3
「ねえ、俺、告白されちゃった」
「告白じゃねえだろ。通報だろ」
昼のピークを過ぎた店内に、客の数はまばらだ。在庫の補充を確認する凪に、ピンチヒッターのメンバーがイライラと答える。担当じゃない曜日に呼び出されて機嫌が悪いのだ。凪はかまわず話しかける。
「動画けっこう送られてくる。夢に向かってがんばってるんだってさ。プロポーションもいいし、才能あると思わない?」
「女子高生に手出すクソ野郎じゃん」
「ちがう、ちがう。女子大生。二十歳。ギリギリセーフ」
「お前と付き合って何が楽しいんだか」
「たとえば、さ。悩んでいる時に話をひたすら聞くっていう才能がある。俺は」
「ふーん。てか、就職どうすんの?」
「あと一年踏ん張るって」
「ふーん。みんな何かになりたいのかねえ」
同僚はぽつりと言って、奥のカウンターに引っ込む。凪はレジ棚の釣り銭を確認する。空から金が降ってくればいいのになあと妄想しながら、この日の仕事を終えた。
「まゆの踊ってるジャンルって何?」
恋人を自宅へ送る帰り道、凪は聞いた。まゆのしなやかな手足を毎日鑑賞しているわりに、自分は無知であるのをそれとなく気にし出した頃だった。
「うーん、凪はあまりダンスについて知り過ぎることないよ。私、博識家きらいなの。凪は頭でっかちにならないで」
少しつり気味に上がった目もと、よく整えられて綺麗な体裁を保った眉、口調からにじみ出る溌剌とした声が、まゆの手垢のついていない若さを強調していた。
「俺はずっと素人でいいの?」
「そうそう。私のお客さんだから。私だけの」
まゆは満足そうに、こちらに腕を絡めてくる。彼氏としての優越感を感じるとともに、ある種のしこりのようなものが凪の心に巣くう。
(いろいろと、憤ってるんだろうな。自分にも人にも)
横断歩道を渡りながら、まゆがこちらをじっと見上げているのに気づいていた。
「凪こそ、いつも何飲んでんの?」
「ああ、あそこの自販機でしか売ってないマイナーな飲み物」
「レアもの?」
「そう、売れ筋じゃなくて一点もの。みんなの口には合わないんだよなー」
「私の口にも合わない?」
「まゆには難しいだろうなあ」
ふうんと言ったきり、まゆは会話をやめた。
信号機が点滅する。小走りで歩道を渡り終え、何となく話を続けるのも気だるい感じがした。
まゆの手が腕から指先に絡み始めていた。
何となくそれっぽい行為をする空気になったのを察知した凪は、恋人の頭を自分の方に引き寄せた。
鼻筋にそっと唇をのせた後、ゆっくりと下って、口にたどり着いた。
数秒、柔らかな時間を楽しんだ。
幸せな瞬間が自分にはあった。
甘えられる異性に思いきり甘えて、最後にとんでもない奈落の底まで突き落とされたいという劣情。立ち上がれなくなるくらい倒れ込んで、溺れてすがりつきたいという、消し炭のような欲望が。
常に自分の内に眠る動機のままに生きてきたつもりだ。これからもずっと遊ばれて、受け入れられて、そして五月女凪という形を溶かして分解され続けるだろう。理念も概念もいらなくなるほど、這いつくばりたかった。
口を離すと、まゆの瞳にいつにも増して暗い陰が差していた。
「……まゆ?」
「私はおかしい?」
まゆの瞳は何かに揺らめいていた。
熱いものを感じた。火。自分が付き合う恋人はいつも何かに燃えていた。火だと思った。自分自身へ向けるものもいれば、社会に向かっているものもあった。それは形容しがたい感情だった。まゆの中から身体を超えて噴き出しているその様が、凪にはわかっていた。
「もう一度言うけど、まゆは何に怒ってるの?」
恋人は再び口をつぐんでしまった。
「現状? まゆは踊ることで何を伝えたいの」
ひりっとした感覚にふれた。
ああ、苦手だな。
相手の核心をつく時にあふれ出る殺伐とした緊張感が、凪は苦手だった。そのくせそこを無自覚につくのは誰よりもうまい。
「多分ね」
壊そうかな、と思った。
「合ってないんだと思うよ」
冷静に出した声は低い響きを伴っていた。
「まゆのやりたいことと、目指すべき方向性が」
相手が目を見開く。
「私にダンスは向いてないってこと?」
「違う。方向性って言っただろ。ポップなことやってるじゃん、今。でも周りがお前に求めているのは、それじゃない。お前の笑顔は怖い。笑いながら、美しい顔で踊るお前がすごく怖いよ」
きっと自覚があるのだろう。まゆの瞳が揺らいでいた。不安そうに交差する互いの視線。彼女の目に自分の無表情な顔が映り込んでいる。
「まゆは知ってるはずだよ」
掴まれている腕が痛い。きつく指を食い込まれている。
「今のままじゃ飛べないってこと」
まゆは押し黙った。
この子は、本当は気づいているのではないか。自分が彼氏に求めているものと、凪が自分のどこを見ているのかという視点に。
「まゆは俺にどうしてほしいの」
「……私は」
「まゆの理想の通りに生きてあげたいよ。ああしてって言われたら、いくらでも叶えるし、何も知らないファンでいてほしいのなら、ずっとそうしててあげる」
「私は」
言葉が途切れた。
重苦しい空気が流れる。
時間だけが無常に過ぎていく。
「何がしたいの」
凪は尋ねた。
まゆは言葉を失っていた。
この子の中に何が眠っているのか、何にわだかまり、何に心動かされ、何を手放せるのか、凪は指し示すことをずっとためらっていた。
凪の方もわかっていたのだ。
まゆは凪を心のよりどころにしている。まゆが満たされれば、自分たちの関係も終わることを。
まゆは夢が叶えば旅立てばいい。けれど凪は空っぽだ。凪が何かで満たされることは、凪自身を慰めるものは、ないのだ。凪に自分を説明できるものは備わってないのだ。
強いて言うなら、それは女か。
凪は女に――異性に、すべてを求めていた。
ずっと誰にも伝えていないことがあった。
凪は、子どもの頃から、真夜中に外出していた。
保育園から家に帰る時。小学校から家に帰る時。
凪は一人だった。
両親はいる。凪を送り迎えし、食事を作り、寝床を提供していた。
けれど凪は、一人だった。
凪は、二十五年間生きて、自我が芽生え始めた時期からずっと、泣いたことが一度もなかった。
泣いても誰も自分のもとには来ないことを、知っていたからだ。
凪の両親は、赤子の凪を――凪自身にその記憶はすでにないけれど――ベビーベッドに置いておいた。ぐずる凪を、あやそうとしなかった。凪が泣き止むまで、どんなに大声で訴えても、両親は凪に近づこうとしなかった。凪がやがて、涙を流すのは無駄なことだと悟るまで、黙り続けた。
家には静寂が流れていた。他愛ない話や、世間で流行っているもの、それらを共有する秘密の「五月女家」としての意識のつながりが、なかった。不気味な静けさだけが凪の育った家庭を示唆していた。
その奇妙な冷たさは、ある日突然、終わった。
凪が小学校を卒業し、地元の中学に進学する頃だった。
両親が、凪の誕生日にケーキを用意した。
「家族らしいことをしよう」と、二人は、それまでの互いの張りつめた空気感が嘘のように、仲良くなり出した。
凪にほしいものを買い与えるようになった。スマホがほしいと言えばすぐに契約し、ゲームがしたいと言えば専用の機器を探し出し、小遣いを上げろと言うと、額は二、三割増しになった。
十五歳になる頃、両親からもらえる金額が月四万を超えた時――凪は、ねだるのをやめた。
おそらく、あの不思議な冷え切った家は、二人の不仲が原因だろう。親は共働きだ。仕事のことや、互いの心の距離、育児ノイローゼの問題もあったのだろう。凪は自分の家族を責めたりはしなかった。二人も人間だ。追いつめられている時、人は自分が情を失っている事実に気づかない。
誰かに抱きしめられたかった。
その対象がなぜ、女になるのか。
父親でもよかったのに。
求めているのは、なぜ、母親だったのだろう。
まゆが自分に応えてくれない理由は、どこにあるのか。
知り合った女たちは、どうしてみんな、離れていくのか。
凪にはわからない。
凪は空っぽだからだ。
「もう、いい」
まゆの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「凪にはもう何も求めない」
掴まれている腕からまゆの力が抜けていく。
恋人の心が、自分の懐からすり抜けていく気配がした。
「わかった。じゃあ最後に言っておくけど」
凪はわざとらしくため息をつき、冷徹な目を向けてやった。
「まゆ自身の、”ダンスを好きな理由”を見つけられない限り、まゆはずっとそのままだよ」
まゆは返答せず、凪から目をそらした。凪の手を振り払い、怒りをあらわに立ち去った。いっそ前につんのめりそうになるほど速く、まゆは後ろを振り返らずに家路への道を突き進んでいった。
第二章へつづく。
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