昼下がり

 誰かが『イパネマの娘』を流しているらしい。気怠い夏の昼下がりにぴったりの曲だ。

 汗をかき始めたアイスコーヒーはまだ半分残っている。閑日を持て余す僕は読みかけの文庫本から窓の外に視線を転じた。強い太陽光の反射で街はフラッシュを焚いたように眩しい。耳障りな聞き慣れた街の喧騒は熱気という名の泉の底に沈澱し、奇妙な沈黙を守っている。逃げ水だらけの透明な小川と化した車道に交通量は少ない。時折、残像のような通行人が気怠そうに通り過ぎるアスファルトの歩道は蜃気楼のように揺らめき、十分熱されたフライパン並みの地表温度を掲示している。アイスコーヒーを一口含んだ僕の視界をアゲハチョウが一羽、力なく横切っていく。アゲハチョウをなんとはなしに追った視線の先。白いパラソルをさした和服の後ろ姿が映り込む。白い絽の着物に生成り色の帯には朝顔の模様。僕の思考が一時停止と共に高速で遡っていく音が耳元でする。曖昧な直感が手触りのある現実に変化していこうとしている。いや、現実のような夢とでも表現するほうが妥当かもしれない。僕は視線を和服の後ろ姿に固定したまま勢いよく立ち上がった。その拍子にグラスが倒れて残っていたアイスコーヒーがテーブルに広がり、伏せた文庫本に迫る。けれど、過去から伸びてきた白くしなやかな腕にしっかりと絡めとられ茫然自失となった僕は気付かない。白いパラソルが牧歌的な調子を孕んでクルクル回る。


『愛してるわ・・』


 僕は一散に部屋を出ると、高速で階段を駆け下り、熱気渦巻く外界へと走り出した。

 白いパラソルは、僕のマンションから反対側に位置する歩道のポプラ並木の頼りなげな木陰の模様の一つに佇んでいる。パラソルが緩慢な速度でクルクル回る。誰かを待っているのかもしれない。僕は相手の顔を確かめたかった。焦った気持ちのまま車通りのない道路を横断して最短で近付こうとガードレールを乗り越える。そこにタクシーが走行してきた。茹だるような暑さに翻弄されていた運転手はスピードこそ出していなかったが、僕は危うく轢かれそうになった。だが、和服の後ろ姿しか眼中になかった僕はそんなことには一向にお構いなく横断を続け、運転手が連打した熱帯の街角を切り裂くような鋭い警笛音すら耳に入らなかった。けれど、パラソルはクラクションの音で翻った。

 夏の熱気の中にあっても雪のように白く肌理の整った滑やかな肌の感触。僕が愛撫と接吻を繰り返したふっくらとした顔と首筋。僕の背中に齧り付いてきた可憐な手、そして桜貝のような爪が揃った指。何度となく撫で梳いた漆黒の絹のような黒髪は品よく纏め上げられ螺鈿細工の撥形簪が一本挿してある。そして、眇められた黒曜石のような濃艶な瞳と、何度も求めてきた桜の花弁のような小さく薄い唇。匂い立つ白檀の香り。なにもかもが十年前とそっくり同じで、一つとして変化がなかった。彼女の唇が今にも動き、十年前と同じ台詞を口にしそうな気配すらした。


『あたしがあたしだとわからなくなるくらいに、めちゃくちゃにして。あなたになら壊されたってかまわないわ・・』


 これは白昼夢なのだと思った。僕は幻を見ているのだ。この摂氏四十度近い暑さが、僕に幻想を見せているのだと。けれど、眼前の粋然とした彼女の姿は明確な輪郭を保っており、それが証拠には彼女の後れ毛が張り付いた首筋を汗が一筋伝っていくのが見える。僕は知っている。あの汗は甘露のように甘いのだ。蘇ってきた怒濤の過去に押し流されそうな僕はしかし、彼女の視線に気付いた。彼女が見ていたのは僕ではなかった。彼女の視線は僕を透して、背後に貫かれていたのだ。

「・・遅いわ」

 彼女の視線を追って振り向いた先には、僕がガードレールを乗り越えてきた反対側の歩道で困ったような気弱な笑顔を浮かべて手を振る中年男がいた。垂れた眉と目。髭だらけの熊のようなだらしない口許。桃色のハンカチでしきりに汗を拭っている。僕は透明人間になった気分だった。彼女はまるで僕なんて見えていないのだ。彼女が唯一見えているあの男は、現在夢中になっている恋人なのだろう。あの男以外の男は見えないのだ。かつて僕が唯一の男だった時の彼女のように。それでも僕は、恋人を目で追いながら少し先にある横断歩道に向かって歩き出した彼女の名前を呼ばずにはいられなかった。あるいは微かな残り香が僕にそうさせたのかもしれない。

「・・珠子」

 珠子の背中に一瞬ビクッと電流が走ったように見えたが瞬時に消え失せ、彼女の前進は止まらなかった。朝の光を受けて香り立つ供えられた生花のような神聖さを思わせる白檀の残り香に僕の全身が熱く滾る。珠子が好んで薫きしめていた香の匂い。変わらない。けれど彼女の視界には、真っ赤な顔で横断歩道を目指してえっちらおっちら必死に走る男の姿しか映ってないのだ。中年太りも甚だしい相手の男の風貌をじっくりと観察していた僕は内心で酷く毒突いた。くたびれた鼠色のスーツと緩んだネクタイ。鳥の巣みたいな寝癖がついている髪から飛沫する汗が見えそうな具合だ。全体的に体毛も濃そうである。なんだよ、と僕は嫉妬した。あんなみっともない中年男のことなんか悪く言っていたくせに。十年も経てば好みも変わるのかよ。それでも僕は彼女の後ろ姿をじっと凝視し、少しでも動揺を感じさせるおかしい動作がないかどうかを刮目する。けれど、その片鱗を発見することは叶わなかった。横断歩道に到着した彼女は、信号待ちをしながら相手の男に微笑んで手を振っている。その左手薬指にはぎらっと反射する光が見えた。僕の胸裏を衝撃の電流が貫く。そうか・・珠子、結婚したんだな。一糸纏わぬ姿で肩肘をついて僕の猫っ毛を弄びながら『結婚するなんてどうかしてるわ』と嗤笑していた彼女の記憶が脳裏を横切る。その言葉は煮え切らない僕に対しての遠回しな攻撃だった。

 当時の僕は学生だったが、親が決めた許嫁がいた。

『結婚して家庭を持って、だからなんだって言うのよ。それがそんなにエライことなの?』

 口達者で勝気な美人だった彼女は、自らの矜持から歯に衣着せぬ発言をしたものだ。僕はそこがいいなと思ったわけだが、結婚相手としては到底考えられなかった。冷えきった夫婦関係の両親を見て育っていた僕は、夫婦というものは世間体や社会に対して示すお仕着せの形態であって、例えば珠子に抱くような愛情や情欲といった生々しい類いの感情とは無縁なのだと捉えていた。結婚とは要は義務なのだ。

『そんなこと言ったって、奥さんとは抱き合うんでしょう?』

 逢瀬は昼下がりだと決まっていた。

 黴臭いラブホテルで落ち合った僕らが、部屋中に着物や帯や下着なんかを無造作に散らかして爛れた昼下がりを共にする睦言の内容は、時が経つにつれ大半が僕の結婚に関してのことに変化していった。

『夫婦には子作りの義務がある。致し方ないことだよ』

『それが嫌なんじゃないの。あなたが他の女を抱くなんて、想像しただけでも気が狂いそうになるわ』

『大騒ぎするほどのことじゃないよ。義務に愛はないのだから』

『あなたはそうでも、あたしとその女にとっては違うのよ。女心がわからない人ね、あなたは。あたしが他の男に抱かれることを我慢できるっていうの?』

『腸が煮えくり返らないこともないね』言いながら、彼女の甘い香りが立つうなじを掻き抱いて接吻する。

『ほらね。こんな辛酸を舐め続けるくらいなら、いっそあなたを殺したいわ』

『冗談じゃない。一目散に逃げるね』

 失笑に付す僕に向かって『酷いわ!』と拳を振り上げて真剣に怒る珠子を愛おしいと思った。彼女の怒った顔が見たくて、僕はわざと意地悪なことを口にしたりしたものだ。珠子の打擲を軽く受け止めて接吻し侘戯れしながら、自分は卑怯な男だと後ろめたい思いに駆られることもあったが努めて平然を装っていた。彼女が望むように、家も許嫁も捨てて駆け落ちなり結婚なりしてやるべきなのはわかっている。けれど、彼女とは型に嵌りたくなかったのだ。自由でいたかった。完全に僕の自分勝手なエゴだった。彼女は直向きで、百依百順で生きてきた僕のあらゆる面を気付かせ鼓舞し満たしてくれた初めての存在だった。社会生活におけるパートナーという部分以外で考えるならば、珠子は最高の恋人だ。なので僕は結婚しても珠子との付き合いを切るつもりは毛頭なかった。僕の手前、結婚という形式的な状態を唾棄しているかのような言動を取っていた珠子でも、愛の行き着く先は突き詰めれば結婚なのだと認知していたらしく、結婚話が一歩前進するような動きがある都度、彼女は苦しみ、不満が沈澱していったのである。それは同時に遊び相手に過ぎなかった僕に対しての珠子の真剣な愛情の証でもあったので、彼女の身を切り裂かれるような苦痛や苦悩とは裏腹に僕はむしろ歓喜するような残酷な心境でさえいたのである。あの珠子をここまで泥沼に引き込むことができた自負が僕の虚栄心を燃やしていた。

 僕が通っていた大学のOBだった珠子。元ミスコン連続優勝のマドンナだったようで、学内ではちょっとした伝説の高嶺の花だった。更には卒業してからも専攻していた心理学教室での助手という形で手伝いをしに頻繁に構内に顔を出していたので、その顔を知らない者はまずいなかった。前述した通り美女、それも和服姿の清楚な美人で人当たりがよく、聡明で大胆で少し我が侭なところもあり、男心を如何様にもくすぐる要素を容姿共に存分に兼ね備えていたのである。もちろん、男共は残らず夢中になっていたし、常に華やかな噂が絶えなかった。にもかかわらず当時の僕は、全くと言っていいほど彼女に興味がなかった。そもそも、そんな高嶺の花は自分とは無関係だととっくに諦めていたし、誰もが狙うマドンナにアピールできるほどの人間味も自信も持ち合わせてはいなかったのだ。僕は、これといって取り柄もない学生で、仲間内からは愛称と皮肉を捩って『ぼん』と呼ばれていた。友人達は働きながらの蛍雪揃いで志の明確な奴らばかり。断片的にだが社会を知っている彼らは、親からの十分な仕送りでぼんやり生かされている『ぼん』の僕より遥かに立派な大人の男に見えた。そんな彼らも残らず珠子を狙っていた。

『なぁ知ってたか? 心理学のハゲ、春休み前に珠子嬢に振られたらしいぞ』

『あんなハゲ、本気で相手にはしてないんだろうと思ってたがな。で、次は、誰だ?』

『フランス語のリンカーンだ。春休みも一緒にフランスに旅行に行ったらしいぞ』

 フランス語の教授は彫りの深い顔立ちがアメリカ大統領のリンカーンに似ていることから、そう呼ばれていた。お陰でまだ三十代の若さなのにも関わらず貫禄が備わっているように見えた。要は見かけ倒しの男だ。

『彼女はおれ達のような貧乏な若造には興味がないのだろうな。生徒との噂など聞いた試しもないからな』

『決めつけるのは時期尚早だ。学生時代の彼女は、年齢関係なく二股三股は当たり前の付き合い方をしていたらしいぞ』

『一度でいいから、あの隙のない着物姿を乱して淫らな中身を拝みたいものだな。あの匂い立つうなじが堪らん』

『確かにあの品のいい裾を割り開かせて武者振り付けられるならば騙されてもいいな。だが、金もかかりそうだ』

『なんのなんの、彼女と一夜を共にできるなら石油だって掘り当ててみせるさ』

 新学期初っ端の講義前、友人達の猥雑な話を聞き流していた僕は眠くて堪らなかった。前夜にレポート作成で徹夜をしたのだ。次の講義まで一眠りしようと思い、昼食後、予習をすると言って友人達と別れた。図書館で寝ようと思ったのだ。唯一独立した棟である図書館に行くには、桜が植わった中庭を通過しなければいけない。夏には大量の毛虫が落ちてくるので遠回りするのだが、花が散り始めている今の時期なら目の保養にもなると中庭を横切る石の歩道に踏み出した。柔らかな陽射しが降り注ぐ中、強い風に白い花弁が舞い踊っている。僕は儚くも美しい幻想的な景色にぼんやりと魅入っていた。すると不意に、捨てられた子犬が虚しく鳴くような微かな声が僕を現実に引き戻した。慎重に見回した僕の視界に、桜の根元に脱ぎ捨てられた女物の草履が入った。同時にまた甲高い声がする。まさか首吊りの現場か・・と、草履から幹を怖々と辿る僕の視線が行き着いた先には露になった白い脹脛があった。正確には風で捲り上げられた着物の裾から足袋を履いた白皙の脹脛が覗いていたのだ。和服姿の女性は桜の枝に引っ掛かった紙切れを取ろうと木によじ登っていた。袖口から零れる腕の透過するような白さと脹脛の色っぽさを窃視しているような感覚に陥った僕は息を飲んで立ち竦んだ。彼女の伸ばした指の先を逃れるようにして紙切れははためき、なかなか囚われない。試験用紙のような大きさの薄紙は、役所で記入するような枠が見えるのでなにかの届出書かもしれない。なりふり構わず木に登ってしまうほどに、彼女にとってあの紙は重要なものなのだろう。そう判断した次の瞬間、枝を離れた紙は状況を見守っていた僕の頭上へと変則的な動きで飛翔してきた。その時既に僕は春の嵐に巻き込まれてしまったのかもしれない。僕は長年バレーボール部で活躍してきた経歴を生かし、その場でジャンプし紙を摑み取った。彼女は最初、呆気に取られているようだったが、ほどなくして自分のあられもない恰好に気付き、慌てて降りると素早く身だしなみを整えた。僕はそんな彼女に目を奪われていたので、手にした紙の正体を確かめようともしなかった。気のせいかと思うほど微かな香りが溶け込んだ風が吹き過ぎていく。

『お礼を言わなければいけないんでしょうけど、あたしが推測するに君はずっとそこで、困っているあたしの恥辱に塗れた姿を眺めていたんでしょうから言わないわ』

 屈辱から顔を紅潮させた彼女が辿った僕の足元には、吹き付けられた桜の花弁が大量にくっ付き靴の脇には小さな山までできていた。目の前の楚々とした佇まいの和服美女が、友人達が一日一回は必ず噂する珠子嬢なのだと瞬時に理解した。

『それ、寄越してちょうだい』早く、と掌を僕に向かって突き出す彼女。

 ついさっきまで彼女の白い肌に恍惚状態となっていた分際で、彼女を前にした僕の隠れていた図々しいなにかが目を覚ました。僕はまず『高くつきますよ』と返した。

『僕の労力がなければ、この重要書類はどこかに飛んでいったところだ』

『あたしを脅す気?!』

 彼女は毅然と瞋った。僕の心情を探る烈火のごとく燃える目に心が揺さぶられるのを感じた。それでも僕の無表情が揺らがないことに根負けした彼女は数分後に諦めの息をついた。

『どうすればいいのよ』

『明日一日、僕に付き合ってもらいます』

 それは大胆な提案だった。僕の中では、男共が憧れるこの高嶺の花を一日だけでも独占したという既成事実を拵えて単に自慢したかっただけだった。彼女は、この時の僕の疑問でもお願いでもない図々しい命令的な口調にやや気圧されたのだと後になって言っていた。恣意的な彼女相手に自分のしたいことを押し通してくるような強引な男は今までいなかったらしいのだ。そう言った意味でも僕は幸運だったのだと思う。不承不承頷いた彼女と僕は翌日、デートを実行した。と言っても喫茶店でお茶をして、映画を見て、公園を散歩するという在り来りなものだ。そうして話してみると、彼女が着物を着ているのは彼女の乱れた服装やお転婆具合を見兼ねた日本舞踊をしていた母が、彼女が高校に合格したあかつきに和服を一揃え買い与えたそうで、最初こそ嫌がっていた彼女だったが母が不慮の事故で亡くなってから改心したのだという事実も知った。

『でも残念ながら、あたしのお転婆まで改心されたわけじゃないみたい』ときまり悪そうに白いパラソルを回す彼女に、でしょうねと返答をしながらも僕は昨日の桜が舞い散る中で見た彼女の美しい乱れた様子を思い浮かべていた。けれど表情には決して出さない。僕は元来、感情が表情に出ることがなかった。心では深く悲しんだり喜んだりと人並みに感じているのだけれど、平淡で顔に出ないので愚鈍で無関心なのだとよく勘違いされるのだ。珠子はそんな僕を珍しい生き物でも観察しているように注視ししながら、君ってと口を開いた。

『なに考えてるのかてんでわからないけど、むっつりスケベなんだってことは、わかるよ』

 僕はぎょっとして思わず口に運んでいたコーヒーを零してしまった。うふふ当たりだ、と人先指をクルクルと回しながら朗笑する彼女。僕の優位だったはずが、いつのまにか逆転していた。

『その紙は捨ててもらって構わないわ。見たかったら見てもいい。あたしには関係ないものだから』

 その日の別れ際、半分に折った例の紙を差し出した僕に向かって彼女はそう断った。関係ないものなのに、あんなに必死になって取ろうとするものだろうかと、僕は彼女の正気を疑った。彼女は小さく咳くと莞爾に笑んだ。

『こういう付き合いも悪くないわね。案外楽しかったわ。じゃあ、またね』

 結局、彼女は紙を受け取らず手を振って去っていった。落暉に染まってクルクル回るパラソルを見送りながら、またねという彼女の言葉で次が約束されたような気になって有頂天になりながら手元の紙に目を落とした。離婚届だった。けれど、彼女の名前ではない。僕の知らない男女のものだった。その書類が意味するところを考え倦ねた僕は、だけどそれは僕が関わるような範疇ではないと判断し、彼女の指示通りに破って捨てた。

 それから数ヶ月間、珠子からの呼び出しに応じることを重ね、いつのまにか僕は彼女の恋人に昇格していたのである。珠子曰く『今までで一番なにを考えてるのか解らない風変わりな男だったから』との理由で選ばれたらしいが誇らしいことだった。僕らは秘密の関係だった。友人達が自分の命と引き換えにしても欲する彼女との体の関係を何度となく結び、構内の男性諸君が羨む彼女の全てを独り占めにする優越感といったらなかったのである。珠子は噂されるほど尻軽な女でも見境ない女でもなかった。彼女には彼女の確固たる信念や好みがあり、それに沿って行動し簡単には和姦しない。

『だってどうせ穢されるなら、自分が納得のいく相手とのほうがいいでしょ?』

 とはいえ、珠子に言い寄る輩は噂に違わず切れることはなく、教授を始め生徒や学長など多技に渡った。頼まれれば嫌と言えない姉御肌気質がある彼女の言い分的には、頼まれた以上のことはやっていないと言うのだが、どうにもそれが相手の不満となり吠影吠声に進化し邪推という派手な尾鰭を付けさせるらしいのだ。

『別にいいのよ。だって、それってあたしに興味があるってことだもの』

 自信に満ちた美しい珠子が悄然とし徐々に僕の冗談にも笑わなくなり、楽しさと快楽と生の喜びだけを齎された性行為は重たく苦痛に満ちた行為へと変貌していく様はまるで悲恋映画を傍観しているような心地だった。放逸と美が突出していた彼女は在り来りな報われない愛の化身と成り果て、憂鬱な顔をしていることが増え、執拗に僕の体に自分の痕跡を残したがった。この男は自分のものだと誇示するために、僕の体にキスマークや爪痕、噛み痕をつけていく彼女は鬼気迫るものがあった。或は彼女の失恋経験とは無縁のプライドが許さなかったのかもしれない。発する言葉は焦りと悲しさが混ざった陰気な内容になっていき、時として咽び泣く。愚かな僕はそれすらも感動を覚えるほどだった。萎れる珠子の涙は朝の湖のように静穏で美しかった。

『いっそ、このまま殺してちょうだい。あなたになら殺されたってかまいやしない・・お願いよ!』

 吸い付くような白い肌をほんのりと染めながら懇願して絶頂に達する珠子の色気を際立たせる歪んだ言葉の羅列が更に僕の彼女に対しての愛欲を煽った。彼女は僕の愛で燗死したいのだ。なんて愛おしい女なんだ。数々の男を手玉に取って捨てることを繰り返していたあの珠子を手に入れ、且つこうして煩悶させて涙を流させるほど蝕んだ僕は彼女を透して男としての優越感や快感、愛されている充足感を密かに得ていた。僕にとっては結婚話をちらつかせるのは、我が侭な珠子を焦らして欲や闇を引き出し依存させるちょっとしたプレイに近かった。なにを哀願されようと答えを暈し、決して首を縦に振らない僕に、珠子の焦りは真剣味を帯びてきたようだ。僕もまた、珠子を浚って僕しか知らないところに永遠に閉じ込めてしまいたい屈折した欲望が渦巻いていたが、同時に彼女と流されていく愛の濁流が恐ろしくも感じた。白檀が強く香る。引きずり込まれていきそうだ。彼女に惑溺し虜になっているのは紛れもなく自分だった。結婚話を持ち出したくせに、時が経つにつれ婚約者などどうでもいいと思い始めていた。何度か婚約者との約束をすっぽかし、向こうの親から彼の家に連絡が入ってしまい、僕は両親に呼び出されこっぴどく叱責を受けた。その都度、珠子のことが脳裏を過る。こんな煩わしい現実のなにもかもを投げ打って、いっそのこと彼女と駆け落ちできたらどんなに楽かと。けれど、それは非現実的過ぎる夢だった。実行したのならば、全てを失くす覚悟をしなければいけないし、自分には今の所この生活を捨てることはできそうにない。僕がなんの不自由もない学生生活を送れていたのも親の仕送りの成せる術だ。好きな研究に没頭することを許可し、留学の費用も惜しみなく援助してやろうという両親からの条件は卒業したら家を次いで身を固め、父が経営する会社の手伝いをしろという内容だった。特に志も意地もない僕は二つ返事で快承したが、今となっては邪魔な枷でしかない。珠子という自由奔放な女に出会い、自由に生きる旨味を十二分に味わってしまった後では・・


 信号が青になった。

 中年男と珠子が同時に渡りだす。横断歩道の真ん中で抱き合う不似合いなカップル。お揃いの光を放つ二つの指輪。それから、手を握り合った二人は反対側に向かって横断していく。僕は、珠子!と叫びだしたい衝動に駆られた。怒鳴って駆寄って、珠子をあの男から引き離したい。そして、もう一度あの白檀の香りに塗れて僕と・・・・

 だが、今更そんな愚行を実行する資格が逃げ出した僕に果たしてあるのだろうか?

 大学を卒業した僕は結婚した。けれど、珠子との爛れた関係は秘密裏に続いていたのである。いや、後半では一年足らずで飽きてしまった家庭生活に対して、ほぼ見せつけ同然で外泊や外出を繰り返し彼女との関係を露骨に公にしているようなものだった。さすがの妻も見て見ぬ振りをできなくなり、さっそく両親に相談した。妻は気に入らないことがあればすぐに閨閥を巻き込んで強引に解決しようとする女だ。そんな傲慢なところが嫌いだった僕は、これ見よがしに『お望み通り結婚して身を固めはしましたが、その後のことはなにも約束してませんよ』と憤然とする両親に告げ離婚を要求した。そこからが修羅場の毎日となった。自業自得とはいえ公私共に家族の中に身を置かなければいけなかった僕に修羅場は分単位で発生する。珠子に会いに行く隙すらなくなり、軟禁状態に陥った僕はさすがに疲弊し逃げ出した。アメリカに飛んで、現地で働きながら数年過ごし、熱りが冷めた頃にしれっと帰国した。思惑通り体裁を気にする両家の間で、とっくに離婚手続きは済んでおり、僕個人に関しては勘当同然の処理がなされていた。僕は晴れて自由の身となったのだ。けれど、珠子との連絡手段は途絶え、彼女は引越しをしていた。どのみち、なんの前触れもなく恋人に置き去りにされた珠子は、卑怯で人非人の僕を決して許さなかった筈だ。彼女のことを仕方ないと諦められるくらいには、年月は経過していた。

 アメリカで培った会話力を生かし貿易会社に勤めてからもう五年ほど経つ。珠子のことを忘れられないわけではなかったが、未だ独り身だ。結婚には懲り懲りしていたし、結婚したいと言われると途端に冷めてしまうのでそれが独身である理由なのだと思うが、妻や彼女がいなくても生活は成り立つので問題はない。そんな生活だった。それなのに、初めて出会ったあの昼下がりと動揺に前触れもなく珠子は現れ、僕の余燼が燻り続けている事実を突きつけた。けれど今回に限っては僕に勝算はない。完全なる彼女の不戦勝である。熟し過ぎた僕らの愛はとっくに爆ぜている。にも関わらず、海容なる遺愛を一瞬でも期待してしまった滑稽な己は愛河に沈思する塵芥なのだ。選択を放棄した僕と違い、彼女は自らの矜持に従って人生を選択し、その結果があの男であり、薬指で光る指輪なのだろう。彼女は痛嘆した過去は過去としてとっくに磨滅し終えているのだ。微かに聞こえる『イパネマの娘』のリズムに合わせるようにして夏の蜃気楼の中にじんわりと溶けていく二人の後ろ姿を見送りながら、僕は珠子の幸せを寿ぐしかなかった。

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