邂逅時

御伽話ぬゑ

除夜

『遅くなる、すまん』

 彼女が父からのメールに気付いたのは、仕事帰りの電車内だった。

 大晦日だというのに、帰宅時の乗客はそこそこおり、1年がやっと終わるという安堵と嬉しさに加え大晦日まで働いた疲労感が入り交じっている暑苦しさが車内に充満している。

 下戸なのに付き合いも大変なのね。父のことを考えた彼女はマフラーの首元を緩めながらメールを閉じると、車窓に流れる今年最後の夜景を眺めた。夜景と言っても特別なものではなく住宅の灯りが過ぎていくだけの平凡なものだが、彼女にとっては見慣れた景色。家族が集まる暖かな明かりが次々と通り過ぎていくのを寂しげに眺める自分にふと気付いた彼女は、慌てて視線を携帯電話に落とした。

 父が帰宅したのは23時を過ぎた頃だった。

風呂上がりで髪を乾かしている娘の代わりに、居間にある付けっ放しのテレビから流れる年末番組の騒がしい音が父を出迎える。父はテレビを一瞥すると食卓に乗っかっているリモコンを手に取り音量を下げた。赤々と燃える石油ストーブの上にかけた薬缶が濛々と湯気を立てている。

 娘がおかえりと言いながらぺたぺたとやってくると、予め用意しておいた2つのカップ麺を食卓に乗せた。銘々が蓋を半開きにして調味料を投入すると、父が注意しながら薬缶を取り上げて慎重に2つのカップ麺に熱湯を注ぎ入れる。

「母さんに叱られちゃうな」

 カップ麺の蓋が開いてこないように念入りに閉じた父は、再びストーブに手を翳しながら緩慢な視線を居間に泳がせた。

 ドラマ好きな母の為にテレビに向かい合うようにして設置された仏壇には、微笑む母の写真が鎮座している。母が他界したのは去年。膵臓癌だと気付いた時にはどうにもならない程進行しており、余命先刻すらしてもらえなかった母はあっという間に逝ってしまった。

 タイマーをセットし終えた娘も、父の肩越しに母の写真と視線を合わせる。

「仕方ないよ。お母さんは、お父さんと私が料理下手なのを知ってるんだから。きっとわかってくれるよ」

 専業主婦の母は料理が得意だった。

 若い頃には料理学校にも通っていたというその腕前は相当のもので、有名料理店の味も一度食べただけで再現できるほど。父は、よく母の作る料理の味に惚れ込んでプロポーズに踏み切ったと語っていたが正しい判断だったことがわかる。残念なのは、その抜群の料理センスは娘には受け継がれずに途絶えてしまったことだった。

「しかしなぁ、ミドリだって年頃なんだから、いつまでも下手下手言っていられないんじゃないのか?」

「私のことならご心配なく。ちゃんと料理上手の旦那様を見つけますから」

 自分から振ってきたくせに、父は犬の溜め息のような変な声を出すと、まだタイマーが鳴っていないのにも関わらずカップ麺の蓋を剥がし出した。食欲をそそる湯気がこぼれだす。

「お父さん」

 娘の呼びかけに、ん、ああと曖昧な返事をした父は、途中まで剥がした蓋を放り出すと俄に席を立った。どうやら七味唐辛子を探しているらしい。七味は一緒に添付されていたのだが、間違って捨ててしまったようなのだ。

 ミドリは食卓に常備されている七味の小さな缶を手に取りながら再び呼びかけたが、父は探すことに夢中なのか現実逃避に必死なのか返答はない。普段が冷静沈着な父だけに、動揺しているのが丸わかりだ。娘の結婚に触れるような話題になると最近いつもこうだった。ならば、口に出さなければいいのに、そこはやはり親の義務感もあって言わざる負えないのであろう。

 背中を丸めてウロウロと七味を探し求める父を見ているうちに、自分が口にした言葉に後悔を覚えた。

 父のシャンと伸びていた背中はいつの間にあんな猫背になってしまったのだろうと記憶を巡らせるが思い出せない。

 母は私達の心の準備すらさせてくれないほど呆気なくいなくなってしまった。早過ぎる辛い現実について行けなかったのは父も同じはず。だからだろうか。最近、頓に娘の結婚を気にしている。口に出さないまでも寂しくて仕方ないのだろう。

「私は、お父さんのほうが心配だよ」

「お、あったあった」父が持ち上げたのは七味唐辛子の袋だった。

「足りなくなると思ってな。この前、買い足しておいたんだ。どれ、かしてみなさい」

 父は得意満面で缶を受け取ると、七味を補充した。丁度タイマーが食べごろを告げた。

「いただきます」

 二人はカップ麺の蓋を剥がした。ほんのり出汁色に染まった湯気が立つ。

「お父さん、途中で剥がすから伸びてるんじゃないの?」との娘の問いに、このくらいがちょうどいいんだよと強がりを言いながら蕎麦を啜る父。湯気で眼鏡が曇っている。半分程食べてからふと顔を上げた。

「このカップ麺は、母さんが毎年作ってた蕎麦の味に似てるな」

「だしの味だからね」

「なんだか、母さんが作ってくれたみたいだな」

 二人は母の写真を見遣る。ミドリは、これから何回こうして二人で年を越していくのだろうと思った。その度にこのカップ麺を食べるのかもしれない。そして、いつかは父が1人ぼっちで年越しをする日が来る・・・

「こうやってあちこちで母さんと会えるんだ、父さんは大丈夫だよ。ミドリは自分の幸せだけを考えなさい」

 しんみりと言った父の表情は曇った眼鏡に隠されてぼやけてしまっている。泣くのを堪えているようにも見えるそんな父の顔を凝視できずにミドリは目を逸らして蕎麦を啜った。傾けた汁が思いのほか熱くて噎せそうになる。凶暴な出汁の香りが鼻に抜けていった。本当は、自分は嫁に行かずに婿を取るつもりだと、父に言いたかった。けれど、そんな先のことはわからないから。どうなるかは誰にもわからない。父もそれがわかっていた。だから、希望よりも我慢を選んで口にするのだ。そのほうが、突然の寂しさや悲しさが落下してきた時にも、変わらず我慢すればいいだけど諦めがつきやすいから。母の死で学んだ教訓だ。同じ後悔を二度はしたくない。だから、

 目の前の蕎麦と一緒に鼻を啜る父を見ながら、まだ絵空事の決意は胸にしまっておこうと決めた。今この時を大切にしなければ。食べ終えた父が徐に剥がしたカップ麺の蓋を取り上げた。

「お、これ、緑のタヌキじゃないか」

 今頃気付いたのかとミドリが内心で思っていると「父さんが母さんに作ってやった料理第1号だ」と父はドヤ顔で言い放った。それは料理って言わないでしょうとミドリは笑い出し、つられて父もそうかと笑った。

 テレビからは、あけましておめでとうございますと頻りに叫ぶ声が、外からは除夜の鐘が聞こえてくる。父と娘は、仏間の母を囲んで、おめでとうは言えないけれど来年もよろしくと言い合って眠りについた。

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