足がY公園の方角へ向かっているのは自覚していた。

 新田にかけられた言葉を反芻しているうちに、凪は知らずと電車に飛び乗っていた。各駅停車、青梅行き。


 吊り革に掴まる。窓越しに、高速で流れ去る民家が見える。一つ一つの家庭に、それぞれの家族が帰って、食事をとって眠りについて、朝になれば家を出ていく。それが当たり前のようにくり返され、これからもくり返されていくと信じて疑わない。


 胸の奥がきゅっとなる。

 自分が何を欲しがっているのか。

 渇望しているものを自覚してないほど子どもではなかった。けれど手を伸ばせる容易さでもないことも、充分承知していた。


 外の景色はだんだん中規模のビルやショッピングセンターに移り変わっていく。目的地が近づいている。行きたくないのに、行きたいと望んでいる。


 出会わなければよかったとさえ感じていた。

 蝶野まゆを、知りたくなかった。


 電車は駅に到着する。

 懐かしい街並みと、どうにも垢抜けないホームの外観。

 凪は足早に階段を下りる。エスカレーターを使うのもじれったかった。


 

 Y公園には先客が何名もいた。知らない間に有名スポットになったようだ。夜の初めの時間帯だからか、あの時散歩をしていた季節柄、たまたま空いていただけだったのか。


 数人で台詞の掛け合いを練習する役者の卵たち。敷地内をジョギングするランナー。ブレイクダンスを習得しようと励む若者。夢を追う人間たちで満ちたY公園の、奥の方の窪まった場所――まるでステージのように見える広場だ――そこに、彼女を見つけた。


 初めて会った時と変わらない、強くしなやかな踊り。圧倒的なリズム感を見せつけるような身のこなし。自身の生きてきた道程を誇りに思う者だけが持つ、エネルギッシュな魅力があふれていた。


 あの頃の、怒りに任せた動きではなかった。

 美しかった。

 凪は、一歩ずつ近づいていく。

 まゆがこちらに気づく。

 表情を硬くさせる彼女に、努めて穏やかな口調になるよう、話しかける。


「踊ってたんだ。……まだ」

「うん」


 まゆはこくりとうなずいた。

 本当は、お前の動画も欠かさずチェックして、見守っていたんだよ、なんて台詞は言わない。自分が彼女の立場だったら、そんな薄気味悪い行為をする男など願い下げだ。


 凪とまゆの間に、沈黙が下りる。

 そのまま幾秒か過ぎ、まゆが口を開いた。


「何か、変な感じ。どれくらい会ってなかったかわからないのに、あんたを目の前にすると自分が自分じゃなくなる」

「……と、いうと?」


 それとなく聞くと、厳しい叱責が飛んできた。


「喧嘩したんじゃないの、私たち? そのままどっちも連絡しなくて、自然消滅だって思って……」

「うん、俺も思った」

「じゃあ、どうして来たの?」

「わからない。俺にも説明がつかない」


 まゆは深いため息をついた。落胆の色と期待のまなざしが込められた反応だった。


「やめるの、私」

「…………え」


 一瞬、自分の耳を疑った。

 だが間違いなく、蝶野まゆはそう言った。


「夢を追うのはもうやめる。ダンスは趣味で続けることにした。就活しなきゃ。来年三年生だし」

「ハタチじゃん」


 息せき切ってこぼれ出すわけのわからない感情に押されて、凪は反論した。弱気になる彼女の顔を見るのが我慢ならなかった。


「キラキラの成人じゃん。ピチピチの女子大生じゃん」

「……バカなの? その世界じゃもう遅いんだよ」

「小便くさいガキなんか相手にするな。色気もへったくれもねえ小娘になんか真似できない、お前自身の魅力ってもんがあるだろ」


 まゆの瞳は冷え切っていた。凪が強気な姿勢を見せれば見せるほど、かえって表情が暗くなっていく。


(何でだよ)


 一向に理由が見当たらず、凪は感じたことのない不安と憤りを抱いた。


「やたらと私の肩持つね」


 まゆは拗ねたように顔をそらす。


「そりゃあな、恋人だし」


 当てつけのように言ってやると、今度こそ重い空気が流れた。凪が最も苦手とする、張りつめた意識のせめぎ合いが、肌に痛かった。


「何か言えよ」

「凪にあげられるものは、もう何も残ってない」

「……は? 何だよそれ」


 すごむ勢いで、強く尋ねる。まゆは沈黙を貫く。

 埒が明かない。凪は正直な気持ちを伝えることにした。


「残念だな。お前には……さ」


 いざ言葉に出すと、胸にちくりと空しさが刺した。


「パフォーマンスアートの精神を感じたのに」


 彼女がこちらに顔を向けた。

 すがるような瞳と、その奥に隠れる、凪への熱い情欲が見て取れた。

 何かを必死にこらえている。まゆの中から強い思いが熱となって放出されている。


「そっちこそ」


 まゆは泣き声に近い声色で訴えた。


「何でも話してほしかったのに」

(――――ああ)


 隠しごとはなぜバレるのだろう。


「夜に、眠れないのは……。いつから……。子どもの時からずっと、続いてるなら、どうして病院に行かないの……? 私じゃ癒せないなら、今になって会いに来ないでよぉ……」


 まゆは子どものように泣きじゃくっていた。顔を覆った手のひらがひどく震えている。


 凪は知らずと空を見上げた。

 冷たい風。暗闇を灯す常夜灯。今日は晴れてるのだろうか、星がチカチカと瞬いている。こちらの都合のために天気は悪くなってくれず、肩を濡らす雨は降らない。


「毎日飲んでるあれも、教えてくれない……」


 消え入りそうにつぶやいたまゆの台詞に被せるように、凪は告白した。


「生姜スープなんだ」


 途端、まゆはきょとんとする。無防備な表情を、ああ、可愛いと、素直に思えた自分に驚きを感じる。

 凪は続けた。


「寒くなったら、あそこの自販機で発売するんだ。温かい飲み物で、睡眠作用の効く生姜がすげえいっぱい入ってんの」

「睡眠作用……」

「うん。……俺はね」


 幼少の頃の、自分に背を向けている両親の姿が、脳裏に浮かんだ。


「睡眠障害なんだ」


 夜は、凪にとっての避難場所だった。


 静まり返った暗い歩行者通路を、当てもなくふらふら歩いた日。生まれて初めて、自由だと思った。親から、家から、解放された。社会が眠りについている。けれど時々、自分と同じように、電気の点いている部屋がある。起きているのは赤の他人だ。縁もゆかりもないどこかの誰かの存在が、凪にとっての共同体だった。


「病院は?」

「行かない。治らない」

「何で決めつけるの?」

「生まれつきだから。俺は赤ん坊の頃から寝れない子だった。それで母親は産後うつになった。後はどうやって育ったのか記憶にない。金がかかるから病院には何度も行かせられないって、父親は言った。俺は受け入れた。だからこれからも受診することはない」


 まゆはひどく悲しそうな顔をした。


「お前が落ち込むことないのに」


 余計愛しくなってしまう。

 二言目は言わないでおいた。


 まゆが再び顔を上げた。

 熱っぽい瞳で、凪を見つめる。火だと思った。自分が付き合う女は誰もが何かに燃えていた。


「好き」


 告げられた。胸の中に、こらえ切れない感情が潮騒のごとく響き渡る。


「凪が好き。好きだよ」


 唇を噛みしめた。

 手を伸ばしてもいいのだろうか。

 定職にも就けない、一日の生活を生き抜くことがやっとの、低賃金労働者の。


「この先どうなるかわからない。でも今、凪の過去の一部を知れてよかった。凪のことが見えた気がして、嬉しくなった。もっと教えてほしい。私にいろいろな面を見せて」


 どんな言葉を伝えればいいのか、今まで凪は熟知しているはずだった。こう返せば相手は気持ちよくなるだろう、納得するだろうと、人の感情を受け取るのが得意だと思っていた。


 口ごもる自分は、正直かっこ悪い。取り繕う術も忘れた。


「まゆ」

「ん?」


 目の前の女は柔らかく微笑む。どんなタレントよりも美しく。


「キスしたい」


 まゆは笑った。心から幸福そうに。


「恥ずかしい台詞だね」

「うん、俺もそう感じる」


 互いに笑い合った後、甘くこそばゆい雰囲気が流れた。

 彼女が目を閉じる。

 凪は一歩ずつ近づいていった。


 相手の身体にふれた。

 自分とは違う柔らかな肌触り。手を握った。細くて長い指だった。俺のよりずっと小さいんだなと、心に疼く密かな色欲を感じた。この上ない愛情も。


 まゆの手を握りしめたまま、唇にそっと、自分のものをあてがう。

 反応を探るように、機嫌をうかがうように、慎重に。


 まゆは凪のキスに応えた。

 受け入れられた。

 言いようのない寂しさが埋まったような、包まれるような安心感が、染み渡った。


(ありがとう)


 恋人を抱きしめた。今度は強く。


 足りない、与えられない、持っていないと嘆いていた今までの己を、存在ごと肯定してもらえたかのような、満ち足りた感情が胸の内に迫った。枯渇していた心が、深い川底へ沈んでいく。


 まゆの腕が背中に回った。

 細い力だった。懸命にこちらを求める温もり。

 与え返したいと、生まれて初めて凪は思った。


 その瞬間、自分の中に棲むどうしようもない小さな男の子が死んだと、悟った。


 終わったのだ。


 冷たい夜風が吹いた。

 なんてことのない寒気。


 凪とまゆは、支え合うように互いの熱を抱きよせていた。


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