彼は誰時


「・・間違いない」 

 夜の繁華街の裏側。スナックやソープ、中国式マッサージなんかの風俗店がみっちり詰まったビルとビルの隙間である。野良猫と浮浪者の縄張りの一角に遺棄されたような恰好で置かれたひしゃげた段ボール箱。『青森リンゴ』と印刷されているのが辛うじて判別できるほど朽ちている。その上に鎮座しているのは半分に切ったメロンほどの大きさをした丸い黒曜石の盤。まるで夜空を閉じ込めたような漆黒の盤上、その中央をぼうっと白く煙ったような銀河の帯が流れ、星座早見を思わせる。目を凝らすと針の先程の光が無数に散らばり、時々小さな爆発が起きている。そのコンパクトサイズの小宇宙を見守る影のような浮浪者の向かいに踞った瞬間から、彼女は鼻で呼吸をすることをやめている。蓄積された垢と饐えた匂いで吐気を催したからだ。それでなくても、成人一発目の深酒だ。喉元まで迫り上がるアルコールをさっきから必死に飲み下しているが、もう限界だろう。彼女の脳裏を占めているのは占いよりも嘔吐だった。自称占い師だと名乗る浮浪者は、変に甲高い声だが話し方から察するに男、なのだろう。老年よくて中年程の年齢。男の視線は盤に注がれたまま微動だにしない。まるで盤の中で起きる小宇宙の変化を微細であっても見逃すまいとでもしているようである。でも、たかだか作り物じゃんと彼女は後悔し始めていた。酔いも手伝った興味本位でこんな裏路地に足を踏み入れてしまったことを。怪しい浮浪者の言葉にうっかり反応してしまったことを。だが、それも然もなん。浮浪者は唐突に告げたのだ。『父ちゃん、生きてるよ』と。

「・・間違いない」

 鼻を啜り上げた男は小宇宙から目を離さず、機械的な口調を装って繰り返す。小宇宙と比べ、浮浪者のなんと見窄らしいことか。まず目立つのは、なんといっても頭部。顔半分を隠すように蔓延ったジャングルのような毛髪と髭と鼻毛である。目と眉毛は密林に埋もれて消失している。ジャングルを押さえ付けることに完全に失敗している垢染みたキャップは、所々破けて鍔の芯が見えた幽霊船を思わせる有様で剛毛の海に流離うが如くちょこんと乗っかっている。鬱閉した熱帯雨林に囲まれたひび割れて変色した唇からは齲歯と歯っ欠けの不潔を形にしたような口内が蠢く。服装は、女物の水色ブラウスに男物の粗野な岩色のセーターを合わせ、その上にトレンチコートと革ジャンを重ね、下半身は分厚いジーパンとツイード地のチェック柄のロングスカートというチグハグな有様である。盤に翳す皹た手の爪は長く黒ずみ、粉を吹いた毛だらけの腕には時計が二つ埋まっている。極めつけが殺人兵器に成りうるだろう強烈な口臭である。そんな浮浪者の全ては、ある意味では超然としているのだろうが、いくら占い師風の言葉を口にしたところで怪傑には程遠く、神秘的な小宇宙には不似合いそのものだった。

「どこでこれを手に入れたの?」

 彼女は定まらない視点のまま盤を覗きながら問うた。盤上では砂絵のような星々がゆっくりと渦を描いている。凝視していると吸い込まれてしまいそうだ。綺麗だけど、やっぱりバカらしいわと彼女は鼻白む。これのどこに父の行方が書いてあるというのか。いい加減なことを言って金をふんだくる気であるのに違いない。彼女の懐疑的な問いに占い師は暫しの沈黙を挟んだ後に答えた。

「コイツの出自はハッキリしてない。戦前に書かれた童話の中で数回、確認できた。その後どんな経緯を辿ったのか知らんが、そこの角を曲がったゴミ捨て場の隅に転がっていたのさ」

 つまりは拾い物、それもゴミらしい。ゴミをそれっぽく覗いた予言なんて当てになるものかと彼女は呆れ、怪訝な顔を背けて嘔吐いた。生温いアルコールと消化されていないカルボナーラの混合物が喉元を通過する度に彼女の気分はますます悪くなった。視界がぐわんと揺らいで回る。胃が空っぽになっても吐気は治まらない。彼女は地べたに体育座りになって膝頭に顔を埋めた。本当は寝転がりたいくらいだったが、生ゴミと汚物だらけでの不衛生極まりないこんな汚い場所ではさすがに気が引けた。腕の隙間から覗くと、疑雲に包まれた男は彼女には一瞥もくれずに盤を凝視している。まるで小宇宙の監視員だ。気のせいか浮浪者を包む夜陰が黯然と濃くなり、輪郭すらも暮夜けているようである。

『うちに、帰ろう』

 どこからか父の声が聞こえた気がした。彼女はビルに散々切り取られた夜空の破片に揺蕩う視線を転じた。派手なネオンに照らされた夜空は排水溝で淀んだ汚水のような色をしており星は見えなかった。




 横井家は、父と母と娘のごく一般的な家族構成である。駅から徒歩圏内である利便性を重視して購入した三十五年ローンの庭付き一戸建ては小さいながらも暮らし勝手はよく、休日には家族揃って愛車のカローラに乗って出掛けることも多い。定期的に行っていた家族旅行は、娘の都合上、三年ほど実施されていない。

 横井家の大黒柱の達郎は、地味で控え目な性分のため会社でも家庭でもどちらかというと唯々諾々に近い人物。所謂『ただの』『都合の』『性格の』いい人である。働き蟻のように勤勉で謙虚なサラリーマンの彼は滅多に不平不満を抱くことはないようで愚痴を漏らすことは皆無と言ってよかった。けれど、普通科都立高校に通っている一人娘の杏はそんな父が情けなくて嫌だった。成績は中の上。運動はまあまあ得意で、バトミントン部に所属し、クラスではわりとはっちゃけているグループに属し、バスケ部に片思いしている先輩がいる杏。卒業式で告白するかしないかが彼女の目下の悩みである。母の恭子は、噂話に敏感でご近所の立ち話には必ず参加する野次馬的な一面を持つ人物である。彼女は、遊んでばかりいる娘の成績に頭を悩ませつつ塾を検討しながらも安くもない美容器具を衝動買いして後悔したり、今晩のおかずは手の込んだ料理にしようと朝は決めたのに夕方にはどう楽しようか考えたりしている所謂普通の専業主婦である。だが時として優柔不断の夫を引っ張ってサポートしていく強さと優しさを兼ね備えた一面もあり、夫の達郎にしてみれば一生頭の上がらない妻でもあった。祖父母は揃って数年前に他界しており、達郎の兄が存命だが祖父の葬儀に顔を合わせた際、メキシコに移住すると言っていたのを最後に消息不明である。

 その日、杏は珍しく明け方に目が覚めた。昨夜の熱帯夜であまり寝付かれなかったのである。

 制服に着替えた彼女が欠伸をしながら階段を降りていくと、玄関で達郎が靴を履いていた。

「おはよう」と声をかけた娘を意外そうに振り返って破顔する父。見慣れた地味な色合いの夏物スーツを着ている。ぼんやり霞んだような鼠色。存在感が希薄な、人がいいばかりの達郎にぴったりの色だ。

「おはよう。寝坊助の杏が見送ってくれるなんて今日はいい日になりそうだ」

 眼鏡の奥の細い目を線にして笑う達郎は、靴紐を結び終わると立ち上がって鞄を掴んだ。

「ふんだ。悪かったわね」べーと舌を出す杏。

「早起きは三文の徳と言うから、きっと杏にもいいことあるよ。じゃ、行ってきます」

 父を見送った杏がふと見ると、靴箱の上に達郎の折畳み傘が置いてあるのを見つけた。

「ママー。パパが傘忘れてるー」台所で娘のお弁当を詰めている母、恭子に声をかけた。

「あらあら、珍しいわね。あなたがこんな時間に起きてるのも。お父さんが傘忘れていくのも」

 恭子は弁当箱に唐揚げを詰めた終えた菜箸を休めて、欠伸をしながら出し巻き卵に指を伸ばす娘に目をやった。

「今日は一日晴れだって天気予報で言ってたから大丈夫だと思うけど、気になるなら走って渡しに行けばいいじゃないの。まだ間に合うわよ」

 ゔぇー・・と卵焼きを咀嚼しながら苦渋面を母に向ける杏。

「無理ーこの暑いのに、朝から無駄に体力使いたくなーい」

 この折り畳み傘を届けてあげるべきだったと、杏は後に悔いることになる。

 その日の午後、天気予報に反してどす黒い曇群が急速に街を覆った。雲中では巨大な猫が咽を鳴らすような不吉な音が絶えず響き、それがイントロとなりゲリラ豪雨と落雷の激しい演奏が始まったのである。容赦ない落雷は、停電や電線の切断だけに止まらずビルのガス爆発まで引き起こした。テナントで入っている飲食店のガス漏れが原因でガスが充満していた五階建てのビルに運悪く落雷し爆発したのである。そして、その爆発に達郎は巻き込まれた、のではないかと検証されている。彼は当時、営業のため昼前に外出し、爆発の寸前に件のビルの一階に入っていたコンビニでビニール傘を手にレジに並んでいた映像が、辛くも無事だった防犯カメラで確認できていた。けれど、肝心の本人は救出も発見もできずにいた。というのも、爆発元が二階だったため上階が崩れ落ちて最下階を圧し潰していたことにより救助が難航し、腐敗が進みやすい夏場だったことも遺体判別が困難になる要因となっていた。瓦礫に埋まった被害者達の遺体は損傷が激しく、辛うじて焼け残った衣服や持ち物や指紋、歯の治療痕などで個人を識別しているような有様である。そのため、達郎が愛用していた鞄や革靴、腕時計や眼鏡だけが発掘され、恭子と杏の元に運ばれてきた。スーツのジャケットの断片も見つかったが、依然として遺体は発見されなかったのである。

「あの人は、きっとどこかで生きてる」

 遺留品を手にした恭子は唸るように呟いた。母は希望を捨てたくないのだと了解した杏は、そうだねと同意した。内心は複雑だった。いい日になんてならなかった、いいことなんでなかったどころか最悪な日になった事実をひたすら呪い、これが夢であることを父がひょっこり帰ってくることを願っていたのである。恐らく父のものかもしれない粉々になった頭部の一部が発見された時にはさすがに覚悟したが、DNA鑑定の結果が曖昧だったため希望は持ち続けた。しかし、救助活動は難航を極めていた。

 建物が崩壊した影響で脆くなった地盤沈下が起こっている可能性が高く、まだ発見されていない遺体はそこに落ち込んでいるかもしれないという事実を知らされたのは爆発事故から一ヶ月経った頃である。ビルの持ち主と連絡が取れない状態なので、勝手に重機を使って瓦礫を取り除くことが不可能であり、更には爆発事故の救出に設けられた作戦期限が残り僅かであることを告げられたのである。それでは夫の遺体はどうなるのかと責め立てた恭子に、若い警察官は現状ではどうにも手出しができませんと苦しげな皺を寄せて冷徹な返答を寄越した。

「持ち主に連絡は取り続けています。希望は捨てないでください」

 そうして呆気無く半年が過ぎてしまったのである。

 感情の大波に弄ばれるだけの怒濤の半年だった気がする。唯一の働き手である達郎を失った横井家は危機的状況に見舞われていた。家のローンは、世帯主の達郎が死亡した場合であれば残りは消失するプランに加入していたのだが、死亡したのかどうか不明な現状では変わらず毎月発生していた。今の所はなんとか貯金を崩して凌いではいたが、もういくらも持たないだろう。恭子は大学を出て間もなく主婦になってしまったので、今更社会に出ることに抵抗があり年齢的にも厳しいと思っており、杏はアルバイトすらしたことがない。チラホラと父の供養の話が出始めていた。どんな形であれ、父の死亡届けを出すことができればローン返済はなくなるのである。幸いにも彼女らの手元には、恐らく父のものと思われる頭蓋骨の一部が保管されている。けれど、達郎の生存の可能性を捨て切れなかった、捨てたくなかった恭子は夫の死亡届を提出することを断固拒否した。

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。だって、このままだと破産なんでしょ?」さすがの杏も危機感を抱き始めていた。

「イヤよ! 死亡届なんて出したら、お父さんが帰ってきた時、お父さんは存在しない人になっちゃうじゃないの!」

「ねぇ、まだパパが生きていると思ってるの? もう半年だよ?! いい加減に諦めようよ!」

「なに言ってるの、あなたは! 勝手にあの人を殺さないでちょうだい! そんなに死んで欲しいの?!」

「そんなこと言ってないよ。だって、このままじゃ・・」

「わかったことを言わないで! なにも聞きたくないわ!」

 怒鳴られた杏は一瞬怯えたように顔を歪ませたが、唇を噛んで足音荒く階段を駆け上がって行った。娘の乱暴な足音を背中に聞きながら早くも自責の念に駆られていた恭子は、扉が閉まる音で呻き声を上げてソファーに倒れ込んだ。連日の不毛な口論に、母娘はすっかり疲弊していた。熱り立ち激しくなっていく口調と言葉にお互いが傷付き、泣き叫ぶことの繰り返しで頭がおかしくなりそうだった。達郎は横井家の平穏を一緒に持ち去ってしまったらしい。夫は物静かで控えめで優しいだけが取り柄の男だった。浮気だ酒乱だと恭子を苦しませる事もなく平凡な伴侶だった。それなのに、夫の喪失がこんなにも大きなものだと初めて思い知ったのである。煮え湯ではなく生温い湯を飲まされ続けているようなものだ。生きていて欲しかった。けれど、娘の言うように、決断をしなければいけない時であることも理解していた。誰でもない、残された家族の代表者である恭子が決めるのである。だけど、決めたくなかった。彼を死んだことにしてしまったら、これからどうやって生きていけばいいのだろう。もし、死んでいるのなら、夢枕にでも立って欲しい。そうすれば、きっと踏ん切りがつくのに・・夫の存在を消すか存続させるか。その決定権が委ねられた両手で顔を覆った途端、哀哭が漏れた。娘の前では泣かぬと決めた涙が関を切って溢れ出す。彼女達の懊悩とは関係なく腹を括らなければいけない厳酷な時が刻々と迫っていた。

 薄暗い自室で、杏は静かに目を開けた。

 目覚まし時計は午前三時過ぎ。恭子との諍いの挙げ句、部屋に逃げ込み泣き疲れて眠ってしまったのである。涙と鼻水でぐっしょり濡れているうえ、頭から水を被ったように大量の汗をかいている。夢うつつに父が『うちに、帰ろう』と手を差し伸べていた。幼少期や小学生の頃、遅くまで遊んでいると必ず父が迎えにきた。父は曖昧な笑みを浮かべながら『うちに、帰ろう』と杏に声をかけるのである。なによ、帰ってないのはパパだけじゃないか、と口を尖らせて腫れあがった目元に怖々触れる。視界が狭いので、恐らくお岩さんレベルの酷い顔になっているのだと容易に想像がつく。今日が週末でよかったと安堵したら急に空腹を感じた。どうしようかと逡巡した挙げ句、杏は部屋を出ると足音を忍ばせて階段を降りていった。

 家中は水を打ったようにしんとしている。リビングの電気をつけると、恭子がソファーで眠っていた。自分と同じように涙と鼻水でベトベトのお岩顔である。杏は起こさないように細心の注意を払って母にブランケットかけた。父が愛用していたブランケットは広げると父の遺薫がした。恭子が微かに安心したように頬を緩めたように見える。恭子の煩悶が垣間見えた気がした。杏はティッシュで母の涙を優しく抑え、それから見つけた食パンを牛乳と一緒に流し込んで早朝の散歩に出掛けた。

 足元が白くなり始めても星が瞬いている群青色の夜空はどこまでも静穏である。

 杏はひんやりとした空気を吸い込んで河川敷まで歩いた。

 父の達郎も河川敷を散歩するのが好きだった。気ままに散策を楽しんだ後にベンチに座ってひと休みしているらしい。杏はそれすら年寄り臭くて嫌いだった。一度だけ、杏が友達と数人で河原を通り掛った際に、父がベンチにぼんやりと座っているのを見かけたことがある。頼りなげな様子がまるでリストラされたサラリーマンのように不憫に見え、更には友達の一人が『見てあの人、幽霊みたいに影うっす』と爆笑したため、恥ずかしくなり一緒に笑いながら知らんぷりをして通り過ぎた。寂しそうに微笑んでこっちを見ている父に罪悪感を抱きながら、内心で父に自業自得だと毒突いたことを苦々しく思い出す。こんなことになるんだったら、あんな酷いこと思わなきゃよかったと忸怩の念に駆られたが時既に遅し。時間は後戻りしない。もう一度会って、酷いこと思ってごめんなさいと謝罪をしたかった。けれど、もう父は帰ってこないのである。恭子の怒鳴り声が蘇る。

『勝手にあの人を殺さないでちょうだい! そんなに死んで欲しいの?』

 そんなわけないじゃんか・・いげちない娘の自分だとて父に生きて帰ってきて欲しいに決まっている。手元不如意の残酷な現実が父を待つことを許さないのである。それは母に怒鳴られる自分の意志ではないのに。サイクリングロードと幅広の散歩道が川を挟んで伸びている河川敷は遮蔽物がないので、夜空が大きく見える。地上の影と橙色と黄色と白と青がリトマス試験紙みたいに細く滲みながら夜空に昇っていく。茫然と見上げていると、不意に悲しくなってきた。どうしてこんな広大な空の下で、自分は一人ぼっちなのだろうかと無性に悲しくなってきたのである。穏やかな両親がいるのが当たり前だと思って生きてきた己の愚かさを呪った。父が生きているかもしれないという希望は裏を返せば絶望なのだ。希望なんて持っちゃいけない。それなのに、母と同じように希望を捨て切れない自分がいる。不甲斐ない自分が母になにかいう資格なんてないのだ。この夜明けのように不安が明ける日が来るのだろうか・・そんな日は永遠に来ないような気がした。

 時間が経つにつれて、ジョギングする人や犬の散歩をする人が出現し始めた。私たち親子を置き去りにしたまま新しい一日が始まろうとしている。恨めしげに朝陽を睨んだ杏は、太陽に背を向けて歩き出した。

 帰宅すると、鬼灯のような顔の恭子が朝食の仕度をしており、食卓の上には父の死亡届が置かれていたのである。

 鼻を啜る恭子は面映いのか、出し巻き卵の乗った皿を死亡届の横に無言で置いた。杏も黙って卵焼きを食べた。そうして月日が経ち、恭子は英会話教室に就職が決まり、奨学金を借りて大学に進学した杏は成人式を迎えたのである。成人式で久しぶりに再会した友人達と飲みに行き、泥酔した帰り道だった。

『今解散。タクって帰るから先に寝ててー』と恭子にメールを送信し終え、タクシーを捕まえようとして、ふと裏路地に目が行ったのである。なにかが反射して光っているのだ。なんだろうと淡そかに足を踏み入れたのが間違いだった。


 青銅色の夜空に散らばる大小の星がまるでライブコンポジット撮影をしたかのように無数の線を引いて軌道を描いている。船酔い宛らの視界ではあるが、杏の気分の悪さはなんとか峠を越えたらしい。自分の頭部はこうも重たいものだったのかと驚きながら億劫且つ緩慢な動きでやっとこ顔を上げた彼女は再び口を開いた。

「・・ほんとうに、パパは生きてるの?」

 闇に沈んだ浮浪者は木偶人形のように微動だにしない。不安になった杏はねえ! と声を荒げた。

 この数年、杏と恭子は達郎のことを極力思い出さないようにして生きてきた。彼の生死は二人にとって暗愁であり、禁句になっていた。死亡届を役所に提出した時点で達郎は事実上死んだも同然となったのだ。それは同時に恭子と杏の二人が達郎の死を認めたということになる。致し方なかったとは言えやはり非情な決断だったと言わざる負えない。決断に迷いがあったのは確かだ。父の死を確定してしまった罪悪感を抱いているからこそ、母娘どちらも父のことを話そうとせず忘失することに努めていたのは事実であり、そうすることにすら後ろめたさを覚えている。蔑ろにするだけでは飽き足らず、黙契した二人が共謀して父を殺したかのような陰鬱な気分である。少なくともこうして不確定要素の多いふんわりした占いで『父が生きている』などと証拠も根拠もなにもない予言をされたくらいで、虚偽の底に沈澱していた慚愧の澱が撹乱されてしまった。

「・・間違いない」

 はっと居眠りから覚醒したような具合に浮浪者は言葉を発した。けれど、やはり同じ調子の同じ台詞である。杏は哄笑した。

「他には? パパはどこにいるのよ?! ねえ! あんたに、なにがわかるって言うの!?」

 ねえ! と感情的に声を荒げる。動揺を隠し切れない彼女は、笑ったり怒鳴ったりとまるで狂人さながらである。欣喜して余りある福音であるはずの予言なのに、こうも心が不安に掻き乱されるのはなぜなのか。なぜ手放しに喜べないのか。もしかしたら自分は、父に生きていて欲しくないのかもしれない。父に死んでいて欲しいのかもしれない。違う、そんなわけない。それもこれも全部酔いのせいなのだと弁解した彼女は赤裸裸な爛れた感情を露悪にする無責任さに身を委ね忘憂することに決めた。それなのに、鼻の奥が痛くなり、頬を生温い水が潸然と伝う。急激に気温が低下し凛冽になってきた。非現実な闇を纏った夜が去っていこうとしている。盤上の星の光は微弱になり、ただの黒い石に戻ろうとしている。

「・・彼は誰時には誰が誰やらわからない」

 浮浪者は初めて顔を上げると、嗚咽する彼女を見たのである。闇色のジャングルの奥地で光る二つの黒い石は思いのほか円らで無垢な輝きを宿していた。わからないんじゃん! と突っ込もうとして口を開きかけた杏は愕然とした。恬然としたその二つの黒い石に既視感があった。空の明度が上がると同時に影が濃くなっていく。浮浪者は光を失った小宇宙の盤共々闇に飲まれていき、今や依稀を覚える輪郭すらも朦朧としている。杏は目を瞬かせて頭を振り刮目に努める。酔いに浸っている場合ではない。影が深くなり夜明けが近いことを知らせている。彼女のポケットで騒がしく鳴り始めたディズニーのエレクトロパレードが耳を劈いた。帰ってこない娘を心配した母が電話をかけているのだ。ふっと緩んだ男の輪郭は闇に溶けていくように急速に消滅していく。

「・・うちに、帰りな」

「待って・・」喉がヒリヒリと渇いている。咳ながら辛うじて出せた声は擦れていた。それでも彼女は大声で続ける。

「謝らなきゃいけないことが・・!」

 けれど、彼女が手を伸ばした先に浮浪者は跡形もなく消えていた。パパごめんなさいー・・と彼女の慟哭は差し込んできた朝の光の中に静かに霧散していき、代わりにエレクトロワールドの哀韻が空虚に木霊していた。

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邂逅時 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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