黄昏
舌が痛いことに気付いた。引き連れるような痛み。しかも片側だけである。
動かすと痛い。だが、見てもなにもない。もしかしてこれは、
「舌癌かもしれない」
深刻な顔をして娘に告げると、この前は食道癌って言ってたねとにべもない返答をされた。
過去の発言を忘失していた彼女は、そうだっけ、と眉を八の字にして言葉を濁した。
「ママは常にどっかが癌だよね。ニキビでも花粉症でも癌だとか言って。病院行って検査して異常なしなのに、いっつも大騒ぎ」娘がやれやれと大人びた表情で肩を竦めた。
「だって、四十からは癌になりやすいんだよ。広報だって呼びかけてる。ほんとだよ」
必死の抵抗も虚しく、娘のはいはいで流されてしまう。さぞかし、臆病な大人に見えることだろうと浅ましくなったが、でも大丈夫だって過信した挙げ句に早死になんてまっぴらご免だもんと開き直った。
私は可能な限り長く、この生意気な愛する娘との生活を味わいたいんだから。
『愛してる』
私を抱くときの男の口癖だった。
抱く時にしか口にしない言葉、いわゆる睦言。この世界でなによりも信憑性のない言葉だ。それがわかっているのに、『愛の営み』という別名を持つ性行為に及んでいる状態では、多少成りとも頭はぶっ飛んでいるのだから、やけに耳朶に響くのだ。言い換えれば卑猥なBGMの類いや、性玩具の一種。快楽を迷いのないものにするために添付する決定的且つ絶頂に至った折に口にするのに最適な台詞。更に、倫理に悖る関係であればあるほど、互いの罪の意識を強めてどっぷりと嵌れる地獄の快楽へ落ちていく手引きをする。だから、価値はゼロ。現実味は皆無。無責任極まりない言葉。私は、そう思っている。だから、口になんてしない。嘘つきになんてなりたくない。フィクションかどうか定かじゃないが、セックスはしてもキスだけは本命にしかさせない娼婦がいるように、それが、人道を大きく踏み外している私が持つ唯一のプライド。
私は、人として何かしらが欠落していたり、損なわれたりしている種類の男を選ぶ傾向にあった。そんな人種を選ぶ女の例に漏れることなく、常に重たくどんよりした憂鬱な色合いの雲に取り巻かれ、幸が薄そうな自身なげな顔を貼付け、そのくせ変に強気で大胆な恰好を好み、苦しみを不平不満に変換した会話をし、それでも自分はちょっと違った世界で生きているのだと印象づける言動を大袈裟なまでに演出した。マトモでない相手に見せつけるようにして、ふらふらと他の男と遊んだりして侍らせたりして、ヤキモチや嫉妬を焼かせては自分への気持ちを確かめた心地になり、あたかも自分はいつでも他を選択することができるのだから惜しいのなら離れていかない努力をしてちょうだいと無駄で無言の滑稽な主張をする。だが、仕方ない。私はそんなふうにしか生きられなかったから。私にはマトモな男とそうでない男の見分けがつかず、マトモと評される男との付き合い方がわからなかった。
博打好きの父に裏切られた母は、男を信用しない女だった。
女手一つで私を育て上げた母は、とても厳しい人で、ふしだらなことや、嘘や曲がったことを忌み嫌っていた。母は、嘘をついたり誤摩化したりする私を躾と称して叩き、そして2時間に及ぶ説教を垂れ、父の悪口を持ち出し、男なんてロクなもんじゃないと毎回締め括った。
『男に依存している女なんて、ロクなもんじゃない。でき婚なんて認知されているふうに聞こえはいいけど、みっともないことよ。ふしだらで恥知らずな淫乱女ってことを世間に向けて大声で叫ぶようなものなの。売春婦と変わりゃしない。あたしは、あんたが心配なの。頼むから、ある日突然お腹を膨らますなんて真似はよしてよ』
確固たる母の信念と歪んだ愛情の反動だとは必ずしも言い難いが、ともかく私は成人する前から異性に興味深々で、母に隠れて様々な男とふしだらな体験に耽っていた。幸いにもどの相手の男も妊娠を恐れ、避妊に関しては神経質なまでに気を配ってはいたが、とはいえせいぜいが十代の避妊知識は高が知れているので、今思い返すとだいぶ危険な橋を渡っていた様子が彼方此方に窺えた。妊娠しずらい気軽な体質であるらしいことは、社会人になってから付き合い始めた男達から知らされた事実である。私は男だけではなく、人付き合い全般が苦手だった。相手との距離がわからず、傷つけたり、嫌われたり、疲弊したりするのだ。そのせいで、狷介孤高の変わり者扱いされていた私には友達と呼べる相手はいなかった。それでも仕事はできるし、生活をしていけるので支障はない。独りには慣れていたし構わなかった。けれど、もしかしたら、識閾下で寂しさを抱えていて、だから同じ異臭がする欠損した男を引き寄せていたの、かもしれない。非の打ち所のない完成された形をしたグラスより、少し皹が入った不完全な湯飲みの方が遠慮なく普段使いにできるし、気軽に破棄できる。当時の私はあるいはそんな歪な考えだったのかもしれない。そして、私が選ぶ相手も私に対して、私と同じ理念を念頭に置いて接していたのだろう。私と同様、遠慮なく使えるだけ使って、不要になったら捨てればいいのだと。けれど、男達にセックスフレンドや浮気・不倫相手として気軽に扱われることに対して私に依存はなく、それどころかどうでもよかった。誤算はあった。本物の愛のない営みは、徐々に心が磨耗し腐らせるのだ。日に日に私の顔の影は濃くなり、虚無は膨らんでいった。
納得していたはずだった。
未来も将来も安定もない塵芥のような価値のない人生に。むしろ、そんなものと笑い飛ばしていたはずだ。
それなのに、なにかがおかしかった。常にぽっかりと口を開けた虚無が隣で待機していて、隙あらば私を飲み込もうとしてくる。それから逃れ、存在を忘れるために酒に走り、連日飲んだくれては男と寝る爛れた生活を繰り返した。そんな日々を糧にして虚無はぐんぐん育っていく。素面でいることが恐怖に変わった私は、アルコールと煙草を常飲するようになった。俗に言うアルコール依存症だ。それに、ニコチン依存症とセックス依存症が追加された最狂なセットだ。当然、昼間の仕事は務まらない。男の口利きで、ガールズバーに職を得て以来、最狂セットの効果は劇的に向上した。私は、生きているのか死んでいるのかが、もはやわからなくなっていた。そんな時期だ。
ぬいぐるみのように柔らかそうな毛並みの先にまぶされた鱗粉のように西日が光っていた。
ロバの引く乗り合い馬車は極めてのんびりとした速度でポプラの街路樹が植わった公園沿いの道を進んでいる。布に包まったなにかを胸に抱いた私は馬車の最前列に座って、滑っていく木々の影で濃淡の斑を作りながら金色に輝くロバの背を曖昧模糊で眺めていた。
道に沿って伸びている豊潤に葉を茂らせるポプラは飴色のこっくりとした落暉の光に照らされて、乱反射しながらその葉の色と明度を幾重にも変化させるものだから、眩しくてさっきから視界が細長い。ポプラ並木の向こうにはどうやらフルーツジュースのように瀲灎と光が満たされた芝生の公園らしい。そこから洩れてくる太陽の分子が葉脈までくっきりと芸術品のように透き通らせては隙間から燦然と通り過ぎ、きらきらと音を立てては忙しく私の顔を撫でていく。シナモンのような不思議な甘い香りが混ざった空気。
道行く人々は微かに微笑み、不幸ではないが大袈裟なほどの幸福でもなく日々に感謝して生きてきた人特有の柔らかさが滲んでいる。どの人も華美ではないが身の丈にあった着心地のよさそうなさっぱりとした衣類を身につけ、各自のリズムとペースを乱すことなくゆったり歩いている。
私は胸に抱いているおくるみに視線を転じた。腕の中には、梅干しのような顔の赤ん坊が眠っていた。けれど、不思議だった。私は妊娠も出産もしたことがないし、赤ん坊を目にしたこともない。それなのに、その赤ん坊が自分の子どもなのだとハッキリ確信しているのだ。この子は、きっと女の子。そう思った。次の瞬間、おいしそうな食べ物屋台や面白そうな雑貨店が両側に出現し始めた。赤ん坊はいつのまにか幼児になって隣に座っている。あ、あ! と興奮した声で指差している娘を、私は慣れた手つきで膝に抱き上げると、二人で心踊らせながら、後で一緒にあれを食べてみようか、あれを買ってあげようか、あの服を着せてあげようかと、そんな想像をしては楽しむ。初めて見る様々な店や物や人や景色に興奮した娘は、目を皿のように大きく見開き、小さな手で私の腕を強く掴んでいた。
「ママ、犬! 犬がいるよ!」
不意に嬰児が言葉を発した。微睡む調子で過ぎて行くパテに似た食べ物屋台の真っ赤なビニールテープを貼られた簡易的な手作りの会計口から、耳が長く垂れた縮れ毛の真っ黒い犬が赤ピンクの舌を耳と同じぐらいだらりと垂らし、小さくて円らな黒いビー玉みたいな目で微かに息をついて、こちらを見つめていたのである。私は思わず手を伸ばして、ぬいぐるみのように気持ち良さそうな犬の首に手を滑り込ませた。思ったとおり、温かくて手触りの良い感触だった。
「いいなぁー」
娘はいつのまにか五歳くらいの年頃に成長していた。私の隣に移動していて、スカートに包まれた膝に置いた小さな両手はふんばるような具合に力が入っている。私は彼女の羨望を紛らさせるために、手を伸ばしてルビーで拵えたかのようなリンゴを一つ買って与える。娘は、嬉しそうにリンゴをひっくり返すと、おしりから齧り付いた。いつの間にか、ポプラ並木の影が幾つも細かい砂利道に長い黄昏色の線を引いていた。前を歩くロバの、のどかな背中がとろりとした飴色に変化し、光を細かく反射しながら居眠りしそうなテンポでゆっくりと進んでいく。ふと、ロバと馬車を繋ぐ綱が音もなくすっと離れた。急に馬車が止まったので、乗客は銘々好きに降りて行く。
「まってぇー」
小学生くらいに成長した娘と私は慌てて馬車から降り、お構いなしに歩いていくロバを追う。
間もなく追いついた私たちは、微かに砂煙を上げて地面に引きずっている綱を拾い上げると、ロバを挟んで歩いていく。ロバは鼻歌でも歌っているような具合で俯いた顔を左右に振りながら、輝くキャロットジュースの中に沈んでいるような眩しいポプラ並木を進んで行く。
ふと、ロバが立ち止まる。ポプラ並木が切れた目の前に聳えていたのは、寺院のような凝った煉瓦造りの古めかしい色をした建物だった。教会かもしれない。静謐な空は桃色と橙色のグラデーションに染まり、紫の影を持つ雲が一面に散っていた。そこに薄暮色がこぼれだしている。甘い甘いシナモンの香り。
横を見ると、黄昏が分散された陽光に満遍なく照らされた娘は、すっかり私と同じ背丈になっていた。娘は虹色になった長い睫毛を瞬かせて、私には聞こえない音楽を聞いているように飴色に染まった体でリズムを取りながら笑って少し揺れている。愛らしい娘には、どうやらロバの鼻歌が聞こえているようなのだ。どんな曲なの? と話しかけようとした。そこで、ふっと目が覚めた。
なんとも不思議な夢だった。けれど、啓示と取れなくもない。
夢の中で娘と過ごす時間はとても穏やかで、今まで経験したことがないような満たされた気分を味わえた。『幸せ』という言葉は、あの夢のために用意されたと言っても過言ではない。そのくらい『幸せ』な時間だった。けれど、残念なことに夢は夢。現実ではない。そもそも子どもって・・未知の生物である子どもが私はなんとなく苦手だった。避けてすらいたかもしれない。それなのに、一体なんだったのだろう。今までにも漠然と男との子どもが欲しいと思ったことはあるにはあるが、あくまでも男を繋ぎ止めておくための、自分を選択せざる負えない要素を増やすためだけの自分勝手な最低な理由としてだ。自分が子どもを愛せるだとか、育てられるなんて現実的なことは一切想像すらできない。ただ、そうすれば、流産した挙げ句に浮気ばかりされて伴侶としての機能を果たしていない男の妻に、立場的にも優位に立てるのではないか。そんな倫理に悖る最低な考えがあったことは確かだ。それに、なにより、私は妊娠しにくい。それは、何度も証明されていた。
けれど、夢から数ヶ月後、私は妊娠したのだ。
相手は、奥さんと離婚するつもりだと理由をつけて泥沼を楽しんでいた男。私を人工中絶させようと必死になっている形相を見て、睦言で連呼していた『愛してる』の無責任さを改めて再確認した。だが、言いなりにはならない。なんとしても守らなければ。この子は、夢に見た子に違いないのだ。母性全開の私は確信していた。絶対に殺させない。
けれど、殺人を薦める人非人は意外に多かった。彼らのいい分はこうだ。
『父無し子なんて可哀相だよ』
『父親のこと、なんて言うの?』
『一人じゃ育てられないよ。特に君は』
『やめな。不幸になるだけだよ。今ならまだ、人の形になってないから殺すことにはならない』
『そうだよ。おろしなさい。お金だってないんだろう?』
『困るんだよ。どうしても生むって言うのなら、訴訟のために弁護士に相談しなきゃならない』
二十歳そこそこの私の未熟な考えを揺るがすように、彼らは『心配』という名の脅しをかけてきた。縋る者も頼る者もない。知識や経験が豊富な人間が発する立派な言葉を無視することができなかった私は未知なる不安に戦き始め慮ったが、何度考え直してたところで、この無辜の子を殺して保持する現在の自分の人生に価値を見出すことができなかった。出産することで人生がどう変動するのかは想像もできないけれど、今の人生よりは遥かにマシな気がするのだ。少なくとも、私は一人ではなくなる。それに、この胎児は未知なる可能性の塊だ。私とは違う人間だから、生かす殺すを私の一存で決めることではない気がする。この子が生きたいのであれば、私は産んで育てるだけで。生まれない方がよかったと決めるのは、この子であって、なにもしない他人じゃない。同じ不幸を歩むのなら、可能性があるほうに賭けたい。私は完全に夢に一縷の望みをかけていたし、だから意地を通して逃げて出産した。自分でも信じられないことだった。
気付くと、部屋には斜陽が長く伸びていた。窓の外に視線を転じると、琥珀色の黄昏が迫ってきているのが見えた。娘のお得意料理の一つ、中華スープを彩るふわふわ溶き卵そっくりの金色の雲が塗り残された薄い水色の空に浮いている。私は入れたばかりのシナモンミルクティーを慌てて水筒に移した。
「ね、散歩に行こうよ」
はしゃいだ勢いで誘ってみる。遅い思春期真っ盛りの十九歳の娘は、なにかにつけて否定したり文句を言いがちだが、スマホを弄りながらも珍しく「いいよ」と素直な返事をしてきた。私は提案が了承された安堵と娘と散歩できる嬉しさでつい、駅向こうにできたパン屋まで足を伸ばしてみよっかと余計な提案を付け加える。
「ダルいから行かない」
マズい。散歩自体が中止される危機にたちまち陥った私は慌てて、娘の機嫌を取りにかかる。こんな綺麗な黄昏時を打ち壊さないために「そんなんだから運動不足で太るんだよ」とお馴染みの小言を飲み込んだ。喧嘩したら元も子もない。億劫そうに動き出した娘を手伝って、玄関を後にした。
外は刻々と増していく影の濃度のため、人や木の区別が曖昧になっていて、目を凝らさないとわからない。
琥珀は薄く透明な暗さを塗り重ねていき、遂には全ての輪郭も形も色も影に染まりシルエットだけの世界になった。手を繋いでいる娘の顔すら定かではない。ただ、じっとりとした汗っかき特有の手の温もりがあるので娘だとわかるだけで。
生まれた娘は、幼い頃、与えられたスモモやリンゴをおしりから齧る風変わりな子どもだった。
放縦な気質で我が強くて、そそっかしくて、短絡的でちっとも言う事を聞かない娘は、しょっちゅう熱を出して嘔吐をするわ皮膚病にかかった。思い通りになんていかない子育てに私は苦悩の連続だった。母は、生む前は知らん顔をしていたが、さすがに孫は可愛いのか気が向いた時にだけ世話をしに来た。けれど、私の意見は無視して母流の躾を実行するものだから、溜まらない。左利きだったのを、無理に右利きに矯正させたのも母だ。育児の息抜きどころか余計に私のストレスを増やしたものだ。そんな母は去年亡くなった。食道がんだった。母は、息を引き取る直前であろうと私と話そうとはしなかった。さぞかし期待はずれの娘に呆れ果てているのだろう。思えばこの人は『愛してる』を誰より私に与えられる立場でありながら、一度も『愛してる』と言わずに、いや、そもそも『愛してる』なんて言葉、自分には関係ないとでも思っていたのかもしれない。母の気持ちはわからず終いだ。わかるのは、母は最期まで意地っ張りなままだったということだけ。
交互に足を前に出しながら、こうやって私は娘と辛い時も寂しい時もお金のない時もずっと歩いてきたのだと、しみじみと振り返った。母のことだけではない。職場を解雇されたこともあった。煮え湯を飲まされたことは一度ならず。思い込みの激しいストーカー男に付け回されていた時もあった。逃げて、何度も引っ越して、終いには限りなく底辺の生活を強いられた。日当制の警備員をしながら生活を切り詰めて、娘の学費を貯金して、旅行は疎か外食ですら数えるくらいしか行けなかった。よく行く外出スポットは、都営の動物園と公園のみ。手元不如意のため、あの夢のような景色が見られる外国旅行など逆立ちしても無理だった。精神的に余裕がなくて娘に辛く当たったことも数え切れないほどある。それでも、娘との生活を手放さなかったのは、どうしても手放せなかったのは、彼女のことを誰よりも愛してたから。娘の喜びや幸せを思えば、彼女の将来のことを考えれば、どんなに辛い現実でも乗り越えなければいけなかったし、それだけの力が湧いてきた。私しか娘を守れないのだ。私がしっかりしなければいけないんだ。私にとって娘は、支えであり動力であり羅針盤であり侭ならない、かけがえのない特別な命。孤独が似合う私に、必死で寄り添おうとする愛おしい存在。人を心から愛せなかった私の胸を締め付けたり、心を掻き乱したり、泣かせたり、怒らせたり、笑わせたり、幸福を感じさせる。それが娘。
娘の誕生日を迎える度に、私は彼女の好物のフルーツたっぷりのタルトとシナモンミルクティーを用意しながら、娘の成長を祝福する幸せを噛み締める。幼児の時には、夜寝ている時にそのまま死んでしまうんじゃないかと心配で、よく眠っている娘の頭に耳をつけて彼女が生きている音を聞いていた。その娘が、大学生になり、もうすぐ二十歳を迎える。あの黄昏の夢よりも遥かに背が高くなった娘は、とっくに私の背を越している。飄々としているように見えて、彼女成りに色々と苦悩もあるらしく、スマホを手に険しい顔をしていることを見かける。気が向いたら、事情を相談してくることもあって、信用されているようで安心する。まさに一喜一憂だ。
「キレイだね」
娘が呟いた。彼女にこの美しい景色を見せることができて、彼女を産んで本当によかったと思う。後悔はしていない。取るに足らないクズのような虚無に食われかかっていた私の人生を激変させてくれた娘。彼女の存在が、私の人生の意味なのだ。黄昏に染まる彼女の人生が幸せでありますようにと祈らずにはいられない。そして、彼女と巡り会えた奇跡に、彼女が私を選んでくれたことに感謝している。私は持参した水筒からシナモンミルクティーを注いで渡す。異国にいるようなエキゾチックな甘い香りが立つ。自分の分も次いでなんとなく乾杯する。娘は変な顔をしたが、気を取り直してカップを口に運んだ。そんな娘を横目に私は聞き取れないくらい小さな声で囁いてみる。
「・・愛してるよ」
夕陽に見蕩れる娘は聞こえていない。それでいい。まだ面映いけれど、確実に感じている。私は娘を愛している。正真正銘の『愛してる』だ。
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