第二章 *早春*


 まゆのSNSに一種の兆しを感じ始めたのは、冬の終わりに差し迫った季節のことだった。


 その頃、凪は店舗先でも異動が決まって、交通の便が少々悪い場所へ配属されていた。まゆのダンス練習を観察し続けられていたY公園へ行くのもままならず、それなりに忙しく、気だるい毎日のサイクルに戻った。しばらくぶりの平穏さが心地よかった凪の目に、まゆの個人動画の再生回数の回り方が、いつもと違って見えた。


 今までなら、ある程度の数字を突破するのに一定数の時間を要していた「壁」が、少しずつ薄くなってきている気がしたのだ。


 徐々にまゆのファンがついている。

 凪は確信した。


 だがそう思ったところで、あれ以来まゆとは一度も連絡を取っていない。ほぼ関係は途絶えている。もはや自分と彼女をつなぐ糸は切れているのかもしれない。凪はほとんどあきらめていた。


 今さら何か言ったところで。

 凪は動画サイトを閉じ、出勤の準備を始めた。



「彼女と別れたん?」


 異動先でさっそく仲良くなったメンバーと休憩時間の談笑をし、相手から痛い言葉をかけられ、凪はどきりとした。


「えー、自然消滅かなあ」


 視線を泳がせて半笑いを浮かべる。


「あんたから連絡してやったら?」

「うーん、気分が乗らなくて」

「うわ、サイテー」


 メンバーの新田(にった)は眉をひそめ、女たらしは困るわーと小言をくり返す。


「あいつの進む道には将来性が感じられないんだよ。次は堅い女を捕まえないと」

「誰かー。ここにクズ男がいまーす」


 新田は大仰に息を吐き、自作の弁当を広げて箸を動かす。ウインナーをはさみ、凪のカップ麺にポイッと放り投げる。


「あげる。私からの慰めとして。栄養ないでしょ、その量じゃ」

「何だよそれー」


 新田は凪の異論にかまわず、ほうれん草のひたし、卵焼き、プチトマトなどを次々に放る。凪は大人しく受け取って、麺と一緒に口に入れる。


「俺がかわいそうなんじゃなくて、俺に遊ばれた蝶野まゆさんがかわいそうなんですよ」


 得意げに笑う凪を見て、新田は若干深刻に表情を落とした。


「溺れてるのは、凪だと思うけどなあ」

「まさか」


 凪は一笑する。新田がこちらを見ている。


「悪趣味なストーキングしてたら、まゆちゃんから声をかけられたんだよね?」

「おう」

「まゆちゃんのどこに惹かれて、付き合ったの?」

「いや、向こうから告白された。これ俺の自慢なんだけど、自分から行ったことないのよ。絶対相手に惚れられるの。みんなそうだったし」


 いったん間が空き、次に新田の台詞が降ってきた。


「たぶん、あんたが哀れだからじゃない?」

「…………は?」


 凪は鋭い目で凄んでみせた。関係性ができあがってる新田の前では効果などないが、たやすく「哀れ」と言われて受け入れるほど、自分は落ちぶれてないと凪自身思っていた。


 新田は凪のにらみを正面から受け止める。そして続けた。


「女は、あんたを見ると愛情を与えたくなっちゃうのよ。母性っていうか、慈愛の心っていうか。この人孤独で震えてるから、上着くらいかけてあげるかなあ、みたいな感情だと思う。女は孤独を読み取るのがうまいから」


 へえ、と凪は淡白な返事をした。新田から分けられたウインナーを頬張り、締めのスープを半分ほど飲む。インスタントの安っぽい味が、腹にしみた。


「対してあんたは、受け入れてるふりして、求めてる。先にまゆちゃんに恋したのは凪の方だよ」

「何で断言できるのさ」


 だって、と新田は言いかけ、口をつぐんだ。数秒気まずい沈黙が流れる。


「怒らないから言えよ」

「えー、じゃあ言うけどぉ。――死んでるじゃん。今のあんた」

「もとからこういう顔だっつの」

「最近ますます干上がった男みたいに見えるよ」

「人を魚に例えるな」


 言葉の応酬をしばらく交わした後、休憩時間の終了を知らせるタイマーが鳴った。

 さて、仕事仕事、と新田は逃げるように席を立ち、さっさと持ち場へ戻っていった。凪も立ち上がる。


 最初から、心なんて死んでるし。


 流されるのが性に合っていた。木枯らしに吹かれ巻き上がる落ち葉のかたまりのように、何も逆らわず動かされず、時代の潮流に押されるまま生きるのが好きだった。


(だってそっちの方が楽しくない?)


 なぜみんな抵抗するのだろう。上へ行こうとするのだろう。ここではないどこかへ、居場所を探しに出かけるのだろう。


 俺にはわからない。周りの意思が。

 凪はレジのカウンターに立ち、事務作業に集中した。


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