第9話
☆
「いい天気だなあ」
のんきに空を見上げながら歩く圭介の後ろを、華月は少し遅れてついていく。
手入れの行き届いた和風の広い中庭には、二人の他には誰もいない。うらうらと暖かな日差しが降り注いでいる穏やかな春の日だった。
「私の事、知ってらしたんですか」
これ以上ないくらいのふくれっ面で、華月は低い声を出した。
再会の衝撃が過ぎてしまえば、心に浮かんできたのは疑問と憤りだ。
部屋に入ってきても、圭介は驚きもしなかった。そこに自分がいることを知っていたのだ。
前を歩いていた圭介が、先ほどと変わらない笑顔で振り向く。けれど、夕べの圭介の仕打ちを考えれば、その笑顔が爽やかであればあるほど、華月にとっては胡散臭いことこの上ない。
「ホテルの前であったのは、本当に偶然。華月という名前と、今日お見合いだって話を聞いた時には、俺自身もまさかと思ったよ」
「でしたら、なんで黙っていらしたのですか」
「はっきりと確かめたわけじゃないし。……というのは建前で、君という人間を知りたかったから、かな。婚約者という立場を知ってしまえば、性格の変わる女も世の中いるからね。素の君を見てみたかったんだよ」
「……今日、ここで会って驚く私の顔を見てみたかったから、ではなくて、ですか?」
その質問を、圭介は笑顔で黙殺した。疑問を確信に変えてさらに頬をふくらませた華月に、圭介は楽しそうに笑う。
「だいたい君だって、俺のこと気づかなかったじゃない。せめて見合い写真くらい見なかったの?」
「それは……ケイさんもです」
「ま、お互いさま、だよな」
もちろん、華月のもとにも見合いの写真と釣り書はきていた。けれど、それを見てしまったら、もう本当に夢が終わってしまうような気がして、華月はなんとなく開くことができなかったのだ。
「ふくれっ面も可愛いね。でも、そろそろ笑ってよ。夜の華月も綺麗だったけど、君にはきっと、太陽の光の方がよく似合う」
「知りません。私、怒っているんですのよ」
ぷい、と華月は圭介に背を向ける。
二度と、会えないと思った。忘れろと言われて、想い続けることすらも許されないのかと涙が止まらなかった。
圭介が一言言ってくれれば、華月はそんな思いをする必要もなかったのだ。再会することも自分の気持ちもすべて知っていて、圭介は黙ったまま華月に背を向けた。これが怒らずにいられようか。
怒りは収まらないが、再び会えたことは純粋に、嬉しい。
怒っていいのか笑っていいのか、華月自身もどんな表情をしていいのか決めることができない。結果、自分でも変な顔をしているだろうと思うと、圭介の顔が見られない。
「華月」
背後に圭介の気配を感じて、華月は表情を引き締めると勢いよく振り返った。
とりあえず、謝ってもらうまでは許さないことにする。
「軽々しく人の名前を呼ばな」
そのセリフを遮るように、圭介は華月に唇を合わせた。驚いて押し返そうとした華奢な腕を、圭介は優しく、でも強引に掴んで離さない。暴れる華月の身体から、次第に力が抜けていく。
ようやく唇を離すと、自分の唇についたルージュを親指でぬぐって圭介はにやりと笑う。
「婚約者のために取っとけって言ったろ? 華月のファーストキスは、どこの誰とも知らない馬の骨よりも、愛する婚約者の方がいいに決まってる」
「愛してなんてっ……んっ」
言葉の途中で、また圭介が唇を塞いだ。
「愛してるんだろ?」
唇をつけたまま、圭介が聞いた。答えさせる気がないのか、聞いたその唇でまた華月に口づける。
「こ、こんなことで誤魔化されるとでも……んんっ」
なんとか唇を離して反論しようとしても、またすぐにその言葉は飲み込まれてしまう。うなじに手を添えられて頭を固定され、真っ赤な紅をなめとるように唇が密着した。
どうやら、謝る気はないらしいと悟って、華月はそれ以上の追及をあきらめた。
抵抗しなくなった華月から、名残惜しそうに圭介が離れてぺろりと自分の唇をなめる。それを華月は、潤んだ目で睨んだ。
「……卑怯者」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
少しだけ上気した華月の顔は、気の強さを表すように力に満ちていた。日の光を反射する瞳を、圭介は穏やかに見降ろす。
「華月。このまま、俺と結婚する気、ある?」
華月の目が揺れた。
「……ケイさんには」
「ん?」
「愛する人が、いるんじゃないですか?」
その問いに、圭介は華月から手を離して池のへりまで近づくと、空を見上げた。
「今頃は、あの空の向こうかなあ」
「まだ、愛していますか?」
「もちろん」
圭介は即答した。
「そう言ったら、君は俺をあきらめる?」
ふり向いた圭介を、揺れていた華月の瞳が、き、とまっすぐに見つめ返した。
「あきらめません。あきらめなければ、夢は叶うのでしょ?」
その答えに、圭介は満面の笑みを浮かべる。
「華月なら、そう言うと思った」
そして、足元の池に視線をおとす。そこに泳ぐ赤い鯉を眺めながら、圭介は独り言のように続けた。
「彼女以外なら、女なんて誰でも同じだと思った。だからこの結婚の話が出た時も、そろそろそういう歳だし相手が一之瀬頭取の娘ならまあ妥当かな、と断る気もなかったんだ」
そう思ったから、圭介も、写真も釣り書も見なかった。ただ小暮に、華月という名前と、その子が高校生だということを聞いて、若いのにかわいそうだな、と思ったくらいだ。
「彼女が、好きだった。けれど、他の女のように、男から奪ってしまおうとは思わなかった。その男が親友だから、だとずっと思ってたけど、そうじゃなかったんだな。夕べ華月に会わなければ、俺は、彼女を愛していることにすら気づかなかったかもしれない」
ゆっくりかみしめるようなその言葉を一言も聞き漏らすまいと、華月は黙って耳をかたむける。
「彼女は……自分ですら持て余していた俺の中のいい加減な部分を、あっさりと当たり前の顔して受け入れてしまう女だった。どんな部分を持っていても彼女にとって俺は俺で……それはひどく、居心地がよかったんだ」
ぎり、と無意識のうちに、華月は唇をかみしめてうつむいた。
かなわない。
圭介の中にいるその人は、その心に深く入り込んで侵食していて……決して切り離せるものではなくなっているのだ。
昨日その話を初めて聞いた時には覚えなかった痛みを、華月は痛切に胸に感じていた。
その痛みの名前を、華月はもう知っている。
「そんな女には、もう二度と会えないと思っていた。だから、結婚にも何も望まなかったし、その相手にも期待なんてしていなかった。……昨日までは」
顔をあげた華月は、自分を見つめながら近づいてくる圭介と目を合わせた。
「夕べは、楽しかったよ。君の無防備なまでの素直さは、まるで凶器だね。嘘と見栄とで固められた俺の殻を、まったく見事に粉砕してくれたよ。どうやって責任とってくれるのさ」
それは、いいことなのか悪いことなのか。
判断しかねる華月だが、一つだけわかったことがある。
「だから、あんな意地悪したんですの?」
「おや、ばれた」
「ばれた、じゃありませんわ。想いを告げることすらも拒絶された私が、どれほど悲しかったか……」
圭介は、柳眉を吊り上げる華月に自嘲する。
「そうだな。君の気持ちに気づいていながら、俺はわざと君を泣かせた。……おそらく俺は、君に甘えたんだ」
予想外の言葉に、華月は目を丸くする。
「ケイさんが……ですか?」
「もう一度、君に会えることはわかっていた。わかっていて、突き放して、泣かせて……それでもきっと、君は俺を許してくれるだろうと思ったんだ。ひどい男だろう?」
「本当に、その通りですわ。……でも」
「ん?」
「ケイさんは私に、許すこと、を期待してくださったのですね」
何も期待しないはずの、親の決めた婚約者に。
澄んだ瞳で真正面から圭介を見あげて、華月は言った。その様子に一瞬目を丸くした圭介は、少しだけ顔を歪めると、ふいに片手で華月の両目を覆った。
「え? ケイさ」
「このまま聞いて」
大きな手で作られた暗闇の中で、華月はおとなしくその言葉に従う。
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