黎明
東京と区分されるには田舎過ぎる町である。駅から中途半端に距離があり教習場と工場と学校が幅を利かせた地帯である。彼女が勤務する工場はその端に位置し、携帯電話の部品を生産している。彼女の名前は小此木陽子。勤務歴5年目のアルバイトで今年で24歳になる。陽子ちゃんが受け持っているゼクションは完成された部品を組み立てる部署。他部署から流れてくる段ボールに詰まった携帯電話本体にバッテリーを装着し起動確認も行う。1つの段ボールには50個の携帯電話が入っており、それが1日に百箱程流れてくる。作業員は陽子ちゃんを含めて10名。1人当たり500個の携帯電話を組み立てて確認しなければいけない。正確さとスピードを求められ作業である。けれど、陽子ちゃんはミスをしたことがなく尚且つ速かった。彼女は黙々作業を得意としていたのである。
「小此木君、もういいから休憩に行ってこい。な」
こんがり焼けた肉団子を思わせる中年太りの班長が休憩のチャイムが鳴ったのに、まだ作業を続けている陽子ちゃんを介意して声をかけた。昼休憩40分とおやつ休憩20分以外は9時間立ちっぱなしなので、誰もみな休憩のチャイムが鳴るのが待ち遠しく、鳴れば即座に作業を止めて休憩室に向かうのだが彼女だけは例外である。集中している時の陽子ちゃんは周りの音が聞こえなくなる癖がある。人より少し難聴気味だったことも関係しているのかもしれない。
「君はいつも真面目だからなぁ。だが、無理しちゃいかんぞ」
班長はにこやかに微笑んで喫煙ルームに入っていった。その後ろ姿を見送った陽子ちゃんは、肩を落として食堂に続く階段を登って行った。いつも座る窓際のカウンター端の席は既に埋まっている。仕方ない。外で食べようと決めて、ロッカー室にお弁当を取りに行く。本日のお弁当は早起きして作ったサーモンとチーズの特製サンドイッチである。ロッカーを開けると、扉の内側に付属したミラーに彼女の横顔が映る。そのしゃくれ過ぎる顎に、毎度のことながら陽子ちゃんは泣きたくなってくる。
彼女は18歳の時に交通事故に合い、重傷の昏睡状態に陥った。特に脳の損傷が酷く、家族は植物状態を覚悟させられたのだが、奇跡的に意識は回復した。彼女が事故に合ったのは奇しくも高校の卒業式直後。高校生までの18年間の人生で培った記憶や知識、言語などが詰まった彼女の大脳の大半が損傷してしまったため、全てをそっくり喪失したのである。目覚めた陽子ちゃんの意識は、いわば新生児と同様の状態であった。けれど、体は成長しても知能が進化することはないという残酷な現実が彼女と新生児との決定的な違いでもあった。そう医師に説明されても、彼女の家族は諦めなかった。手当り次第に聞いて調べ回り、効果があるとされる方法は片っ端から試したのである。そうして家族の執念と努力の甲斐あって彼女の知能は小学生レベルにまで向上はした。が、言語は絶望的だった。
「・・ね」
陽子ちゃんの悲しい呟きが、誰もいないロッカー室にふっと浮かんで消える。
彼女は『ね』としか話せなかった。この『ね』は彼女の母親が、彼女に話しかけていた言葉の語尾である。母親は意識の戻った一人娘に『陽子は大丈夫よ、ね』とか『陽子ならできるわよ、ね』といった内容の言葉がけを繰り返し行っていた。それは、先行きが見えなく不安だった母親が自分に向かって言い聞かせている言葉でもあった。陽子ちゃんはそんな母親の気持ちを知ってか知らずか、いつしか『ね』と同調する一言だけを発する事ができるようになっていたのである。けれど、この『ね』は非常に役に立つ一言でもあった。同調同意の意味合いが強く、それは他人に対しても有効だった。家族以外の他人は大体、彼女を不憫に思い、実に様々な推測と憶測の苦労を想像して、それを口に出して表現し、でも君なら大丈夫だと締め括るのだ。その語尾に添付されるのが『な』や『ね』や『だよな』だった。陽子ちゃんは『ね』と言えばよく、それで大体がうんうんと頷いて終わるのである。陽子ちゃんは、頬に横に走る傷跡に手をやり溜め息をついた。知能が小学生レベルにまで達した彼女は理解していた。この世には『美』と『醜』があり、家族がよく見せてくれる事故に遭う前の自分の写真は『美』であって、傷のために左右非対称の崩れたフェイスラインなのに目元だけが元の面影を少し残しているアンバランスな今の自分は『醜』なのだと。整形手術をすれば元に戻るよとお見舞いに来た友人だと名乗る女の子達が請け合ってくれたが、実施する資金はどこにもない。彼女はこれ以上、家族に迷惑をかけたくなかった。不遇を託つなんてとんでもない。彼女がどんな姿にせよ生きてくれていることが、家族のなによりの幸福なのだと耳にタコができるほど母に聞かされていた彼女。別に芸能人になるわけでもない。このままでいいではないか。だが、世間は好奇と差別の目で溢れている。彼女が食べる時に口を開ける様子1つ取っても、他人は囁き合って失笑するのだ。『見てあれ、顎外れてんじゃん』『フクロウナギそっくり』『デカい魚入ると死んじゃうって、ざんねんな生き物に載ってるヤツな』『パン詰まって死ぬんじゃね?』『可哀相で草』などなど罵詈雑言の冷水をどこに言っても打っ掛けられる。自分を基準に生きている他人には、自分の価値観からズレた対象はそれがどのような経緯を辿った結果なのであれ、異形と見なすらしいのだ。
芝生に座ってお弁当を食べ終えた陽子ちゃんが、つくねんと羊雲が散歩する空を眺めていると、窓辺で頬杖をつく若い男に気付いた。相手も陽子ちゃんのことを一瞥したらしいのだが、窓ガラスに反射した光の加減か僅かに顔を顰めるそっぽを向かれたように見えたのである。陽子ちゃんは居たたまれない程悲しくなった。悪いのは、ある日突然有無を言わせず押し付けられてしまったこの顔のせいなのに。何もかもが不条理過ぎる。こんな姿では、人間として生きていくことすらも苦行なのだ。沈鬱な気分に囚われていると、休憩時間終了のベルが工場に鳴り響いた。
翌日、新商品売り出しに向けて、短期勤務の派遣社員が臨時雇いで大量に配置されてきた。
陽子ちゃんの部署も若者が何人か回された。短気派遣の働き方を選択している彼らは、基本的に無責任で自由であるとでも思っているのか作業の手をしょっちゅう止め、しゃがんだりして喧然と談笑している。陽子ちゃんは父以外の男が苦手だった。若ければ若いほど、怖い。話すのも近くにいる事すら忌避したい。なぜなら、彼らは、陽子ちゃんが今の顔になって以降、悪辣な言葉で傷つけ、罵詈雑言の限りを尽くし虐め、見せしめ的な差別を行ってきたのである。時には、暇潰しとして、彼女の見た目や過去を勝手に詮索しては根も葉もない想像を嘲笑いの種とするのである。彼ら心ない男共にとって『美』か『普通』か『ちょいブス』以外の女性は『有り得ない』らしいのだ。その例に漏れず、派遣の男達も話題が切れると陽子ちゃんを指差し耳障りに失笑する。彼女は内心、かなり憤慨していた。そもそも彼らが導入されたのは、新商品の出荷が通常出荷量に上乗せされるためである。その一時的な要員である。出荷予定数は全体で1万個近くの目標設定が成されている。それなのに、昼休みを挟んだ現在、やっと5000。由々しき自体である。このままでは残業しても終わらないかもしれないという戦々恐々とした思いが、今や派遣男達以外の全員に芽生えていた。大した仕事もせず定時に上がる気満々でそれまでをいかに楽に潰すかしか考えていないのだろう派遣男達の馬鹿笑いがやたらと耳につき陽子ちゃんの神経を逆撫でする。ちっとも集中できない。中には彼らに便乗したのか諦めたのか、職務を惰るアルバイトまでも出始める始末。よくない傾向だ。無法地帯と化していく職場環境への憂へと派遣男達に対しての怒りを抱きながらも、アルバイト風情の自分の出る幕ではないと努めて隠忍を貫いていた陽子ちゃん。こんな日に限って班長はインフルエンザにかかって休みである。他の社員達は、面倒事に関わり合いになるのはご免だとばかりに修行僧のように外界を遮断し、黙々と作業をこなしている。
「・・ね!」
怒りの鼻息混じりの呟きが陽子ちゃんの口から漏れてしまった。ところが、騒々しさが途切れた一瞬の隙だったのである。彼女の決起の一言はぽっかり浮かぶ雲みたいに唖然と残ってしまい、結果的にその場の注目を浴びることになった。最初に鼻で笑う音を発したのは、もちろん図々しい派遣男の1人である。
「『ね!』って・・え、それ注意的な?」驚きで目を丸くした男。
「つか、あんた、話せたんだ?」抱腹絶倒の男。
「だなだな。種族違う見た目だから、まさか人後話せるとか思ってなかったわー」思わず吹き出した傍観していた従業員達。
「ね、もっとなんか話してよ」意地悪く歪んだ笑み。
嗤笑する男共が罵る鋭利な言葉は閉息した陽子ちゃんを蹂躙しズタズタに切り裂いていく。逼迫した状況で劣勢に追い込まれた彼女は、悪いのは苛立ちを露にした自分だったのだろうか・・と愚者かもしれない己を呪う。立ち竦む彼女の視界を真っ黒い血が塗り潰していく。
おやつ休憩の呑気なベルが鳴り響いた。
愁嘆場などなかったかのように一斉に休憩所に向かう冷笑を貼付けた歪んだ影、影、影。瞬く間に無人になった作業場。暗然たる面持ちの陽子ちゃんはその場に踞る。こんな侮蔑は初めてじゃない。けれど、耐性はなかなかつかない。泣いても仕方ないし、泣いた所で誰の同情も得られない。むしろ、気味悪がって余計に嫌われるだけだって解ってる。暗涙が零れないように見上げたスモークフィルムが貼ってある作業場内の窓の空はグレーがかって見えた。ひしゃげた頭の芯がじんわり痺れる。これも毎度のこと。真っ黒い血が爆ぜていく。飛行機雲が細く横切って行くのが見えた。陽子ちゃんは鼻の痛みが収まると、肌身離さず持ち歩いている女子高校生だった頃の自分の写真を取り出した。数年前の自分の姿であるはずのその写真は、まるで住む世界の違うアイドルの写真でも眺めているような妙な心持ちがする。写真を眺めながら陽子ちゃんは夢想する。この可愛い女の子は、どこにでもいる女子高生としてリボンとチェックスカートの制服を着て普通に高校に通い、友人と騒いだり遊んだりオシャレしたりしながら時を過ごし、好きな人や彼氏がいたりしたのだろう。長いリハビリの末にようやく帰宅した見知らぬ家の2階、彼女の自室なのだと案内された可愛らしい内装の部屋。チェックスカートの制服がかけられた壁伝いにある学習机。その引き出しの奥に大切に保管されていた男の子の写真を発見したことを陽子ちゃんは思い出した。爽やかな笑顔で写真に収まっているカッコいい男の子のことは誰も知らなかった。けれど、厳重な保管の仕方から事故に遭う前の彼女にとって、大切な人であったのだろうことだけはわかる。家族や周囲の口からいくら説明されたところで他人事にしか聞こえない失われた過去のモノクロの記憶に、1滴の色彩が垂らされたような気がした。もしかしたら自分は、この写真の男の子に片思いしていたのかもしれないと陽子ちゃんは想像した。それで、それから、どうしたんだろう? この男の子とは、どうなっちゃったんだろう? 真っ黒い血が爆ぜていく。
目を開けるとそこは病院の病室だった。慨嘆に堪えない様子をした母と祖母が揃って彼女を覗きこんでいた。
「目ぇ開けよったー」ほっと胸を撫で下ろす祖母。
「あー良かったぁ。良かったー」心配の糸が切れた母は泣き出した。
「あんたが倒れよったと勤め先から連絡があったんよ。そりゃあもう心配した。父ちゃんも、会社早引けして今向かっとる」
祖母がよっこらせとパイプ椅子に座りながら説明してくれた。
「あんたの母ちゃんは、すぐに取り乱して情けないこっちゃ」
「そりゃだって、お義母さん、心配しますよ。当たり前じゃないですか。前回のことがあるんですから」
「今回は黎明まで待たんで済んだ。陽子や、お勤め先でなにかあったかい?」勘の鋭い祖母が聞いてきた。
嫌な言葉を投げつけられた。でも、そんな事は日常茶飯事だ。言葉の内容や言い方のバリエーションがちょとずつ違っているだけで、どれも痛く傷になることに変わりない。消去したいくらい不快な記憶なんていちいち覚えていたくもないし、ましてやそれを口にして家族に心配をかけたくもない。陽子ちゃんは黙って首を横に振る。心配性の父母はきっと転職を薦めてくるだろうし、短気な祖母は烈火の如く怒り工場まで乗り込んで来るかもしれない。事故の時もそうだったらしい。加害者宅に怒鳴り込みに行き、相手を震え上がらせたという。我が家で1番おっかないのは祖母なのだ。陽子ちゃんは今回のようなことがなければ特に干渉もしてこない黙々作業のあの職場が好きだったし辞めたくはなかった。訝しげな探るような眼差しを向ける祖母の背後から困った笑みを浮かべた看護師が顔を出し点滴を外しにかかる。
「もう帰って大丈夫ですよー。一時的に血圧が急激に下がって目眩を起こしただけですからねー」
「よかったわ、ほんとに。お父さんと合流して、陽子の好きなものを食べて帰りましょうね」
「わしはステーキが食いたい」
「またお義母さんは、そんなボリュームのあるものばっかり好きなんだから。ダメですよ。お父さんだって健康診断でメタボ予備軍だって注意されたばかりなんです。2人揃って体のためにも、カロリーの高い物は控えなきゃ」
「だからよ。たまにはいいじゃろが。朝昼晩、淡白なものばかり我慢して食っとろうが。老い先短いこの歳で食いたい物すら好きに食えんとは、孫に続いてわしも倒れてまうかもしれんな」
「はいはいはいはい。わかりましたよ。それで、陽子もステーキでいいの?」
「・・ね」
「おばあちゃんに付き合って無理しなくてもいいのよ。ね?」
「ね」
陽子ちゃんに異存はなかった。他人から受けた傷を癒すことに全力を傾けている今の彼女は食べたいものなんて浮かばなかったのである。病室の扉を開けて汗だくの父が飛び込んできた同タイミングで、祖母が膝を叩いた。
「駅前のステーキハウスに決定!あそこはハンバーグステーキもカリカリに焼けておって上等じゃ!」
父はなんの話だかわからず戸惑ってはいたが、娘の元気そうな姿を見て安心したらしく解顔しながら娘に小さく手を振ると、ハンカチで汗を拭い始めた。そんな寡黙な父のお陰で、陽子ちゃんの悶々とした気持ちは半分程に減少した。
「あらあら・・お義母さんよくご存知なんですね」
「留守時によく昼飯を食いに行っておるわ」
「まあ!どうりで夜は小食なんですね。まったくどうなっても知りませんから」
「分厚い肉はわしのパワーの源じゃ。気の利かない息子と嫁の作る飯に飽き飽きして、じいさんとも連れ立ってよう食いに行ったもんじゃ。懐かしいのぉ。死んだじいさんもたくさん肉を食って動けと言っておった」
朗笑する祖母に、母は苦い顔で「はいはい」といなす。
「さっ行くぞ。わしは腹が減ってたまらん」
祖母は先に立って病室を出て行った。その後ろを、温和な笑みを浮かべた父が汗を拭いながら続いた。父が気弱で弱腰だからか我が家では祖母と母の気がとても強い。2人が始めた諍いが白熱した時に仲立ちに入るのは、父と娘の役目である。だからと言って、嫁姑間の仲が悪いわけでもない。なんだかんだと上手く回っているのが陽子ちゃんの愛すべき家族なのである。
「まあったく元気過ぎるくらいだわ。陽子もおばぁちゃんを見習わないとね」
陽子ちゃんの荷物をまとめて、溜め息をつく母に彼女は微笑んで返す。
「ね」
「小此木君、君、体調は大丈夫かね? あまり無理しちゃいかんぞ」
マスクを付けた病み上がりの班長に話しかけられたのは、数日後の昼休憩のチャイムが鳴った直後である。その日はでシャーペンで書いた線のような細い雨が寞々と降りしきっていた。班長はまだ喉が辛いらしくマスク越しの声は少し割れている。
「あのふざけた派遣スタッフは即刻切ったからな。私がいないと誰も注意をする奴がいないのだから情けない。小此木君、嫌な思いをさせて悪かったね」班長は我がことのように謝罪してくれた。班長のせいじゃないのに、と申し訳ない気持ちになったが、凝っていた陰鬱の痼りが消えて溜飲も下がったので首を横に振るだけに止めた。それから陽子ちゃんはカウンター端の指定席に座り、雨に濡れ滲む景色を見ながら、母特製の鶏照り焼き弁当に舌鼓を打ち始めた。本日の楽しみである。
「となり、いいすか?」
唐突に声をかけられたのは、二口目の艶々の照りがついたぷりぷりの鳥肉を箸で挟んだ時である。陽子ちゃんは最初、それが自分に向けて確認されている言葉だとは思わず、気付くのが遅れた。振り向くと、若い男がコンビニの袋を提げて居心地悪そうに突っ立っていたのである。そんなこと言われたって、ここは自分の席でもなんでもないんだしと戸惑った彼女はなんと返していいかわからず、とりあえず発することができる一言を遠慮がちに発した。
「・・ね」
本音は嫌だった。前述のように男は苦手である。しかも若ければ若い程、なにをするか何を言ってくるかわからず怖い。けれど、軽く会釈して隣に座った彼の顔を見た時に、不意を突かれたのである。そう、彼は、陽子ちゃんが机の奥で見つけた写真の男の子とそっくりだったのである。意識散漫な食事を再会した彼女の胸裏に得体の知れない緊張と、同意に取られる返答をしてしまった後悔が同時に押し寄せてきた。首を横に振って拒否の姿勢を示せばよかったと、隣の彼を盗み見ながら彼女の心情は荒れた。『もし』この隣の人が、あの写真の彼であったのなら・・? ややこしい状況に陥っていることになる。高校生時代の記憶がない彼女には、2人の間になにがあったのか、片思いだったのか両思いだったのか憧れの人だったのかすらわからないのである。『もし』相手が元の彼女を認識していて、なにかしらの付き合いがあったのだとしたら・・? 陽子ちゃんの名前が知られていなければ安心だが、万が一、彼が彼女のフルネームを知ってしまっていたのだとしたら、状況は最悪だ。相手が過去の彼女にどんな感情を抱いていたにせよ、知り合いであったのなら、なにかしらのアクションをしてくるだろう。けれど、今更席を変える不自然な行動すら不可能だ。食堂は既に満席である。端に追いつめられた逃れられない状況を自ら作り出してしまい途方に暮れた彼女は強く念じることしかできなかった。お願い! どうか、なにも話しかけてこないで! なにを話しかけられても、なにも覚えていないし、今の自分は過去の自分とは別人なのだから。
「ここから見える景色、いいっすよね。おれもけっこう気に入ってるんすよ」
彼が動く度に洗い立ての洗濯物のような清潔感のある石けん香が彼女の鼻腔を横切る。彼はコンビニのおにぎりを齧りながら窓に広がる曇天から降り注ぐ雨の景色に視線を飛ばす。陽子ちゃんは答えに窮して曖昧に俯きながら、壁を向いて早く食べ終わるように照り焼き弁当を全力で咀嚼する。もう味もなにもあったもんじゃない。食べている顔を顎を見られたくなかった。過去の自分が好きな人だったから余計だ。過去の自分のままで記憶に止めておいて欲しかった。早く食べ終わらなければ・・! 早く! 早く! 必死にお弁当を詰め込む彼女の横で彼は冷やしうどんに取りかかっている。その食べる速さといったら。流し込むように食べ終わると、無言でペットボトルのお茶を傾ける。そして案の定、陽子ちゃんが恐れていたことを切り出してきたのである。
「あのさ・・間違ってたら悪いんだけど、あんた、小此木陽子さん、だよな? 丸芝高校の卒業生の」
彼女が恐れていた最悪な質問と真っ直ぐで透明な眼差しに、陽子ちゃんは狼狽えた。違う・・でも、自分は『小此木陽子』であるし、彼の言っている高校を卒業したらしいことも知っている。だけど、違う。自分は彼の知っている『小此木陽子』ではないし、残念ながら彼の記憶も喪失している。お互いに赤の他人なのだ。黙っている陽子ちゃんに肯定と取ったらしい彼は更に続ける。石けんの匂いが弱まる。
「その顔、事故でなったんだって聞いた。ごめんおれ、全然知らなくて。おれ、帰ってきたんだよ。陽子のことが、どうしても忘れられなくて。でも、陽子、連絡先変えたろ? だから、おれ振られたんだと思って・・」
なんと、彼と過去の彼女は両思いだったのだ。それが、恐らく彼の引越しによって2人は別れられざる負えなかったのだろう。けれど、彼女を忘れられない彼は、彼女に会うためだけに単独で帰ってきたのだ。それなのに・・言葉にできない悲しみが溢れだしたが、記憶のない陽子ちゃんにとってやはりそれはどこか他人事だった。連絡先が変わってしまったのは、事故に合った時に携帯電話が破損してしまったため、新たに買い直したからだろう。元のアドレスごとメモリーもなにも破損してしまい元に戻せなかったので、過去の自分が交流していた友達や知り合いは全てリセットされてしまったのである。陽子ちゃん自身、そのほうがいいだろうと安心していた。正直、慰問してくれた彼女の元の友人達の対応ですら戸惑ったのである。友人達が浮かべていた遠慮がちな失望した笑顔もしんどかった。過去の彼女を知る人は皆、過去の彼女を今の彼女に求めるのである。過去に共に築いた思い出や信頼や友情や思いを共有したがり、それが叶わないとなると離れていく。その人がその人であるから選ばれるのであって、違う人であるのなら選ばれないのである。けれど、相手の心情を慮って虚偽の言葉を口にできるだけの余裕は彼女にはない。あくまでも、今の彼女は過去の彼女とは別人なのである。だから・・陽子ちゃんが彼に対して取った行動は、首を横に振ることだった。少なくとも彼が失望する顔は見たくなかった。見つけた彼の写真は、元通りの机の奥にしまい直した。まるで他人の秘密を覗いているような罪悪感が過ったからだ。死んでしまった『過去の自分』という女の子の秘密。それを『今の自分』は死守するべきだと思った。陽子ちゃんは、写真に写った男の子をカッコいいと思ったし、いいなとも思った。けれど彼と『今の自分』がどうにかなることは、ない。決して。彼女が全身全霊かけて好きだった人を、偶然発見したからってまるで掠め取るみたいな心地がしてなんだかフェアじゃない。彼を好きになるのは、一生懸命迷って決断した『過去の自分』に失礼な気もした。なので、陽子ちゃんはあくまで否定を貫くつもりだった。彼女の毅然とした様子に戸惑っていた彼は、それでも諦め切れずに彼女を凝視していたが「そうすっか」と喟然と嚬めた顔を背けてしまった。
「すみません、突然・・・・気にしないで下さい」
微かに絶望の色を滲ませた目元を歪めた彼は早口に呟くと、さっと席を立って足早に去った。その後ろ姿を陽子ちゃんは悲しげに見送った。きっとこれで、良かったはずだ・・香りは消え失せていた。
去っていく彼の寂しげな後ろ姿が脳裏から離れないまま、数週間が過ぎ月が変わり、彼の姿を工場のどこにも見かけなくなった。退職したのかもしれない。もしかしたら彼は、彼女の喪失した知り合いに聞いて陽子ちゃんが働いているこの工場を探し出したのかもしれないなと予想したが今となっては確かめようもない。彼は『過去の彼女』をとても深く愛していたのだと、今更ながら2人の絆の強さを感じたが『今の彼女』にはどうしようもなかった。けれど、彼女のどこかに息づいているらしい『過去の彼女』が悲しんでいるのか、彼の言葉を、彼の後ろ姿を、毎晩のように夢にみた。夢の中の彼女は去っていく彼に向かって、悲痛の叫びを上げているのだ。『待って! あたしはここよ! あたしはここにいるの!』と。なんとも切なく悲しい夢である。その度に目が覚める。いつも黎明時である。また眠ることもできずに、陽子ちゃんは薄暗い部屋を伝ってカーテンを開ける。静寂に満ちる藍色の空に滲み始めているのは、目覚めが近い闇色の山々や街並がみる夢のようなオレンジと白のグラデーション。なんて美しい景色だろうと思った。思わず窓を開けると、ヒンヤリした冷気に包まれ身震いをした。重体の彼女が意識を取り戻したのも黎明時だったのだと母が教えてくれたことを思い出す。『今の自分』は黎明時に生まれたのだ。同時に『過去の自分』が永逝した・・ぼんやり眺めていると彼の石けんの香りが蘇り、不意に胸が熱くなり悲しくなった。同じような黎明時だ。あの彼が自分を見守っている情景が唐突に脳裏に浮かんだのである。肩肘をついて頭を支えながら寝っ転がった寝癖のついた裸の彼からは清潔感のある石けんの匂いがして、とても優しく愛情に溢れた微笑みを向けていた。それは損傷した脳のどこかに残っていた『過去の自分』の香りの記憶だったのかもしれない。オレンジ色から黄金色へと変化していく明け方の空の下、彼女の頬を伝った涙はそれが実際にあった過去なのだということを物語っていた。嗚咽に塗れた彼女は哀韻を絞り出した。
「・・・・ご め・・ね」
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