曙の時刻は、彼に別れを連想させる。

 楽しい時間が過去になる別れ。

 心地いい夢をもたらす眠りとの別れ。

 濃厚な愛の時間との別れ。

 夜空に羽ばたき闇に駆ける想像力との別れ。

 深夜の無人の都会を堪能する密やかな時間との別れ。

 そして、彼女との別れ。



 東京都心の家賃はバカ高い。だけど、その価値はある、と原宿に住居を構える彼は実感している。

 新しい住居を探している時に、キャットストリートを1本入った便利な立地にある家賃8万の昭和を感じさせる木造アパートに巡り会えたのはラッキーだった。本音を言えば彼は表参道に面した同潤会アパートにこそ住みたかったのだが、耐久性の問題から現在は住居目的では使用できないらしく渋々妥協したのだ。同潤会アパートより遥かに見た目も耐久性も劣るが致し方ない。渋谷区神宮前の住所に建つボロアパートは、誰もが知る有名な都心に住みたいミーハーな彼の優越感を満たすには十分な立地であった。

 崩れ落ちそうな階段を上がった中央の部屋が彼の住まいだ。間取りは1K。風呂トイレ別である。アパートは、両隣の建物の隙間に無理矢理押し込まれたような恰好で建っているため、日当りは絶望的であったが、日中は仕事で留守にしていることが多い彼には別段気にならなかった。唯一ある窓にしがみつくようにくっ付いている手摺は錆び朽ちて今にも落下しそうな代物なので、布団も干せないが、これも特に気にならなかった。

 彼が営業兼メンテナンスとして勤めるグリーンレンタルの会社は渋谷にあり、原宿に越してきてからは徒歩で通っている。人通りの比較的少ない裏道を選んで満員電車や喧騒とは無縁の通勤は快適そのもの。もちろん、都心にも出やすい。物価は安くないが、贅沢をしなければ暮らしていけなくはない。なにより、憧れの都心生活者としての自負が彼の毎日を満たしていた。休日に一歩外に出れば、お洒落な店がしのぎを削る原宿があり、流行の発信地とも言える渋谷があり、セレブが闊歩する青山が徒歩圏内で行けた。地方からの観光客でごった返す名所スポットを、生活の中の当たり前の場所に過ぎないといった住人面であちこち探索できることの幸せを噛み締める。歩き疲れたら、すぐに自宅に帰れるのだ。

 都心で暮らしていなければ味わえない経験は、夜にもある。

 その日は、久しぶりに会った大学時代の友人に付き合って渋谷で終電過ぎまで飲んでいた。原宿の住所を散々自慢し、羨ましがられた彼は、すっかりいい気になって飲み過ぎてしまった。泥酔した友人達が相乗りしたタクシーに手を振った彼が帰路につこうと振り向くと、人通りの少ない見慣れない深夜の街が広がっていた。

 うわ! やられた! と、彼は歯ぎしりした。深夜の時間帯は、完全に盲点だったのだ。

 朝から出勤して夜には寝ていることが多い上に都心に住む友達も少ない彼は、頻繁に夜遊びをしなかったのだから無理はない。遅くなるといってもせいぜいが、終電前くらいで、終電後で人が掃けた246や美竹通り、表参道やキャットストリートとは無縁だった。昼間の顔だけを見てわかった気になっているなんて、人の表面だけを見て善悪を判断するようものだ。そんな浅はかだった寡聞な見方を、彼は深く恥じ入った。物事には表と裏、光と影が存在するのだ。彼の視界に広がった闇夜に染まる街並は、街灯の灯り1つとっても霧の中で滲んでいるような発光に見え怪しく幻想的である。墨色の空を切り取る影絵のような建物群。眩しいほど華やかなのに取り残されたようなショーウィンドウや広告ネオンは、まるで暗い部屋でつけたテレビ画面のようだ。明暗差が残像と相俟って、光と影が逆転したネガフィルムのように濃淡の静止した闇を作り出している。まるで異世界だ。不思議な感覚だった。歩いているはずの足取りが、視覚の光度が減るだけで、こうも非現実な感覚になる。自分と周囲との距離感が曖昧になり、昼間ならば頼りになる筈の光に惑わされるのだ。そして、どこまでいっても無人。ここはどこだ? この世界に、僕だけが一人取り残されてしまったのか? その奇妙な爽快感たるや。彼は、深夜の散歩にたちまち魅入られた。土日祝日休みである彼の仕事の関係上、深夜の散歩は週末に限定されはしたが、それからというものの彼は毎週欠かさず深夜の散歩を実行することになった。

 彼が外出する時間帯は、深夜2時前後。終電直後から明け方までの時間を何度か試して導きだされた最良の時間帯であった。セットしたアラームが鳴り始める深夜2時少し前に起きだした彼は初め耳慣れた生活音がない静穏に戸惑った。普段は、アパートの横の通りを挟んだ向かい側にあるちょっと名の知れたヘアサロンの店員が発する『いらっしゃいませー!』『またお越し下さいねー!』といった接客の声や内緒話のような客との会話、店内ミュージックのボサノヴァがサロンの定休日である水曜日を除いた基本のBGMだ。加えて、右の壁越しからは不定期に地響きのようなベースの音が、左の壁からは夕方5時になると爆音のクラブミュージックが、彼の住居を満たす生活音の全てである。その生活音が途絶える唯一の時間帯が、深夜であるらしかった。まず、そのことに感動を覚えた。起き抜けから非現実な世界は始まっているのだと、逸る気持ちを抑えてTシャツとジャージに薄手のウィンドブレーカーを羽織る。スニーカーの靴紐を結んで外に飛び出すと、新鮮な空気に取り巻かれる。季節は春。桜にはまだ早いが、寒さとも無縁で過ごしやすい。彼は張り切って歩き出す。

 散歩ルートは、その日の気分で変わる。渋谷をぶらつくこともあれば、表参道から青山に抜けることもある。山手線沿いに行くこともあれば、原宿の裏側を散策することだってある。場所によっては朝まで営業している店もあるので、そこは避けるようにした。立ち止まってぼんやりしてみたり、写真を撮ってみたり、座ってみたりと深夜の街を堪能した。そうして非現実な世界に身を置いていると、齷齪と生きている人が犇めく現実世界こそが非現実に感じられてくるから不思議だ。自分が属しているのは、自分の世界なのは、深夜のこの世界なのではないかという気になってくる。いつかは新宿あたりまで足を伸ばしたいと夢は膨らむ。

 少女を見かけるようになったのは渋谷と原宿付近散策の時に限られた。

 人通りの少ない真夜中のスクランブル交差点を舞うように彷徨っている少女。

 ボーイフレンドサイズのだぼだぼの黒いパーカーを着て、フードを目深に被り、その上からメタリックブルーのヘッドホンを装着し、ボロボロのデニムのショートパンツから突き出た棒みたいな素足にスニーカーという恰好の少女は、丑三つ時を過ぎた頃になると、どこからともなくふぅと現れる。

 鼻歌を歌っているような軽やかな足取りで、歩いたり飛んだり、回ったりしながらファイヤー通りや公園通りで見かけたかと思うと、明治通りの歩道橋に現れたりする。いつも静止画だ。少女はヘタクソなコマ送りのように夜陰に紛れて見えたり消えたりする。目の錯覚かと思い、気にも留めなかった。けれど、毎度同じシルエットで現れるので、さすがに気になり始めたが、家出少女なのかと思い、最初のうちは面倒事に関わり合いたくないがために一瞥するにとどまった。ところが、渋谷センター街に面した色とりどりのバッグが陳列されたショーウィンドウの前で立ち止まる姿が、さながら暗い水族館で色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水槽を見上げている子どものようにあまりにピクチュアレスクだったので、思わず声をかけてしまったのである。当たり前だが、フードの下から警戒の色が光る眼差しを向けた少女はじわじわと後退った。思いのほか少女の頬がこけていたので、彼は俄にぎょっとして気安く声をかけたことを後悔した。

「あ・・ごめん。深夜の散歩、いいよな。じゃ」そそくさと立ち去ろうとする彼に、ねぇと声がかかる。

「名前は」

「・・シノノメだけど。君は?」

 軽やかに無視される。と、いうか新種の羊の角みたいなヘッドホンで聞こえていないのかもしれない。とにかく大人げなくムッとしたシノノメは、あっそうと言い捨てると少女に背を向けて歩き出した。深海に沈んだようなセンター街を照らしているのは青白い燐の火を思わせる街灯の列。シノノメは少女が距離を取って後ろからついてきているのに足音で気付いたが、餓えた獣につけられているように思え、またあの痩せこけた顔がきっと骸骨に見えてしまうだろうことを想像したので無視していた。そうして、曙の気配を感じた頃に彼がやっと振り向くと、少女は消えていた。

 そんな出会いだったにも関わらず、以来、少女は、シノノメの深夜の散歩に挿し入ってくるようになった。

「通報しない? あたし」

 緑白色に怪しくライトアップされた歩道橋に腰掛けた少女が足をふらつかせながら尋ねた。その質問から、少女がやはり未成年であることがわかったが、シノノメは首を振って興味がないと返した。僅かに据えた匂いが鼻を掠める。

「君が深夜の流浪を妨害するっていうのなら、考えなくもない」

「るろう・・」

 少女の膝小僧がやけに飛び出た骨と皮だけの枯れ枝のような足が夢のような速度でゆっくりと揺れる。彼女の足の先にあるのは、百鬼夜行でも通りそうな明治通り。腐ったオレンジみたいな怪しい色の照明が等間隔に並ぶ。

 ひらりと飛び降りた少女は、ヘッドホンを首に下ろして歩き出した。自分で切ったらしい少女の髪は短く斬バラで、頬には切り傷の痕がついていた。どうしたのかと聞くと、髪を切る時に誤って切ったと返ってきた。異常に痩せているのは食べられるものが少ないからなのだという。

「ジャンケンしよう。シノノメ」

 キャットストリートは比較的明るい。夢見るようなバレエダンスの足付きで表参道と合流する手前まで進んだところで、少女は振り返った。自動販売機が並んだ前だ。お陰で少女の表情は窺い知れない。

「知らない? グリコ」

「ああ、グリコじゃんけんな」

「じゃんけん!」ぽん! と掌を上げる笑顔の少女。そのあどけない表情に気を取られたシノノメは遅出しチョキ。

「グーリー コ!じゃんけん!」ぽん!

 いったい、あの削げた顔のどこから肉が出てきたのかと思うほど、少女の解顔は活き活きとしている。その潔浄な表情に思わず目を奪われてしまいまたチョキを出してしまったシノノメが勝った。

「チヨコレェート」と、シノノメが大股に少女を追い越そうとすると、笑みを吹き消した少女が「名前、それ」と、ぽつんと呟いた。

「なにが」あと2歩手前で止まって振り返るシノノメ。少女は暗澹たる面持ちで俯いている。

「あたし」

「チョコレート? じゃんけん?」

「・・チョコ」逆行になった歪んだ笑いが浮かぶ。少女はペットみたいな名前だった。

「日本人じゃないのか?」

「フィリピン入ってる。ハーフ。日本人はパパ。このヘッドホンもパパに買ってもらった。パパは時々くる。毎回違う人。ママは美人。あたしはママに似てる。よく言われる」

 チョコは吐き出すように説明しながら、自分の顔を揉みしだくようにして引っ張る。

「夜にママはいない。朝にならないと帰らない。あたしは、夜の家が嫌い。夜の街が好き。シノノメ、じゃんけん!」ぽん! と、拳を突き出す少女。シノノメはチョキだ。

「グーリーコ!」

 三歩先でチョコは崩れるように仰向けに寝っ転がった。元シャネルの店があった横の緩い坂だ。痩せぎすの顔が上を向くと、痩けが増々強調されて骸骨のようだ。起き上がってくる気配はなさそうなので、シノノメは普通に歩いていって、彼女の側で体育座りをした。キャットストリートが見渡せて、夜空が広がっていた。

「・・・・グリコがよかったよ」

 骨と皮だけの小さな手を空に伸ばして、チョコは悔しそうに呟いた。

「強くなれる」

 グリコの商品の謳い文句か。チョコもグリコもあまり大差ないと思ったが悄然としている少女の儚い夢を壊すのも気が憚られたので敢えて黙っていた。重苦しい空気を変えようとして彼は話題を探す。

「なんの音楽を聞いてる?」

「子守り歌、聴いてる。ママが歌ってくれた」

「聞かせてよ」

 チョコは静かに歌い始めた。音なのか言葉なのかわからない歌詞だったが、花の莟がゆっくり開いて、また閉じていくようなメロディーと透明な声が眠った街に似合う。孤独と美しさが入り交じった旋律は、この世界には僕ら2人しかいないような錯覚に陥らせるには十分だった。聞き入ってしまった。すごいな・・と感嘆の声が漏れる。

「この夜の世界の主人公は、僕たちなんだって気になるね」

 けれど、彼女は無反応だった。ただ、黙って燻し銀細工のような夜空を漆黒の瞳に映していただけだ。

「・・チョコは、ママがつけた。チョコが好きだから」

 それって、君とチョコとどっちのことなのかと訊ねようとしたシノノメの言葉を「嫌い、あたし」と遮ったのは、彼女だった。いつの間にか闇が薄れて曙が近付いていた。新しい一日が始まろうとしている。目を細めたシノノメがふと隣を見ると、大の字に寝ていたチョコがいつの間にか消えていた。まるで最初から存在しなかったかのように。もしかしたら彼女は、昨夜という過去に取り残されてしまったのかもしれない。そんなことを思いながらシノノメは帰途についた。



『・・殺害されたチョコさんは14歳でした。本来であれば中学校に通っている年頃であるにも関わらず、入学した記録すらなく、警察では容疑者である母親が虐待を恐れて通わせてなかったのではないかと見ています。チョコさんは平均的な十代の体型より遥かに小さく痩せており、今回の解剖の結果、胃の内部からはアルミホイルと玉ねぎの皮が出てきたことから明らかになりました。食事を与えられず過度の栄養失調の上、体の損傷は激しく、外傷は上半身だけで数十カ所に及んでいるとのことです。容疑者である母親の証言では、帰ってきた時には風呂に沈んでいたとのこと。しかし、チョコさんの頭部には深い陥没痕があり、事件当日の朝、泣き叫ぶ声や怒鳴る声を近隣住民が聞いていることから、警察はチョコさんを殺害したのは母親だと見て捜査を進めていく・・』


 帰社途中のシノノメは、渋谷のスクランブル交差点の真ん中で唖然と立ち竦んだ。エキシビジョンには、シノノメの知らない幼いチョコの顔と名前が大きく映っていた。

 行き交うさざめきの中に混じった幾つかのえげつないコメントが、嗤笑が耳に飛び込んでくる。

「チョコってなにー? 犬じゃないんだからさ」

「ふざけた母親だな。かわいそー」

「アルミと玉ねぎの皮って、それが飯だったのかよ。えぐ」

「つか、そんな状態で、周りも気付かなかったとか」

「ありえないねー」

 クラクションを鳴らされてシノノメは我に返った。信号はとっくに赤に変わっている。慌てて横断したが、飛んできた警官に散々怒られた。けれど、シノノメは上の空だった。俄には受け入れられなかったのだ。

 そんなはずないと思った。あの殺害されたチョコは、自分が会っていたチョコなんかじゃないと思いたかった。夜を縄張りにしているチョコは、きっと今夜にも現れるはずなんだ。

 チョコは、街灯やネオンで彩られた無人の街並を踊るように彷徨って、鮮やかなショーウィンドウの前で立ち止まったり、歩道橋に腰掛けて足をブラブラさせたりしているはずなんだ。

 シノノメは、そんな淡い期待を胸に、チョコを探して土曜日以外にも頻繁に深夜の街をあいろこいろと徘徊するようになった。

 けれど、オーバーサイズのパーカーと剥き出した棒みたいな足をした小さなシルエットはどこを探しても見当たらなかった。彼女はこの世界から消えてしまったのだ。いや、違う。チョコは、彼女は、この光が支配する不条理極まりない人だらけの非現実な世界から消えただけで、闇が支配する無人の現実世界のどこかにはきっといるはずだ。

 空気の香りが変化し、夜が明けようとしていた。残夢を思わせる剥離した闇色の夜の鱗片が、迷子のような顔で繹思しているシノノメに舞い落ちてくる。これは胡蝶の夢だろうか。


『・・・・グリコがよかったよ』


 チョコの哀切に満ちた顔が、力なく伸ばした手が、シノノメの脳裏を横切った。同時に無邪気な笑顔が曙色の空に溶けていった。


『強くなれる』

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