5
足がY公園の方角へ向かっているのは自覚していた。
新田にかけられた言葉を反芻しているうちに、凪は知らずと電車に飛び乗っていた。各駅停車、青梅行き。
吊り革に掴まる。窓越しに、高速で流れ去る民家が見える。一つ一つの家庭に、それぞれの家族が帰って、食事をとって眠りについて、朝になれば家を出ていく。それが当たり前のようにくり返され、これからもくり返されていくと信じて疑わない。
胸の奥がきゅっとなる。
自分が何を欲しがっているのか。
渇望しているものを自覚してないほど子どもではなかった。けれど手を伸ばせる容易さでもないことも、充分承知していた。
外の景色はだんだん中規模のビルやショッピングセンターに移り変わっていく。目的地が近づいている。行きたくないのに、行きたいと望んでいる。
出会わなければよかったとさえ感じていた。
蝶野まゆを、知りたくなかった。
電車は駅に到着する。
懐かしい街並みと、どうにも垢抜けないホームの外観。
凪は足早に階段を下りる。エスカレーターを使うのもじれったかった。
Y公園には先客が何名もいた。知らない間に有名スポットになったようだ。夜の初めの時間帯だからか、あの時散歩をしていた季節柄、たまたま空いていただけだったのか。
数人で台詞の掛け合いを練習する役者の卵たち。敷地内をジョギングするランナー。ブレイクダンスを習得しようと励む若者。夢を追う人間たちで満ちたY公園の、奥の方の窪まった場所――まるでステージのように見える広場だ――そこに、彼女を見つけた。
初めて会った時と変わらない、強くしなやかな踊り。圧倒的なリズム感を見せつけるような身のこなし。自身の生きてきた道程を誇りに思う者だけが持つ、エネルギッシュな魅力があふれていた。
あの頃の、怒りに任せた動きではなかった。
美しかった。
凪は、一歩ずつ近づいていく。
まゆがこちらに気づく。
表情を硬くさせる彼女に、努めて穏やかな口調になるよう、話しかける。
「踊ってたんだ。……まだ」
「うん」
まゆはこくりとうなずいた。
本当は、お前の動画も欠かさずチェックして、見守っていたんだよ、なんて台詞は言わない。自分が彼女の立場だったら、そんな薄気味悪い行為をする男など願い下げだ。
凪とまゆの間に、沈黙が下りる。
そのまま幾秒か過ぎ、まゆが口を開いた。
「何か、変な感じ。どれくらい会ってなかったかわからないのに、あんたを目の前にすると自分が自分じゃなくなる」
「……と、いうと?」
それとなく聞くと、厳しい叱責が飛んできた。
「喧嘩したんじゃないの、私たち? そのままどっちも連絡しなくて、自然消滅だって思って……」
「うん、俺も思った」
「じゃあ、どうして来たの?」
「わからない。俺にも説明がつかない」
まゆは深いため息をついた。落胆の色と期待のまなざしが込められた反応だった。
「やめるの、私」
「…………え」
一瞬、自分の耳を疑った。
だが間違いなく、蝶野まゆはそう言った。
「夢を追うのはもうやめる。ダンスは趣味で続けることにした。就活しなきゃ。来年三年生だし」
「ハタチじゃん」
息せき切ってこぼれ出すわけのわからない感情に押されて、凪は反論した。弱気になる彼女の顔を見るのが我慢ならなかった。
「キラキラの成人じゃん。ピチピチの女子大生じゃん」
「……バカなの? その世界じゃもう遅いんだよ」
「小便くさいガキなんか相手にするな。色気もへったくれもねえ小娘になんか真似できない、お前自身の魅力ってもんがあるだろ」
まゆの瞳は冷え切っていた。凪が強気な姿勢を見せれば見せるほど、かえって表情が暗くなっていく。
(何でだよ)
一向に理由が見当たらず、凪は感じたことのない不安と憤りを抱いた。
「やたらと私の肩持つね」
まゆは拗ねたように顔をそらす。
「そりゃあな、恋人だし」
当てつけのように言ってやると、今度こそ重い空気が流れた。凪が最も苦手とする、張りつめた意識のせめぎ合いが、肌に痛かった。
「何か言えよ」
「凪にあげられるものは、もう何も残ってない」
「……は? 何だよそれ」
すごむ勢いで、強く尋ねる。まゆは沈黙を貫く。
埒が明かない。凪は正直な気持ちを伝えることにした。
「残念だな。お前には……さ」
いざ言葉に出すと、胸にちくりと空しさが刺した。
「パフォーマンスアートの精神を感じたのに」
彼女がこちらに顔を向けた。
すがるような瞳と、その奥に隠れる、凪への熱い情欲が見て取れた。
何かを必死にこらえている。まゆの中から強い思いが熱となって放出されている。
「そっちこそ」
まゆは泣き声に近い声色で訴えた。
「何でも話してほしかったのに」
(――――ああ)
隠しごとはなぜバレるのだろう。
「夜に、眠れないのは……。いつから……。子どもの時からずっと、続いてるなら、どうして病院に行かないの……? 私じゃ癒せないなら、今になって会いに来ないでよぉ……」
まゆは子どものように泣きじゃくっていた。顔を覆った手のひらがひどく震えている。
凪は知らずと空を見上げた。
冷たい風。暗闇を灯す常夜灯。今日は晴れてるのだろうか、星がチカチカと瞬いている。こちらの都合のために天気は悪くなってくれず、肩を濡らす雨は降らない。
「毎日飲んでるあれも、教えてくれない……」
消え入りそうにつぶやいたまゆの台詞に被せるように、凪は告白した。
「生姜スープなんだ」
途端、まゆはきょとんとする。無防備な表情を、ああ、可愛いと、素直に思えた自分に驚きを感じる。
凪は続けた。
「寒くなったら、あそこの自販機で発売するんだ。温かい飲み物で、睡眠作用の効く生姜がすげえいっぱい入ってんの」
「睡眠作用……」
「うん。……俺はね」
幼少の頃の、自分に背を向けている両親の姿が、脳裏に浮かんだ。
「睡眠障害なんだ」
夜は、凪にとっての避難場所だった。
静まり返った暗い歩行者通路を、当てもなくふらふら歩いた日。生まれて初めて、自由だと思った。親から、家から、解放された。社会が眠りについている。けれど時々、自分と同じように、電気の点いている部屋がある。起きているのは赤の他人だ。縁もゆかりもないどこかの誰かの存在が、凪にとっての共同体だった。
「病院は?」
「行かない。治らない」
「何で決めつけるの?」
「生まれつきだから。俺は赤ん坊の頃から寝れない子だった。それで母親は産後うつになった。後はどうやって育ったのか記憶にない。金がかかるから病院には何度も行かせられないって、父親は言った。俺は受け入れた。だからこれからも受診することはない」
まゆはひどく悲しそうな顔をした。
「お前が落ち込むことないのに」
余計愛しくなってしまう。
二言目は言わないでおいた。
まゆが再び顔を上げた。
熱っぽい瞳で、凪を見つめる。火だと思った。自分が付き合う女は誰もが何かに燃えていた。
「好き」
告げられた。胸の中に、こらえ切れない感情が潮騒のごとく響き渡る。
「凪が好き。好きだよ」
唇を噛みしめた。
手を伸ばしてもいいのだろうか。
定職にも就けない、一日の生活を生き抜くことがやっとの、低賃金労働者の。
「この先どうなるかわからない。でも今、凪の過去の一部を知れてよかった。凪のことが見えた気がして、嬉しくなった。もっと教えてほしい。私にいろいろな面を見せて」
どんな言葉を伝えればいいのか、今まで凪は熟知しているはずだった。こう返せば相手は気持ちよくなるだろう、納得するだろうと、人の感情を受け取るのが得意だと思っていた。
口ごもる自分は、正直かっこ悪い。取り繕う術も忘れた。
「まゆ」
「ん?」
目の前の女は柔らかく微笑む。どんなタレントよりも美しく。
「キスしたい」
まゆは笑った。心から幸福そうに。
「恥ずかしい台詞だね」
「うん、俺もそう感じる」
互いに笑い合った後、甘くこそばゆい雰囲気が流れた。
彼女が目を閉じる。
凪は一歩ずつ近づいていった。
相手の身体にふれた。
自分とは違う柔らかな肌触り。手を握った。細くて長い指だった。俺のよりずっと小さいんだなと、心に疼く密かな色欲を感じた。この上ない愛情も。
まゆの手を握りしめたまま、唇にそっと、自分のものをあてがう。
反応を探るように、機嫌をうかがうように、慎重に。
まゆは凪のキスに応えた。
受け入れられた。
言いようのない寂しさが埋まったような、包まれるような安心感が、染み渡った。
(ありがとう)
恋人を抱きしめた。今度は強く。
足りない、与えられない、持っていないと嘆いていた今までの己を、存在ごと肯定してもらえたかのような、満ち足りた感情が胸の内に迫った。枯渇していた心が、深い川底へ沈んでいく。
まゆの腕が背中に回った。
細い力だった。懸命にこちらを求める温もり。
与え返したいと、生まれて初めて凪は思った。
その瞬間、自分の中に棲むどうしようもない小さな男の子が死んだと、悟った。
終わったのだ。
冷たい夜風が吹いた。
なんてことのない寒気。
凪とまゆは、支え合うように互いの熱を抱きよせていた。
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