
「中規模の芸能事務所だな。まゆ、やったじゃん!」
「ありがとう。すっごく嬉しい」
まゆはほっとしたように声を弾ませる。
「凪が喜んでくれてよかった」
「自分のことのように嬉しいよ」
思えばずいぶんと素直になったものだ。自分で発言しながら笑えてくる。
「それでね」
まゆが続けた。
「凪に、会いたくなって。直接話せるかな?」
声色から、そこはかとない憂いを凪は感じ取った。手放しで喜んでいるかと思いきや、恋人は何やら気がかりな案件でもあるらしい。
「わかった。今どこにいる?」
「商店街抜けたところの並木通り」
「すぐ向かうよ。確か近くに児童公園があったから、そこで話そう」
「うん。待ってる」
場所を確認し合い、まゆの方から電話を切った。
日の入りがずいぶんのびたと、公園の敷地内に入ったとたんに凪は気づいた。夕方六時近く。児童は見当たらなかった。小さな滑り台、ブランコ、二人掛けのベンチ。面積も広くなく、一世帯分がひっそりと遊ぶような、路地の途中に申し訳程度に設置されたのがわかる場所だった。
まゆは、ブランコを囲う柵のふちに腰かけていた。凪を見つけると、小さく手を振る。凪も振り返して、まゆの隣に座った。
「おめでとう、まゆ。……それで、どうした? 浮かない顔してんじゃん」
まゆが言葉に詰まっている様子を見て、それとなく手にふれる。恋人は嬉しそうにはにかむ。胸の内を甘やかな衝動が駆ける。
夏の匂いを感じさせる、ぬるい風が吹いた。住宅群の隙間から沈みかけの太陽が覗いていた。
「とっても幸せな時間をもらえている気がするの」
言葉と裏腹に、彼女は悲しげに微笑んだ。
「私、ずっと夢だった。踊るのが好きで、みんなが盛り上がってくれるのが嬉しくて、これからはもっと大勢の人たちを幸せにしてあげられるんだって予感がして、今、無敵なの。オーディション、絶対に合格してやる」
「その意気だよ」
まゆが顔を向けた。しどけなく凪にもたれかかる。片腕で抱きとめ、頭を撫でてやる。アッシュブラウンの髪は綺麗に手入れされていて、指になじんだ。
「凪。私のこと、好き?」
「好きだよ。当たり前だろ」
安心したように、まゆは息を一つ吐いた。
夕方にも関わらず、気温は下がる気配を見せなかった。むっとした風の匂いが鼻腔をかすめる。
「条件を出されて」
「……うん」
目指すのは芸能界だ。内容は話されなくともすぐに予想がついた。
「私、あなたの存在を隠しておかなくちゃいけない。それか、関係を終わらせてほしいって」
じわじわと湿気が凪の額に汗を光らせる。どこかで季節を先取りしたセミが、ミーンと、かすかな鳴き声を漏らした。
「芸能の道に進むのなら、男の影をちらつかせてはいけないと。早い話、恋愛禁止なの。若いうちは」
まゆは膝の上に置いた手をぐっと握りしめ、唇を震わせた。
彼女が涙をこらえているのがわかった。
「輝きたい。スポットライトを浴びたい。……でも、こんなのは」
「まゆ」
「ん?」
「ちょっと、散歩しようか」
「……ん」
こくりとうなずき、まゆは凪の方に手をのばす。
凪は包むように手を取る。
二人は連れ添って、並木通りをまた歩き出した。
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