白昼


 ああ、空が青過ぎて、青過ぎて、あたしは吸い込まれてしまいそうだ。


 耳に突っ込まれたイヤホンからは、大音量で骨太高速ビートが鳴り響く。

 リズムは、あたしの脳天を突き抜け、分解されて風に飛ばされ、どこまでも広がっていく。

 スネアの音に合わせて、夏物のスカートが軽快にはためく。

 あたしをくだらない憂いごと、吹き飛ばして。

 どこまでも、どこまでも果てしなく、吹き飛ばせ・・!


 脈拍より速いリズム。狂いだす、指先。風は、どんどん強くなる。

 あ、スカートが捲り上がる。でも、いいや、別に。誰が見ているわけでもない。

 誰も知らないこんな所にいる、あたし。1人だけの時間。小さな優越感。高校3年生。

 受験生のくせに、授業中にもかかわらず、屋上の秘密の隠れ場所で空を仰いで、音楽に浸るあたし。

 あたし以外の生徒は全員、教室で勉強に励んでいる。

 高校卒業後は就職決定のあたしに、受験勉強なんて必要ない。勉強したところで、どうせ大学に行くお金なんて、うちにはないから。耳朶を満たす音の洪水は止まらない。

 耳をつんざけ、引き裂け、飛ばせ。

 ぬるま湯みたいなこの街から、白くふやけたあたしという泡影を、切り刻んで、吹き飛ばしてしまえ。

 気分は最高潮。ヤバい。歌いたい、な。さすがにバレるか。声を出さないで歌おう。そうすれば、平気。

 あたしは、大袈裟に息を吐きながら無音で、歌う。安っぽいミントガムの匂いの息。

 色素の薄い前髪が、あたしの額の上で、しなやかに踊る。プールやドライヤーで、すぐ赤くなる髪質。染めてるかと怪しまれる自分の髪が大好きだ。

 サビを駆け抜ける疾走感。蒼穹に音が散っていく錯覚。どうしてこうも、眩しいのか。

 あたしは独りぼっちだけど、世界はこんなにも、美しい。

 睫毛に、虹色の光が戯れる、弾ける、弾ける。この音の溢れる厳かな時間を、もっと・・・

 けれど、そんな時間は間延びした無慈悲なチャイムの音と共にかき消される。

 活気や気配が涌き出して、至福の時間は終演を迎える。

 あたしは、憂鬱に溜め息をついて短い髪を搔き毟る。誰にも当たり散らせない逃れられない現実。


 屋上が人だらけになる昼休みは、空き教室で過ごすと決めている。

 窓際に椅子を寄せて、光が溢れる窓の外を眺めながら齧る大好きな卵コロッケパン。至福だ。

 翻る薄汚れたアイボリーのカーテン。窓辺に沿う瑞々しい若葉。空が広くなる初夏が大好きだ。

 校庭に視線を飛ばすと、校庭の端っこでバスケットに興ずる騒がしい男子達。

 バスケ部のキャプテン、浅黒い肌のルパンと形容されるひょろっと背が高い同級生の竹君がシュートを決める。竹君は、あたしと同じ就職組の気楽な立場。彼と一緒に駆け回っているのは多分バスケ部の後輩達。戯れる犬の群れみたいに夢中になってボールを追いかけては風のように笑っている。その中のチャウチャウ犬みたいな男子と一瞬視線が交差した。表情の乏しい顔には意外にもシベリアンハスキーみたいな野性味溢れる目があった。

 あたしの網膜にふっと焼き付いて消える視線。

 ボールがバウンドする音が、太鼓のように鈍く響く。廊下や教室でさざめく生徒達の小鳥のような笑い声と校内放送の底抜けに明るい流行popソング。窓辺から射し込む日差しは、穏やかな退屈そのもの。

 窓辺に凭れ掛かった食後の私は、爽やかな緑風に頬を撫でられて、うとうと微睡む。瞼を閉じても、学校の昼の平和な音は続く。ハスキーがスリーポイントシュートを決めたのを夢うつつに見た気がした。


 そうして授業が始まれば屋上へ。

 本日の選曲。渋いベースの音。鼓膜が振動する快感。

 綿の切れ端みたいな雲が千切れて流れていく蒼茫の空。

 ミントガムを咬みながら光の花粉が混じった風に吹かれる。

 どこまでもどこまでも飛ばされて行く感覚。

 ただ音に浸ってなにも考えなくていいのは、楽だ。

 なにも・・昨夜の家でのいざこざとか、親に投げつけられた嫌な言葉とか、そんなことちっとも考えなくていい。

 あたしだけの時間。優越感。

 指先で刻むリズムは加速していく。

 目を閉じても残像色が目紛しく浮かぶ瞼の裏に酔いそうだ。

 スカートが気違いのように旗めく。

 と、不意に違う匂いを感じた。洗濯石けんのような、折り目正しい匂い。

 あたしが瞼を開けたのとほぼ同時に、片耳からイヤホンが抜き取られる。

 ヤバっ! 先生?!

 焦って開いた視界にいたのは、逆光の閃影。

 しゃがみ込んで、あたしから抜き取ったイヤホンを耳に入れようとしている、バスケットをしていたハスキー犬。

「なんすか? これ」

「ロケンロール」

 あたしの答えに、ハスキーは微かに笑って立ち上がる。

 引っ張られて、あたしの耳からイヤホンが飛ぶ。

「今、授業中」2年のくせにサボりかよと注意すると、彼は伺い知れない無表情で、先輩だって同じでしょ、と返してきた。

 にわかに強い風が吹いてきて、あたしの前髪を海の中の海藻のように緩やかに揺らす。

「くださいよ、ガム」

 催促されるまま、ポケットから1枚出してやると早速口に放り込むハスキー。

「うわっ。辛っ」

 彼は梅干しを食べた時のように皺を寄せ、片方の眉を上げた。

「お子様」

 あたしが笑ってからかうと、彼は恥ずかしかったのか首を軽く撫でながら、そうっすか? と呟いた。

 青空を背景にした、風に吹かれる白い半袖シャツとルーズに結んだネクタイ。

 紺色のズボンのポケットに筋張った両手を無造作に突っ込んで空を仰ぐハスキーが、なんだかやけに凛然としていて、あたしはお年玉を貯めてやっと手に入れた大切な高級イヤホンを拾おうともせずに、凝視した。

 固そうな髪の毛が微かに乱れている様すら変に扇情的だ。

「ここ、気持ちいいっすね」

 頷いたあたしには目もくれず、彼は広がる町並みを見霽かす猫のような顔で眠そうに欠伸を1つ。

 彼のうなじの髪を虹色に透けさせて反射させる太陽の光が、あたしの目に突き刺さってくる。そのまま貫かれてしまいそうだ。

 拾って耳に突っ込んだイヤホンから流れるのは、お気に入りの曲。速さを持った骨太のバスドラムを踏む音が、歪んだノイズ混じりの獣の唸り声のようなエレキギターに絡まっていく。なのに、なにかが違う。いつもと違う。

 なんだ、これ・・

 彼は飄然と風に吹かれる目元を細めている。

 悚然としたあたしの心に濁った感情が沸き出す。

 当たり前に、眩し過ぎるんだ。

 どうしてこの子はこうも、青空が似合うのか。

 なにもしてないくせに。なにも思ってなんかいないくせに。

 口の中のガムはもう味がしない。鼻に抜けるミントの香りは消え失せた。


 くやしい・・


 あたしは猛る感情を、嘲笑うことと不機嫌さで誤摩化した。

 嵐のように吹き付けてくる立ち騒ぐ強風の裂罅から、あたしは彼を嫉視する。

 なにを考えているのか知らないけれど、不意に空も音も全部搔っ攫っていきやがって・・・!

 夏服のズボンと、ワイシャツのコントラストがやけに焼き付く。

 音量が足りない。

 もっと、耳が破裂するほど、気違いのような爆音が欲しかった。

 なのに、いくらプレーヤーの音量を上げても、遠くなっていく。

 彼は忘れてしまったように、再びあたしを振り返りはしないし、真っ直ぐ見つめる先の視線を逸らそうとはしない。

 そのままあたし達は、間延びしたチャイムがかったるそうに時を告げるまでそうしていた。



 腐った卵みたいな夕日が、あんなに透明だった青空をいやらしく染めていく放課後。

 泥染みたいな色の長い影を引っ張りながらあたしは校門へ向かう。

 前や横を不規則なリズムで勝手に歩いている同じ制服を着た生徒達が、影だけの動くシルエットになっていく。

 部活で賑わう校庭を通り過ぎた時、視界の隅にバスケットコートで練習をするバスケ部が映り込んだ。

 背番号4番のハスキーと視線が交差したが、ナチュラルに逸らされる。

「バスケ部カッコいー!」

 黄色い歓声があたしを追い抜いていく。

「あの4番が次のキャプテン? カッコいー!」

「もうキャプテンだよ。あの人、違う学校に彼女いるよ」

 急に恥ずかしくなったあたしは、全力疾走して学校を後にした。

 無性に苛々した。

 なにもかもどうでもいい。煩わしいことは、ごめんだ。


 翌日からは雨に見舞われた。

 無機質な色彩の曇天を見ていると、なんだか自分の存在が消失するような不安に襲われるから好きじゃない。

 雨粒を窓ガラスに叩き付けながら陰気な天気は続く。もうかれこれ一週間程、梅雨前線が停滞している。お陰であたしは屋上に行けない。

 仕方なくイヤホンを片耳に突っ込んで方肘ついて教室で昼寝をかます。そんな時には伸び過ぎた前髪はとても役に立つ。うっとしいから散髪しに行こうと思っていたけど、やっぱり切るのは止めよう。

 イヤホンから流れてくる曲は、ベースの音ばかりが目立って湿気に拍車をかける。

 ミツバチの羽音のような細かな音程を持つ教師の解説が、永遠かと思われるくらいに単調に続き、キツツキが木を突つくような速さで生徒達のシャーペンや鉛筆が走り回る。そして、波の満ち引きのような雨の音。

 あたしは、洗い流されて透明度を増す窓硝子に視線を移す。

 打ち付けられた雨の雫は次々と重力に逆らえずに垂れ落ちている。

 単体でいれば引っ付いていられるだろうに、後から後から垂れ重なってくるものだから堪え切れずに落ちていく。2つ以上で一緒になったら落っこちてしまうんだ。落ちた先は巨大な集合体。入り交じって混ざり合い、分別もなにもなく流れていく。まるで人間社会みたいに。

 くっつくのは友達? 家族? それとも男女? なんだかうんざりする。

 本当は巻き込まれて焚き付けられたいとどこかで思っているくせに、あたしはちっとも落ちたくなんかない。

 独りぼっちでいることにもだいぶ慣れたし・・

 あたしは陰気な顔ばかりが揃う教室に視線を滑らせる。

 半年前にはこの教室に来るのが、クラスメートと話すのが毎日楽しくて仕方なかったな。

 でも、ある時、気付いてしまったんだ。必死に蓋をして隠蔽していた反吐に。あたしが無意識に吐き出し続けていた反吐に。反吐をなかったことにできなくて、日に日に膨らんでいくのを無視できなくなったあたしは、誰かの悪口に付き合うことや、無理な愛想笑いや諂い、気を使うことを止めてしまった。そうしたら、日常が壊れた。

 今まであたしが築いてきた日常は、実体もなにもないハリボテだったんだ。あたしがクラスメートに見せていた顔みたいに。最初から何も誰とも繋がってなんかいなかった。

 必死にノートを取っているクラスメートを横目に、あたしは小さな欠伸をした。つまらない世界。だから、

 だから、あの子が眩しく見えたのかもしれない。

 決して無理をしないで、あたしも無理する必要もなく、なにかを簡単に起こしてくれそうな。

 なにか、嵐のように吹き付けてくるなにかを。

 今となってはそんな事、錯覚だったのかもしれないけれど。

 まぁ、もうどうでもいいや。きっともう、会うこともないだろう。

 あたしは窓ガラスに縞模様を刻み続ける雨を透かして、色褪せて項垂れるように佇む寂し気なバスケットコートを眺めた。

 全てが加速度的に遠くに去っていく錯覚を覚える。

 あたしは耳に入れたイヤホンの音だけを頼りに必死に目を閉じた。

 嵐のような激しい風の音が聞こえた気がする。違う。ただの耳鳴りだ。瞼の裏で青空が忙しく反射している。



「いいんすか? 受験生」

 脳天に響き渡る8ビートに、さっくりと割って入ってきたリアルな肉声。あたしはゆっくりと瞼を開けた。

 久しぶりに顔を出した太陽はすっかり夏の装いに変わっていた。

 屋上の給水塔が作る日陰を占領して体を投げ出したあたし。その脇に突っ立って、例の如く逆光であたしを見下ろしているハスキー。どうしてコイツは、見つけにくい場所にあたしがいるのを知っているのか。

「白昼堂々サボれるのは、生活かかってない学生だけの特権」

 表情の見えない彼は癖なのか首筋を軽く1回撫でながら、しばらく考え込んでいるようだった。

 緑風が吹いてきた。ああ、まったく嫌になる。

 あたしは投げ遣りに目を閉じた。

「教員になればいいんじゃないっすか?」

「高校の? 無理だって。あたし、進学しないし」

 笑いながら瞼を開けると、ハスキーは真っ直ぐにあたしを見つめていた。

 なんだその目。野生の狼みたいだな。

 そんな目で注視されたら、夢見る羊みたいな毛を装っている女の子はいちころだな。でも、あたしは惑わされる愚かな羊にも、弱い兎にもなるつもりはない。

「行けばいいんすよ。短大でもどこでも」

 彼は、ポケットに両手を突っ込むと、二層になって流れていく雲を仰ぐ。

 彼の平淡な声のトーンは変わらないのに、発する言葉の温度がまるで違うことに戸惑っていた。

 優しさを感じると思ったら、次の言葉は氷のように冷たい。

 なんなんだ。

「オレは、なりますけどね。教師」

 空を見上げることに飽きたハスキーは、伸びをして仰向けに寝っ転がった。

「気持ちいいっすね」

 校庭の緑や裏山の木々を洗濯するように揺さぶっていた乱暴な風が、彼だけは抱擁しているようだ。ワイシャツのはためき方が変に柔らかい。

 込み上げてくる、胸を焦がすほどの嫉妬に近い感情。

 何者にも囚われない彼を乱したい、なにかを埋め込みたい。

 引っ掻き傷でもいいから、涼し気な白く呑気な横顔にどんな感情でもいいから、なにかを刻んで歪ませてやりたい。

 吹き付ける風と若葉の匂い。どうしようもない衝動に駆られたあたしは口を開く。

「ねぇ・・殴り合わない?」

 ハスキーは目を開いて不振そうにあたしを見遣った。

 その顔があまりに何事かと語っていたので、吹き出したあたしは腹を抱えて爆笑する。

 状況が理解できない彼が更に上半身を起こす。

「なんすか、それ。どういう事っすか?」

 あたしの笑いは止まらない。

 あーもういいや。どうでも。本当に風に飛ばされていきそうだ。

 青い青い。なにもかも染めて、飛ばせ飛ばせ。

 あたしの笑い声ごと遥か遠くに、吹き飛ばせばいい。

 ついでに過去の時間も、なにもかも吹き飛ばしてしまえばいい。この記憶だけあればいい。

「別になんもー」


 その後、担任に進路変更の相談をしたあたしは、奨学金を借りて教育学部のある都心の短大に行くことにした。

 卒業後のあたしの給料を当てにしていた家族からは猛反対されたが、押し切り通した。

 それからは猛勉強をして、春には見事に合格を勝ち取り、意気揚揚と退屈な街を後にした。




 初夏の新緑の香りを孕んだ風が吹いている午後。

 あたしは屋上への階段を登る。なんのことはない。息抜きと言う名のサボりだ。

 広い屋上を見渡して居心地が良さそうな場所を見つけると、先客がいた。

 緩いネクタイの着崩した学生服。ツンツン頭を振ってエアーギターを弾いている。

「一緒にいーい?」

 あたしが顔を出すと、ぎゃっ!と仰天するツンツン頭。

「うわービックリしたー!うわー心臓止まるかと思ったー!うわーまた先生かよー勘弁してくれよー」

 慌てて起き上がった拍子に、男子生徒からイヤホンが転がり落ちた。

「なに聞いてたの?」

「これ? これはさ、ロケンロール」ふふん、とドヤ顔になる。どれどれと耳に入れると、聞き覚えのある曲が流れ出した。

「懐かしいね」

「うわーマジ? 先生も知ってんだ、これ。オレ、新しく来た体育の先生に教えてもらったんだー。あの先生にもよく見つかるからさ。あ、ヤベー噂をすれば・・」

 肩越しに向けられた学生の困ったような視線を辿って振り返ったあたしの視界に、狼のような目があった。

 イヤホンから漏れてくる骨太のバスドラムが鼓動に重なっていく。エレキギターの音が颯然と響く。

 煽られた風はミントの香り。白昼の碧落はどこまでも青かった。

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