小夜

 淀んだ空気が充満する車内に鮨詰め状態の通勤ラッシュ。

 手垢や指紋、頭髪油といった人間が放出する汚れが斬新にペイントされた車窓に、新たに僕の顔刷りが加わる。嫌な乗車位置だ。駅に到着する度に降車しなければいけない上に、足を踏まれやすい。今朝も吊り革に捕まって優雅にスマホを弄れるいつもの位置に乗車しているはずだったのに。やられた。朝起きたら、彼女から別れのメールが来ていた。

 二年程付き合っていた彼女から唐突に電話がきたのは数日前。

『やっと捕まったわね。三ヶ月間よ。あなた、ずっと連絡が取れないから孤独死でもしてるのかと心配したわ。ねぇ、あなたはいつから留守番電話の女と付き合うようになったの?』

 そんなに経ったのかと壁のカレンダーを見ると向日葵が咲く八月のまま捲られていなかった。スーツの上からコートを着ている今はもうすっかり冬だ。僕の意志とは関係なく時は流れているらしい。僕は昨夜も残業で帰宅が深夜だったので、寝不足分を休日の今日で取り返そうと計画していた。だから、とにかく眠かった。彼女の小言が漏れるスマホがややもすると耳から離れてしまう。面倒臭くなった僕は、夢うつつに適当な返答をした。

『僕の代わりに、留守電の女が勝手に君の電話に出るんだ』

 受話器口から世界が飲み込まれてしまいそうなくらい深い溜息が僕の鼓膜を震わせ、続いて氷点下の沈黙がスマホを凍り付かせた。通話は前触れもなく唐突に切断された。蓄積された疲労で朦朧としていた僕は、暗転したスマホ画面から伸びてきた猛烈な睡魔の腕に抱かれて眠りに引きずり込まれていった。だから、仕方ないと言えば仕方ない結果ではあるけれど、さすがに無感情でいられるほどタフではない僕は、多少なりともいつもの調子を乱された。故の乗降口付近の乗車だ。僕は溜め息をつくと、頭の中で今日の業務計画を立て始めた。

 高級寝具を取り扱う会社のベッド部門の販売兼営業に配属されて、早十年になる。扱うメーカーは国内外を問わず、西◯やマニ◯レックス、テン◯ュールなど多技に渡る。百貨店やショッピングモールにも販売スペースを確保してはいるが、主な売り上げはインターネット販売と新宿本社のショールームから成り立っていた。僕の主な仕事はショールームを訪れた客への販売と、顧客を増やすための新規開拓と外回り営業である。

「あと一週間で月が変わりますが、今月の拡販商品の達成率は最悪です! 一人一人、基本を踏まえた上で、自覚を持ってしっかり接客できてますか? 正確に自分の売り上げを把握してますか? 今一度見直して、積極的に業務にあたってもらいたい!」

 社長が朝っぱらから唾をかっ飛ばしている。拡販商品とは、その月に売り上げるとメーカーからインセンティブが入ってくる中心的に売るべき商品のことだ。最低額設定はあるが、最高額設定はないに等しいのをいいことに、欲の皮がつっぱらかった上の奴らが目標額を高めに設定していたため、半年程未達成が続いていた。わざわざ朝礼で繰り返さなくても、社員全員のパソコンに毎日のように同様の業務メールが届いているのだから、わかっている。確認してきた基本は踏まえているし、飯が咽を通らないくらいに自分の売り上げに責め立てられ、それを伸ばす為に開店から閉店まで死にものぐるいで積極的に業務を遂行している。さっぱり売り上げがないわけじゃない。それぞれの社員が、一日もなにも売ってないなんて日はない。限度があるのだ。やれる事は全力でやっている。それなのに、有給やボーナスに対して苦言を漏らされたのではたまったもんじゃない。従業員をなんだと思っているんだ。サービス残業は当たり前。週休二日制の休みまで削って充分会社に奉仕しているではないか。簡単な話、うちの会社はブラック企業なんだ。わかっちゃいるが、適当な退職の理由もないし、見つけられる暇がないので、お互いに誰が先頭を切って辞めてくれるか、誰が労基署に訴えてくれるかと密かな期待を抱きながら、腹痛、頭痛、腰痛をお供に目の前の仕事をこなしていく。バファリンと栄養ドリンクが必須アイテムだ。女子社員達は体を壊すか早々に辞めていくので、いつのまにか運動部の部室のような饐えた汗臭い男だけの職場になってしまった。特に喫煙室は悪臭の宝庫だ。

 報告書と販売計画書を作成し終わった僕は開店前に一服しようと喫煙室のスモークがかった扉を開けた。ヤニ色で満遍なく塗り潰された空間で元緑色の長椅子に座って煙草に火を点ける。煙を吐き出しながら、ここ最近の大型ベッドの売れ行きに思いを馳せた。ハッキリ言って厳しい。シングルサイズやセミダブルサイズのお手軽な価格のものならそこそこ売れてはいたが、クイーンサイズ以上のものになると難しい。日本人は、一部の裕福層を覗き、巨大ベッドに対して生活の中の価値を見出してすらいないのだろう。要するにクイーンやキングサイズの大型ベッドはいわゆる趣向品・娯楽品の一部なのだ。夫婦用としてクイーンやキングサイズを購入した場合であっても、のちのちシングルやセミダブルを買い求める客が多いことから、どうやら大型ベッドで一緒に寝る期間は長く続かないのが現状らしい。欧米人と違い、慣れないキスやハグといったスキンシップの愛情表現が日常的ではない控え目な民族性が或は原因としてあるのかもしれない。僕は煙を吹き出して、柔らかい灰を灰皿に落とした。僕の頭と毎日がベッドで埋め尽くされている間に、世界はめまぐるしく変化している。世界情勢や環境保護活動、政治問題なんぞに比べれば僕がやっている仕事なんてくだらないことなのだ。例え日本からベッドが全滅したとしても布団で寝るだろうし単品マットレスだけでも充分やっていけるだろう。販売の謳い文句『良質な睡眠は、人生に欠かせません』は、別にベッドじゃなくても叶えられる。現に僕はスペース的にベッドなんて置けないような小狭いアパートに住んでいるので、もちろん布団を愛用している。けれど、子どもの時分にはベッドを使っていたこともあった。親が親戚から不要になった二段ベッドを譲り受けたのだ。上段を僕が下段を二つ違いの弟が使っていた。弟が反抗期に突入して別の部屋で寝るようになってからは、ベッドは僕の快適な要塞になった。中学生になることにはプライバシー保護から上段で就寝し下段は物置に使った。ゲームや読書を集中して楽しみたい時などは誰にも邪魔されたくないので、下段にバリケードのように積まれたガラクタと言う名の思い出の品々の奥に作った僅かな空間に潜んでいた。誰かが部屋に入ってきても気付かない。密やかな楽しさだ。そういえばうちの会社では二段ベッドは取り扱っていない。秘密基地にもなる素敵な二段ベッドを扱わないなんて、うちの会社はなにもわかってないのだと思う。僕は溜め息をついて煙草を揉み消した。

 僕はどうしてこの仕事を続けているのか。ある意味では修行に近いのかもしれない。普通の精神なら苦痛やストレスを感知した時点で自己防衛本能が発動し、逃避するなり考え直すなり辞めるなりするのだろう。それなのに僕ときたら、洗脳されたように売り上げだけを考え、それ以外の一切の感情を麻痺させている。麻痺・・ではないか。仕事以外の感情があったのかすら甚だ疑わしい。いや、あったはずだ。仕事以外は省エネで生存するために遺忘していった。いつでも事なかれ主義で、なんとなく生きてきた。来る物拒まず去るもの追わず。唯々諾々の精神。付和雷同型人間。土芥。なんと言われようと、別に気にもならない。他人の無味乾燥な人生を傍観しているような気分で生きてきた。目の前に出された課題や仕事をただこなしているに過ぎない。広大な雪原で雪かきをしているように、僕のやることに意味なんてない。同僚達がよく呟いている『虚しさ』すら感じない僕は、人間としてなにかが欠損しているのかもしれない。欠如概念故に傀儡の僕。デスクトップに映るのは落ち窪んだ眼孔に嵌った死んだ魚のような濁った眼球。下水のような色をした荒れ放題の肌の顔。僕に人間としての価値などないし、別になくても構わない。燃やせる情熱は存在しないし、自己表現したい思いもない。面倒臭いのだ。どうでもいいのだ。三十手前にして既に廃人のような僕にはブラック企業でのベッド販売は、むしろ天職なのかもしれない。カップラーメンと菓子パンを腹に詰め込み、騒がしいワイドショー流し見てヤニ色の空間で煙草を吸う。年配の客からクレームの電話がかかってくる。やんわりとなだめて受け流す。うるさい上司から達成率をどやされる。適当に誠意を見せて受け流す。客が来ないのは僕達のせいじゃない。そして今日もシングルベッド、セミダブルベッド、クイーンベッド、キングベッド、簡易ベッド、ベッド関連商品の多数に頭を占領されて僕は働く。ベッドのしもべと呼べなくもない。誰と誰が話そうと、誰が傍にいようと、誰が傷付こうと、誰がいなくなろうと、誰が苦しんでいようと、悲しんでいようと関係ない。僕はただ、目の前に山積みになっていく仕事を片付けていくためにだけ生きている。まるで機械だ。

「ジョギングが効くぞ。俺もいくら疲れていても、なるべく無理して走るようにしている。性的機能も復活する」

 機械と人間の違いはなんだろうかという質問に、同僚ののっぽはトンチンカンな答えを返してきた。機械と人間の違いは、性欲があるかないかということだと言いたいのかもしれないが、のっぽとの会話は頻繁に齟齬をきたす。

「そのお陰かわからないけど、性欲も体調もいいような気がするんだ」

 のっぽはそれから一週間後に急性心不全であっけなく死んだ。過労で心臓に負担をかけ過ぎたのだと診断された。やはり機械にジョギングは不要だったらしい。


 帰りの電車の中でついうたた寝をしてしまい、気付くと乗換駅で止まっていた。

 車内には僕の他にもホームレス風の酔っぱらい中年男が鬼灯みたいな顔をして鼾をかきながら長々とシートに寝そべっている。あんな人間と一緒に見られたんじゃたまったもんじゃない。僕は夢現つのままホームに降り立った。時間も時間なので、人気はまばらだ。終電は終わっていた。ついてない。路線表を見ると僕の降りる駅はあと二つ先だった。僕は怠い体を引きずって改札を出た。線路沿いに歩いていけば、朝までには帰宅できるだろう。幸い明日は休日だ。僕は線路を横目に、駅前に並ぶ街灯とミイラみたいなイチョウの木が交互に植わっている歩道を歩き出した。白い息を吐きながら少し歩くと、コンビニの灯りと遭遇したので、迷わず店内に入りフランクフルトとピザマンとロングスティックパンを買って食べながら帰路を辿ることに。熱々のピザマンの湯気ごと齧り付くと少し元気が出てきた。幾重にも塗られた群青色の暗い夜空には氷のような白い月がかかり、その月に向かって寒々しい裸の木々がひび割れのような腕を不気味に伸ばしている。温まった体内から漏れる湯気で白く霞む視界には他に、ぽつんぽつんと滲むようなぼんやりした光を投げかけて侘しい道しるべとなっている防犯灯が映っていた。下手をすると鼻の奥がつんと痛む。とにかく凍えるような晩だった。食物を腹に詰め込み終えた僕は、自動販売機で缶コーヒーを買ってプルタブを起こす。

 にわかに暗闇に浮かぶような白い窓枠が現れた。赤煉瓦色のくたびれた外装、くすんだ青い屋根と対比するように白い窓枠の、こじんまりとした古い家が、日陰になった小さな庭から細くしなやかに伸びる瑞々しい緑の若木に囲まれている。窓際に蛍が発光するみたいな青黄色い小さなランプが灯っていた。その横には頬杖をついた男のシルエット。濃淡の影で形作られた俯き加減の男の面持ちは、唯一無二のアイデアが降りてくるのを待ち受ける作家のような神経質そうな物思いを感じさせる。男の顔の造作の形容としてはこの程度が限界で、それ以上の細かい部分は僕の0・5の視力では掴みきれなかったが、僕は男に不思議な親近感を覚えていた。どこかで会ったことがあるのか? 少ない他人との記憶を浚ってみたが、該当の人物はヒットしてこなかった。それもそのはず。僕の記憶の中にある他人は誰も皆、朧げで曖昧な像しか結ばないのだ。つい最近別れた彼女の顔に至っても怪しい。首元にホクロがあったくらいでしか印象になく、顔かたちや髪の長さですら再現できない。両親や親族の顔、毎日会っている同僚の顔、上司や瀬川の顔すら危ういのだ。彼らが人間味のない淡白な人物だったからでは決してない。単純に僕が他人に、それが恋愛や肉親といった特別な関係にある他人であっても、全く興味がないだけなのだ。それが顕著に現れているというだけで。付き合った歴代の顔のない彼女達は去り際に薄情だ最低だといった種類の捨て台詞を残していった。僕は彼女達の要望に沿う男ではなかったのだろうが特に不快にも感じない。僕は自ら望んで誰かと付き合ったことはない。そもそも他人に興味がないにも関わらず彼女らはいつでも勝手に振る舞ってきた。そして、勝手に盛り上がって、勝手に愛想を尽かして勝手に去っていく。まるでつまらない昼ドラでも見ているような気分だった。生殖本能に従って生きている彼女たちは、僕よりよっぽど人間らしいのだろう。だが、僕は機械で結構。生々しい感情など不要だ。生ものの鮮度を保つことは不可能だし、腐敗したら処分に困る。厄介でしかない。それなのに僕は今、窓辺の男に対して奇妙な親近感を覚えている。男に対して僕は少なからざる好奇心をそそられたのだ。窓辺の男は微動だにしない。あまりに長く時が止まっているので、もしかしたら有名な人物や俳優のポスターなのかもしれないと立ち去りかけた時、天啓を待つことを諦めた男がにわかに立ち上がって奥に引っ込んだ。ざっと音が聞こえる程には躍動感のある挙措だった。結局、誰かはわからず終いだ。僕は残りのコーヒーを一気に飲み干した。コーヒーが食道を通過する音は思いのほか大きく響き、直ちに夜の静寂に飲まれていった。僕は空き缶片手に尚も窓を凝視し続ける。奇妙な引っ掛かりを解消したかったのだ。もう一度、顔を見さえすればこの違和感を判明できるような気がした。そのまま小一時間程、息を殺して待ってみたが、彼は二度と現れなかった。なにかがおかしい。恐怖とも焦燥ともつかない奇妙な気持ちが僕の胸裡にじわじわと涌き出してくる。売り上げが一件も上げられずに焦っている時の気持ちより遥かに濃厚で強い衝動を持つこれは、いったいなんなんだ。僕は生まれて初めて得体の知れない恐怖に振り回されそうになっている不安を感じていた。僕はこの理解不能な気持ちがなんなのかを知る必要があった。けれどなにしろ疲れていたし夜も更けてきたため、ひとまず今夜は張り込みは切り上げて帰途についたのである。



 舫先輩は辣腕社員だった。彼の一日単位で打ち立てた売り上げ額は伝説とまで言われ、その記録を塗り替えた者は未だいない。僕が新卒で入社してきた当時、先輩はトレーナーとして僕たちを指導してくれた。通常、業務遂行の妨げや負担を加味してトレーナーに任命された社員に割り当てられる新人は一人、無理して二人くらいなのだが、優秀な先輩は僕たち新卒七人全員をまとめて面倒みていた上、各々に合った研修計画まで立てて着実に成長させていた。けれど、先輩の役職はあくまで平社員、贔屓目に見て販売営業部のエースなだけだったので、果たして負担が増大する新人教育のそれも新卒全員をまとめて教育するに値する特別報酬を得ていたのかは不明だが、先輩は責任感の強い人物だったことから、上司から信頼している君に任せると指名されれば断れなかった節が或はあったのかもしれない。売り上げに拘る割に社員に支払う金をケチるブラック企業なら、使命感が強い優秀な社員を一銭にもならない口で煽てて面倒共を押し付けたとしても然もありなんだ。とにかく会社にとって先輩は、売り上げ達成にしろ小間使いにしろ必要不可欠な存在であることは明白だった。そんな先輩が、週が明けると同時に出社してこなくなった。ちょうど月が変わった第一週目の週明けだったこともあり僕たちは先輩は公言せずに退職したのだと理解したが、事実は無断欠勤の上、連絡が取れない状態だったようだ。会社は大騒ぎになったが、僕たちがやる仕事は変わらなかった。

「先輩、やってくれたな」

 朝礼後、本日の販売計画書を作成していると、隣り合ったデスクで同様にパソコンに向かっていた同期の瀬川がふと口を切った。どことなく誇らしげな微笑みが口の端にパン屑みたいにくっ付いている。

「機械は設定通りに動けなければスクラップだからな」

 僕の返答に瀬川は一瞬きょとんとして、ディスクトップから視線を転じた。

「それは、オレ達のことか?」

「先輩はスクラップされたのか、それとも、」

「知るかよ」

 僕の言葉を遮った瀬川は蛇の毒牙を逃れたリスみたいな顔をして前を向いた。会話とは関係なく僕達の手は休みなくキーボード上を駆け回っている。まるで、覚醒剤を投与された二匹のモルモットがタップダンスを踊らされているような殺伐とした動き。ブラインドを降ろした窓から細く入り込んでくる縞模様の弱い朝の光に照らされた空間を占拠するキーボードを叩く規則的且つ単調なタップ音。見慣れた異様な光景だ。僕は白い窓の中で物思いに耽っていた男のことを思い出す。時間が経過した今となってはその顔には靄がかかり輪郭が薄くなっているが、やはりなにか惹き付けられるものがあった。それがなんなのかはわからない。

 数分後にはショールームで接客に専念しなければならない。ブランド志向の強い金持ちや、買い換えるなら有名メーカーにしたい高齢者や、プチ裕福層に属する新婚夫婦や家族連れなんかを相手に、確実にベッドを売りつければならない。部屋の中の空気が澱み、酸っぱい獣臭が誰からともなく漂い始めた。僕は慌てて自分の脇を嗅いでみたが、まだかろうじて無臭だ。この場の全員が緊張している。だが、自分でどうにかするしかない。助けてやりたくても、助けてやれる余裕は誰にもない。一人また一人と席を立ち、炎天下に鞭打たれながらピラミッドの岩を引いていく奴隷の苦痛に歪む表情と足取りでショールームへ向かっていく。毎度の事ながら僕はエジプトの過酷な歴史を彷彿とさせる朝のこの瞬間が仕事の中で一番嫌いだ。


 例の男のことが忘れられない僕は、休日の前夜には必ず二つ手前の駅で降り、徒歩で帰ることにしていた。白い窓枠の中に男の姿が見られることは稀だった。灯りは常に例の小さなランプのみの僅かな光量。誰かに似ている。その思いが拭い去られることはなかったが、該当する人物を割り当てられることもできずにいた。男の家を目の当たりにする小夜はいつも夢の中のように曖昧だったが、そのくせ、奇妙な興奮と不安とが僕の体を占領していた。自分にそんな生々しい感情があったのかと、これは新しい発見だった。仕事以外に使用されずにきた未開封の全ての感情や脳、肉体に至るまでがなにかを叫びだそうとするような疼きがある。だが、くれぐれも生ものなのだ。用心しなければ厄介なことになるぞと鳴り響く警鐘も、今回に限っては落選した選挙候補者のコメントよりおとなしい。なんだこれは。あの男は、なんなんだ。けれど、なかなか謎は解けなかった。

 週明けの夜。

 残業帰りの僕は人気も疎らな電車に揺られていた。薄闇に沈んだ景色が光の尾を引きながら車窓を過ぎていく。雪でも降り出しそうな凍えるばかりの溟濛な夜だった。疲弊した僕は睡魔に弄ばれ完全に油断していた。件の駅に停車した時だ。視界に飛び込んできた人物を認めて、眠気が吹き飛んだ。思わず叫びだしそうになるのを堪える。あの男だった。間違いない。白い窓枠の中にいた男が、ホームベンチに座ってこちらを見ていたのだ。いや、こちらと言うよりは僕を、僕だけを凝視していたのだ。鏡を見ているような気分だった。腥臭が立ち上ってきた。恐怖でぞわっと鳥肌が総立つ。男は、僕にそっくりの顔だった。瓜二つの顔に違うところと言えば、髪型や服装など細かい部分と目の輝きだけ。爛々とした目をしたもう一人の僕は、非常に存在感があり気力と生気が漲っているように見える。あれは、別の世界に住む僕なのだと一瞬で理解した。鼓動が不吉な悲鳴を上げている。アドレナリンがぞっと脳内を満たす。熱い血が奔騰し体内を駆け巡る。まったく。冗談じゃない。なんだってんだ。神様だか誰だか知らんがなんてふざけたことをしてくれる。同時に僕の脳裏には数週感前に喫煙室で偶然隣り合わせた舫先輩との会話の記憶が蘇ってきた。

『ドッペルゲンガーって知ってるか?』

 先輩は、唐突にこう切り出してきたのだ。先輩の意図が読めなかった僕は少し考えてから慎重に答えた。

『自分とそっくりな他人のこと、ですよね』

『似た顔の他人は、厳密には空似というらしい。ドッペルゲンガーは自分自身、スピチュアル的に言うところの自身の投影すなわち自分の分身なんだそうだ』

 スピチュアルなんて耳慣れない単語にちょっと驚いた僕は、目の前にいる先輩の人間味のある一面に思いがけず触れたような新鮮な心地がした。けれど、返答には困惑した。僕がまごまごしている間に、先輩が口を切った。

『ドッペルゲンガーに会った人間は死ぬとも言われてる』迷信だけどな、と即座に笑いで誤摩化したが、僕は見逃さなかった。先輩の顔に、一瞬陰鬱な影が落ちたのを。会社はさ、と先輩は続けた。

『おれらを機械としか見ちゃいない』先輩はいささか乱暴に煙草を揉み消した。

『機械はドッペルゲンガーで例えると、元じゃあねぇよな』

 冷笑を付した意味深な締め括りでもって先輩は喫煙室を出て行った。先輩がなにを言いたかったのか全くわからなかった。機械をドッペルゲンガーで例えると元のオリジナルではないとする先輩の言葉を拝借すると、僕たちは誰かの複製、ドッペルゲンガーということになる。誰かの投影、つまり影だ。オリジナルの人間ではないから機械になるということらしい。確かに、他の連中は知らないけれど、少なくとも僕に関して言えば、僕は完全に機械で、きっと誰かの自己投影されたドッペルゲンガーなのだ。そうだったはずだった。数分前までは確かに。悄然とする僕の眼前で、男はじわじわと不敵な笑みを浮かべた。男の笑みは、蛇が獲物を見つけて身構えた時に開けた口に似ている。次いで、演奏が始まる前に指揮者がタクト棒を翳すみたいな具合に僕を指差した。僕は羞恥と怒りで、爪先までかっと熱くなるのを感じた。と同時に扉が閉まり、男がいるホームが静かに遠ざかって行った。その様子を目で追う僕の握った拳に力が入る。止まらない体の震えと煮え滾る感情、得体の知れない苛立ち、憤り、悔しさ、恥辱が一緒くたになって体内で激しく滾っていた。僕は固めた拳で膝を打って歯ぎしりしていた。僕にそっくりな男の毅然と蔑む目つき、嗤笑する顔は確かに発したのだ。

『サクリファイスとして消える影は、怠惰なお前だと』

 僕は誰かのドッペルゲンガーでも構わないと思っていたのに、今となっては無性に腹が立っていた。あの男の顔を目撃してしまったからだろう。あんなヤツの影になるなんて、まっぴらご免だと思ってしまったのだ。『冗談じゃねえ』それが、激昂した僕の全身全霊で言い返した答えだった。使われていなかった全ての感情が、五感が一気に開封されて熱を持ち始めている。『負けたくない』『強くなりたい』『あいつより』『本気を出せ!』と僕の脳髄が吶喊を発していた。


 翌朝、僕のキーボードを打つ手は忠実で利口な犬が変な物を食べて突然おかしな行動をとり始めたかのように使い物にならなかった。挙動不審な手をキーボードから解き放てば、一目散に逃げていきそうだ。先に終わらせた瀬川が、欠伸をしながら伸びをした。僕は、先輩も自分のドッペルゲンガーを見たんじゃないかと考えていた。それから先輩はどうしたのだろう。迷信通りに死んだのだろうか。もし、自分が本体で見たものがドッペルゲンガーだったなら、或はそうなのかもしれないがもし、先輩が僕と同じようにドッペルゲンガーだった場合は、今頃きっと本体になるべく戦い始めているんじゃなかろうか。自分そっくりなおぞましい男の挑戦的な笑みを思い出した僕は、頬にかっと血が上る思いがした。あいつにだけは負けたくない。そんな衝動が突き上げてくる。『負けたくない』? 一体なにに? 人生だろう。

「珍しく手間取っている。それに酷い面だ。」

 目の錯覚か、瀬川は全体的に薄くぼやけ始めているようだ。

「今月で辞める」

 僕の言葉に瀬川はくるりと背を向けた。気を悪くしたのかもしれない。数分後に言葉を発した。

「・・機械であることをか」

「そうだ」

 暫しの沈黙が降りた。そうかと呟いた瀬川がゆっくりと振り返った。僕は思わず叫びだしそうになった。その顔は、確かに見覚えがあった。あの男と瓜二つ。つまり、自分の顔だったのだ。夢ではないのか? 驚愕した僕は混乱をきたしながらも瀬川の顔を思い出そうとした。瀬我が僕と同じ顔のわけがないのだ。けれど、以前の瀬川を思い出すことはどうしてもできなかった。僕は誰の顔も覚えてはいなかったからだ。

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