第10話
「……まったく、本当に君の素直さは、とんでもない矢を放ってくるな。おかげで俺まで……」
「え?」
「いや、こっちの話。……うちはさ、知っての通り、総合病院を経営している。俺は一人っ子だったから、子供のころから当然のように医師になるものだとまわりに思われてきた。うちの親は、別に頑固でも意地悪でもないけど、同じ医師となって病院を継ぐことが、俺の一番の幸せだと信じていたんだ」
ぴくり、と圭介の手の中で華月が反応した。
「どこかで聞いたような話だろう? ま、俺にとっても、それは最初、当然の将来だった。他になりたいものもなかったし、親の働く姿を見ながら漠然と、自分もいずれはこうなるんだと思っていた。けれど」
圭介は、小さくため息をつく。
「……けれど、中学の頃かな、そんな立場に疑問を抱くようになった。自分で選んだのでもない未来を歩くことに反発したくなって、でもその未来を手放すこともできなくて……無性に、自分のことを苛立たしく思う時期があったんだ。やけになった、って言葉が正しいのかわからないけど、親の前や学校で優等生をしているその裏で、自分で自分を傷つけるような危ない遊びにばかり手を出した。そんなことで、自己主張をしているつもりになっていたんだ。いわゆる反抗期ってやつだろうし俺も大概子供だったと今なら思えるけど……ホント、バカだった」
「ケイさん……」
「俺がそんなんだから、周りに集まってくるのも大抵はろくなやつらじゃなかった。金回りのいい俺に群がるのは、調子よく遊びたい男と、友人に俺を自慢したい女。表面だけの笑顔の中で、俺も同じ笑顔で、ただ無意味に時間だけを重ねてきた」
華月は、どうして圭介が自分の視線を塞いで話をしているのか、おぼろげながら悟った。
絞り出すように語られる言葉を、華月は、じ、と受け止める。
「華月が俺をどう思っているか知らないけれど、俺はそれほどたいした人間じゃないよ。だから、同じような境遇なのに、何があってもぶれずに自分の夢を持ってそれを追い続けている華月を……多分、俺は、妬んだんだ。十も年下の高校生をうらやんだなんて認めたくなくて……腹立ちまぎれに、君を、泣かせた。いい歳して、最低、だな」
掠れた圭介の声を聞いて、華月は、自分の手を握りしめた。
「そんな……っ!」
華月が何か言おうとした瞬間、闇の中で柔らかく唇を塞がれた。黙って、と圭介の唇が無言で告げている。
「でも、そんな俺の気持ちなんてお構いなしに、夕べの君の笑顔は最後まで俺に優しかった。負けた、と思ったよ。意地を張らずにそう認めたら、一気に心が軽くなった」
その言葉通り、圭介の口調が少しだけ明るくなった。
「常に言葉の裏を読んで相手を疑いながら生きてきた。綱渡りのその場限りの駆け引きを、楽しんですらいた。そんな俺にとって、華月の言葉や笑顔はイレギュラーで……何も疑う必要のない君の存在に、あんな短い時間で俺は、癒されてしまったんだ。それは、悪くない気分だった。というか……心地、よかったんだ」
そ、と圭介が手を離す。眩しさに目を瞬く華月を見ながら、圭介が優しい声で言った。
「君が、好きだよ」
華月が目を見開く。
「俺にはない素直さ、まっすぐな強さ……そんなものに、俺は確かに惹かれている。華月と一緒にいると、とても楽に呼吸ができるんだ。だからこれからも、俺は華月と一緒にいたい」
「ケイ……圭介さん」
「華月は? 俺と一緒にいたいと、思う?」
それを聞いて華月は、ぷ、とまた頬をふくらませる。
華月の気持ちなんか、とっくに知っているくせに。それなのに、あえて華月から答えを引き出そうとしている。大人げない、という言葉が、華月の心の中に浮かんだ。
案外と、この人は見た目よりも子供なのかもしれない。そんなこと言ったらまたひどくいじめられそうだから、口にはしないけれど。
ただ、口のうまい人ではあるが、先ほどの圭介の話は嘘でないと、華月は直感で感じた。
そんな華月の顔を、圭介はいたずらっぽい笑顔でのぞきこむ。
「総合病院の跡取り息子で、将来有望なイケメン医師。こんな優良物件、逃す手はないよ? 今のうちに、俺を捕まえておきなよ。でないと、もしかしたらまたどこかで、チンピラに絡まれている女の子を俺が助けないとも限らないし」
「それは、脅しですの?」
「俺自身を猛烈にアピールしているだけだよ。あとは、そうだな、すごく優しいし、デートしたいという君の要望を全力で叶えてあげる」
「甘い言葉を信じると痛い目にあうと、学習したばかりですわ」
「大変、結構。ああ、医大対策も完璧だよ。受験から国試まで、優秀な家庭教師が昼夜を問わず手とり足取り。もしその間に子供でもできたら、俺が主夫になって子供の面倒は全部見てやる」
「圭介さん、子供はお好きでしたの?」
「実際に触ったことがあまりないから、好きかどうかは自分でもわからないな。でも、君の子供ならきっと可愛い気がする」
「……私が断るなんて、思ってもいらっしゃらないでしょう?」
「万が一断られても、恨んだりしないよ」
それは嘘だ。断った途端、いじめる気満々に違いない。
華月は口元に手をあて、圭介にわからないように小さく笑いをかみ殺す。
ああ言えばこう言う。まったく口の減らない男だ。
華月は、わざとらしくため息をついた。
「困りましたわ」
「ん?」
「私、破談をお願いする理由がなくなってしまいました」
「それはよかった」
安堵したように、圭介が破顔する。意外にも彼が緊張していたらしいことに気が付いて、華月は驚いた。同時に、華月は自分の直感が正しかったことを知った。
圭介は、華月の唇にもう一度、今度は優しく触れるだけのキスを落とした。
「一之瀬華月さん」
優しく呼ぶ顔を、華月は見上げる。たった、一晩しか一緒にいなかった。そしてその間に、笑った顔、得意げな顔、怖い顔、優しい顔、いろんな顔を見た。
けれど、一番最初に見た顔は、泣きそうな顔だったと圭介は気づいているだろうか。男に向けた鋭い視線とはうらはらに、自分に向けられた時の圭介の心細そうな潤んだ瞳。
だからあの時華月は、無意識のうちに圭介の腕をとっていた。今にも泣き出しそうなその人を、華月は放っておけなかった。
おそらくその瞬間から、自覚のないまま華月は、もう恋に落ちていたのだ。
「俺と、結婚してください」
「…………はい」
「……なんか、微妙に間があったけど」
「なんとなく、くやしくて」
複雑な顔で言った華月に、圭介は楽しそうに笑ってその手を差し出した。
「では、お姫様のご機嫌をとりに出かけるとしようか」
「今度は、昼間の街ですか?」
「それもいいけど」
圭介は、華月の細い指をとってその薬指をなぞった。
「朝になっても消えない指輪、買いにいこう。泣き虫な華月が、もう泣かなくてすむように。……ああ、ほら、また」
言いながら圭介は、みるみるうちにその瞳にたまっていく華月の涙をぬぐった。
「な、泣いてなんかいません!」
「わかった、わかった。さ、行こう」
そして圭介は香月の指に自分の指に絡めると、連絡しなきゃなあ、と言いながら反対の手でスマホを取り出して歩き出す。妙に足取りの軽いその後ろ姿についていきながら華月は、またあふれそうになる涙を、ぐ、とこらえた。
胸にひろがるのは、幸せな暖かさ。
私は、この人の隣にいて、いいんだ。
うれし涙を堪えながら、華月は先ほどの圭介の話を思い出していた。
あの話に嘘はないだろうが、華月には、まだ足りない部分がある気がしていた。はっきりと言わないところをみると、本人にとっては言いづらいことなのかもしれない。わざわざそれを指摘したら、おそらくまた意地悪されるだろうが、夕べというか今朝はひどい思いをさせられたのだ。少しくらいの意趣返しは許されるだろう。それに華月は、それを確かめてみたかった。
「圭介さん」
「んー?」
「圭介さんはご自分のことをたいしたことない人間だとおっしゃいましたけれど、それは違うと思います」
「は?」
通話の終わったスマホをしまいながら、圭介がくりんとした目で振り向いた。
「やりたいことがないから医師になったんじゃないですよね。圭介さんは、本当はずっと、医師になりたかったんじゃないですか?」
ただ時間だけを無意味に重ねてきたと圭介は言っていた。けれど、高校大学と、どちらもほぼトップの成績で圭介が卒業したと、先ほど一之瀬が話していたことを華月は思い出す。確か、医大での成績や国試の結果も、非常に優秀だったと小暮も言っていた。
自分も密かに医大を目指していた華月には、縁談用にいくらか誇張された話だとしても、それがとても大変なことだったのだとよくわかる。親に決められた道を仕方なく進んできたというだけで、得られる結果ではない。
それはきっと、圭介自身も、望んだ未来。
足を止めて、無表情のまま肩越しに華月を見つめていた圭介は、何も言わずにまた前を向いて歩き出す。けれど華月は、その耳がほんのりと赤く染まっていることに気づいてしまった。
これだからとかなんとかぶつぶつと華月に聞きとれない声で呟いていた圭介が、前を向いたまま言った。
「……華月」
「はい」
「俺、自分が意地悪だって自覚はあるから。覚悟しておいてよ。これから、いろいろと」
つないだ手に力がこめられる。その手を、きゅ、と握り返して、華月はついに幸せそうに微笑んだ。
「はい」
Fin
Invanity Ring いずみ @izumi_one
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