逢魔ヶ刻
デートだった。
彼女がどうしても行きたいって駄々捏ねたから、江ノ島に行ったんだ。
それで、この子けっこう可愛かったのに、これでお終いかぁって残念に思った。
カップルで弁財天が祀ってあるスポットになんて行ったら必ず別れるなんて地元じゃ有名な話だ。だから、おれらは本命の子は絶対に江ノ島には連れていかない。だけど、女子ってやつはどうしてか、こう観光スポットに弱いらしいんだ。それも、恋人が集まるようなスポットに。自分もそこの一部になりたがるみたいで。そういう一部になれば、なにか普通の恋人基準に達した優越感でも味わえるのか。それとも、恋人を見せびらかしながら、次いでに比較でもしたいのかなんなのか・・
熱心に弁財天に願掛けする彼女の可愛らしい横顔を見ながら、おれはあーもったいねーと肩を竦めた。
丸顔に団栗眼、艶っとした厚めの唇の右下にはギャップ萌えの色っぽいホクロ。前髪を切り揃えたボブはカールしている。ナンパに成功した同い年の他校生だ。
付き合い始めて1ヶ月記念で、江ノ島を持ち出してきた。おれは正直、記念とかそんなのどうでもいい。
「ねぇ、なにお願いした?」
出た。自分のことを話したい前振りだ。女子って、これ好きな。おれは期待に答えて質問返しをしてやる。
「あたしはねぇーたっくんとずっと一緒にいられますよーに! って」
はい。一番叶わない願いなーと、屈託ない笑顔で笑いかけてくる彼女に苦笑いに見えない程度に笑いかける。「恋人の丘に行こうよ!あたし、あそこの鐘を大好きな彼氏と一緒に鳴らすのが夢だったの!」
もう何も言うまい。おれは、彼女の後に続く。先日、彼女に振られた親友を慰めたばかりだ。次はおれか。遠い目で行列に並んで、彼女と一緒に夕陽に向かって鐘を鳴らす。ご愁傷様と言われているような鐘の音だ。
「岩屋まで降りようよ!」
もう暗くなるのに嫌だな、と思いつつ階段を降りて行くと、突如断崖絶壁が現れる。割と見慣れた景色だが、夕暮れ時に来たことがなかったので、空の色合いに驚いた。前の彼女にねだられて買った指輪に嵌ってたタンザナイトみたいな青紫の空に煙を纏った緋色の炎が踊っている。
眼下に広がるのは鏡のような相模湾。その入り江には僅かな岩場があり、だいぶ小さくなったその上にはまだ釣り人らしき人影が見えた。
うわーきれぇー! と、大袈裟にはしゃぐ彼女の横で、伸び上がって暮色に沈んでいく岩場を見下ろしていたおれは、信じられないものを見た。
波が打ち付ける岩場の先端に、仁王立ちになっている人影があった。明るい色の頭をしているらしいその人物は、長くて太い両足を地面に突っ張って、腕を組んで肩を聳やかして立っている。見覚えのあるシルエット。
「キョウちゃん・・!?」
思わず呟いてしまってから、いやまさかなと打ち消した。
「だれよ! キョウちゃんって」
不機嫌そうな顔の彼女に素早く突っ込まれる。ねえ、だれ! 質問にもなっていない尋問が鬱陶しかった。なんでこれから別れるような女に、わざわざ説明しなきゃいけねーんだよ。
「男」
「ほんとにー?」
「マジマジ。ダチダチ」うぜー。こいつ、顔は超可愛いけど嫉妬深っ。別れてもいいやと安易なことを思った。
「ふーん・・そのキョウちゃんって人、死んだんでしょ」
ぎょっとした。どうしてそんなことまでわかるんだよって、彼女が一瞬霊媒師みたいな別人に見えた。
「いや、なんで?」
戸惑うおれには構わず背を向ける彼女。
濃くなっていく背中に寄る影の効果か、まるで髪が伸びたような錯覚を覚える。
「逢魔ヶ刻だもん。いま」ふふん、と彼女は誇らしげに鼻で笑った。
おれは、彼女の言葉の意味を考えるより先に、あれって思ったんだ。可愛らしいばかりのこの子でも、こんな大人びた笑い方なんてできるんだって。その意外性にちょっと驚いて、なんだか別れるのが惜しいなって、これまた安易なことを思った。
「なになに? いま、なんて?」
おれの問いに答えずに、行こーよとおれの腕をぐいぐい引っ張って階段を降りていく彼女。
潮の臭いがぐっと強くなった。海水を被ったような気分だ。
薄暗くなっていく背景で、コマ送りのような動きをしている影と化した彼女。そして、観光客。影に没した誰も彼もが、表情はわからない。彼女の背中で風に呷られた髪の毛が黒い生き物のように不気味に揺れている。あれ、この子、こんなに髪長かったっけ?
なんだか物怪に連行されていくような気がして、おれは不意に怖くなった。
潮が満ちてくる時間帯が迫っている。夜の岩場には降りないほうが賢明だ。
「岩屋の入場時間には、もう間に合わねーよ」
「いいよ別に」影が彼女の声で答える。もう闇に飲み込まれそうな白いワンピースしか見えない。
「行くんじゃねーのかよ」
不安になったおれは、その影が彼女であることを願いながら会話を途切れさせないようにした。
「そうだよ。行くよ」
「どこに」
答えはない。代わりに濃厚な潮風が吹き付けてきた。波に揉まれているようだ。
彼女は、おれの腕をぐいぐい引っ張って行く。まるで、強い波に揉まれているような感覚だ。
この子、こんな力強かったっけ? 彼女の非力そうな細長い手足からは想像もできない。
これ、マジでヤバいんじゃね。あっという間に岩屋へ続く階段口に着いてしまった。
彼女は俺の手を引いて、下に降りていこうとする。
階段の先には、影絵のような木々に切り取られた蠢く海が見えた。キョウちゃんを飲み込んだ海だ。
吹き上げる濃厚な潮風に繁吹かれて、呼吸が苦しい。打上げられた海藻や魚が腐っていくような磯の香。
怖くなったおれは手を振り解こうとしてもがく。彼女らしき影は、おれの手を掴んだ力を緩めようとはしない。女の子らしからぬ怪力だ。それで、恐怖が増したおれは逃れようとして無我夢中で影を突き飛ばした。弾みで転がった影の悲鳴は、一散に逃げ出したおれの耳には届かなかった。
従兄弟のキョウちゃんは、おれのヒーローだった。
当時、高校生だったキョウちゃんは小学生のおれを弟のように可愛がってくれ、原付で色んなところに連れていってくれたものだ。
髪を金髪に染めて、煙草を吹かしながら、学ランを気崩して、夜には仲間と一緒に原付で街を疾走するキョウちゃんは、ガキのおれの目からみるとワイルドな大人でカッコよかった。そんな不良なのに、成績優秀で運動神経抜群。肩で風を切って歩くキョウちゃんは無愛想だったけど、女にモテて、キョウちゃんの歴代の彼女はおれが知っている限り両手じゃ足りない。
釣り好きのキョウちゃんが就きたい職業は漁師。
いつか、現役漁師のお父さんと漁に出るのがキョウちゃんの夢だった。
キョウちゃんの釣りにくっ付いていくようになったのはいつからかは覚えていない。キョウちゃんの使い古した釣り竿を譲ってもらったおれは、鴎が飛び交う岬の先端から日がな一日のんびりと釣り糸を垂らしながら、キョウちゃんの話を聞くのが大好きだった。
頭のいいキョウちゃんは、おれの知らない色んなことを知っている百科図鑑みたいだった。でも、それだけじゃない。一度、おれの同級生の女の子が道路を横断中に転んで、車に轢かれそうになったことがある。その時、偶然通り掛ったキョウちゃんが颯爽と女の子を抱きかかえて助けてあげたんだ。助けられた本人はキョウちゃんの見た目が怖かったらしくて、お礼も言わずにギャン泣きしていたけど、一部始終を目撃していたおれと友達数人は、すっげー! かっけー! と仁王立ちで腕を組む憮然としたキョウちゃんを取り囲んでやんやの称賛を送った。
おれはそんなカッコいいヒーローのキョウちゃんと親戚であることを友達に盛んに自慢して、誇らしく思っていた。
満潮が近い海には近付くなと教えてくれたのはキョウちゃんだ。
キョウちゃんはそれをお父さんに教わったらしい。
紛れもない海の男だったキョウちゃんのお父さんは、彼の尊敬する師匠だった。
『潮は音もなく満ちてくる。気付いた時には取り残されてる。特に夕暮れ時が危ないんだって親父が言ってた』
そんなキョウちゃんが死んだ。海で。
それも、当時付き合っていた彼女と一緒にだ。
2人の遺体は、おれ達がよく行く釣り場の岩陰に、手を繋いで浮かんでいたらしい。
彼女の左足には岩に挟まったような怪我があり、近くに放置されていた釣り竿がキョウちゃんのものだったことから2人で釣りに来た際に彼女が足を滑らせたかで挟まれ、それを助けようとしているうちに潮が満ちて溺死したのではないかと推測された。
遺体の状態から、恐らく前日の夕暮れから夜にかけて事故が起きたと断定されたけど、不可解だった。
まず、お父さんの教えを固く守っていたキョウちゃんは、夕暮れから夜の海には絶対に近付かなかったし、釣りをしている時にも常に潮の動きを気にしていたからだ。
それに、遺体が見つかった釣り場は、夕暮れには潮が満ちて足場がなくなってしまうのはキョウちゃん本人から叩き込まれた情報だ。おれが、夜の方がまた違った魚が釣れるんじゃないかと提案した時や、夢中になってもう少し先の岩場に行こうと誘った時に、こっぴどく叱られたのだから間違いない。
それなのに、いくら彼女と一緒だからといって油断したりするものだろうか。
キョウちゃんが彼女と釣りにいったことも解せなかった。
釣りに行く時は、男同士のほうが気楽だからとお供は弟分のおれの役目だった。それなのに、どうして彼女と釣りなんかに。それも夕方から。夕暮れは危ないんだって言ってたじゃんか。それに、彼女が足を挟まれたっていったって、高が知れてる。あの用心深いキョウちゃんに限って、有り得ない。
おれは、なにかあったんだと思った。キョウちゃん達の身になにかがあったんだ。
そうじゃなきゃ、溺れて死ぬなんて・・
事件だ、と直感した。だけど、おれの主張は誰も相手にしてくれなかった。ガキだったから。
キョウちゃん達の事件はたちまちニュースになり、『高校生心中事件』という的外れなタイトルで大々的に報道された。
2人の遺体が発見された岩場は立ち入り禁止となり、キョウちゃんの家族は、相手の家族から訴えられて、散々酷い目にあった挙げ句にこっそりと引っ越していった。今は四国の港町で暮らしている。
あれから、数年経った。
キョウちゃん達のことは都市伝説の類いに近い過去になりつつある。
でも、おれは変わらずに夕暮れの海が怖い。
夜なんてもっとだ。見たくもない。
どんな経過があったかわからず終いのあの2人が、じわじわと海に沈んでいくところをどうしても思い浮かべてしまうから。その度に、キョウちゃんの絶望的な眼差しが見えるような気がして、助けを求める声が聞こえるような気がして、辛い。
おれは、息急きながら、ついさっき降りてきた絶壁が見える階段まで戻ってきた。
彼女は追い掛けてこない。
なにやってんだ。引き返そうかとも思ったが、どうせこのまま別れるんだと思い止めた。
どこに行くんだか知らないけど、好きにしろよ。キョウちゃんに似たシルエットが過ったが、おれはそのまま江ノ島から退却した。
それから一週間後。
失せ物を探すために部屋を引っ掻き回していたら、女物の腕時計が出てきた。
江ノ島に置き去りにした例の彼女が遊びに来た時に忘れていったのだろうと思ったおれは、返却するために彼女に連絡を取ることにした。
あの子とは遅かれ早かれどうせ別れる運命なんだと思い込んでいたので、自然消滅するつもりでわざと連絡を取っていなかったのだが、黙って捨てるのも忍びないので致し方ないと腹を括って彼女の番号を押した。
「・・どなたですかー」
何度目かの呼び出し音のあと、不機嫌そうな彼女の声が出た。
「おれおれ。この間はごめん。ちょっとビックリしてさ。で、おまえが忘れていった腕時計が見つかったから」
「かけるところを間違えてまーす」そう言って切ろうとするので、ちょっと待てよと慌てて引き止めた。
「怒ってんのかよ。マジでごめん!でも、あん時は、おまえだってちょっと変だったんだぜ」
「はぁー?! おかしかったのは、あんたでしょ!急に変なこと言いながらあたしの手を引っ張ったりして!」
「それ、おまえだろ!」
「あんたよ! あたし、暗いし怖いから帰ろうって言ってたじゃない!それなのに、海岸に降りるって聞かなくて、行かないって帰ろうとしたら、引きずられたんだよ。信じられない!あんな乱暴なことするなんて!まるで別人みたいだった。容赦なくて、ほんと怖かった。あたしが叫んで抵抗したら、突き飛ばしてきて、マジ最悪!」
「おれが? 嘘だ! それしてきたのは、おまえだろ!」
「嘘なわけないじゃん!あんたに突き飛ばされた時に足を捻挫しちゃって、あの後、マジで大変だったんだから! なんだったら足、まだ膨れてるから、写真送ろうか?」彼女はだいぶ激昂している。
「嘘だろ・・だって、あの時は、おまえが」
「ねぇ!あたし、あんたに怪我させられたんだよ!? あーもういい! こんな男だなんて思わなかった! それに、嘘つき! あたし、煙草吸ってる人嫌いだっていったよね? それなのに、あんなヤニ臭い息して!大っ嫌い! 金輪際関わってこないで! それに、あたし、腕時計なんて忘れてきてないし、持ってないから! もう二度とかけてこないで! あたし、新しい彼氏できたから!」ブツンと音がなるくらい勢いよく切られた。
なんだそれ・・どういうことだよ・・
おれは混乱を治めるために腕時計を手に取った。
よく見ると、動いていると思っていた時計の針は7時で止まっている。それどころか、文字盤には水が入っていて水没し白いベルトには濡れたような滲みができているのだ。
こんなんなってたかぁおっかしいなぁ、と首を傾げながらも、なんだか不気味だったので、意味がわからない現象が起きた江ノ島に持ってって捨ててこようと思った。
そうして、江ノ島に向かいながら、元カノが言っていたことを反芻していた。
おれが元カノからされていたことを、元カノはおれからされていた・・?
なんだそりゃ。それに、おれがヤニ臭いって? なんでだよ。おれもおれの周りの奴らも煙草吸ってるヤツはいない。どういうことだよ。わからなかった。元カノの言葉もなにも、ちっともわからなかった。
でも、あの時はなんだか色んなことが少しずつ変だったんだ。
そもそも、おれを引っ張っていっていたのは、元カノだったのだろうか?
髪が長くて、大人びた声と笑い方をしていて、白いワンピースが似合っていた女だ。思い出していく度に、あれは、元カノじゃないという確信が強くなっていった。
じゃあ、あれは、誰だ?
おれは、再び絶壁が見渡せる階段に立った。じき夕暮れの時刻だ。
潮の香は、いつもと変わらず心地いい。あの時は、なんだか、海に潜りでもしたような異常な濃厚さだった。
海が橙色に染まっていく様子を見ながら、不意にひやっとした。
思い出した。
おれはすっかり忘れていたんだ。
おれは、知っている。おれは、数年前に会っていた。
キョウちゃんの彼女として、紹介された日の記憶が蘇る。
橙色のノースリーブ。透き通るような白い手でロングヘアを搔き上げながら、白い歯を見せて大人っぽく笑んでいた。美人だった。キョウちゃんの奥さんになるとしたら、こんな人だろうなと思ったのを覚えている。
数日後に水死体となって浮かぶ予兆すら見えなかった。
キョウちゃんと手を繋いで死んでいた彼女は、白いワンピースを着ていたはずだ。腕時計をしてたかどうかまでは覚えていないけど、もしかしたら、もしかするかもしれない。
おれは、水没して止まっている腕時計を眺めた。
7時。これが、夜の19時だったなら、満潮の時刻だ。
あの彼女が、キョウちゃんと共に死んだ彼女だったとしたのなら・・もし、そうだとしたら、
おれは、彼女にどこに連れていかれようとしていたのだろう。
キョウちゃんが、おれを呼んでいたのだろうか。
だから、あの時、姿を見せたのかもしれない。あの『逢魔ヶ刻』に。
おれになにかを伝えようとしているのか?
それなら、もう一度、おれの前に姿を見せてくれないか!
おれは、大好きだったキョウちゃん達が死ななければいけなかった真相をどうしても知りたい。
いや、それより、キョウちゃんにもう一度会いたいんだ!
腕時計を握りしめたおれは、夕暮れに染まる絶壁下の岩場が闇に沈むまで凝視し続けたが、キョウちゃん達は姿を現さなかった。
あの不意打ちの1回だけ、だったのか・・
しばらく粘ってみたが、なにも起こらなかったので、おれは諦めて、引き上げることにした。ところが、階段に足をかけようとした途端、段を踏み外して派手に転倒。無理もない。足元は暗くておぼつかなかった。けれど、転んだ拍子に、腕時計を紛失した。更には左足を負傷したようで、ひどく痛んだ。鼓動と同時に潮騒が異様に響く。岩屋帰りの観光客だろう。いくつかの影が、そんな哀れなおれの横を冷たく通過していった。潮風はどこまでも穏やかだ。やっとのことで立ち上がったおれは、慎重に階段を登って帰路についた。
それ以来、おれは逢魔ヶ刻には海や海岸沿いに目を凝らすことにしている。
もしかしたら、どこかにキョウちゃん達がいるかもしれないと一抹の希望を抱いていたからだ。
もし、またどちらかと言葉を交わすことができたなら、無念の死の真相を聞こうと決めていた。そんな非現実な希望を抱く時、世界から風化していってしまう彼らの記憶が、彼らの存在が、おれの中に生き生きと蘇ってくる。それは、2人が生きていた証なんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます